第四話 また明日

 夜櫻の明暗は月こそ左右される。満月の今晩はまさに花見に好都合であろう。神社の境内には無数の提灯に明かりが灯され、花見時はいつまでも宵の口であると、一升瓶を片手に飲めや歌えの宴は終わる気配を見せなかった。

 賑やかな神社の手前。選果場前の船着き場には一人佇む勝の姿があった。満月に感化された潮は見下ろす浜を尽く海水に浸し、膝を抱いて腰を降ろす勝の足先まで細波が迫っていた。

 この際、海に飛び込んだ方が幾らかましだろう。冷たい海水の中必死に手足を掻けばこのもやもやした気持ちも少しは晴れるやもしれない。昼食を景と三人で食べ、その後は昔の写真などを見て盛り上がった。

 だが、景が帰ると、それは押し寄せる津波のごとく激しく勝の体に込み上げてきたのだ。胸が握りつぶされるように苦しく、複雑な絶望感。立ち上げれないほどの脱力感……母と二人だけの家。従来に戻っただけではないか、と甘受しろと自身に言い聞かせる勝。

 もともと居なければ辛くはない。だが、居たのにいなくなると、例えようもなく寂しいのである。勝は混乱のうちに赤ん坊のように丸くなって仏間で眠った。夢枕でまた会えるかもしれないと願う一方、そうしなければ、自分がどうにかなってしまいそうだった。

 目が覚めると、布団が掛けられてあった。母の姿はなく買い物へでも出掛けたのだろう。勝は家を見回すたびに残像として見え隠れする桜の姿に再び胸を痛めると、それから逃げるように家を飛び出した。がむしゃらに走ることもせず、ただ愁然とした面持ちで飄飄踉踉【ひょうひょうろうろう】と無気力に歩いていた。

 そして、眩しすぎる夕日を前に座り込んだ。

 ただ桜がいないだけ、ただ一人の少女がいないだけ……感情の沈む正体とは一体。冷静に思慮すればするほどに答えは遠のいて行く。一体どうすればいいのだろうか……

「こんな所にいたの。随分と探したのよ」

 咲恵がはそう言いながら勝の隣へ歩み寄った。

「……」

 夕餉の時刻はとうに過ぎているだろう。しかし、不思議と腹は空かなかった。

 消沈する勝を見て咲恵は「そっかぁ」と微笑み、

「勝君。桜ちゃんに恋しちゃったかな」

 母は時折吹く微風のように涼しく言った。

「からかうなよな」

 そんな気分ではないと、勝は冷淡に答えた。

「桜ちゃんが居なくなって、寂しい気持ちはお母さんも一緒よ。昨日まで一緒にご飯食べて一緒に寝ていたのに、今日はやけに家が広く感じるもの」

 はっとして勝は母を見上げた、母は耳にかかる髪の毛を指で撫でながら、遠い水面へ思いを馳せていた。

「母さんも……」

 普段と変わらない母の様子にきっと、何も感じていないのだと思い込んでいた。だが、想像に反して母は勝と同じ思いを胸に抱いていたのであった。

「縁は異なもの味なもの。人と人のご縁はどこに待っているかわからない。だから、面白くて楽しいの。お母さんとお父さんが出会ったのも同じ。だけど出会えば、いつか別れなければならない時が来る。お母さんもいつか勝君と〝さよなら〟しないといけなくなるのよ」

 勝は一言として答えることができなかった。

 そんなことは今更言われずとも理解しているつもりである。問題は理解している上に襲ってくる正体不明な感情があると言うことなのだ。

「お説教みたいになっちゃったわねぇ。もし、勝君が桜ちゃんに会いたいと思うのなら、そうやってふさぎ込んでるのは間違い。会いに行けばいいの。顔を見に行くだけ、ただそれだけでいいのよ」

 咲恵は膝を折ると、勝の肩に手をやって諭すように言った。    

「俺は別に……」

 男子たるが哀愁に蝕まれ、母に背を押されたあげく喪失して半日として経っていない乙女の姿を物見遊山に行くなど、天地神明が許しても己が心情が良しとするはずもなし。

「素直になりなさい。自分自身に嘘をついても後悔するだけよ」

 母は意固地になる息子の背に手をやると「しっかりしなさい」と勝の背中を強く叩くのであった。

「なにすんだ!」

 と立ち上がった勝。しかし、それ以上は返す言葉が見当たらなかった。


      ○


 春の曙を経て、新学期を迎えた。

 昨日一昼夜、物思いに耽ったものの、桜が遊びに来たことで気持ちが晴れた。明日になれば教室にて桜と顔を合わせるのである。ここで憂いていても始まらない。母の助言とてようやく自分のものとして胸に受け止めることが出来たのである。

「勝ちゃーん。迎えに来たよぉー」 

 と景の声が外から木霊した。

「今行く」

 急いで上着に腕を通すと、ボタンを後回しにして勝は土間へ飛び降りた。「忘れ物しないようにねぇ、気をつけて行ってらっしゃい」と暖簾をの間から咲恵が顔を出して言う。「大丈夫っ、行ってきます」と勝は鞄を脇に抱えて戸を開けた。

「遅いぞっ、勝ちゃん!」と言う景の傍らには始業式には似つかわしくない膨れた鞄を前に両手で携えた桜の姿があった。

「おはよう」

「おう、おはよう」 

 水色のスカートがやけに懐かしく思えた……

 春まっさかりと小鳥が歌い、木々も新芽を揃えそれを櫻が華やかに彩りを添える。山も野も萌えいでる生命の輝き一色であった。

 登校の途中三人の話題はもったぱら本日決行する『ビラ配り』である。

「ちゃんと持ってきたよ」

 と桜が景と勝に、鞄に潜ませた大量のビラを見せた。「うわぁ、重いでしょそれ」と景。「うん」と桜は素直に頷いた。

「勝ちゃんの鞄に入れかえたら?どうせ空なんだから」

 うるせぇ、と勝が言う。

 しかし、結局は景の言うことに相異はなく、桜の鞄が軽くなる代わりに勝の鞄が今だ例を見ないほどに膨れあがった。

「重い……」

 地味に呟く勝。つかさず「男の子でしょうが」と景が会心の笑みを浮かべて勝の背中を叩いた。

 新年度の始業式。下駄箱の前は黒山の人だかりができていた。折しも今日は新学年のクラス分けが発表される日なのである。

 三者三様に緊張と胸の高鳴りを胸に人混みを掻き分けて行く。取り分け桜の心持ちは穏やかではなかった。どうしても勝か景、いずれかと同じ組となりたい。それは言わずもがな切実な願いであった。

 黒板に張り出された、組み分け表に目を走らせる三人。

「おっ、俺、また桜と一緒の組みだ」

「えっ本当っ?」 

 ほら。と勝が指さす先には勝のずっと下に『石切坂 桜』と記載されてあった。「よかったぁ……」と胸をなで下ろす桜……その傍らでは……

「呪いだわ……」

 またしても勝と組みが違ってしまった景が肩を落としていた。

 「また後でな景」「後でね景ちゃん」と新しい組の靴箱へ向かう二人を羨望の眼差しで見送った景は「いいもん」と意味もなく強がってみた。無駄に空しかった……

 朝一番から混雑する廊下を机と椅子を抱え新しい教室へ移動し、人心地つくまもなく朝礼が始まり、その後はそのままグランドへ移動である。

  勝と桜の担任は一年生の時と同じく橘先生が勤め橘先生の配慮だろう。再び勝と桜が机を並べることとなった。新しい組の顔ぶれに桜は俯き加減であったが、天敵であった森田 明美とその取り巻きの姿もなく、それについてはほっとした様子であった。

 雲一つない快晴の下、ぬらりくらりと続く校長の訓辞。春の陽気に立ったまま船をこぎ始めた勝は横に並ぶ瑞原に何度も小突いてもらい、ようやくその体を保った。とにかく春は眠いのである。

「ふぁー」

 教室に帰るなり、大きなあくびをする勝に「勝ちゃん居眠りしてたでしょ」と桜が笑いかけた。  

「校長の話が長いのが悪いんだ」

クラーク博士なる外国人が『少年よ大志を抱け』と言葉を残したらしい……長い校長の話の冒頭である。勝はそこか先をまったく覚えていなかった。聞く耳を持っていなかったと言った方が正しいだろう。

 橘先生が現れるまでの閑話はまさにくだらない話しであった。それは組のどこをに聞き耳を立てたところで同じこと……しかし、『私、友達なんていりません……』と初対面にて『絶縁宣言』をし、言葉を交わすことすらも拒否していた石切坂 桜が微笑ましく男子と談話に花をさかせている風景が珍しいのか、新旧問わず組の面々はしきりに桜と勝に目配せをしていた。

 とりわけ男子生徒たちから注がれる青春の目線たるや至極わかりやすい。

 こんなところにも小さな春が訪れていたのである。とは言え、その視線に以前の嫌悪感は含まれず、比較的温かい眼差しであったがゆえに、勝は別段気にも止めなかった。

 昼前に学校が終わると、三人は連れだって脱兎とばかりに駆けて家まで帰った。景はそのまま自宅へ直行したが、桜は勝と自転車で公民館の麓まで向かった。

 桜が鞄を置いて勝の元へ駆けて来て、呼吸を整えて景が自転車で現れるだろう、道路を見つめた。

「ほい」

 勝はビラを桜に渡した。「うん」とそれを受け取った桜はビラが散らばらないように、抱えた。

「景のやつなにしてんだ」

「景ちゃん、何かあったのかな」

 『即!公民館前に集合!』と言い合わせたはずなのだが……公民館前経由の町営バスがすでに二台も通り過ぎた。

 巻き上げる黒鉛に、傍らでは桜が咳き込んでいる。

「ごめーん」

 三台目のバスを後ろに従えて景がようやく現れた。

「遅いぞっ!何やってんだよ……って三輪車?」

「だって、二輪車パンクしてたんだもん。お父ちゃんに言ったら、隣のばあちゃんからこれ借りて来てくれたんだけど……」 

 勝の自転車と比べても車輪が小さく、どう考えても長距離を移動するには向いていない。

「……でも、ほらカゴが付いてるから、これ、入れられるし」

 と桜が後輪の間に設置された木製のカゴに抱えていたビラを入れた。

「まぁいいや、とにかく行こうぜ」

 勝は自転車の跨り、それを見て桜も荷台に横向きに乗った。しっかりと勝のベルトを握り締める。「これブレーキの効き悪いのよねぇ」とぼやく景を横目に勝はペダルに体重をかけて自転車を発進させた。

 隣町の市街地へ行くには学校方面から峠を越えるか、公民館から少し登り、海岸沿いを迂回するかのいずれか。徒歩で行くならば峠を越えた方が早くデパートなど町の中心地へ早く到着できる。

 しかし、自転車で行くのなら迂回路である。公民館から少し登り下れば比較的平坦かつ舗装された道路が続いているのである。自転車を押して登り、落石やら木の枝やらが散乱している坂道を下る事を考えれば、峠越えを選ぶ必然性は消滅する。我こそはと挑戦する阿呆はよそ者か、真の阿呆である。

「勝ちゃん降りようか?」

 出だしの坂道を必死に立って自転車こぎ続ける勝。しかし自転車は今にも止まってしまいそうである。

「何のこれしきぃいいっ!」

 歯を食いしばる勝。

「荷物なんてやだ」

 これでは景の応援の行く時と同じではないか。桜は荷台から降りると力一杯自転車を押した。

「わりぃ」

 と言いながら、必死の形相でハンドルを握る。勾配はきついが、あくまでもちょっとした坂道なのである。半分は自力で、後の半分は桜に手伝ってもらい勝は頂上に到着した。

 頂上から降り坂を見下ろして「ふぃ」と額を拭う勝。その後ろからは「手伝ってよぉ」と景が三輪車を押してひぃひぃ息を荒げている。

 その声に勝が振り向くよりも早く桜は駆け出すと、勝同様に三輪車を後ろから押す。

「ありがと、桜」

 へぇ、とハンドルに体をもたれさせる景。

「行くぞ景」

 桜が荷台に再び乗ると、休憩の間なく勝がしれっと言う。「ええぇー」と露骨に嫌そうに言う景だったが、勝が坂道を下り始めると渋々ペダルに力を込めた。

 桜の加重分だけ重くなった車体は、ぐんぐん加速して行く目前には海沿いの道に植えられた櫻並木が道路を花弁の絨毯で美しく彩っている。もちろん勝はブレーキをかけることなど眼中になく、惰性のまま平坦な道路へ突入する腹積りであった。

 荷台に乗る桜は目紛るしく流れて行く景色に多少の不安を抱いた。もしも転倒したら……桜は一蓮托生ながらも勝のベルトを両手でしっかりと掴み直した。飛んで行く時は二人一緒である。

「景ちゃん……」 

 ごうごうと風が唸り声をあげる中、後方を走っているはずの景の顔が桜の隣にあった。

 快活な景も勝と同様に高速に浪漫を快感を感じる速度狂なのかと桜は思ったが……蒼い顔をして口をぱくぱくさせ、ブレーキレバーを力一杯握っている限りはそれとは違う様子である。

「負けるかっ!」 

 景に追い抜かれた勝はそう言うと立ってペダルを回し始めた。大きく左右に揺れる荷台では桜が声にならない叫び声を上げながら、勝の腰に手を回して必死にしがみついていた。

 櫻の花弁を舞上げながら平坦な道路へ侵入した勝は、惰性に任せる景を追い抜くまで車体を左右に揺らし続けた。

 勝の腰を抱き締め、背中に横顔を密着させていた桜が、それをやめたのは坂道での加速貯金がなくなった頃であった。落ち着いた車体の荷台から櫻吹雪越しに海を見る。花弁は静かにかつゆったりと、まるで雪の様にはらはらと落ちて行く。そんな和やかな風情を桜は一人で心ゆくまで味わった。胸の辺りが仄かに温かくなった。

 一方勝は、そんな風情を楽しむことなく、前人未踏の花弁絨毯を我が一番に踏み荒らす!と意気込み、新雪の上に足跡を刻むように心を躍らせて自転車を全力で疾走させていた。

 だから、「勝ちゃんっ!どこ行くのよっ!」と道を間違えて景に何度も呼び止められ、「もう、ちゃんと前見て走ってよ」と自転車の向きを変えるたびに荷台から降りる桜にも文句を言われたが「久しぶりだからな」と何度もはぐらかした。


   ○


 紳士淑女、工夫に老婆、やはり駅前には道行く人々には事欠かない。

赤煉瓦造りの駅舎に自転車を立て掛けあるいは置き、三人は持って来たビラを等分した。

 「お願いします」と口々に言いながら、路傍の人に声を掛けてはビラを渡して行く。桜と景は順調に枚数を減らしていたが、勝は思うようにうまくいかなかった。女子の華

には蜜蜂とて蝶とて足を止めるのである。老婆にようやく一枚受け取ってもらった勝は、ふて腐れた眼差しで愛想よくビラを配る乙女の姿を見つめた。

「勝ちゃん全然減ってないじゃない」

見てみて、と景が半分に減ったビラを見せながら勝の元へ歩み寄った。  

 駅の前と言えど人の波が切れる時がある。汽車が駅に入れば水道の蛇口を捻ったのように人が駅舎から溢れ出てくる。だが、その一時を過ぎれば人通りは大きく減ってしまう。

「俺、自転車で配ってくるから、景と桜はここで配っててくれよ」

 どうせ自分は戦力外である。それなら、自転車の機動力を駆使し、直接家々に配って回った方がずっと効率が良い。題して『二丁拳銃作戦』である。

 勝が自転車に跨ると、「私も自転車で配る」と景も自転車に跨った。

「景ちゃんも行くの……」 

 一人取り残されることとなった桜は二人の背中を見つめながら、不安な面持ちを浮かべていた


      ○


 ビラを配り終えた桜は、帰心を抱いて駅舎の壁に背をもたれさせ、勝と景の帰りを待っていた。夕暮れが近づくにつれ、家路を急ぐ人や買い物籠を手に歩く人々が増えてくる。

 だが、これだけ多くの人がいると言うのに、この雑踏のに誰一人として自分を知る人間がいないのだと思うと、唐突に不安に表情を曇らせた。

 不意に見面の汚い男が桜の隣にどっしりと腰を降ろした。桜は男から逃げるようにそっと壁伝いに離れようとした。しかし、すぐに恰幅のよい別の男が桜の行く手を遮って煙草を吹かし始めた。はたしてこの男どもに他意はあるまい。

 見知らぬ大人に挟まれる形となった桜はいっそう不安の色を深めた。何の気がなくとも乙女の心は震えるのである。咲恵と共に闊歩した時の揚々な姿たるや、自分が自分でなかったようである。それだけ咲恵の存在に頼っていたのだろう。

 早く勝が帰って来ないかと心中で祈りつつ、緊張をほぐす意図を含ませて指を絡めていると「お嬢さんどうかしたのかい?」と整った風体の紳士に声を掛けられた。

 心細く挙動を不審にあえぐ少女を目にすれば、救いの手を差し出すは、紳士たるの勤め。悪意は感じられなかったが、三方進退窮めり。逃げ場を失った桜は口をぱくぱくさせた後、何も言わず紳士の前から駆けだしてしまった。

 自動車の行き交う道路へ飛び出した桜。思わぬ珍客に運転手は一様に急ブレーキを踏み込みかん高い車輪のいななき、と焦げ臭い匂いが鼻についた。中には荒くれ者が「死にたいのかっ!」と罵声さえも発した。停車した自動車を縫うように対面へ辿り着いた桜は木板の塀が眼前にようやく足を止めた。

 そっと後ろを振り返って見る。

 すると、道行く人々の視線は無謀な少女に釘付けであった。恥ずかしやら居心地が悪いやらで桜は再び駆け出す。知らぬ振りを決め込むももはや空しい。

 少し走ると、軍艦マーチと派手な半被を着た女性が何やら呼び込みをしていた。見上げると『パチンコ』と書かれてあった。

 とにかく騒がしいのである。何だろうと恐いもの見たさに好奇心は擽られたが、通り過ぎ様に硝子戸から店内を見やると、人相の悪い男が椅子に座って何やらいそいそと手元で操作している。はたして何をしているのかはわからなかった。しかし、自分には一生縁のない場所だろうともう少し歩くことにした。

 やかましいマーチがようやく耳から離れたところで桜は足を止め、硝子越しに飾られた写真を見上げる。振り袖や洋服、中には白無垢姿の写真まであるではないか。いつかは自分も、優美でありながらも威厳ある白無垢に身を包み、お嫁に行く時がくるのだろうかと、写真に写る花嫁の顔に自分の顔などをあてはめ、桜は恍惚となった。

 そこは『折笠写真館』であるらしかった。入り口の上部にそう書かれた看板が掛けられてあるのだ、間違いはあるまい。

 なるほどと桜は頷いた。

「お嬢さん写真好きなの?」

 はっとなったが、その声が明らかに妙齢の女性のものであったがゆえに桜は黙って振り返るだけに止めた。後ろには茶色い髪を後ろで一括りにまとめた女性が立っていた。

 そばかすと向日葵のような笑みが印象的な女性である。ただ、年の頃で言うなれば桜よりもずっと年上であろう。

「いえ……見てただけです」 

 そっか、と女性。

 その時、桜の鼻腔に独特な匂いが舞い込んだ。公演前、舞台裏に充満する粉臭くも神経を逆撫でするようなの臭い。桜に嫌な予感が過ぎる。

 辺りを見回すと、派手な半被を羽織り見覚えのある浴衣が目に付いた、襟から上は見なないようにした、足下を見るとやはり見覚えある草履。桜は戦慄した。桜がもっとも蛇蝎【だかつ】と嫌う人物。すでに顔など見ずともその正体は明らかである。

 それも何を意味するのかこちらへ近づいてくるではないか。

「ねぇ、中でお喋りしていかない?もうこんな時間だとお客さんもこないしさ」

 どう?。と膝に手をやって視線の高さを桜に合わせて言う女性。前髪を無造作に肩までに切りそろえられた髪の毛はくせっ毛だろう微妙に波打っている。細い双蛾【そうが】の下には程よい瞳が輝き、茸の房のように可愛らしい鼻に、笑顔が燦然とする大きな口。

 どこか咲恵に似通ったそんな女性であった。

「はい」

 願ってもない助け船である。この女性は悪い人ではあるまいと桜は深々と頷いた。

 店内に入ると一歩目には薬品のような匂いが鼻についた。だが、二歩目には水仙の香りで気にならなくなった。入ってすぐ左側にある円卓と椅子。そこに腰掛ける様に促された桜は女性の背中を見送る一方、初めて目にする写真店の中を所狭しと視線を巡らせた。三脚に固定された写真機が部屋の中央に配置され、その前面の壁は一面サテンを思わせる白いカーテンで覆われている。部屋の両端には長いすやらぬいぐるみやら小物が色々と置かれており、カツラが目についた時は思わず首を捻ってしまった。

「紅茶でいいかな?」

 奥の部屋から声がするが、カーテンに遮られ姿は見えなかった。

「はい、でもおかまいなく」

 桜が返事を返すと、「おまちどうさまぁ」とねらい澄ましたように女性がティーカップとポットのを乗せた盆を持って現れた。

「ごめんねぇ、丁度、洋菓子きらしてて」 

 と下をぺろっと出して見せる女性は、後ろ手に隠していたせ煎餅を机の上に置いた。

「私は、折笠 響子。この店の雇われ主人です。って言ってもお父さんに手伝わされてる娘なんだけど」

 どうぞ、と響子は湯気が立ち上るティーカップを桜の前に置く。

「石切坂 桜です」

「桜ちゃんかぁ、名前に似合って可愛いね」

 えっと、と桜はティーカップを両手に持ったまま上目遣いで響子の顔をみやった。

「ねぇ、桜ちゃん写真好き?私は大好きなんだけど」

「あまり撮ってもらったことないので、好きも嫌いもないですけど、でも……写真ってずっと残る物だから良いなって思います」

「うんうん。その浪漫がわかってもらえるだけで十分」

 と言うわけで。っと響子は徐に写真機を取り出すと、お茶をすする桜に向けてシャッターを切った。

「えっ」っと狼狽する桜。

「自然体、自然体」

 満足げにそう言うと響子はぬいぐるみの下にある分厚い本を手に撮ると、それを机の上に広げた。本には写真が整頓されて収められてあり、その写真はいずれも意識をこらしたものではなくふとした瞬間を思いのままに写し撮られたものばかりであった。

「私ね、こういう飾らない自然体が一番美しいと思うのよ。だから、あえて不意打ちで撮ってるの」

 桜ちゃんのはこの辺に貼るわね。と響子はページの中央を指さして嬉しそうに言う。

「不意打ちなんてひどいです」

 桜は自分がどんな酷い顔で写っているだろうかと思うと、恥ずかしくてたまらなくなった。勝も景も、もしかしたら咲恵までも腹を抱える程の間抜け面かもしれない……

「桜ちゃん今いくつ?」

 唐突な質問である。

「中学二年生になったばかりです」

 意図は不明なものの、桜は素直にそう答えた。

「そっかぁ、桜ちゃん好きな人いるでしょ?」

 にたにたといやらしい笑みを浮かべ響子は身を乗り出して桜に迫った。「えっ、いません、そんな……好きな人だなんて……」と桜は言いつつも、無造作に頭の中に浮かんだ少年の顔に頬を桃色に染めるのだった。

「あれれ。桜ちゃんってば輝いてるから、てっきり恋する乙女なのかと思ったのに」

 腕を組んで桜の瞳を必要以上に凝視する響子。桜は口もとを痙攣させながら、見破られまいと必死に物言わぬ抵抗を続けた。

「恋はいいよ。乙女になったら恋をしなきゃだめ。恋をするとね、女の子はみんな輝くの、お化粧しなくてもお洒落な洋服着なくても、全身がきらきらって輝きを放つの」

「折笠さんは、恋をしてるんですか?」

 桜のことはさておき、響子本人はどうなのだろうと桜が問い掛けると……

「これはまだ誰にも話してないんだけど…………」

響子は窓の外をそっと指を指した。その方を見やると、道路を挟んだ向かい側のバス停に袴姿に眼鏡をかけた細身の男性が一人佇んでいた。

 桜は男性を見た後に、響子に視線を戻す。すると、響子は「片思いなの」と苦笑を浮かべるのだった。


 恋せよ乙女。


見ず知らずの自分に片思いなれど意中の男性を打ち明けてくれた響子に好意を持った桜はその後、時間を忘れて響子を話し込んだ。乙女同士ゆえの信愛なのである。

「桜ちゃんは今日一人で来たの?」

「いえ、お友達と駅の前で待ち合わせしてるんです」

 響子は柱時計に目をやって、「あちゃ、もうこんな時間、お友達、待ちくたびれて寝ちゃってるわ」と声を漏らした。

 桜もしまったと顔を蒼くする。

 忙しなく店を出た二人。桜はドアを出たところで「ありがとうございました。楽しかったです」響子に好意の感謝と別の感謝の意を含めて会釈をした。

「いいえ。私も楽しかったもん。またいつでも遊び来てね、いつでも大歓迎!」

 桃色から藍色へ変わろうとしている空の下、響子は向日葵のような笑顔でそう言った。

 丁度その時……

「桜っ!」

 額に汗を浮かべて勝が自転車で駆けて来た。

「勝ちゃん」

「心配しただろ!よかったぁ」 

 文句を言う前に勝は桜の無事な姿に安堵の息を漏らした。

「お友達だね?お姉さんが桜ちゃんを誘ったのよ、少しの間のつもりだったんだけど、つい話し込んじゃって」

 ごめんね。と桜にしたように膝に手をやって目線を勝に合わせて言う響子。勝は妙齢の女性の顔を間近に硬直してもごもごと言葉にならない言葉を話した。

「景が神隠しにあったんじゃないかとか言うから焦った焦った。景のやつ、後でひっぱたいてやる」

 響子を後ろに勝は荷台に乗った桜にだけ聞こえる声でそう話した。「心配かけて、ごめんね」と桜が言うと。「無事ならそれでいいや」と疲労の表情を覗かせつつもはにかむ勝であった。

「いくぞ」と声をかけてから、桜を乗せた自転車は動き始める。

 桜は勝の腰に手を回すと、目を閉じて勝の背中に横顔をうずめた。

 少し汗で湿った背中。温かい背中はずっと大きく感じられた。勝が近くにいるだけで桜は心の底から安心できたのである。目を開ける、あれほど恐ろしく写った町並さえも、茜色に染まり情緒があるではないか。

「あれ誰なんだ?」 

 勝が背中越しに桜に問い掛けた。

「あの人は、折笠 響子さん。写真屋さんなの」

 ふーん、と素っ気なく返事を返す勝。

「綺麗な人だなって思ったんでしょ」 

「なっなんだってそんな……」

 そう言いつつも、動揺した勝は車体を大きく左右に揺らした。

 もう、と膨れる桜。

そして、思いだしたように後ろを向くと桜は響子にむかって無言で大きく手を振った。

 そんな桜の姿を見た響子は雑踏に消えゆく桜に手を振りかえしながら口先を尖らせて呟いた。

「桜ちゃんの嘘つき」


      ○


 藍色の空に妖艶に舞う櫻吹雪。通る車も人もなく、潮騒のみが唯一の賑わいとなった道をひた走る勝と景。

 最初にして最後の難関を越えた時にはすでに宵の口であった。

 ブレーキの利きが悪い景の三輪車にあわせ坂道を歩いて下っている最中、「今日は私のためにありがと」と桜が振り返り勝と景に言った。

「そんなの言いっこなし。私達友達じゃない」

 ねっ、勝ちゃん。と景が勝に同意を求め、「その通り」と勝は大きなあくびをしながら頷いた。

 刻一刻と迫る別れの瞬間。『さよなら』の癒えがたい傷を恐れて「友達なんていりません……」と転入する学校で口にしてきた桜。しかし、今ここにある確かな友愛は桜がはじめて手に入れた至宝であった。他の人を心から信頼し尊敬できることはなんとすばらしきことか。

 躊躇なく胸を張って『友達』と呼べる仲間と出会った。桜の胸の内は蝋燭に火が灯ったようにほんのりと温かくなった。

 公民館へ通じる道へ近づくと、外灯の下に人影があった。電信柱に背をもたれさせ波柄の浴衣はだらしなく、片手は懐にもう一方では煙管を吹かしている。

 その姿を見るや、桜は勝の後ろへ隠れ。勝は立ち止まった。二人の険しくなる顔色に要領を得ないまま景も勝に習って足を止めた。

「よう色男」

 男にして女性の風貌を持つさもしい輩。勝はその顔を見るなり、激昂し髪の毛を逆立てた。

 そのただならぬ様子に、景は思わずペダルに足を掛けたが勝は自転車に跨る算段すらもしていない。景は、勝に指示をこうようにその背中をずっと見つめたままでいる。

 ひと思いに逃げてしまえば自転車の優位性の前にこの男にはなすすべはあるまい。

 しかし、桜は逼迫【ひっぱく】することになってしまう。逃げたくとも結局は公民館に帰らなければならないのだ。本末転倒である。

 ゆえに、桜に降り注がれる火の粉ならば勝が全てかぶるつもいでいた。

「〝今日は〟何もしねぇよ。お前らを座長がご指名なんだ」 

 ひひっ、妖怪のような笑みを浮かべた遊松は「さっさときやがれ」と言い残し公民館へ向けて歩きはじめる。暗がりの中、ふらふらと酔っぱらいのように歩く男はまことに妖怪のようであった。

「勝ちゃん……どうしよう」

 勝の肩にすがって怯える桜。

「とりあえず、行ってみようぜ。桜の父さんもいるんだろ」 

 そう勝が言うと、「うん」と桜は溜息混じりにそう言った。


      ○


「俺は、この一座の座長。虎次郎ってんだ」

 桜と景を外に残し、勝が遊松の後に続き公民館の一室へ入ると同時に、大声が勝に浴びせられた。

 勝の眼前には堂々と胡座をかき、煙草をくわえる巨漢の姿。黒生地でありマントごとくに大きい半被には両胸部分に赤く『祭』が宿り、髪を剃った頭が人相の悪さを際立たせていた。

 その横では肉薄な狡兎がいやらしい笑みを浮かべて、物見遊山と虎の前に立たされた勝を見据えている。文字通り虎の威を借る狐……いやイタチであろう。

「筒串 勝……だ……」

 張り詰めた重苦しい空気に勝とて足がすくみ、口もとは小刻みに震えていた。今にも逃げ出したい衝動を押し殺せたのは、虎次郎の傍らでほくそ笑むいけ好かない輩がいたからである。こんな奴の目前で尻尾を巻いて逃げ出すなど正義漢の名折れ、ひいては勝の中の大切な一本が無情にも折れてしまう。

 「筒串……どっかで聞いたような……」と手を顎にやる虎次郎。

「くそがき、何でビラなんぞ持ち出しやがった」

 遊松が虎次郎に変わって勝に問い正す。狡兎の言葉に耳を傾けるだけで唾棄したい面持ちとなったが、虎次郎の表情を見るに、それには答えなければならないようであった。

「別に悪いことじゃないだろ」

 桜の名前は出せない。勝は少し考えてからそう言った。痛くもない腹を探られるようで、嫌な気分である。

 はあ?、と目くじらを立てる遊松。

 仰いで天に愧じず。勝は何もやましいことなどしていないのだ。ビラ配りは宣伝活動の一環であり、一座からしてみれば有益であり無害なのだ。

「そいつはおめぇが正しい。むしろ俺はお前らに礼の一つも言わねばならんだろうな。だが!腑に落ちねぇんだ。わざわざチャリンコで隣町まで出掛けて、鐚銭一文の儲けにもならねぇのに、どうしてビラを配ったかがな」

 大原則として意図無く人は動かず。

 時として欲情または理由の有無に関係なく唐突として意図不明に行動を起こす狂乱者もいる。だが、勝がそれに当てはまるかと言えば否である。単騎駆けならまだしも、乙女を二人を引き連れて行ったからには明瞭たる理由がそこに必ずあるはずなのである。

 訝しむ虎次郎の眼から逃れる事は大凡不可能であろう。勝が口巧者【くちごうしゃ】であったらなペテン師のごとく、この場をうまく言い逃れられたやもしれない。

「それは…………」

 勝は正義漢を誠とする男子である。ゆえにペテン師とは正反対の気概であり、頑愚なまでに正直であろうとするのである。気の利いた嘘の一つも言えようはずもない。

「ガキが、話す気にさせてやる」

 遊松は口の端を釣り上げて日々の骨をぽきぽきと鳴らして勝へ歩み寄った。

 勝は拳を携え歩み寄る愚劣極まりない男を睨み付け、歯を食いしばり拳が震えるほど強く堅く握った。

 無碍に殴られてやるつもりはない。頬を殴れば頬を殴り返し、腹を蹴れば腕に噛み付く。完全なる勝利など不要。肉迫し一矢報いることができればそれでよい。

「遊松、やめとけ。お前が怪我するぞ」

 虎視眈々と反撃の時を待つ勝の気迫を見抜いたのか、虎次郎は拳を振りかぶった遊松を制した。

「座長」

「女形が怪我したら使いもんにならねぇ」

 ちぇっ。と勝の足下に唾を吐き捨てて悪態をつく遊松。

 強い眼光鋭く人を射すくめる。勝の黒い瞳に宿った炎にふれ、遊松は肩をすくめてひょうひょうと軽い足取りで座長の後ろへ帰って行った。

「小僧、黙して語らずもいい。だがな、それじゃお前をこのまま返すわけにもいかねぇんだ。俺がゆるさねぇよ」

 虎次郎は本気である。

 巨漢の瞳に映る威厳ある漢の威風は勝が敵うところではなかった。

「……」

 沈黙は金雄弁銀なりと勝は黙りこくると俯いて考えた。今頃夕餉の支度を終えた母が自分の心配しているだろうか……いや、これまでも大方放任されて来た勝である。これまでにも何度か遅くなった事はあったが、母に叱られたことなどなかったのだ。さすがに、今日は遅くなり過ぎの感は否めなかったかったが……

 このままでは埒が開かない。ここは素直に桜の為であると告白すべきだろうか。

 勝が思考を巡らした。

 たとえ、桜の為に……と告白したところで、桜に害が及ぶ可能性は低いだろう。虎次郎本人がビラ配り自体は有益であるとの認識を話しているのだ。しかし、ビラを持ち出したは桜である。これ以上、桜に少しの火の粉を触れさせたくない勝としては、微塵の後腐れを残すことはしたくなった。

 沈黙が部屋を覆う。対峙したまま微動だにしない二人。唯一、遊松だけが面白く進展しないことの苛立ちをつのらせてか爪を噛んで勝を苦々しく見つめていた。

 そんな折、不意にドアの外が騒がしくなったかと思うと、次の瞬間にはドアが勢いよく開かれた。

 そして姿を現す乙女の姿。堂々と仁王立ちになる桜と肩をすくめて後ろにいるのは景である。

「なんだ桜」

 『入って来るな』と言いたげに虎次郎は桜の顔を睨み付ける。

「筒串君は悪くありません。二人とも私の為に今日ビラを配ってくれたんです」

 その勇敢たる凛声はまるで咲恵を見ているようであった。

 虎次郎は桜の言葉を受け、ゆっくりと勝の顔へ視線を移動させた。鏃の切っ先のごとく鋭い眼光に勝は悟られてたまるかと顔をそむけた。

 どうゆうことでい。息が詰まったような重々しい声で虎次郎は桜に問うた。

「公演が長引けば、それだけ私もここの長く居られるから……だから、二人とも私のためにがんばってくれたんです」

 桜は歩みを進め必死に訴えた。言葉足らずだったかも知れない。だが、桜の言葉には今まで一つの季節中、一生懸命自分のために苦渋を舐めてくれた男の子と、はじめてできた女の子の友人。言葉では語り尽くせない思いが込められていた。

 桜は口元を引き締めた後も黒い瞳で虎次郎に訴え続けている。

 へへへっ、と遊松が笑った。

 桜が入って来てから、何か愉快な事象を見つけた猿のように不敵な面構えを浮かべていたのである。無論、勝はそんな狡兎を見逃さず、睨みを利かせていた。

「おめぇら二人は外で待ってろ」

 桜の瞳から意を汲み取ったのか、虎次郎は徐に目を閉じて、低い声でそう言った。

「いやです、筒串君が怒られるなら私も一緒です」「私も」

 桜と景が同時に声をあげる。

 座り込みを敢行するであろう乙女に対し、虎次郎が何度も小さく頷いてから「こっからは男同士の話しだ」と目元を緩めてそう言った。

 顔を見合わせた二人は、虎次郎に憤怒の色がないことに驚きつつ、本当に『男同士の話し』なのだと、桜は最後まで勝の身を気遣いながら渋々退室することにした。

 静かにドアが閉められると「生意気なガキに折檻してやりまさっ」と水を得た魚と満面の笑みでもって、弾んだ足取りでノブに手を掛けた遊松。

 「てめぇって奴ぁっ!」勝が拳を握るよりも早く、虎次郎のグローブのように大きく分厚い手が遊松の襟首を鷲掴んだ。虎次郎の腕は仁王像のごとく隆々とした筋肉が唸りを上げ、華奢な若者の体をまるで木の葉を弄ぶ様に軽々と持ち上げた。

 遊松は何が起きたのか把握することさえままならず、ただ「ひぃ」と情けない悲鳴をを小さく上げただけであった。

「てめぇ、に折檻する義理がどこにあるってんだ!うぬ惚れるのもいい加減にしやがれ。パチンコにばっかりうつつ抜かしやがって!童の爪の垢でも呑みくさせ。この馬鹿野郎がっ!」

 怒号と共に虎次郎は「我慢ならねぇ」と遊松の尻に拳を突き上げた。暖簾が風で押し上げられるがごとき。遊松は拳の衝撃に体をくねらせ悶絶びゃくじと声にならない唸り声を上げ、「勘弁、勘弁」と子どもの様に涙と鼻水を滴らせた。

「女形は顔が命だ。顔だけは勘弁してやる」

 虎次郎は、怒髪天と頭から湯気を立ち上らせて言うと、ドアを勢いよく開けっぴろげ、遊松を廊下へ放り投げた。そして、「今からビラ配りに行ってきやがれ!全部配り終えるまで帰ってくるんじゃねぇぞっ!」

 公民館全体に響き渡る声量で持って喝を入れる。

 その時、嵐の暴風を浮けたがごとく窓ガラスが波打ったのを見て、勝の背中には冷たいものが走った。

 本来であるならば、ざまあみろと蔑すんで人の不幸は蜜の味と軽い優越感などに浸っりたいのが人間味である。しかし、それをしてしまえば、己も同じ穴に落ちるようでその人間味だけは勘弁願いたい。

 かくして狡兎は尻をさする暇さえなく廊下へ放り出された。部屋には虎次郎と勝の二人きりとなったのである。勝は正直に生唾をしこたま飲み込んだ。蛇を前にした蛙がいかに凛然と面を構えようとも、所詮は蛙。喰らう者と喰らわれる者なのだ。

「小僧……」 

 虎次郎は座布団の上に座り直すと、顔を上げずに溜息をつくようにそう言う。

 槍が出るか蛇がでるか……勝は身構える。必要とあれば逃げなければならない。男子なら憧れるだろうあの隆々たる筋肉を前にして、丸腰でもってもはや一矢報いる気迫など、どこから湧いて出てくるだろうか。

「てめぇ。泣かせるじゃあねぇかぁ。惚れた女の為になぁ」

 虎次郎はそう言いながら、赤子の鳴き声のような音を立てて鼻を思い切りすすった。充血した目には憤怒の色など微塵も見当たらない。「おめぇは本物の男だ、あぁ男だとも」男泣きに声を震わせて言う巨漢は半被の袖でごしごしとたわしで擦るように目元を何度も擦った。まるで『快哉である』と岸壁から荒波に向かって叫んでいるようである。

 外見にして坂田金時。鉞などを担がせればそれだけで鬼が逃げて行くだろう。一人で鬼ヶ島へ乗り込むと言い出したとて、誰も止めまい。

 しかし、鬼をも恐れる豪物の本質は涙もろい人情漢であった。「これで何か旨いもんでも食いな」と陶酔しきった様子で懐の財布から紙幣を数枚取り出して勝へ差し出す虎次郎。

「こんなのいらない」

 金のために働いたつもりはない。全ては桜のためであり桜のためでしかないのだ。ここで金など握ろうものなら、崇高なる目的から逸脱した上に桜になんと言われるだろうか。

「勘違いするな。これは駄賃じゃあねぇ。俺の感謝の気持ちだ。黙ってやったってもな、ガキにビラ配らせて鐚一文出さねぇなんざ俺の流儀じゃね。そら、とっとと受け取って、外で待ってる娘らにいいとこ見せてやんな」

 虎次郎が紙幣を握ると、玩具の紙切れに見える。そう言いながら勝の手に無理矢理紙幣を握らせる虎次郎。

 もし三人で使うのであれば許されるだろう。もとい誰にも文句は言わせない。「三人で使います」と勝は頭を下げた。

「おう」

 そう言って勝の肩をばしばし叩く虎次郎。

 ドアが開き勝はようやく廊下へ出ることが許された。なんだかどっと疲れた。溜息をついていると、

「小僧。お母さんを大切にしろよ。あんな肝の据わった良い面構えの母親はそういねぇ」

 精一杯の優しさを込めて虎次郎は勝に言った。

 良き面構えの者に女も小僧もないのである。

外に出ると、桜と景が駆け寄って来た。まず見やるのは勝の顔である。殴られた後がないことに安堵と胸をなで下ろす乙女たち。

「よかったぁ」「てっきり殴られてると思ったわよ」

「俺も殴られると思った」と勝もはにかみながら頭を掻いた。

 そして、桜と景に虎次郎から受け取った紙幣を見せ。「三人で使おうぜ」と言った。

「うわぁ」 

「大金よ、これ」

 中学生には確かに大金である。サイダーで換算するならば三ダースは雑作もないだろう。

 一様に驚く二人であったが、そこに現れた良介に諭され、今日のところは家に帰ることになった。気が付いてみれば半月が空高く輝いているではないか。

 「また明日」桜と別れた勝と景。小川に架かる橋の袂まで来ると、割烹着姿で紗が不安な表情を浮かべて立って居た。

「お母さん、ただいま」

景が言うと、「こんな遅くまでどこに行ってたの、お父さんも心配してるのよ」と紗が景を元へ駆け寄った。

「ごめんなさい」

ばつの悪い顔をして言う景。「この子はもう」と妙は景をしっかりと抱き寄せた。

 そんな微笑ましい風景を見ながら、勝は少し寂しい気持ちになった。

 「勝ちゃん、また明日ね」と言う景に「おう」と短く返事を返した後、勝は自転車から降りて、静寂に包まれた商店街を歩いた。

 女の子であれば母親との抱擁とて美しく見える。男子たる自分を母が心配していようはずがない。甘える気持ちなどはない。従って母に抱擁を求めるわけではないのだ。ただ、少しは心配してくれるだろうかと思ったのである。

 商店街を過ぎ、一寸先は闇である松浦道場の道に差し掛かった。

 闇とはとかく人の恐怖心を煽り立てる。竹下親子に嫉妬にも似た感情を抱いた勝のささくれだった面持ちは、そんな闇に対して半ば開き直っていた。この闇の中を歩いて、鬼に食われようが、神隠しに遭おうがどうでもよい。そうなれば母はやっと自分を心配してくれるだろう。

 だが、勝は海沿いの迂回路を歩くことにした。やはり鬼も神隠しも恐かったのである。

 凪いだ海は異様なくらい静かだった。夜が更けると海から吹き上げる独特の潮風が勝の頬を撫でる。海を覗けばいじましい己の姿が映るだろう……水面に映る月を見ながら勝はふっとそう思った。

 公園の前を過ぎ、病院の角を見やるがそこ母の姿はなかった。今頃ならば湯浴みでもしている頃だろう。病院の階段に腰掛けようかと思った勝。しかし、空腹には耐え難いものがある。本来ならばすでに満腹の幸福に包まれ、眠たい眼をテレビに釘付けにしているはずなのだから。

 角を曲がり自転車を門柱にもたれさせ。そっと戸を開ける。

「ただいま」

 どうせ母の姿は居間にはあるまい。と気なく義務的に帰りを告げたのだが……

「勝君なの」 

 と居間から血の気の引いた顔をした咲恵が慌てて板間まで駆け、そして、土間に飛び降りると有無を言わせず勝を力一杯勝を抱き締めたのである。

「こんな遅くまでどこに行ってたの!。景ちゃんところに行ってもまだ帰ってないって言うし……お母さん勝君に何かあったんじゃないかって、心配したんだから」

 しばらくの後、咲恵は勝の両肩を持って「親を心配させて、勝君は悪い子よ」と続けた。

 勝は呆然と母の顔を見上げていた。まさか、母が自分のことをこんなにまで心配していてくれていた……それに引き替え自分は母は呑気に湯浴みにでも興じているだろうと本気で思っていたのである。心の底から情けなくなった……「ごめんなさい」自然と言葉が出てきた。本当に申し訳ないと思ったのだ。


 鼻に触れた母の髪の毛から石鹸の匂いがした。

 抱き締めてくれた母の目は赤く充血していた。

 そして、なによりも母は優しくてとても温かかった。

 勝はこれを一生忘れまいと深く心に誓ったのである。


 思えば、春休みの間中、母は桜に無類の愛情を桜に注いでいた。実子である勝以上に、本当は女の子が欲しかったのではないかと勝が疑念を抱かなかったと言えば嘘になる。だが、そんなことを言い出したところで、どうなる話しでもなく、現に桜が寝泊まりしていた間は毎日四六時中が楽しかったのである。

 それがなくなった今、遅ればせながら悋気として卑屈になったしまったのだろう。勝はまな板を打つ音で目を覚まし、ずっとそのようなことに思いを巡らせていた。

 寒ければ分厚い上品な座布団と唐津物の湯たんぽを自分に与え、母は寒さ極まる早朝から水仕事に文句一つ言わず、座するのは煎餅座布団。夏を迎えれば勝が眠る離れには蚊帳を張り、蚊遣り香をおいてくれる。もちろん母は蚊帳もなければ蚊遣り香も置かず。「お母さんには蚊が寄って来ないから」と笑って話していたが、勝に見られないようにと台所であちこちを掻いている姿を何度か見たことがあった。

  その他に数え切れない愛情を注いでくれた母。仮にも一時の気の迷いにそれを忘れてしまうなど言語道断。人として唾棄すべきであり愚劣の極みであろう。

 勝は口にこそ出さなかったが、胸の内で母に何度も謝った『ごめんなさい』と……

 『日は長くなったけれど、あまり遅くなったらだめよ。特に景ちゃんや桜ちゃんは女の子なんですからね』と昨晩の夕餉の際にそう言われた。これに黙って頷いた勝は、遅れて「わかった」と深く頷いた。母はそれ以上言及することはなく、その後は勝に昨日一日の出来事を尋ねるに終始した。

 無論、再び桜と同じ組になったことやビラを配ったことはもとより、虎次郎からお金を渡され、それを三人で使う旨をも話した。紙幣を見せた時には眉を顰めた母だったが、加えてお金を受け取るに至った経緯を口づつなれど諄々【じゅんじゅん】と説明し、ようやく母は得心がいったのか「なくしてはだめよ」と微笑むのであった。


      ○


 その日の昼時、勝と乙女二人は屋上に集まって弁当を広げていた。春にしては日差しの強い本日は、貯水槽の陰が居心地が良い。その分、景色や良さを度外視しなければならないのは玉に瑕【きず】である。

 話題はもちろん、お金の使い道である。教室で三人面を合わせてもよかった、だが、ここ数日と言うもの勝を除く男子生徒たちによる露骨なまでの桜への接触が目に見えて増え、それを懸念して昼休みになるや一目散に屋上へ駆けたのである。

 依然として勝と景以外の生徒と言葉を交わすことのない桜。ただ、教室内で勝と話す姿を露呈させてしまったのが要因だろうか……とは言え、気を揉むのは勝だけであり、張本人である桜は声を掛けられようと言葉を返すことはしなかった。

「なんか美味しいものでも食べようよ」 

 本線の話題から一人逸脱した思考を巡らしていた勝は、景の言葉で引き戻された。

「デパートとか?」 

 咲恵にこしらえてもらった桜の弁当の中身は勝と同じである。だし巻き卵に、鮭の切り身、菜の花のおひたし、旬の筍をつかった筑前煮。白米の上には鰹節、さらには海苔がのせてあった。

 「玉子焼き頂戴」と勝が弁当箱を開いた次の瞬間にはカワセミのように素早く景の箸が二切れしか入っていない貴重な玉子焼きを掠め取って行った。両手が塞がっていた勝は間抜けな顔をして、景の早業を。そして口の中に消えて行く玉子焼きの末路を見守るしかできなかった。

  楽しみにしていた分、落胆も大きい。勝は助けを求めるように桜を見やると、桜は弁当箱を勝から遠ざけ、大口を開けると急いで玉子焼きを頬張ってしまった。

 項垂れた勝は、闘志を宿し鵜の目鷹の目と景の弁当箱に目を凝らした。だが、景は堂々としたものである……景の弁当は白飯を敷き詰めた中央に梅干しが一つのせてあり、端に沢庵が二切れ飾られている。俗に言う日の丸弁当であった。 

「この魚もやるよ」

 勝は鮭の切り身を景の弁当箱に押し込んだ。「いいの?」と箸を銜える景。「骨がうっとおしい」とそっけなく返す勝。

「私の煮物もあげる」

 そんなやりとりを見ていた桜も勝に習って筑前煮を景に差し出した。「なんか悪いわね」と景は桜の弁当箱から煮物を摘み取る。

「私、椎茸苦手なの」

 と苦笑してみせる桜。

 さて、弁当を掻き込んだ勝が言った。

「デパートにうまいもんでも食いにいくか?」

 と話しを戻したつもりだった。

「〝美味しいもの〟って私がさっき言ったじゃない」

「〝デパート〟って私言ったもん」

 とそれぞれ弁当箱を携える桜と景につつかれてしまった。

「ねぇ、どうせ食べにい行くならパフェにしない?」 

「「ぱふぇ?」」

 景が唐突に言った『パフェ』を勝も桜も知らなかった。「なんだそれ」と勝。

「一度だけ食べたことがあるんだけど……ケーキにのってる白いクリームの上にアイスとプリンとメロンと苺が乗ってるの!」

 景は最近父に連れられて行ったフルーツパーラーで食べたパフェを思い浮かべて、喉を鳴らした。

 「おぉ」と勝は声をあげ、桜は目を大きく見開いていた。プリンにアイス、おまけにメロンや苺……全て誕生日か病気になった時にのみ賞味できる一品ばかりではないか。それが一堂に会すると言うのである。それはもう盆と正月が一緒に来たうえに飲めや歌えやの祭り騒ぎである。

「それに決まりだな!」 

 勝は、大きな丼の底にアイスを敷き詰めその上に白クリームをこれでもかとかけた上にプリンのピラミッドでもって、それらが見えなくなるほど苺とメロンを盛りつけた絵を想像して垂涎と空を見上げていた。

「私は……」

 盛り上がる勝と景を尻目に、桜が重い口を開いた。

「私は……写真撮りたいな……」

 勝と景の顔に視線だけを交互させながら桜が言った。「写真?」拍子抜けした声を出す勝。写真は食えないのである。

 浅はかと罵られようとも、物事の本質とその価値を見透かす瞳を少年と乙女いずれが持ち合わせているかと言えば、無論乙女であろう。汚らしい石。勝ならば迷わず海に力の限り投擲するであろう。しかし、乙女たる桜はその石に浪漫を見出し、持ち帰り研くのである。同じ金剛石とて、方や海底。方や秘めたる輝きを放つ。

「写真ねぇ」

 勝と対照的に景は指を顎に当てて、そう呟いた。

「パフェも美味しそうだけど、食べちゃったら終わりでしょ。でも写真なら、ずっと残るから……」

 桜の発した言葉の深層まで意に介することができたなら、勝とて二つ返事でこれを承諾しただろう。一時の悦楽を選ぶか、確かな思い出を選ぶか。この期におよび選択肢の余地などなかろう。

「うん、桜天才!。写真しようよ、写真がいい!」 

 景は何度も頷いて桜の手を取った。「うん」と桜も嬉しそうに頷くと賛同してくれた景の手を取ってぶんぶんと上下に振った。

「ええ、パフェだろ。写真なんて食えないし」

 景の寝返りで一転劣勢に追い込まれた勝は、憮然として食い下がった。

 だが、「私が転校しても写真は残るでしょ?」と桜に一言言われ、勝は言葉なく抗う牙をそぎ落とされてしまう。そこまで深く考えていなかったにせよ、終始食い気に圧倒された自分が浅ましい。勝は「写真にしよう」と視線を向ける乙女二人にはにかんでそう言った。

「でもさ、また自転車で行くのはね」

 と景。

 じゃ歩いて行くか?と勝が言い。

「それはもっとやだ」

 と桜が口を尖らせた。

 んじゃあ、どうすんだよ。と声を荒げる勝。景と桜はそんな勝を見て溜息をついた。

乙女心が根底からわかっていない。稀に撮る写真なのである、これ以上ないくらいにお洒落をしないなど考えられまい。きっと勝は普段着、もとい、制服のまま撮りに行きかねないが桜とて景とて、このような晴れの日にのみ着る一張羅を箪笥にしまってあるのだ。取り分け景は最近、家族水入らずでデパートへ出掛け洋服を新調してもらったばかりなのである。無論、まだ勝にも桜にも見せていないのだ。

「あっでも、私、部活動休みないのよね」 

 レギュラーは忙しいのよぉ。と景は嬉しそうに言った。

「はあ、んなもん一日くらい休んだって良いだろう」

 本末転倒であると、勝は苦々しく言った。

 あくまでも景の都合であるのだが、勝にとっては時間の限られる桜を何よりも優先したいのである。『また明日』と気軽に言えれば、景の都合にも付き合ってやれる。しかし、桜にとっては今この瞬間とて貴重なのである。

 だって……、と景が俯いた。

「私が抜けると守備練習できないし……みんなに迷惑かけるし……監督に怒られるし」

「勝ちゃん、別に昨日の今日じゃなくても良いじゃない、ねっ?」

 険悪な空気が漂い始めた頃合いで挨拶は時の氏神と桜が息の荒い勝を宥めた。

「今日の方が良いだろ。明日はまた明日で他のことできるし……」

 何がしたいのか何をするんのか。それは決めていない……ただ時間があれば桜との思い出が作れる、食い気に惑わされていた自分が言うのも矛盾する感はあったが。

「じゃあ、私はいいから勝と桜で撮りに行けば……」

 ふて腐れたのは景であった。

「だめ、三人でなきゃだめだよ。景ちゃんも勝ちゃんも居なきゃいや」

 桜が二人の間に割って入りそう言うと、景と勝は口を固く閉じ、黙り込んでしまった。

「喧嘩するんだった、私もういかないよ。お金も……返そうよ……」

 自分が大切だと思うもの。それがゆえに譲れない気持ち。だから、衝突してしまう。それが争いの火種となるのであれば、火種自体を取り除く他に手立てはない。

 寂しくもそれが桜の判断であった。

 これには勝も困った。持論に正す箇所を見出せぬ勝は妥協しようにも意見を曲げられない。景の意思を踏みにじっても正しいと思ったいたからである。

 景とて、勝の論は正しいと感じていた。本当のところは意固地になっていたわけでもない。ただ恥ずかしくて言えなかったのだ……

 監督が恐いとは……

「ごめん桜。背番号もらえたのも桜のお陰でもあるんだもんね。わかった、今日部活動休んで写真撮りに行きましょ」

 景は鬼監督の怒号を頭に浮かべ身震いをしてから、引きつった笑顔で桜にそう言った。

 景ちゃん……?。顔面から血の気が引いて行く景を見ながら桜は少し心配なってしまった。

「よぉしっ決まりだな」

  予鈴が鳴り響く中、勝は弁当箱を携えて立ち上がり、「んじゃ公民館前のバス停に即行集合な」と無邪気に言うのであった。


      ○


 学校が終わるや、三人は走って家路を急いだ。景と桜と別れた後、「ただいま」と勝は家に帰るなり、鞄を板間に放り投げると、「行ってきます」と家を飛び出した。まさに電光石火『即行集合』なのである。

 しかし、松浦道場を越えた辺りでなぜか、桜と景が並んで駆けてくるではないか。

「どこ行くんだよ」

 と苦言を呈すと、それぞれに洋服やら靴を抱えた乙女は「「勝ちゃん家」」と声を揃えてすれ違った。

 仕方なく勝もそんな二人に追随し家に戻ると、咲恵が嬉しそうに姿見を離れへ運んでいるところであった。障子が閉められる。余程気持ちが高揚しているのだろう、母は土間に立つ勝に「覗いちゃだめですよぉ」と釘を刺すのであった。

「誰が覗くか」

 と勝は悪態をついて、乱暴に板間に腰を降ろした。『即行集合』だと宣言したはずだ。それに対して勝は鞄を放り投げ矢継ぎ早に行動したのである。その証拠に放り投げた鞄が無造作に勝の隣にぽつんとある。

 なにをしているのやら……。勝が声に出さぬ溜息をついた頃。障子を隔てた離れでは「わぁ、景ちゃん可愛い」と桜の声が聞こえて来た。何を今さらと勝は眉を顰める、確かに勝は桜が好みであるが、景とて十二分に可愛らしいのである。髪の毛を切り、ますます幼く愛らしく見える景、さながら勝は可愛らしい妹に悪い虫がつかぬだろうかと心配する兄であろう。

「はい完成」

 咲恵の黄色い声が木霊し、障子が開いた。

「なにやって…………んだ……」

 仏間の襖からまず、桜が姿を現した。

 いつか見たドレス調のワンピースに緋色のカチューシャ。腰元にある淡い桃色のリボンがなんとも可愛らしいではないか。否、それは詭弁である。元々桜が可憐なのである。それが優麗なる衣装を身に纏ったに過ぎない。

 論弁調の詭弁を並べたところで勝の胸の高鳴りは当分押さえられそうにない。

「桜ちゃん、ちょっと待ってね。靴出しますからね」 

 台所から暖簾を潜り草履を履いた咲恵は勝の後ろを通り下駄箱へ小走りに向かった。

「景ちゃん何してるの?」

 再び仏間に視線を戻すと、襖から景が顔だけを出してこちらを見ていた、足下なら新緑の緑色がひらひらと見え隠れしている。

 「いいから気にしないで」桜が景の元へ歩み寄ると景は慌てて襖に顔を隠した。

「景ちゃんも可愛くしてもらったんだから、恥ずかしがらないの」

早く、と桜が景の背を押す。

「あのちょっと、恥ずかしいとか……待って待って!」

 だぁめ、と桜は勢いよく景を押し出した。

 とたんに露わとなる景の姿。

 景の装いは桜が身に纏うワンピースとよく似た仕立ての洋服であり全体が新緑色であった。膝下まであるスカートには上品なアコーディオンプリーツが施され、一見して大人びた洋装で遭ったが、腰の後ろに見える同色のリボンが遊び心程度に幼さの名残を残している。

 咲恵の仕業だろう、普段はひっつめて一つ括りにしている髪の毛をおろし、左右同調、もみあげの上部を赤いリボンで装飾してあった。

「どう」

 茹でたこのように顔を真っ赤にし、指先を胸元でもじもじとさせながら上目遣いで呟く景。

「景じゃないみたいだ……」  

 勝は見違えた幼なじみを思わず意識してしまった。揺れる男心である。激賞できな浅はかさとて心のあらわれ、感嘆を超越すると言葉など出るはずがない。

 「それだけ?」乙女にとってはいささか褒め言葉としては言葉足らずであろう。

 しかし、勝にはそんな景の言葉はすでに耳に入っていない。

 華やかに着飾った乙女が二人。優麗の中に垣間見る上品さと無邪気さ。この妙味を筆舌するのは並大抵のことではあるまい。ここに咲いた花のかんばせ、これには桃の花とて櫻の花とて焼き餅と嫉妬の念に花弁を大いに散らすことだろう。

 二人の乙女が並ぶと、勝は更に胸をときめかせ桜を見て景を見て、顔を紅潮させてしまった。振り袖の時も目の保養にはこと欠かなかったが、洋服こそ乙女の極み、と勝は再び眼福に陶酔境にひたるのであった。

「桜ちゃんと景ちゃん。靴の用意ができましたよ」

 咲恵の声がすると、乙女二人は競うように板間へ駆ける。土間には赤い光沢のある靴と黒く漆の様に艶めく黒い靴が並べてあった。

「勝君、ちょっと」 

 暖簾から咲恵が顔を出すとそう言って手招きをした。勝が暖簾をくぐり台所へ入ると、男物の折り財布を携えた母が立っており、「はいこれ」と財布を勝に手渡すのだった。

「勝君から預かったお金と、バスの運賃ね」

 と付け加えるように言った咲恵は「いいのかバス代まで」と言う勝に「せっかくおめかししたのに歩いて行くつもり?」と勝の制服をただしながら言った。

「そっか」

 勝は百花繚乱と装った二人を思い出して得心と頷いた。

「それから、隣町は色々な人がいるから、桜ちゃんも景ちゃんも勝君が守ってあげるんですよ」

勝の両肩に手を置いて言う母。「おう」と力強く返事をする勝。

 そして、咲恵は唾をつけた指で勝の眉を撫で、

「はいっ、男前」

 と言って勝の背中を軽く叩いたのだった。


      ○


 病院前のバス停からバスに乗ることとなった。当然、「お金足りるかな」と心配した桜であったが、そこは勝が「心配すんな」と格好良く一言で黙らせた。得意となる勝の一方、桜は不安げな表情を浮かべていた。

 景は言及するに至らず、桜の顔をちらちらと見ながら落ち着かない様子である。

「景ちゃんお手洗い?」

 勝に聞こえないように景の耳もとで桜が気をまわすと、「ちっ違うわよ。ちゃんと着替える前にすませました」と大きな声で反論されてしまった。

 その声に勝が振り向くと、景は視線を下げて。黙り込んでしまう。桜は首を捻るに止まったが、景はその後も気まぐれに桜の顔に目配せをし続けていた。

 やがてバスの姿が見えるてくる。

 すると、桜も目を見開いて景の顔を見やった。デパートへ行った時に乗ったバスを思い出したのだ。

 バスの座席は二人がけなのである。だとすれば、勝の隣に座ることができるのは、桜か景の何れか一人ということになる。桜は眉を顰めた、このまま気が付かないふりを決め込み、早い者勝ちへ持ち込むか、ここで景に先んじ、勝に予め声をかけておくか……

 だが、そこまで考えて桜は、なんと憎たらしいことだろうと、内に巣くう醜い自分の一片を見て肩を落とした。こんな自分は嫌いなのである。

 それに、もし景がその気になれば、今しがた桜が考えた方法をすでに行使しているに相違ない。乙女としての本懐は遂げたい……だが、卑怯は嫌なのである。

「桜」

  と景が項垂れる桜に力のこもった声で言う。

 互いに向き合う乙女。

 呑気にあくびをする勝の後ろでは今まさに竜虎がその優位を競い激突せんと暗雲に雷が轟いていた。この一戦に明滅を掛け、互いに譲れぬ身の上はなんとしても、ひとときの陶酔をこの身に。

「一回勝負」

 景が言うと、桜は黙って深く頷いた。

「ずるっこなし」

 今度は桜がそう言い、景は黙って頷いた

 いざ、尋常に勝負。向かい合った二人が激突した。

「じゃんけん」

「ぽん」

桜が劇的に崩れ落ちた。

「やったぁ」

 飛び跳ねるのはもちろん景である。

 バスが到着すると、桜が有無を言わせず先頭で乗り込み、一番奥の席に一人腰をおろし、「はぁ」と深い溜息をついた。

 その前に座った景と勝。勝は乗り物酔いする景に窓側を譲った。

 はしゃぐ景は、窓の外を見ずにひたすら勝に視線を固定し抑揚激しく、一方的に話し続けている。勝は「寄ってくんなよ」と何のために窓側を譲ったのだ、言わんばかりに肩を寄せてくる景に不満の声を漏らしていたが……

「いいもん」 

 太陽に照らされた金の波、そして千の波を仏頂面で永遠と眺めながら桜が負け惜しみを呟いた。はたして全席の二人には聞こえただろうか。

 バスに揺られること小半時間。駅舎前の停留所で降りた三人は、まだ色褪せずに残るビラ配りを懐かしみつつ、桜に先導されて写真店へ向かった。

 『折笠写真館』と書かれた看板を見つけると、三人は躊躇するように肩を並べてドアの前に立ち尽くした。少しの間があってから、意を決した桜がドアを開け中に入ってみると、店内には人影がなかった。 

 しかし、ドアを閉める段になって、ドアの上部取り付けられた小さな鐘が軽調で乾いた音を奏でると「はいはーい」と白いカーテンの向こうから明るい声が聞こえてきた。

「あっ桜ちゃんと勝君、いらっしゃい。こっちのお嬢さんは、初めましてだね」

 手拭いで手を拭きながら現れた響子は三人に目配せしてからそう言った。

「初めまして、ここの雇われ主人してます。折笠 響子です」

 と景の前に歩くと、景の目線に顔をおろして自己紹介をし、景もそれに答え「竹下 景です」と自校紹介をすませた。

「今日はどうしたのかな?」 

「これで写真撮ってほしいんだ」

 勝はポケットから財布を取り出すと、紙幣を響子に見せた。

「うん、これなら二枚だね」

 えっ、と思わず桜が声を出してしまった。

「一枚でよかった?」

 桜に向き直って聞く響子。

「いえ、三枚ほしいんです」

 そう桜が答えると三人共に困った顔をしてしまった。「何かわけあり?」と顔を首を傾げる響子。

「実は私が、近々転校するんです。だから……三枚ほしいんです」

 桜が言うと。

 響子も顔を曇らせて、慈しむように勝の顔を見た後に桜の顔を見て、

「そうなの……桜ちゃん転校しちゃうの……そう……春は出会いの季節だけれど、別れの季節でもあるのよね」

 響子は溜息混じりに話してから「辛いね」と斟酌の念をあらわしながら桜の頭を撫でた。

「うん、よろしい。一枚は乙女の恋心に免じて私の奢りにしとくわ」

 桜は見透かされたような心境になり、目を見開いて一人狼狽した。

 しかし、「そのかわり……」と続けた響子は、「だからってわけじゃないんだけど、桜ちゃんと景ちゃんには表に飾る見本写真のモデルになってほしいんだけど」と苦笑を浮かべた。 

 どう?と桜と景の顔を見やる響子。

 顔を見合わせる景と桜。「モデルって言ってもちょっとお化粧して綺麗な洋服来て写真撮らせてもらうだけだから」と響子が付け足すと。

「「やります」」と乙女は女主人に対し好奇の眼差し向けて声を揃えたのだった。

「ごめんねぇ、店のフィルム勝手に使ってるのばれちゃって」とお茶目に舌をぺろっと出してみせる響子。

 響子は三人をカメラの前に移動させると、入り口のドアに掛かってあった札を裏返し『本日閉店』を表向けた。そして、緊張して佇む三人の元へ歩み寄ると「緊張しなくても、可愛く撮ってあげるから心配しないでねぇ」と言いながら桜と景の洋服を直し、最後に「背筋伸ばさないと男前が台無しだぞ」っと勝の背中を軽く叩いた。    

 うん。と一度頷くと響子は小走りにカメラに向かうと、黒子のように黒い布を頭から被った。

「美人さんと男前君、みんな笑ってぇ」 

 引きつる表情は三者三様。

「ほら桜ちゃんカメラのレンズ見てね、景ちゃん口開いてるよ。勝君上向かないで」 

 油の切れた歯車のようにぎこちない被写体をレンズで覗き、今にも大笑いをはじめそうな、そんな浮ついた声で注意を促す。

 だが、三人共に響子の言う通りにできなかった。一つ直せば一つ食い違う、三人見事な連携である。傍目から見れば予め示し合わせていたのではないかと疑いたくなるほど。

 それでも、響子は根気よく言葉を発し続けた。レンズの向こうに居る三人のいじらしいほどに初々しいのである。可愛らしくて仕方がない。

 面白いことに、響子が暗幕から顔を出すと息が抜けたように三人ともとても活き活きとした表情をする。しかし、「撮るよ」の段になると元の木阿弥なのである。さすがに、困った響子。これでも今までに色々な人の写真を写してきたのである。少しは自信があったのだが、ここまで緊張するお客さんは、はじめてである。

 あれこれと考えを巡らす響子。被写体の三人もすでに疲れの色が浮かんでいる。このままでは埒も開くまいと響子は一度休憩をとることにした。少しお喋りでもすれば緊張もほぐれるだろうと楽観して。

 響子は暗幕から顔を出して「一旦休憩にしようか」と苦笑を浮かべて言った。すると三人は口々に大量の息を吐き出しながら骨抜きとばかりに、全身を強張らせていた力を抜いて、自然体となった。

 それを見た響子の中で何かが花開いた。そして気が付いた時にはシャッターを押していた……その瞬間の美を求める写真家にとって衝動的に感性に訴えかける直感や心動に従うことは、最善の写真が撮れる貴重な機会なのである。

 その珍しい感覚を純粋無垢な三人に見出せたのは響子の大切にする『自然体』であったからだろうか。

 飾らぬからこそ美しく輝くものがあるのだ。

「いい写真が撮れた。絶対良い写真が撮れた!」

 響子は興奮気味に勝達の元へ駆け寄った。当然、勝をはじめ桜も景も思わぬ不意打ちに開いた口が塞がらなかったが、幼い子どものように喜色満面とスキップをしながら、カーテンの奥へフィルムを持って行く響子を見るに、誰一人文句を言えなかった。

 それから、少しの間があって、桜と景が響子に呼ばれカーテンの向こうへ姿を消した。

「勝君は退屈だと思うけど、これでも食べて我慢しててね」

 と響子がオレンジジュースと円形や四角い形をした焼き菓子などがのった盆を勝の佇む椅子の前にある机の上に置いた。

「これ食べてもいいのか?」

 こんなに一人で食べても良いのだろうかと思いつつ、内心では『いいよ』と年上の乙女が言うのを待っていた。

「いいよ」

 響子は片目を閉じてそう言うと、上機嫌で再びカーテンの向こうへ歩んで行った。

 どれから食べてやろうかと勝は目を輝かせて、洋菓子に視線を落とす。結局は全部一人で食べて良いのであるからして、どれから食べようとも結果は同じであるが、この目移りする間とて至福の時間なのである。

 洋菓子を頬張りながら暇つぶしに店内を見やると、ラッパに刀、法螺貝に琴まで写真店に必要なのだろうかと思える品々が両端に並び、壁には幾つか写真が額縁に入れられて飾られてあった。銀縁もあれば金縁もありそれは賑やかである。 

 しかし、写真のいずれも和装の女性であり男性ばかりであった。中でも無垢色の額に納められた白無垢の花嫁が写った写真はよく撮れていると子どもながらに思った。しからば、桜も景も和装であろうか。勝は咲恵も混ざって振り袖を着並んだ夜のことを思いだし、どうせ七五三だろうと笑みを浮かべるのだった。

 だが、勝の予想に着替えを済ませて姿を現した桜と景は洋服であった。それも随分と地味な格好である。垢抜けから言えば着替える必要は皆無であろう。桜にせよ景にせよ、上は白のブラウスであり、スカートは桜が桃色で景が新緑色であった。

 しかし、良く見ればブラウスには光沢と艶があり、微風に波打つスカートとて繊細な動きをしている。全てシルク仕立てなのかもしれない。

 桜は赤いリボンで髪の毛をまとめ、黒いエナメルのハンドバッグを携えており、景は赤いアンブレラである。

「さぁ乙女さん達、勝君が見てるわよぉ」 

 母を思わせる嬉々とした声色で言う響子。

 桜と景は響子の言葉に十分頬を赤めて、勝をみやると、こともあろうに勝は明後日の方向を向いて洋菓子を囓っていた。

「よぉし、気合い入れていきましょう」

 撮影は軽々しく始められた。

 勝は二人の出で立ちを見て、随分と大人びたものだと関心しつつ、やはりデパートの服の方が華があると、評論家よろしく何度か頷いた。

 まずカメラの前に立ったのは桜であった。響子は桜に姿勢を求めることなく、自然体でよいと言った。桜は困惑している様子であったが、やがて、ハンドバッグを前に両手で持つ姿勢に落ち着いた。

 自分もあのように忙しなかったのだろうか、目線を泳がし口もとは堅く銅像のごとく全身が固まっている桜を見て少し恥ずかしくなってしまった。

「うーん。勝君こっち来て」

 勝とカメラとを視線が往来する桜を見て、響子が勝を手招く。勝がカメラの後ろに歩いて行くと、「そこで立ってて」と言って暗幕を再び被ってしまう。

 勝としては面白くない。カメラと重なって桜の姿が見えない。こう言っては純情たる乙女に叱られるだろうが、やはり、不自然に凝固するさまは見ていて愉快なのである。

 ねぇ、と響子が勝を呼んだ。 

 暗幕の中に勝が顔を入れると「ケーキご馳走するからさ……」と勝の耳元で響子がとあることをひそひそと話した。

 ええっ……、と露骨に顔を顰めた勝であったが……

「一回だけなら」 

 と天秤は羞恥心よりもケーキを優先させたのだった。

 暗幕から出た勝はカメラの後ろに立つと響子の合図を待った。そんなことをするのかとその時を想像しただけで、恥ずかしさあまって顔が熱くなる。

「今よ」

 と響子が合図を送る……勝は一度息を飲んでから、

「桜、可愛いぞっ」

 姿見えぬ桜に向かって、大きな声で言ったのだった。たかだか一言の褒め言葉であったが勝は口から火を噴きださんばかりになり、心臓の鼓動とて今にも破裂してしまいそうである。

「よしっ!次ぎ景ちゃんだよぉ」

 桜の写真はうまく撮れたようだ。しかし、あんな一言で銅像のこごりが解けるものなのだろうか、はたして桜はいかような表情をしたのだろう。気になる勝である。

 次の景も桜と々手順を踏むこととなった。かなりのフィルムを無駄にしたあげく、今だ完成までに道遠く、響子は桜の時同様、勝に困った顔をして見せた。

 そして、またひそひそ話である。

「一回だけって言ったろ」 

 呼ばれた時点で大体の予想はついていたが、全くその予想通りになるのは珍しい。無論、勝はそのような恥ずかしい台詞を二度と言うつもりはなかった。

 が………………

 「苺ものせるしプリンもつけるから……どう?」よもや苺とプリンごときで易々と懐柔されてなるものかと勝の男気が拳を堅く握った。後は一言『断る』と言えばそれでよい。

  だが「約束だからな」と幼い男気は赤く甘酸っぱい果実と喉越しよく甘美たる洋菓子によって呆気なく懐柔されてしまったのだった。

 例によって勝は響子の合図の後に「景、可愛いぞっ」と言った。

 しかし、今度は景の表情をみるべく、しゃがみ込んでカメラの足間から景を見た。

 すると、景はおちょぼ口で頬を桃色に染め、目元は恍惚とカメラを見つめていた。本当に可愛かった……

 とは言え、男子たるもの不言実行を心得とし、そう何度も軽々しく口を開くにあらず。勝は顔を赤くしてテーブルへ戻ると、残った菓子を口いっぱいに頬張るのであった。


      ○


 家路を急ぐ人々で賑わう駅前から少し離れた場所に帰りの停留所はあった。写真を撮り終え、まだ内心では興奮冷めやらぬ乙女二人と苺のせケーキとプリンは実に美味であったと思いだし舌なめずりをする勝の三人は横顔を茜色に染めながら、バスを待っていた。

 時刻表からするに、待ち時間はそう長くあるまい。

 今晩の夕食の献立はなんだろうかと呑気に構える勝の背では、またしても乙女達の白熱した戦いが繰り広げられようとしていた。

 この先きっと勝と連れだってバスに乗ることはない。ならば機会は泣いても笑ってもこれが最後。桜は迎え撃つ景の顔を半ば睨み付けた。

 彼方、景はそんな桜に精神的に押され気味であった。行きのバスで勝の隣を手中に収めた景からすれば帰りの『隣』にそれほど惹かれるものはなく、本懐を遂げてしまった景としてはあわよくば帰りも……と、要するにどちらでも良かったのである。此方、自分を睨み付ける桜は鬼気迫る必死の形相であり、今にも噛み付きそうな気迫さえ感じた。斟酌に譲っても心苦しくはない。むしろ勝利しまった方が心中穏やかではない。

「一回勝負ね」

 バスが見えたところで桜が口火を切った。

 席を譲ってくれと頼まないところが桜らしいと景は呆れて「ずるはなしよ」と続けた。

 写真を撮り終えた後、着替えを済ませた桜と景は、腹をさする勝の元へ駆けた。すると、桜が言ったのである、「いい思い出が撮れたね」と……奇しくも勝を前にして桜は景にとって好敵手なのである。

 剣を抜いた乙女は息の詰まる一瞬の後、二人は激突した。

「じゃんけん」

「ぽん」

 勝利を切望する乙女は切っ先鋭い鋏の構え、対するは乙女は剛の石、金剛石の構えであった……

出そろった互いの手を見て桜は大きく息を吐くとともに視線を落とす。 

 ここで花を持たせる道理はない。しかし、景は桜が嫌いなわけではないのだ。大切な友達であり、はがゆい心中を共有する女の子。

 それに自分は、まだ勝と長く一緒にいることができる……

 景は決着がついた段になってゆっくりと構えを網の構えにかえた。目を丸める桜は思わず景の黒い瞳を見つめた。

「ずるしたから、私の負けね」

 あぁあ、と景は腕を頭の後ろに回した。

 折しもその時、バスが停留所に滑り込んで来たのは、景にとって好都合であった。桜の性格である景の心中を察して素直に好意を受け取ることはしないだろう。

 バスのドアを開き乗客が降りてくる、景はさっさと乗り込もうと流れに逆らう鮭のように無理矢理バスの中へ入って行った。

「景ちゃん……ありがと……」

 桜はそんな景の背中に小さくそう言うのであった。

 行きよりも若干混み合った車内だったが、座席を埋め尽くすほどではなく、景は最後尾に陣取り、その前の席に桜と勝が腰を降ろした。

 桜は、この機会を逃すまいと景をみたく能動的に勝へちょっかいを出そうと何度も意を決っしたが、結局もう一歩が踏み出せず、桜はそんな自分に落胆した。

 静かに勝の横顔を見つめる。 

 勝は一言も語ることなく頑なに窓の外を見続けている。だが、秒針が短針と重なるように時折桜の方を見たかと思えば、驚いて動く長針のようにまた窓へ首をもどすのである。

 そんな二人を見ている景の方がもどかしい。

 道程を半ばとなってもなお、桜はスカートの上でこぶしを握ったままずっと俯いて目線のみを勝へ配せるに止まっている。

 勝とてそれは同じこと。バスが大きく揺れ、二人の肩が触れ合おうものなら、磁石のごとく瞬時に退き合うのである。

 当初はそんな二人をじれったく思っていた景だったが、段々羨ましくなって来た。勝にしろ桜にせよ、無関心に見えてしっかりお互いを意識しているのである。言葉も交わさなければ、触れ合うこともない。だが、確実に二人は見えない何かで繋がっているように見えたのだ。それを見やるに、まるで初々しい恋人同士がぎこちなくもお互いを意識し合い、沈黙の想いを交わしているようではないか……

  自分の時は、勝とじゃれあいお喋りもした。羨まれるべきは大方自分である。しかし、傍目からみれば、それは友達の域を脱しえないのではないだろうか。恋人ならば公衆の面前で露骨に互いの気持ちを通わせることなどできようはずがあるまい。

 いつしか景はそんな二人を仏頂面で見つめていた。


      ○


 翌朝から勝は学校から帰って来ると一番に郵便受けを覗いた。響子さんは勝達が今一度、写真店に足を運ぶ手間を考え、現像できならすぐに勝の家へ郵送すると言ってくれたからである。もちろん、住所は一字一句間違わずに書いたし、郵便番号は曖昧であったが、きっと大丈夫だろう。

 だが、写真を撮りに行ってから数日経って写真は届かず、自転車で駆けようかと考えていた矢先、勝宛てに封書が届いた。

 差出人は折笠 響子と書かれており、散々咲恵に『勝君は女の子のお友達多いのねぇ』とからかわれ、その後もまとわりつく咲恵から何とか逃げおおして封入されているだろう写真に心躍らせながら封筒を破った。

 しかし、写真は入っていなかった。

 便箋を開くと、詫び文言にはじまり、続いて『慰安旅行の仕事で数日店を離れる』と記されてあった。

 結局のところ写真の郵送はもう数日後になるとの趣旨で締めくくられてあったのだ。

 肩を落とす勝。期待値に則して溜息とて自然と大きくなった。学校にてこの封書を桜と景に見せると、二人とも一様に勝と同じく深く溜息をついた。そのうち桜は特に残念だと言わんばかりに便箋を何度も読み返していた。

 待ち遠しきは忘れるが吉。勝は写真のことは忘れることにした、期待したところで写真が届くのは確実に数日後なのであるからして、一日千秋と郵便受けを気にしても仕方がないのである。

  

      ○


 新学期も色濃くなり、手紙の話題もそこそこに桜と勝は新緑の季節を並んで登校していた。ずる休みをした翌日から景は朝練でずっと二人とは登校を別とし、下校とて桜と勝二人だけであった。

 時折憂いを含む桜の笑みを気にして勝がふざけて見せることもしばしば、それでも勝は嬉しかったのである。儚い夢であったとしても今この瞬間を桜と共にいられるのだから。最近の夢見の悪さから言えば、起きている方が夢心地であろう。

  本日は丁度、週末なのである。明日は桜とできれば景を交えて三食、食卓を囲みたいとささやかな思惑を胸に普段通り通学路を歩くのである。 

 ただ、気がかりなこともあった。少し前までまるで蚊帳の外と相手にもしなかった、組の男子どもが桜に向けて熱を帯びた視線を送ることである。母にそれとなく聞いてみると「女の子を意識する年頃だもの……」と言ったかと思えば「桜ちゃんならしかたないわねぇ」と意味深な言葉を続けた。その真意にあえて言及しなかった勝だが、この手の平の返しようには些か腹が立った。

 浅い睡眠から覚めた昼休み。珍しく一郎と弁当を囲んだ勝はそれとなく桜について問い掛けてみたのである。「濡れ狐が今やマドンナだぜ」と白飯をかき込んだ一郎の談では、春休みの序盤、商店街に垢抜けた洋服を身に纏った淑女と令嬢の親子が突如として現れたのだと言う。そして、その令嬢が石切坂 桜であったがゆえに噂がたったのだと言った。

 一人歩きをはじめた噂はやがて、石切坂 桜は本当は身分を隠すために転入生として学校へやって来たのであり、はたしてその正体は貴族の令嬢である。とまで多くの贅肉を纏って根拠を置き去りにして悪事のごとく噂は千里を駆けたのである。

 これには勝とて開いた口が塞がらなかった……

「なんだそれ」

 勝が呆れた物言いで一郎に言及すると、

「それがさ」

 一郎は興奮気味にさらに話し始めたのである。

 商店街に突如として現れた麗人親子は、つば広の帽子の淑女たる母親と赤いカチューシャの美少女であると言った。その上で美少女が石切坂 桜だと言うのである。

 湧いて出た噂ほど適当な妄言はない。勝「なんのことやら」と小さく呟いた。

 しかし、それから少しの間を置いて思い出してしまったのである。櫻の咲く前、咲恵と桜は連れだってデパートへ行った。そして帰って来た出で立ちが一郎の言う妄言に則していたのである。

 赤いカチューシャとつば広の帽子……景と見た淑女と令嬢。はたしてそれが咲恵と桜であったなら……後に気にもとめなかったが、遠のきから見た姿は噂に相異なかった。

「ううぅ……」

 勝はそれを思い出して、唸るように低い声を出した。

 そして、教室のマドンナとなった石切坂 桜が唯一心を許し、その笑顔を独り占めする勝へたいする憎悪の念も一入であると、一郎は最後に悪戯な笑みを浮かべながら「夜は背後に気をつけな」と吐き捨てたのであった。

 単純な勝はちょっとした悦に入り、一段と上機嫌で桜の隣へ腰を降ろした。昼飯後のささやかな至福の時間である。午後の授業がはじまる束の間桜と雑談を交わすのが日課なのだ。

 しかし、今日の桜は朝から……もとい学校に到着してから元気がなかった。憂いを含んだ表情と俯きがちな視線。会話とてとぎれがちであり、思い返せば本日はまだ教室内で桜の笑顔を見ていない。

 この時とて、木製のボタンを指先で弄びながら思い詰めるように生気のなく小さく溜息をついているのだ。

「なんかあったのか?」

 勝が問い掛ける。

「……えっ」

 少しの間があり、桜が慌てて勝の方へ顔を向けた。

「また、嫌なことされたのか」

 再び桜に人災を投げつける輩がいるのか。と勝は表情を強張らせた。

「違う、違うの。ちょっと考え事……」

 大きな手振りで否定したうえで苦笑を浮かべる桜。

 腑に落ちない勝であったが「そうか」と問い掛けにやんわりと雰囲気でまで否定する桜にそれ以上追求することはしなかった。

 午後の授業がはじまっても桜は心ここにあらずと、ボタンを弄びながら視線を落としたままであり、時折小さく溜息などをついている。やはり、何か変である。医者になると語り、有言実行へ向かわんと廊下へ出されてもなお、帳面に授業内容を書き留めていた桜が、授業をそっちのけて懸案する事象があるのだ。

 勝は相変わらず真っ白な帳面を尻目に、そんな桜を首が痛くなるまで見つめ続けた。今更になって何も話してくれない乙女に勝は一抹の寂しさと苛立ちを覚え、人知れず腑を熱くするのであった。

 午後もずっとそんな調子であった桜が勝に口を開いたのは、夕礼前であった。

「今日ちょっと用事があるから、先に帰るね」

「わかった」

 掃除当番である勝は居残らねばならない。ここ数日は掃除が終わるまで桜が校門で待っていてくれたのだが、今日は先に帰るらしい。

 橘先生が教壇に立ち、本日の学業を終えようとする間際、桜は今まで波間を彷徨う海藻のように扱ってきたボタンを強く握りし締めていた。表情とて憂いの色は払拭され、意思を宿した精悍な顔つきになっていた。

 最後の号令が終わった後、

「また明日ね」

 そう言って手を振った桜は鞄を携え、小走りに教室を出て行ってしまった。思わず追いかけようかと足を踏み出した勝だったが……「今日は舞踊と縫い物のお稽古があるんだから」と箒を振るう瑞原に遮られ、抜け出すに抜け出せなくなってしまった。

 雑巾掛けをしつつ、桜の『用事』とはなんだろう。と気になってから、このままさっさと掃除をかたづけて駆ければ桜に追いつくだろうか。などと心はその算段一方向であった。


      ◇◇


 それは、桜が登校して靴箱を開けた時に幕を開けた懸案であった。白い封筒が上靴の上に置いてあったのである。

 桜は内心溜息をついた。この手の手紙をもらうことはすでに多々経験していたのだ。無論、口頭も含めるとその意を伝える男子の顔はいやと言うほど見てきたのである。

 目前に立てば切って捨てる。桜はそのような女子ではなかった。もちろん、何度かは

申し出を受けようかと思ったこともあったのも事実。

 しかし、すぐに転校してしまう身の上。極力関わりを避ける桜は隠忍自重と哀別の定めに従事することはなかった。

 ゆえに、今回のように桜の周りに仲の良い同級生がいることは前代未聞なのである。思い返してみれば嫌われようと罵られようとも組の輪に溶け込むことをしなかった自分が軽薄にも勝に声を掛けたのは、まことに摩訶不思議である。どうしてだろうと考えを巡らすもやはり、そこのところ愚問愚答にしかならず、考えるだけ無駄であった。

 景や咲恵と出会えたこと、とりわけ勝と出会えたことは桜にとってはこれ以上ない万福であった。その妙味を筆舌するは純真無垢な乙女の心をまさぐる愚劣の極みであろう。

 すでに、緑ヶ丘中学校へ転入して、数人から心中を伝えられた。それも一人を除いて大半が上級生であったのだ。桜は返事はおろか言葉を返すことなく。これを無視してきた。幸いにしてそれ以後同人からの接触はなく、乙女にその気がないのであると悟ってくれたのは紳士心があったようだ。

 だが、今回は少し状況が異なった。昼休み前の授業、勝が机に突っ伏して寝息を立てたことを確認してから封筒を開けた桜。便箋には粗末にも悪筆にて想い言葉がつれづれと綴られていた。しかし、その内容な今までもらった恋文の中でも類を見ない乱暴で強引なものであった。

 首を振る桜。背中で語る勝の爪の垢でも煎じて飲ませたいと一瞬思ってしまった。等の勝は机に上によだれで亜米利加【アメリカ】大陸などを描いている。勝は確かにがさつであり、桜が眉を顰めるところはふんだんにある。だが、その根底は揺るぎない紳士たろうとするのだ。痘痕もえくぼと言われてしまえば返す言葉な見当たらなかったが……

 とにかく、この相手の想いを受け入れることはできない。結論は容易に下せた。問題は文面の『返事は聞きに行くから』と封筒に同封されてあった忘れもしない木製のボタンである。返事は組みに聞きに来るのか公民館にまで押し寄せるつもりなのだろうか。

 いずれにせよ迷惑であることに変わりはない。

 そして、ボタンである。このボタンはならず者たちに引きちぎられたカーディガンのボタンであった……現在では咲恵によって新しいボタンに付け替えられたが、忘れもしない。

 なにを意図して、同封したのだろうか。ならず者は全て同級生であると思っていたが、どうやらその中に上級生が混じっていたのだろう。相手は三年生なのだ。

 桜は何度も小さく溜息をついた。

 もしや、ボタンを同封したのは自分を恐慌にて手込めにしよう考えているのでは……さすがにそれはなかろうと、また溜息をつく。

 桜はしょんぼりと生気なく、ボタンを指先で弄びながら一人色々な場面を想像しては溜息をついていたのであった。

「なんかあったのか?」 

 桜に勝が話しかけた。桜は自分の世界に入り浸るあまり勝の言葉が聞き取れず、

「……えっ」

 と少し間をおいてから慌てて頓狂な声を出すに止まった。

「また、嫌なことされたのか」

 桜を気遣うように勝は顔面を強張らせて問い掛ける。含蓄【がんちく】のある表情であった。

 勝の良いところである。と桜は内心で手紙の差出主に見せてやりたいと思った。以心伝心はなくとも、他人をいたわる優しい心を持っている。きっとここで手紙の事を告げれば、勝は脇目も振らず三年生の教室へ怒鳴り込むことだろう。なんと頼もしい隣人だろう。

「違う、違うの。ちょっと考え事……」

 と桜は大きな手振りで否定した。

 あえて嘘をついた。勝ならば『また一人で抱え込んで』と憤慨するやもしれない。だが、この一件に関しては勝を巻き込むのは畑違いなのだ。とは言え、事態が困窮するようなならば、桜は勝に助けを求めるつもりでいた。

 午後の授業がはじまると、桜の心強風に煽られる林のごとくざわざわと騒ぐ。無視するか対峙するか……結論を出さねばならないのである。

  相手は文面からするに暴者であるらしく、おまけに脅すかのようにもぎ取ったボタンまで送りつけてきたのだ。『従わざれば、このボタンの始末』と言わんばかりではなかろうか……急激な飛躍を見て、桜の背筋には冷たいものがぞわぞわと走った。

 大切な授業中であると言うのに、気が付けば板書も書き取らず教師の話とて雑音程度に聞こえるのみ……「(こんなことで悩んでる場合じゃないのに……)」そもそも自分がここまで悩む根源はこの忌々しい封書なのである。男子からすれば、思い切りと勇気が必要であるかもしれないが、恋人でないにせよ、胸中にときめく男の子がいる今の桜にとってすれば腹立たしいだけである。

 桜は怪訝な顔をして、再三再四の溜息をついた。

 本日勝は掃除当番である。これを好都合か皮肉と感じるのは、共に下校するか否かの是非に関わるばかりか、懸案事項への対応の差なのである。

 たとえ掃除当番であるとしても、校門の外で待っている昨今はあまり関係はあるまい。

 さて、と夕礼を前に桜は意を決して「今日ちょっと用事があるから、先に帰るね」と勝に声を掛けた。

「わかった」

 と端的に答えた勝は自分に対して憤るような寂しいような複雑な表情を浮かべていた。

 橘先生が教壇に立ち夕礼が始まる。桜は、今まで弄んでいたボタンを握り締めると、顔つきを整えて、如何とするかを心に決めたのである。正しくはすでに心づもりは授業中にできていたのだ。

 後どれくらいの滞在になるかしれない。しかし、残り少なくともどうせなら、楽しい時間を過ごしたい。であるなら、後腐れのないように後顧の憂いを残さぬように対峙せねばならないのである。

 最後の号令の後、

「また明日ね」

勝に対して別れ際いつものように、そう言って手を振った桜は鞄を抱えると小走りに教室を出たのであった。

 自分のことを心配してくれているのだろうか、別れ際、勝の顔は釈然としていなかった。桜は退室する間際「(大丈夫だよ)」っと振り返らず勝に無言の気持ちを贈ったのだった。

 そんな桜の背後では『今日は舞踊と裁縫のお稽古が……』廊下まで響く瑞原の怒号が聞こえた。


       ◇◇


 乙女心とはかくありき。いつまで経っても理解するには遠く及ばない。教科書があっても漢字の一つもまともに覚えられないのである。教本のない『乙女心』などという不透明かつ難解な心情など、たとえエニグマを用いたとて解読は不可能であろう。

 なら、俺にわかるかよ。と勝は一郎の放り投げた雑巾を箒で大振りで空振りをした。

「よしっ、三球三振!」

 マウンドの投手よろしく、「見たか消える魔球!」と高をくくる一郎。

 消える魔球が見えるものか。と地団駄を踏む勝。

「俺の剛速球を打ってみやがれ」

 集中力を欠いて空振りした箒を一郎に渡しながら、負けず嫌いと言ってのける勝。

 珍しく教室内での野球風野球は実に楽しかった。狭いながら水を含んだ雑巾は、軟式ボール並の重量があり、それを投げると水飛沫を上げながら黒板へへばりつかんと衝突し。その際にはボールをグラブで受けたような良い音がするのである。

「うへぇ」

 一郎が顔に掛かった水飛沫に表情を歪ませた。使いっぱなしでバケツの中に放り込んでおく雑巾である。もちろん、鼻がひんまがるほど臭いのだ。

 黄ばんだ雑巾の色はともかく、投球が箒に当たると似非ボールは前に飛ばず、その場でたいそう悪臭を放つ水飛沫をまき散らすのである。これが顔に掛かって表情を崩さない強者は今までに見たことがない。

 それでも、箒で似非ボールを捉えた瞬間、手に伝わる重量感がそれはそれは快感であり、たとえシャツやズボン、顔が臭気に毒されようともやめられないのである。

 折しも、掃除当番の班長であり鬼軍曹である瑞原が不在なのである。この時を謳歌せずしていつ謳歌せうものか。

 男子二人の戦力を欠いてなお、掃除は他の班員にて粛々と進められている。さすがに、役務をそっちのけて遊技に興じる二人への視線は冷たかったが……そのあたりはまさにご都合主義であろう。勝が蟻であり他がキリギリスであろうものなら、憤慨の極みを見せて小さい体でキリギリスの図体に噛み付いているところである。

 ご都合主義かくありき。

「あんたら!なに遊んでんのよ!」 

 女王蟻のお帰りである。新聞紙を貼り合わせたごみ袋を持って帰って来た瑞原はみるみる間に頭から湯気を立て、二人の元へ大股近づいて行く。

やべぇ。と呟いた一郎は何を思ったか、黒板の下に落ちた雑巾を拾い上げると瑞原に投擲したのである。

  しっかりと水を含んだ雑巾は四方手裏剣のごとく素直に広がると、四隅から水滴を散らして瑞原の顔面へ着弾したのである。

 勝はその顛末を見る前に広縁へ避難していた。願わくば一郎がこちらへ逃げて来ないでほしいと思いながら……

 開いた窓ガラスから目だけを覗かせて教室の中を窺う。

 教室内はまさに戦慄していた。頭から顔に至るまで雑巾を被った瑞原が拳を堅く握り、おまけに全身をわなわなと小刻みに振るわせているのである。

 一郎は「おっ、やるか」とプロレスラー気取りで身構えている……生粋の阿呆である。

「臭いっ!」 

 そう言って激しく雑巾を床に叩き付けた瑞原は、机の椅子を持ち上げると「ちぇすとー」と一郎へ襲いかかるのだった。「じょ場外乱闘だこのやろう」と血相を変えて教室から飛び出す一郎。「絶対許さないんだから!」と得物を箒に変えた夜叉が激しい形相で追いかける。

 毎度のことながらよくやるよ、勝は一郎の阿呆さ加減に助けられ、恣意【しい】的に何食わぬ顔で教室ないへ戻ると、さも真面目に掃除をしているかのように役務を遂行するのである。

 ご都合主義万歳。


      ◇◇


 そろそろ掃除が終わってしまうだろう。桜は渡り廊下へ続く曲がり角の壁に背をもたれさせて小さく息をついた。一言断れば、もしかしたら勝と一緒に帰れるかもしれないと、希望的観測にて勇み足でここまで来たのだが、いざ直面するとそんな薄っぺらい希望は儚くも消えてしまった。

 やはり会わずに帰ろうか。土壇場での葛藤はいつだって引き腰なのである。

 お喋りをしながら、下校の途につく上級生を目で追いながら、桜は天井を見上げて、さらなる現実逃避の種を探していた。論理的、思考的、善か悪か……大凡人間のあるべき指針となる羅針盤に従うならば、すでに対峙し、今頃は校門の外で勝を待っていることだろう。

 なんと言われようと嫌なものは嫌なのである。

そんな折、「待ちなさい!」と大きな声と馬蹄を思わせる足音を轟かせて何者かが、桜の佇む角に迫り来た。

「待つかあほ」 

 と悪戯な笑みを称える男子生徒であり、その男子生徒はこともあろうに、後ろを向きながら追跡者を罵り角を急に曲がったのである。そこには桜が立っており……

 「のわっ」と咄嗟に鞄を盾に身構えた桜とぶつかった男子生徒派手に転び、桜とて、堪えきれずに尻餅をついてしまった。

「さぁ、煮て焼いて食ってやるから覚悟しなさい」

 そう高らかと宣言しながら続いて姿を現したのは息を荒げた同じ組の瑞原であった。

 瑞原は「ひぃぃ」と情けない声出す男子生徒の襟首を掴むと、大捕り物を征した同心のように堂々と立ち振る舞う傍ら、尻餅をついたままその様子を見ていた同級生に「大丈夫?」と声を掛けた。桜は黙って頷いて答えると「お仕置きの時間よ」と下手人を引っ立てて行ってしまった。

 立ち上がってスカートを叩く桜。瑞原がまだ捕り物を演じているかぎりはまだ掃除は完了していないのである。

 桜に再び希望が浮かび上がった。本来、希望とは確証のないものであるが、どうせなら確証があるに越したことはない。

 桜は一度深く頷くと、角からようやく脱して渡り廊下へと歩み出した。

 渡り廊下には、すでに男子生徒が手すりを正面に黄昏れていた。桜の早合点ではない。渡り廊下その生徒一人しか見当たらないのである。間違えようがあるまい。

 そのまま、冷汗三斗【れいかんさんと】と歩みを進める。

 視線を固めた男子生徒はだらしなくも征服のボタンを開け広げそれが時々吹き抜ける風に靡いていた。

 桜は、男子生徒の佇む反対側へ移動しつつ、その様子を窺っていた。近づくにつれて一回り大きな背丈と大人びた体躯が見て取れる。声など掛けられようはずがなかった。

 胸が締め付けられる息苦しさを桜が感じていると、不意に生徒が振り向いたではないか。

 その顔には見覚えがある。まさに勝に連れられ、駄菓子屋に赴いた際、カーディガンをのボタンをちぎり取ったならず者の一人だったのである。衝動的に背を向ける桜、すでに足は無意識に歩き出そうとしていた……

「待ってくれよ」 

 桜の前に男子生徒が立ちふさがった。そして、「あん時は悪かった。封筒にボタンも入ってたろ」と一方的に話しはじめたのである。

 桜は鞄を強く抱き締めたまま俯いていた。

「その、来てくれたってことは……」

 照れる手を頭にやる上級生。

「いいえ、私は……お断りしに来ました」

 顔は見ることができなかったが、はっきりとした物言いであった。

  当然の沈黙の後、桜は意は伝わったと恐怖心も手伝って、その場を離れようと、上級生の脇を通りすがろうとしたが……「待てよ」と上級生の大きな手が桜の細い腕を握り止めた。

「お前、好きな奴いんのか」

 力を込めて握り締められる腕は確かに痛かった。なんて酷いことをするのだろう。文面からして眼中になかった。仮にも自分のことを想っていると告白するならば、少しは紳士となろうかと期待したが、乱暴者は所詮乱暴者でしかなかった。 

「いやっ」

 と桜は手を振り解こうと腕を激しく振った。しかし、上級生の握力から桜の力だけで逃れることは容易にあらず。状況を打開することはできなかったのである。

「誰なんだ。教えろよ」

 腕を引き寄せて、上級生は桜に迫ったのである。

 桜は口もとを堅く結ぶと無言で、上級生を睨み付けた。

「頼む、誰なんだよ」

 さらに強く握り締められる腕。桜は痛みに耐えながら、引き寄せられないように踏ん張った。

「放して」

 そう言って腕を振り上げるようにして抵抗を試みる桜。幾分力は弱まったが依然として握られたままである。

 相手は初対面と言っても過言ではない女子の腕を掴んで放さない人間である。ここで劇的な台詞を言って、怒らせればはたして殴られるだろうかと桜は躊躇した。交際する気など微塵もない。はっきりとその胸の内を叫びたかった……

「筒串か……あいつなんだろ?あいつのどこが良いんだ……頭だって悪いし、中学二年にもなってまだ坊主頭なんだぞ」

 今度は諭すように口調を和らげてそう話す。

 「(だからなによ)」と桜はさらに眼光を強くして上級生を睨み据える。成績や外見の善し悪しなど、毛ほども気になるものか。人の心を動かせることが出来るのは唯一人の心だけなのである。勝はすぐに照れて気の利いた言葉も言えなければ、桜しかり景しかり、乙女心に気が付かない鈍漢である。しかし、その代わり勝は多くを背中で語る。行動で示し自己犠牲とて厭わない、そんな正義漢なのである。

 白眼青眼。何も知りもしないで、勝を悪く言うのには心の底から腹がたった。

「それにあいつん家の父親、別の家に住んでんだぜ。母親だってにデパート行ったり、商店街で贅沢なもん買い込んでるって噂だしよ。悪いことは言わないから俺にしとけって」

  それがどうしのだと桜はついに目を閉じ、怒りで両肩を怒りで振るわせた。勝の父親は不在ではあるが、ちゃんと仕送りをし、恋文の文言まで記した『愛の手紙まで』贈る人物なのだ。不埒者なわけがない。そもそも、咲恵が絶大な信頼をおいてしかたがない男性を乱暴者がなにを戯れ言を吐き捨てるのか。

 そして、桜は憤慨を頭の先から足の先まで煮えたぎらせる。

 桜が女性として、大人として人生の目標として敬う咲恵をさも軽薄な女性と罵られたからである。デパートには自分を連れて行って、存分に良い思い出をくれた。商店街の買い物とて、自分や景のために奮発してご馳走を作ってくれたのだ。それだけではない、夜なべをしてカーディガンを編んでくれたり、自身の心の傷を押して一座に乗り込んでくれた。

 

 なにより、桜に母親の愛情を教えてくれた。


 そんな大恩人を罵られて黙っているほど桜とて意気地のない女ではない。全身を溶岩のごとく煮えたぎらせて桜は悔し涙を浮かべて顔を背けると、残った片腕に渾身の力を込めたのである。

「せめて、今日一日だけでも一緒に帰ってくれよ」

 業を煮やした上級生は桜の内心をかえりみず、もう片方の手を桜の肩に触れさせて顔を近づけた。

 その刹那。桜の鞄が上級生のこめかみに食い込んだのである。

 突然の出来事に、体勢を崩す男子生徒。桜は呼吸を荒くして、「あなたは最低!筒串君はあなたよりずっと紳士で格好良いし、筒串君のお母さんもお父さんも、私は尊敬してます!」と腹から大きな声を出して言ったのである。

 無言で桜を見る上級生。

「私は断りに来たんです。嫌なんです」

 それに対しはっきりと言ってやった……しかし「優しくしてやってれば」と唸るように言った、男子生徒は本性を現した狼のごとく桜に掴みかかったのである。

 もはや異性など無用。ただの喧嘩を仕掛けるに相異なし。手加減無用の乱暴者に対し桜はなす術がなかった……

  

     ◇◇


 無念。と呟きながら一郎は鬼軍曹に捕縛されて勝と相見えた。「勝。後は頼んだ……」劇中で死に行く兵士のごとく、床に膝をついた一郎。「掃除しなさい!」と即、瑞原に頭をひっぱたかれた。

  掃除は大方終わっていた。ご都合主義にも勝は静謐な面持ちで掃除に勤しんだ。真面目にやれば教室内の掃除などと、容易く終わるのである。

 しかし、「あんたら二人は、サボったばつ罰として、ごみ捨てに行って来て」鬼軍曹直々の勅命であった。「「ええぇ」」と声を揃える勝と一郎。「うるさい」と瑞原の傍ら座していた一郎はもう一発、叩かれた。

「女番長め」と忌まわしくもゴミ袋の片方を持つ一郎。

「幸太も同じ組なら負けないのにな」

 勝は大変化球によるとばっちりであると項垂れた。現実には勝とて一郎と同罪なのであるが……雑巾を投げていないのだ。情状酌量を求めたい。

「まさか幸太が違う組みになるとは……」 

 同じく頭垂れる一郎。

 その隣で勝は今頃、桜はどの辺りを歩いているだろう。と走韋駄天走りしてなお、手遅れであると絶望してさらに肩を落としたのであった。

「そうだ、掃除終わったら空き地で野球やろうぜ」

「幸太に言ってあるのか」 

「逃げ回ってる時に丁度居たから、言っといた」

 抜かりはない。と悪戯に笑って見せる一郎。

 よし。と気合いを入れた勝は、

「今日は俺がピッチャーなっ」 

 と続け、袋を持つ手を変えて利き腕を振り回して見せた。

「勝のへなちょこ球なんざ、海まで打ち返してやらぁ」

「へへっ、吠え面かくなよ」 

 絶望なれどなんのその、野球談議になれば少年の心は羽ばたく海鳥のごとく軽々と復活するのである。息を吹き返したように喜色満面とこの後に待ち受ける悦楽の空き地を想像してにやける勝と一郎。

 丁度 、そんな二人は渡り廊下を潜り通る段となった。

 部活動に急ぐ影や下校する同級生の姿を羨望しつつ、徐に視線を渡り廊下へ移してみれば、何やら言い争うように対峙する男女の姿が見当たった。上級生の青春だろうかとさらに見れば、男子生徒は女子生徒の腕を掴んでいるのである。

 なんと不逞な愚かものであろうか、女子を己が力を見せつけるなどと同じ男子として唾棄すべきであると、勝は極小の正義感を滾らせた。そう思ったものの、上級生同士なのである。いかに不逞の輩と言えども勝が駆け寄る筋合いもない。

 年頃を迎えようとする男子である勝は些か、女子の方が気になった。腕を掴むほどに手放したくない至宝なれば、相当に容姿端麗なのだろうと、下心に突き動かされたのである。

  女子生徒は男子生徒よるも頭一つ背が低いため、手すりに顔が重なりよく見えない。

少し見えた横顔は鼻筋の通っおり、肩を超えて伸びた黒髪は艶めかしくも繊細であった。

 既視感を抱いた勝。

 どこかで見かけた横顔である。一郎の話しを終始無視して必死に思い出そうとあがく勝は、気になって、渡り廊下を抜けたところでごみ袋を手放すと、一郎の抗議もやはり聞く耳を持たず、今一度戻ってみたのである。

 口を開け、間抜け面にて視線の先に集中する。女子が顔を背けた瞬間見えたのである。柳眉に大きな瞳、小さな鼻翼とおちょぼ口が……決定的であったのは手すりよりも高い位置で握られた腕の先には水色の袖口と細い指先。

「勝っ、さっさと終わらせて帰ろうぜ」

 なにしてんだ、と言う一郎。

「悪い。ごみ捨て頼んだっ」

 勝は目つきを鋭利にすると、一郎の同意をほったらかして、校舎の中へ猛進して行ってしまった。

「勝っ!ずるいぞ」

 虚を衝かれて呆然と立ち尽くす一郎は勝の消えた昇降口の前で地団駄を踏んだのだった。


     ◇


 勝は階段を一段飛ばして猪がごとくただひたすらに猛進した。やはり桜に危害を加える不届き者がいた。でなければ桜が憂鬱と表情を曇らせるわけがないのだ。

 階段を駆け上がり正面に渡り廊下を見据える。閑散とした廊下の中に上級生の大きな背中が見えた。その背中から見え隠れする水色の制服。

 勝は上級生だろうと構うもんかと「なにしてんだっ!」と叫き散らし、全力疾走でもって不法者の背中へ突撃する。

 『うおぉぉぉ』と雄叫びながら全力で疾走してくる勝に振り返った上級生。

 しかし、時すでに遅し……「桜から離れろ!このぼけぇ」と勝は勢いそのままにひと回り大きい体躯の男子生徒に頭から飛び込んだのである。

 廊下に倒れ込む上級生。見事に勝の捨て身の攻撃はならず者の下腹に食い込んだのである。

「逃げるぞ」

 派手に床に倒れ込んだ勝は激しく打った胸の痛みも忘れ、唖然とした面持ちで尻餅をついて固まっていた桜の手を取ると今度は脱兎のごとく駆け出した。不意打ちだから成功したのである。面と向かって対峙しようものならば、蜜柑畑の二の舞を演じることになりかねない。勝機の光明が見えない以上は苦汁を舐めようとも、笑われ蔑まされようとも、男気など瞬時に捨て置いて桜の身を第一とせねばなるまい。

 退くもまた勇気なのである。

 勝は走った。校門を過ぎてなお足を止めず、胸がはち切れんばかりとなるまで走りつづけたのである。

 息をついたのは丁度、国道の入り口であった。ここまでくれば大丈夫だろうと後ろを振り返る勝。遠くは無人の坂道、近くには膝に手をやって呼吸を落ち着ける桜の姿があった。声をかけてやりたかったが、まずは呼吸を落ち着けなければはじまらない。それは桜とて同様である。

 しばし無言でいた二人であったが、桜が最後にと深呼吸をしてから、「勝ちゃん鞄どうするの?」と勝に問い掛ける。

「あぁ、別にいい。どうせ机の中に全部入ってるし、鞄には弁当箱くらいだしな」

 弁当箱どうしよう。と思い出して母にどう言いわけしようかと勝は頭を掻いた。

 言葉数も少なく、歩き始めた勝。何も言わずとも桜はその後ろに続いて歩き始める。

新緑をへて深緑となりつつある櫻並木はそろそろ、毛虫の季節であろう。夏を迎える頃にはそれはうじゃうじゃとわき出しては枝からぶら下がってブランコを楽しんでいるのである。その光景には思わず櫻の木を切り倒してやりたくなる衝動にかられるのだ。

「足でもくじいたのか」

 勝は歩みの遅い桜を気遣って振り向いた勝。桜の足下を見やると、見慣れた靴の甲の部分には『石切坂』と黒文字で書かれてあったのである……「(しまった……)」と勝は再び頭を掻いた。

「靴……、考えなかった。わるい」

 そうなのである。桜を連れて逃げ出したまではよかったが、勝とて必死であったがゆえに、靴箱を通らず上靴のままここまで走って来てしまったのだ。それを言えば勝の足下にも上靴が見当たるではないか。

「ちょっと恥ずかしいだけだよ」 

 桜は申し訳なさそうに言う勝に、微笑んでそう答えた。

 極力汚さないようにと足場を選んで歩いていた、だから、歩みが遅くなった。それく比べ気にせず……もとい気が付かず縦横無尽と闊歩した勝の上靴は下靴並に汚れていたのである。

「また嫌なことされたのか」

 勝が桜に歩調を合わせ、並んだ二人。勝は今度は上級生であったな。と思い出してそうに切り出した。

 ちょっと違うかも、と桜が言う。

「私のこと好きだって告白……靴箱に手紙が入ってて……」

 頬をすぼめて言う桜。

 げっ、と勝は眉間に皺を寄せて言った。

「てっきり桜がいじめられてると思った……やばい……」

 そう言って頭を抱える勝。早合点において、上級生に体当たりをしたばかりか男子にとっての一世一代の勝負を全力で邪魔してしまったのだ。

 さぞかし恨まれていることだろう……それだけで冷や汗である。

 でも、と言った桜。

「勝ちゃんの悪口も言ってたから」

 付け加えるならば、敬愛する咲恵も含めてである。

「なら丁度いいやっ」

 勝は体当たりの大義名分を得たとふんぞり返って、冷や汗を拭い去ったのである。

「今晩も晩飯食ってくだろ?」

 上機嫌と勝は桜に気さくに話しかけた。しかし、桜は瞼を半分閉じて得心がいかないといった表情で地面を見つめていたのである。

 乙女心に他の男子から告白された事実を話してなお、何の反応も示さない勝はやはり鈍感である。少しは狼狽してほしかったのだ。

 無論、夕食はおよばれするつもりでいた。だが、

「どうしようかな」

 そう言ってそっぽを向いた桜であった。


      ○


 夕餉は桜と二人で食べることとなった。咲恵が婦人会の集まりで出掛けてしまったからである。遅くはならない旨を伝えて行ったのだが、冷たくならないうちに食事を済ませるようにと二人は言付かった。

 本日の献立は肉じゃがに筍とわかめを煮込んだ若竹煮。主菜はカレイの甘辛煮であった。しっかり味の染みこんだほくほくのジャガイモ。こりこりと食感の嬉しい筍。カレイは少々濃い味付けにされてあったが、ご飯を頬張れば丁度良い味加減になった。

 今宵の夕餉も美味食彩であった。

 そしてお待ちかねの食後のデザートは、赤い宝石、苺である。冷蔵庫に取り分けられた苺が入っており、『食後に食べるんですよ』とこれも咲恵から言付かったのだ。

「もう少ししてから食べようよ」

夕食を胃袋へ押し込むとすぐに冷蔵庫へ向かった勝に桜が苦言を呈した。桜は食器を重ねて、台所へ持って行く準備をしている。

「桜は後で食べればいいだろ」

 と軽く言ってのける勝は、さっさと自分の分を取り出すと、砂糖を山盛りかけてちゃぶ台へと戻って来た。

「ちょっと待ってよ、私も食べる」

 よもやかき氷のような勝の小皿を見て桜は勝の食器も抱えて台所へ小走りに行くと、苺の入った小皿を持って居間へとってかえし勝の隣へ腰を降ろした。

 野球中継を見ながら爪楊枝で刺した苺を頬張る勝。

「お砂糖わけて」

「自分で入れてこいよ」

「勝ちゃん使い過ぎだもん」

 桜は「ちょうだい」と苺が見えなくなるほど小皿一杯に覆い被せた砂糖をひとつまみ取って、自分の苺の上に振りかけた。「んだよ」と文句を言ってみた勝だったが、言われて見れば些か砂糖をかけ過ぎた。残り少ない苺からして、咲恵に拳骨をもらうかもしれない。

「もう少しやるよ」

 勝は自ら粉雪をつまむと桜の小皿の上に散らした。「ありがと」と言う桜は頬を膨らませて微笑んだ。リスのように頬を膨らませテレビを見る桜。そんな横顔を見ていると勝は心地よい気持ちになれた。すでに刺す獲物を失った爪楊枝に砂糖をつけて舐めながら、勝はブラウン管に目もくれず苺に夢中になる乙女ばかりを眺めていたのだった。

 すると沸々とある感情がわき起こるのである。

 なぁ、と勝。

「なに」

 両頬を膨らました桜が顔を向けた。

「そんで、恋人になったのか」

「なるわけないでしょ!」 

 なぜか怒られた。

 怒ることないだろ。と勝はふて腐れた物言いで返すと、桜は急いで口の中にある甘酸っぱい果実を噛んで飲み込むと、「私には、好きな人がいるもの」と頬を染めて勝に目配せをしたのである。

「本当かよ?!」 

 勝は桜の表情をみるに、もしや、桜が意中にときめく男子とは己のことではなかろうか。と桃色の妄想をかきたて、それはもう舞い上がった。

「へえぇ」

 舞い上がった勝の心中は飲めや歌えの大宴会である。舞台上にはライスカレーやら唐揚げやら天ぷらに刺身などの贅沢品が所狭しと並び。天井からは止め処なくサイダーが雨のごとくふりしきるのである。まさに酒池肉林の様相。

 しかし、表面上では興味がないと平静を装ったのである。もしも、はしゃぎ回ったあげく、自分ではなかった場合はどう繕えばよい。何も言うまもなく恥ずかしいやら悲しいやらで、当分は便所に籠もらざるえないだろう。

「誰か聞かないの?」

 意地悪く桜が言う。

「別に誰を好きになろうと桜の勝手だろ」

 そうだけど、と桜はアヒル口をつくった。

「勝ちゃんかもしれないよ」

顔を紅潮させる勝を覗き込むようにして言う桜。

「わかったよ。誰なんだよ」

 もはや自棄である。小判が出ても蛇が出ても便所へ籠もる所存である。

えっと、と嬉しそうに桜が話し始めた。

「その人はね。誠実で背が高くて、力持ちで優しくて、とても物知りなの」

 嘘でも良いから『勝ちゃん』と言ってほしかった。桜が口にした全ては勝には遠く当て嵌【は】まらないだろう。誠実に至ってはその意味すら理解できなかった。  

「それ三年か」

「そんなわけないよ。三年生の人と話したの今日がはじめてだもん」

「じゃあ、同級生?」

「同級生は勝ちゃんと景ちゃんとしか喋らないでしょ」

 目を丸くして惚けてみせる桜。これはこれで可愛いのだがそれにしも随分と勿体ぶる。はたして、桜は困る自分を見て楽しんでいるのではなかろうか。

「怒るぞ」

 半目に面白くないと勝は訴えた。本当に面白くなかったのだからして仕方あるまい。

うーん。と桜はもう少し言葉遊びに興じていたい様子であった。だが、遊ばれる方はたまったものではない。

「お父さんっ」

 会心の笑みで言う桜。

「お父さん……」 

 目元を痙攣させ復唱した勝は肩を深く落とし、深い溜息をついた。もちろんこれは安堵の溜息である。勝とて母親がいかに妖艶であったとて『恋人』の対照になるはずがない。同様に桜も父親に本気で恋心を抱いているわけではなかろう。親子愛なのである。

 完全にからかわれた。してやったりと、隣では桜が嬉しそうに燦然と輝く笑顔を浮かべているではないか。

 勝は、恋する乙女の笑顔になんとか仕返ししてやれないものかと悪知恵をひねった。

乙女の頬をつねってやるくらいなら許されるかもしれない。だからと言って女子の顔に安易に触れてよいものだろうか。それならば、いっそ茶などに塩をふんだんに入れてやった方が後腐れもないだろう。

 悪知恵に少々の理性と優しさを混ぜた結果。勝は即効かつ効果絶大な嫌がらせを思いついた。やはり、勉学よりもこちらの方が向いているらしい。

 再びテレビへ視線を向けた桜。勝は舐っていた爪楊枝をそっと手に持つと、それを電光石火と隣の小皿へ伸ばした。至近距離で手元が狂うはずがない。はたして桜の目前に置かれた小皿から赤い果実が勝の魔の手に落ちたのである。

「それ私のっ」

 気が付いた桜が咄嗟に手を伸ばすも、勝はにたにたといやらしい笑みを浮かべて桜から距離を取っていた。

「勝ちゃん自分の分食べたじゃない。私の苺返してよ」

 攻守逆転と憤りを見せる桜としてやったりと微笑む勝。

 やがて、順当に二人追いかけっこが幕を開け、苺を掲げて家中を駆け回る勝を桜が「返して!」と時折声を出しながら追いかけるのである。

 言葉遊びよりも追いかけっこの方が愉快であると思うのは、勝がお子様だからである。

 頭さえ使わなければ勝の方に分がある。桜が追いつこうものなら、軽快な足どりでこれをかわし、必死に追いかける桜を翻弄するのであった。それでもなお挫けずに追いかけてくるのは桜が負けず嫌いだからで、幼い頃、景に同じことをすればすぐに泣き出して、遊戯として成立しなかった。

 額に汗してもなお続けられる演劇。息を荒くし板間で対峙する二人。そろそろ返す頃合いだろうと何度も思ったのだが、無為自然と桜の手をかわしてしまうからにはその頃合いを見つけるのは難しい。

「あらあら、楽しそうになにしてるの?」 

 絶妙な間を持って咲恵が帰って来た。手にはいつものお土産もあるではないか。

「今日のお土産はどら焼きですよぉ」 

 と風呂敷を見せる咲恵。

 勝は油断した桜を見て、再び離れへ駆けだした……が……

「おばさま、勝ちゃんが私の苺を取って、返してくれないんです」

 桜はこれ以上、遊戯に興じるよりも苺が食べたかったようであった。

「勝君っ」 

 咲恵と桜に追いかけられる羽目になった勝はそれでも牛若丸のごとき身軽さを武器に善戦したのである。しかし、盛者必衰。刀折れ矢尽きる時は必ずやってくる。散々逃げ回った末、離れへ追い込まれた勝は、「降参」とあえなく御用となった。

 苺を取り戻した桜は「勝ちゃんなんか嫌い」と捨て台詞を残して居間へ戻り「なんでそんな意地悪するの」と咲恵から拳骨をもらった。

 我ながら仕様ないことをしたと反省しつつ、無駄にかいた汗を袖で拭いながら居間へ戻ったのだったが、

「こんなにお砂糖の無駄使いして!」

 こんもりと砂糖しか残っていない小皿をゆび指して母が頭から角を生やしたのである。

 もちろん、まだ余韻の残る頭に再度拳骨を振り下ろされたことは言うまでもなく。どら焼きとて「罰としてどら焼きはあげません」と食べ損ねてしまった。まさに踏んだり蹴ったりである。

 勝は心の底から後悔し、そして悟ったのである。仕様のないことはしない方が身のためであると…………


      ○


 乙女の目前にて踏んだり蹴ったりの天誅を受けた勝は、いつも通り桜を公民館まで送る役務を拝命しその遂行に全力をそそぐ所存であった。

「どら焼き食べられなかったね」

 母の鉄拳を続けざまに受けてなお、菓子とてお預けだったのである。これ以上残酷な罰があるだろうか。桜は、項垂れる勝の隣を歩きながら、咲恵がお土産に持たせてくれたどら焼きの包みを大事そうに抱えて勝に同情していた。

 勝にとってすれば桜に許してもらえたのは不幸中の幸いであり、二度も殴られたかいがあったと言うものであろう。

「別に、どら焼きくらい」

 強がる勝。

 そうなんだ、と桜が言い、

「お土産に頂いたどら焼きあげようと思ったのに」

 意地悪く続けたのである。

 いじましやいじましや。勝の顔を見ながら得意になるかぎりは確信犯であろう。

「性格悪いぞ」

 ふて腐れて言ってやった。

 すると、桜は一人走り出すと公園の箱型ブランコに乗って「うそっ」と無邪気な声で言ったのである。勝も桜に続いてブランコに乗り込むと桜の正面に腰を降ろした。

 「はいこれ」と包みを開けた桜は勝にどら焼きを二つ差し出した。桜自身は一個を取り出してそうそうに一口囓っている。

「俺も一つでいいよ」

「一人二つだよ。私先に一個食べたもの」 

 公明正大な桜のことである、決して疑うわけでも卑しい気持ちを湧き立たせたわけでもない。

 静寂をお膳立てする凪いだ海は満月が雲に隠れるや、ぽっかりと口を開けた奈落のへの入り口ようである。

 甘美なる菓子に舌鼓を打つ勝。そんな勝を向かいに座った桜は静かに見つめていた。もしも、薄暗くなければ勝とて頬を赤らめたことだろう。それは桜とて同じこと。

 微風に髪が靡き、その髪を掻き上げる仕草は桜の為にこそあるのだと勝は指を舐めながら思った。それこそ阿呆のごとく楽天家のように。

「俺さ、最近同じ夢ばっかりみるんだ」

 なにを血迷ったことを!と内心の男気が狼狽するも、場の雰囲気に飲まれたのか、勝は述懐したいと思ったのである。桜にだけは……

「夢?」

 一口囓ったまま、手の中にあるどら焼きを膝の上にある風呂敷の上に置くと桜は真剣な眼差しで勝を見た。

「誰にも言うなよ」

「うん、絶対誰にも言わない」頷く桜。

 夢騒がしを桜に話すなど気でも違ったか?と勝の中では些か細波が立ったが、今は話したい気分であると、防波堤を押し込んでやった。

「桜と一緒に飯くって、寝る前に桜と話しして……それがすげぇ楽しくてさ。まだ桜が家にいるんだって思うんだけど、起きてみると桜は居なくて……気が付いたら涙が出ててさ……」

 男子たるが涙を夢見悪さにごときに流すなどと、とはたから見ていれば勝はそう罵っていたやもしれないが、これはあくまでも事実でなのである。見栄を張ったところ空しいだけであろう。 

 はたして、桜はいかなる表情でこの述懐を受け止めるだろうかと、桜のつぶらな瞳を凝視していると……「そっかぁ」と 漏らしながら莞爾として笑ったのである。

 やはり、桜とて男子たるが夢ごときに涙するは微笑みの境地であったのか。述懐を後悔こそすれいかんともし難い現状は、遅ればせながらもやはり辺幅を飾ったほうがよいだろうか。

「笑うなよな」 

 とりあえずは仏頂面である。恥ずかしいことこの上ない。

「笑ったんじゃないよ」

 桜はそう言うと、意を決するように立ち上がると、大股で勝の隣へ歩みより、そのまま勝の隣の席へ腰を落ち着かせた。ブランコが揺れる中「このどら焼きあげる」一口虫喰ったどら焼きを勝に差し出した桜。

「なんでだ」

 単純にうろたえた勝はどら焼きを受け取りながらずっと近くになった桜の顔を見て生唾を大層飲み込んだ。

「同じ夢だなって思って」

「え……」 

 口もとへどら焼きを運んだ状態でかたまる勝。

「私もね、毎日同じ夢を見るの。おばさまの手伝いをして勝ちゃんと一緒にご飯食べて。お布団に入ってからお話してたら、おばさまが来て勝ちゃんをこそばすの……あーなんて楽しいんだろう、温かいんだろうって、まだ春休みは終わってないんだなぁ。って思って安心すると決まって目が覚めて……周りを見ても勝ちゃんもおばさまもいなくて……涙が溢れてくるの……」

 桜、と勝は憂いを含んだ少女の表情に一時食欲を失ってしまった。

「今朝なんて、お父さんに見られちゃって〝学校でなにかあったのか?〟って聞かれちゃって」

 困った。と桜は口もとだけを微笑ませたのだった。

 どら焼きを携えたまま、公民館の入り口までやって来た勝と桜。「食べないの?」と道中、桜に尋ねられると「帰りに食べる」と勝はドラら焼きをポケットに押し込んだ。

 二人は一歩一歩を惜しむように歩幅を狭めて歩きながら楽しかった思い出のみを回想して笑顔を交わし合った。おそらく、こんな時間が悠久に続けばと肝胆の深淵では無意識に願っていたことだろう。

「明日も明後日も、うちで飯食って風呂に入ってけよな」

 別れ際、照れながらそう言った勝。

「ありがとう」

 桜はそう短く言うと、髪の毛を靡かせて公民館へ駆けて行った。

 遠のく少女の背中。勝はやはりいたたまれなくなり、深い溜息をついたのであった。

足どりの重い帰り道。そう言えば以前にもこんな心情に浸ったことがあったなと、人っ子一人いない川沿いの道を歩いた。

 桜が帰った日の夜。折しも今日もあの夜と同じ満月であった。波間に膝を折って、いっそこの海に飛び込んでしまった方が幾らか心持ちがましになるだろうと、今から考えれば愚考に先走ったあの夜である。

 きっと、この寂しさは当時と同然であろう。しかし、自分自身が制御できなかった過去とは明らかに心中は穏やかであった。『もし、勝君が桜ちゃんに会いたいと思うのなら、そうやってふさぎ込んでるのは間違い。会いに行けばいいの……』母の言葉である。

 そうなのだ。この際、余計な気概に干渉されることなく、桜に会いたければ会いに行けばいいのである。駆ければものの五分とかからないのだから。

 胸中を前向きに弾ませ、勝は公園の前を通り過ぎた。桜と一緒に腰掛けたブランコがまだ揺れているように感じて、思わず振り返みた。だが、ブランコは静止しており、微動だにしていない、勝の願望がそう見せたのだろうか。

 勝はポケットの中のどら焼きを取り出した。焼き菓子は見るも無惨、所々あんこが飛び出してしまっている。どら焼きはポケットに押し込むべきではない。またしても後悔先に立たずである。

 しかし、可愛らしく囓られた跡は無事であり、勝はそれだけで救われた気持ちになった。桜からもらったどら焼き。すぐに食べてしまってよかった、さすれば無惨な姿に変貌させることもなかったはずなのだ。食べられなかったのは、桜が触れてまして口をつけた物に微かな愛着を感じたからである。 

 思えば、桜との思い出を証明する物は数少ない。写真とて今だ届かず、思い当たると言えば…………他に何もない。ゆえに、どら焼きなどと菓子にさえ思慕の念を抱いたのかもしれない。

 手の中に収まった菓子を見ながら感傷に浸っていた勝は、首を激しく振ると「いただきます」と一口で頬張ってしまった。

 どういう心境の変化かと言うと。勝の思考回路からして単純明快、どら焼きは食べ物なのである。たとえ桜との思いでの品として大切に保管しておいたとして、どれほどの間その体を保っていられるだろうか。まず腐り食えなくなる。そして、その行く末はカビどもの温床と化した得体の知れない物である。そうなってもなお、乙女との純情たる思い出と大切に懐で温める度胸は勝にはない。どうせ汚物となり果てるのならば、この一時だけでも甘美な菓子に舌鼓を打った方が賢明であろうと、瞬時に熟慮したのである

 論点からすれ、一見して論理が通っているように思えるが、食い気に負けたと言われてしまえばそれまでである。

 

      ○


 次の日の朝、勝が目を擦りながら居間へやってくると、ちゃぶ台の前に桜の姿があった。「勝ちゃん、おはよ」と言う桜に「おはよう」と小声で挨拶をしながら、さらに目を擦る勝。まだ夢中であるのだろうかと現夢が混同した。

 しかし、それは夢ではなかったのである。桜は朝一番からやって来た。そして、勝の傍らで咲恵の傍らで朝食を食べ、後かたづけやら掃除やら裁縫やらをして昼間で過ごし、昼食をまた同じくして食べるのだ。

 春休みの再来かと思わず頬をつねった勝はほがらかな内心に抱いて、飯を茶碗三杯も平らげた。

 昼からは、桜の提案でグラブを片手に神社の境内でキャッチボールをすることとなっった。準備運動となごやかに談話などしながら軽くボールを交わす。しばらくして、距離を取った勝は「上投げでいくよっ」と言った桜の速球をしっかりとグラブに収めた。思えばはじめてこのボールを見せられた時、捕球はおろか反応すらできず、後方へ転がり行くボールを追いかけたものである。桜とのキャッチボールや景との練習においてそれだけ勝とて上達したのだろう。

「いくぞ」

 勝は全力でボールを投げ降ろす。まるで、桜に上達のほどを披露するかのように。桜が速球なれば、勝は剛速球である。桜はグラブにボールを捕球してから、グラブをはずして、右手に息を吹きかけていた。

「勝ちゃん、うまくなったね」

まぁな、と得意に言う勝。

「桜のおかげだ」

 これもひとえに桜のおかげなのである。『道具は無くとも努力でそれを越えられる』父の言葉を信じて、グラブの有無を無視していた勝であったが、一度グラブを使用したならば、やはり道具は必要であると痛感するのであった。手の平をグラブにするには無理がある。

 感謝を胸に潜ませたまま、汗を流した勝は夕方を前に家に帰ろうと促した。久々に夕餉の前に風呂に入りたいと思ったからである。

 もちろん一番風呂は桜に譲り、勝自身は火の番に徹した。ドアが開き風呂場が一頻り騒がしくなった後、「ちょうど良いお湯」と甲斐甲斐しい声が聞こえる。慣れたものである。

 たとえ桜が湯浴みをしていようとも、もはや桃色の世界への案内人である行者も出てこなければ、勝とて欲情を煮えたぎらせることもない。男子たるが意中の女子の一糸まとわぬ姿に憧れときめかぬは、世の理にたがうであろう。しかし、勝にはすでにその必要はないのである。決して目には見えないながらも、強い何かで結ばれている。そのような安堵感が胸にあったからである。これが図太い赤い糸であれば万事良し!と万歳三唱したい。だが、それではない、友愛の極みにて親友と称すには物足りない。

 おそらく人は、それを『絆』と呼ぶのであろう。

 正直に言って勝には桜が恋人であってほしいのか、親友であってほしいのか明瞭に答えられる心中ではなかったのである。そもそも、恋心とはいかようなものであろうか、はたして乙女心よりも簡単なものなのだろうか。乙女心よりも難解であるならば、勝には杳としてその解答を導き出すことなど不可能である。中学二年生となって、周りの男子どもが桜へ熱い視線を向ける最中、勝とてそのように一時は考えてみたのだ。

 だが、考えることが得意ではない勝は、縺れる糸はぷっつりと切り落として恣意的にも『ただ桜と一緒に居られさえすれば、それで良い』と自身を得心させたのである。

 そもそも、『恋』などと言う不明瞭なものを熟慮するに至ったのは誰であろう母のせいである。『勝君。桜ちゃんに恋しちゃったかな』などと、真綿で首を締めるようなことを言うからして、後々に煩悶とせねばならない羽目になったのだ。

 勝の思惑どおり、湯浴みの後に夕食となった。さっぱりした身体で食べた方が、食後の憂いに気を回す必要性が皆無であって料理が旨い。無論、桜が隣に居ることもの要因であることは言うまでもない。

 週末の目論見は見事に大成をみた。三食桜と共にしたし、一日中桜と共に過ごすことが叶ったのである。たまにはこのような吉日とてなくては面白みに欠けると言うもの。

 さてこのような吉日が明日をも来るだろうと勝は乙女の笑顔を見ながら限りなく切望した。

「そろそろグローブ持って帰るね」

 帰り際に気が付いたようにそう言った桜。「ああ、長いことありがとな」と勝は下駄箱の上に置かれたグラブを携え、特に何を思うでもなく桜を送って行ったのである。


      ○


 休日の二日目さすがに朝から桜が家にやって来ることはなかった。良日はやすやすと連日続くものではないのだ。それでも勝は昼食の後、心身相関と足どりも軽く富士ストアで土産にサイダーを買って公民館へと向かった。『会いたいと思うのなら……会いに行けばいいの』母の言葉に従ったのである。

 二人きりならばキャッチボールくらいしか思い浮かばないが、それで十分だ、と高をくくって勝は蜜柑畑を横目に歩く。

 「あれ」公民館入前の広場の入り口で勝は思わず声を出してしまった。今まで堂々とした図体で広場を占拠していた舞台の姿形が消え失せているのである。見回せば、トラックの荷台には夥しい角材が山と積まれているではないか。

 勝は物怖じして手に持っていた瓶をその場に落として、一目散に家へ逃げ帰ったのである。

 そんなはずはない、桜は一言もそのようなことを言わなかったのだ。昨日、一日中一緒にいて何も言わなかったのである。有無を言わせず逃避したい心情が全てを否定する材料のみを残し、苦酸っぱい現実をすべてそぎ落とそうとする。

 せめて桜に会ってから帰ってくるべきであったと、後悔に似た反省をした勝は、仏間の襖を閉め切って暗闇の中で胎児のように丸くなって意識を遠のかせたのだった。

 襖の継ぎ目から漏れる光が茜色を示す頃、勝は残念ながら目覚めてしまった。夢中に逃避したところでいつか覚めてしまえば元の木阿弥。やはり対峙せねばならぬは苦酸っぱい現実なのだ。

 勝はあぐらをかいて、背を丸め小さく溜息をついた。

 この時を想像して想定して我を失い母に助けられ、それでもひいてはかえす波のように何度心中を弱めたことだろうか。来るべくしてきた結末に、現実に恐れおののき逃げ帰った末に弩級の衝撃に衰弱した心を一時でも癒すべく浅くも眠りに逃避した。

 つくずく進歩がない自分に落胆せざる得ない。しかし、切迫する状況下において、それを嘆く余裕すらないのである。

「ごめんくださーい」  

 勝が立ち上がったと同時に、土間からそんな元気な声が聞こえて来た。「景ちゃん、いらっしゃい」咲恵が暖簾から首を出して景を迎えたようである。

「どうしたの勝ちゃん。暗い顔して」 

 景が板間に上がった頃、勝はようやく仏間から出たのである。「寝起きだからな」と気取られまいとした勝。

「寝てたんだ」

 と景は疑う素振りも見せなかった。

 すでに夕食の準備に取り掛かっている咲恵。その背中に向かって幼なじみが駆けて行くと、母は嬉しそうに景の頭を撫でていた。

 そのうち、咲恵の手伝いをはじめた景はすでに居間に置かれたちゃぶ台の上に皿を並べては忙しなく台所へ向かう。それを黙々と見守る勝は用意された皿が一人分多いことに気が付いたのである。

 よもや桜が来る手筈となっているのではないだろうか……

「桜来るのか?」

「お買い物の途中で偶然、桜ちゃんに出会ったのよ。だから、今晩もお夕飯一緒に食べましょうって誘ったの」

「それで桜はなんて」

 立ち上がって聞く勝。

「〝はい〟って言ってたわ」

 庖丁を片手に振り返って言う咲恵は「そう言えば、少し元気がなかったわね」と続けた。

 勝は再び腰を畳み上に据えると、不安に頭をもたげ、天井の鹿の頭のように見える木目を眺めながら、そのまま後ろに倒れた。その際、襖に頭をぶつけたが気に止めなかった。

 公民館の事情を一抹も知らない咲恵と景は、実に楽しそうであった。咲恵が味噌汁やら煮物の味見を景に頼み、それを口に含んだ景が「美味しいです」と嬉々として戯れるのである。

 言うまでもなく勝はそんな声を意に介さず、ずっと平常心を保つことに必死であった。

景、同様に本来であるならば、すでに桜も景と並んで台所で黄色い声を発しているはずである。今ここに桜がいない。それは、恐らく桜とて勝と同じく煩悶と胸中をさざめかせていることだろう。

 束の間の瞑想を経てちゃぶ台の上には、まさにできあがったばかりと湯気を讃える料理が並べられた。食欲をそそる良い匂いに勝は上体を起こした。

「つまみ食いしたら駄目だからね」

 と景が釘を刺して、箸を並べている。勝の隣に座するはずの乙女はまだ姿をあらわしていない。

「おかしいわねぇ。もうそこまで来てるかもしれないから、勝君、一っ走り迎えに行って来てちょうだい」

 掛け時計を見上げた咲恵は指を顎にあてて、そう言うのである。

「わかった」

 快諾した勝は垂涎の食卓から易々と離れると、静かに土間に降り靴に足を押し込んで外へ出たのである。

 宵の口の外気は丁度よい加減であり、満潮か干潮か潮の動く頃合い。見上げれば三日月、潮騒さえなければ夜の散歩とておつなものであろう。しかし、勝は気散じに外に出たわけではない。

 早足で公民館へ向かう勝。目前に迫る暗がりを目前に、はたして桜がこの道を通るだろうかと思案し、行き違いになっては意味を成すまいと、逸る気持ちを抑えて迂回路を選んだのである。

  つまり勝は桜と二人きりで話しがしたかったのだ。

 その判断がすぐさま功を制すことになろうとは些か勝自身でさえでき過ぎであると思った。だが、それは結果的に勝の思惑通りになったのである。

 公園を通り過ぎ急な曲がり道、商店の影を脱した辺りで三叉路を桟橋の方へ向かう桜の後ろ姿が見えたのである。

 勝は今すぐに大声にて呼び止めたい気持ちを殺して、一段と冷静を保ち、桜の後を追って桟橋へ向かった。

 桟橋の向かって左側には、見慣れない白い背もたれのついた木製の長椅子が置かれており、丁度、高速艇が接岸する場所であるかぎりは待合い用に設置されたのだろう。背もたれには黒いペンキで見覚えのある端正な書体で『寄贈 婦人会』と書かれてあった。

 桜はその長椅子の背もたれに手を触れ、その傍らに頭垂れて佇んでいたが、勝が橋を渡り終える頃には椅子に腰掛けていた。

「桜」 

 勝は桜に気づかれる前に声を掛けた。すると桜はバネ仕掛けのように急激に椅子から立ち上がると、ゆっくりと振り返り、目線を合わせず「勝ちゃん……」と呟いた。

「今日見た」 

 そう言いながら桜の隣に歩みを進め、「舞台なくなってたな」と自分では無表情に続けて言ったつもりである。

「明日。午前中最後の船で行くの……」

 と桜は沈んだ瞳でそう言いながら、軽く握った手を胸の前へ持ち上げ、いとまごいの時分を伝えたのだった。

「何で言わなかったんだよ」

 目線を合わせようとしない桜に勝は一歩足を進めて、静かに問うた。そうさざなみよみも穏やかに。

「言ったってどうしようもないもん……本当はこのまま黙って行こうと思ってたの」

 後ろめたいと言わんばかりに視線を足下に落として言った桜だったが、

「今までもそうだったの。私が転校することは誰も知らない。引っ越す当日にお父さんが学校に言いに行くから…………ほら、私。友達もつくらないし誰とも喋らないから、組のみんなも驚かないと思うし……」

 と続けた時には諦めたような疲れた笑顔を勝に見せたのだった。

「なんでだ桜」

 勝は桜の目前まで大股で近づき、鼓膜が破れんばかりに大きな声を出した。浜辺で聞いた桜の述懐。『こんな楽しい日々が毎日続けば……』と心中を吐露した少女は再、孤高に孤独にあろうとしているのだ。 勝はここに来て他人行儀な桜に激昂したのである。

「じゃあ!」 

 憤慨の色を瞳に宿した勝に向かって桜が劣らずの大きな声をあげた。黒い瞳は強く訴えかける眼光が見えた。

「じゃあ!私がずっと前に勝ちゃんに話してたら一緒に笑ってくれた?普段通りに接してくれたの……私にはそんなの無理」

 胸の激痛を堪えるように胸に両手を押し当てて言い切った桜。不自然にも目元は優しかった。

 桜の本心を聞き、今度は勝が俯いてしまった。わかっていたはずである。なのに自分は桜を疑ってしまったではないか、一瞬でも裏切られたと憤慨に苛まれたことが情けなかったのだ。

「すごく悲しいのに涙もでないの……」

 顔を上げた勝は困った表情で呟く桜を見つめていた。

「本当にありがとう。何度も何度も助けてくれて。私、勝ちゃんがいてくれたから、この町にいる間、少しも寂しくなかったし、不安もなかったよ」

 満面の笑みでそう言った桜だったが、勝にはとても複雑に心情が交錯するつくり笑顔にしか見えなかった。勝の心がそう見せたのかも知れない。

「せめて、母さんと景には桜の口から伝えてやってくれよ。寂しい気持ちはわかる。でも桜が何も言わないでいなくなったら、母さんも景も悲しいと思うんだ」

 それに、俺だけ知ってたっていうのも胸くそ悪いしな。と言い訳のように続けた勝は視線を闇一色の海へうつして頭を掻いた。

「本当はね。朝からずっと行こう行かなきゃって思ってたんだけど…………結局行けなくて……」  

「俺も一緒にいるから」 

 無言で小さく頷いた桜は、

「絶対そばに居てよ」 

 と震えた声で言うのであった。


      ○


 桜と連れだって帰って来た勝。勝しかり桜しかり、敷居を跨ぐ前に気取られまいと立ち止まって、深く、あるいは浅く呼吸を整えるのである。少しでも気を緩めれば、たちまち目頭が熱くなり、途方もなく溢れるものを押しとどめておくことなど不可能だったからだ。

「ただいま」

 と静かに勝が家に入るなり、「お帰りぃ」「あら、桜ちゃんいらっしゃい」と景と咲恵が温かく桜を迎えた。

 桜はこれに対して、無言で会釈をするだけであったが、そんな元気のない桜を見て「桜、腹減りすぎて声も出ないんだってさ」と勝が戯けて見せると。「そんなことないもん」と桜はつかさず口を尖らせた。

「さぁさぁ、みんなで頂きましょう」

 すでにちゃぶ台の上に並べられた料理の数々は今だ、湯気をあげていた。温めなおしたのだろうか。それよりも、おかずに味付け海苔が加えられているのが気になった。

 勝と桜が定位置に腰を降ろし、それぞれの茶碗に白飯が盛られた後、静かに夕餉がはじめられた。

 話題はこれと言ってなかった。

 粛々と進む夕食。咲恵は大人しい面々を見て、まるで『つまらない』とでも言いたげな表情をしていたかたと思うと「そうだっ」と思い出したように急に口もとを緩めた。

「ねぇねぇ、桟橋に待合い用の椅子があるの知ってる?」 

 なぜか得意になって言う咲恵であったが……「知ってる」「知ってます」と勝と桜に素っ気なくもそう答えられてしまった。ゆいつ「なんで勝ちゃんと桜が知ってるのよ。また私だけぇ」と景だけが知り及ばない様子であった。

「なんだぁ。二人とも知ってるの」

 と会心の笑みを消失させて「つまらないわぁ」と海苔をぱりぱりと郵便ポストのように食べた。

 しかし、その後、解凍され息を吹き返した魚のように咲恵は、あの椅子は婦人会が寄贈したものであると前置き、背もたれの裏側に『寄贈 婦人会』と銘を書き入れる大役を咲恵が拝命したことや、ペンキは墨と違って書きにくく不細工になった箇所を誤魔化す為に指で擦ったところ、指についたペンキがなかなか落ちないのだ。と言いながら、薄ら黒く色のついた人差し指を突き出し、あたかも『名誉の負傷』であると、白い歯を見せるのだった。

 指に視線をくべた三人だったが、その次の瞬間には大爆笑となった。桜と景は罪悪の念か、咲恵から視線を逸らして笑いを一生懸命に堪えていた。だが、結局は腹を抱えて笑い転げる勝と同様に涙を浮かべて大笑いをはじめてしまったのである。

「そんなに面白いかしら?」 

 と首を傾げて黒く色づいた人差し指を見ながら訝しげに言った咲恵。

「まぁいいわね、笑顔だもの」

 そう言いながら咲恵は平静を取り戻しつつある三人を見ながら今一度満面の笑みを浮かべたのである。

 すると、再び堰を切ったように爆笑が起こるのである……「えっと、お母さんの顔になにかついてる?」と言ってしまった。

「おばさま、歯に海苔が……」

 腹を両手で押さえ「お腹痛い」と言いながらなんとか桜が咲恵にそう伝えた。

 咲恵は桜の言葉を聞くや、すくっと立ち上がり、硝子戸を閉めて洗面所へ歩いて行く。そして「まぁ我ながら面白いわね」と自分の顔をみて一頻り笑った後……

「ちょっと笑い過ぎよねぇ。そうだ、笑われた分しっかり笑わせててあげないと、ねぇ」

 硝子戸の向こうからそんな低く不気味な声が聞こえたのである。磨りガラスには相変わらず洗面台の前に立つ母の姿が見て取れたが……

「お行儀悪いけど、でも……ね」 

 景は桜の顔を見てそう言う。

「う、うん。お行儀悪いけど……」

 桜も景の顔を見て表情かたくそう言うと、二人して離れへそそくさと駆けて行ってしまった。「どこ行くんだ」と勝が声を掛けたが二人から返事はなく、その刹那には硝子戸が大きく開き、『妖怪 顔舐め』が喜色満面と両腕を広げて襲いかかったのだった。

 その後の惨劇たるや、安達ヶ原の鬼婆伝説を彷彿とさせるたのである。

 一頻り抱腹絶倒させられた勝は畳みの上にうつぶせとなって、乙女に迫る妖怪の足袋を見ていた。

「何もしないから出ていらっしゃなぁ。ご飯が冷めてしまうわよぉ」

 白々しい説明である。

 ここで素直に出て行こうものなら必笑と舌なめずりをする妖怪の餌食になること請け合いである。その点はすでに顔舐めの来襲を経験している桜は心得ていたのだろう、景共々はたして乙女たちは一向に出てこず、咲恵とて人体を超越した嗅覚や聴覚を持ち合わせているでもなし、手ぶらで板間まで帰って来た。

 しかし、年の功とはこれいかに。土間を見下ろし、並び揃えられた靴を確認すると「けけけっ」と天の邪鬼の笑みを浮かべて、何やら考えている様子であった。

「しかたないわね」

 真面目にそう言って居間に戻って来た母は何を思ったのか、上体を起こして離れへ視線をくべる無防備な羊を見つけるや、ご馳走発見と再び勝をこそばしにかかったのである。

 またも顎が外れかけた勝……まさに生贄である。

  数分前に時を巻き戻したように、笑い死ぬ一歩手前でことなきを得た勝は、遠のく足袋を追うように腹這いになって仏間まで妖怪の後に続いたのである。

「お母さんかくれんぼは、とっても得意なのよぉ」 

 咲恵は俄然張り切って袖を捲って離れの中央に仁王立った。

束の間の沈黙の後、咲恵は狙い澄ませようで、押入の前に立つと、「あれれぇ、桜ちゃんと景ちゃんはどこに行っちゃったのかしらねぇ。もしかして帰っちゃったのかしらぁ」と押入の中で身体を寄せ合い怯える乙女をさらに戦々恐々と煽り立てるように、わざと気が付いていない風に思わせぶりをするのである。無邪気と言おうか、茶目っ気と言おうか……いずれにせよ、どちらが子どもかわからない。

 台詞が途切れる間とて、それは意図した間合いではなく、ただ咲恵が笑いを堪えている間なのである。仏間からその様子を見ていた勝は、我が母親ながらなんと子どもなのだろうと呆れてしまった。

 その後も思わせぶりな台詞を押入に二言三言投げ掛けた咲恵は最後に「それじゃあ、二人が出てくるまでご飯を食べて待ってましょう」真面目な声で言いながら涙を拭い、いやらしい笑みと指を揺らめく海藻のように動かすと、押入を勢いよく開けたのであった。 

「「ひぃ」」と微かに聞こえた乙女の断末魔。

「桜ちゃんと景ちゃん、みぃつけた」 

 それを飲み込むのは喜色を浮かべる妖怪である。そして咲恵の姿は押入の中へ消えていった。

 わかりやすくも途端に響く乙女の笑い声。勝は足音を立てないように離れへ向かうと、顔舐めが乙女を笑味している真っ最中であり、勝の姿を見た桜が「勝ちゃん助けて」と涙を浮かべながに懇願したが。

 しかし、勝は自身に降りかかる三度目の最悪を予見し、黙って押入の戸を閉めたのであった。さらに増してげらげらと声が戸から漏れ出でる。

「すまん」

 勝は小さくそう言うと、一人居間へ戻り、ひやいだ飯をがっつくとともに、腹いせとばかり母のおかずを盗み食い、それでさらに飯をお代わりしたのである。

 

      ○


 満足と額に書いてある咲恵が戻って来てから、寸時をおいて髪の毛を乱した桜と景が疲れた表情で居間へ帰って来た。見比べるに、桜にせよ景にせよ咲恵に気力、活力、ともに根刮ぎ奪われた様子であった。

  いち被害者として、ご愁傷様と内心二人を気遣う一方で、「もう、三人ともお行儀悪いわねぇ。お食事中にかくれんぼだなんて」とぼやく咲恵に目が点となってしまった。

 いわずもがな、乙女二人も乱れた髪のまま咲恵に視線を向け、何かを言わんとして諦めたように顔を見合わせた。

 食事中に母が居間を離れる事など前代未聞であろう。勝は「勝君、肘をついてはいけません」と注意をされてそう思った。まるで今夜が桜と共に食べる最後の食事であることを心得ているようで、正直に恐ろしかったのだ。母はどれだけ勝が隠そうとしても周知であると、胸の内に潜めていることが珍しくないのである。ただ、口に出さない。後々の態度でそれを明かすのだ。ゆえに勝は母の動向に戦々恐々としたのである。

 だが、夕食が終わり三人が連れだって湯浴みに興じる頃になると、むしろ母が前途を知り置いてくれていた方が桜にとっては誂え向きではなかろうかと縁側にあぐらをかいてそう考えなおした。

 居間に戻る気にはなれない。安普請【やずぶしん】なのか古家の嵯峨か、居間には婦女と乙女の語らいや弾んだ笑い声が漏れ聞こえて来るのである。以前からして、そのような騒音はテレビの音量を上げさえすれば気にもならなかった。しかし、今夜はとかく耳に痛いく、テレビの音量を最大にしてもなお、鼓膜の裏に焼き付いているようでたまらなかった。

「あ、雨……」 

 見上げると、雨粒がちらほらと落ちて来ていた。勢いを増すでもなく衰えるでもなく、雨はしとしととまるで涙のように降り続く。

 それは実に面白い空模様である。夜空がどんよりと雲に覆われているかと思えば、暗雲の横では三日月が燦然と輝いているのである。

 折しも桜が風呂からあがって来たのは雨の降り出しと時を同じくしてであった。

 賑やかになりつつある居間を横目に、勝はこんな夜中に狐の嫁入りでもしているのだろうか、などと素直に思ったのであった。

 勝は知らなかったのである。まるで桜を引き留めるかのように降り出した雨。それを『遣らずの雨』と称することを…………

「雨が降って来たわねぇ」

 と言いながら頭に手拭いをのせたまま居間に腰を落ち着けた咲恵は、「桜ちゃんおいで」と桜を呼ぶと、濡れ髪に色艶を増した桜の髪の毛を竹櫛ですきはじめる、「次は景ちゃんですからねぇ」そんな風景を羨ましそうに見つめる景に咲恵が声を掛けると「やった」と景は目元に皺をよせるのだった。

 何度となく見てきた風景ながら、その度に勝は錯覚するのだ。この二人が実の娘であり咲恵はその母親である。

 そして、きまって羨ましく思うのである。

 気まぐれか天の意図か、さだかではない雨は月明かりが増してゆくくにつれて、姿を消した。台所でそれを知った咲恵と景はそれぞれ掛け時計に目をやって、深夜に近づく時分を確認するのである。それは、別れの時が迫っていると言うことなのだ。

 ついにその時が来てしまったのだ。

「勝ちゃん」

 ちゃぶ台が片付けられ、随分と広く感じられる居間の中央に座する桜が、仏間との境の柱にもたれていた勝を細い声で呼んだ。

「うん」

 勝は口もとを縛るように引き締め、桜の斜め後ろに堂々とあぐらをかいた。「ここにいるから」勝は桜にだけ聞こえる声でそう言うと躊躇いながらもそっと桜の肩に手を置いた。『手の届くところに居る』それが伝えたかったのである。

 無言で頷いた桜。だが、声を出すよりも我慢できなくなった熱いものが瞳から溢れ出でてしまった。震えた声で何かを言おうとするも声にならず、嗚咽に全てかき消されてしまう。

「桜?」「どうしたの桜ちゃん」

 桜の異変に気が付いた二人が今にも泣き崩れんとする桜の元へ詰め寄よると、肩を抱いて支えた咲恵は困った顔をして神妙な面持ちで桜の傍らに座する勝に沈黙のまま、理由を求めたが勝は更に歯を食いしばっただけであった。

 約束は傍らにいることのみ、されど、その先は暗黙の約束。これだけは、これだけは桜自身が打ち明けねばならないのだ。

「明日……明日の午前中最後の船で……私……行きます」

 時が止まったように束の間泣きやんだ桜は、ぐしゃぐしゃになった顔を咲恵と景に向けてから時折込み上げる嗚咽を混ぜながら、ようやくそう言えたのだった。

 桜の告白の後、間を開けずに表情がかたまったまま、大粒の涙を頬に伝わせていた景。覚悟はできていたはずであったが、目前に迫ると目の前が真っ暗になってしまった。

「教えてくれてありがとう」

 そう言いながら景の肩をも抱き寄せた咲恵は二人の髪の毛に頬を添えて「ありがとう」としみじみと言うのである。

 桜は別れを惜しみ咲恵も着物を力一杯に握り締め、景はあたたかな懐に触れて声を大声を上げて泣きじゃくった。

 景と桜を両腕で優しく包み込んだ咲恵、その胸では「わたし、みんなと……ずっと一緒にいたい」と桜が何度も繰り返し、咲恵は目を閉じたまま、そのつど噛み締めるように桜の頭を撫でていた。

 いたたまれないのは勝である。乙女にも加わり泣くことも母にすがることも、そして一人泣くことさえも出来なかったのである。目頭が熱を宿せば堅く瞼を閉じて制止した。ただ、行き場を失った涙のごとく流れ出る鼻水だけは、どうすることも出来ず、口にかかる度に袖を押し当てた。

  しばらく続いた哀愁の響鳴。涙が枯れてなお、咲恵は二人を放そうとせず、桜も景もけして、離れたがらなかった。


      ○

  

 はじまりがあれば必ず終わりがやってきてしまう。景と桜が顔を洗いに行ったのを見て勝は、黙って土間に降りるとゆっくりと靴を履いた。通り過ぎる間際に一瞥した母は正座したまま悄然と背を丸め、疲れ切った表情を浮かべいた。

 皮肉にも土間へやって来た桜と景は涙が枯れてから時間が経っていたためか、すでに目元から赤みがひいていた。

 静寂のまま、土間に靴が擦れる音だけがやけに大きく聞こえる。勝は帰る支度を調えた二人を見てから戸を開け、悄垂れる二人ごしに今一度土間をみやったが……そこに母の姿はなかった……

 住宅が密集した裏道を遅々と歩く三つの影。一様に頭を垂れ、時折その一つが何かを言い出そうとして頭をもたげるが、すぐに頭を垂れてしまう。そんなことが何度か繰り返されるうちに、商店街を通り過ぎてしまった。

 こんな時に限ってどうして近道である裏道を選んだのだろう、と景は先頭を歩く勝に微かな憤りをおぼえた。何か少しでも話さなければ……いつもならくだらない話題が後から後から湧いて出てくると言うのに、このような大切な時間に限って思い当たらないのだ。

 とにかく……と景が再び頭を上げた時、

「景ちゃん、また明日ね」

 と桜と勝の顔が自分の顔を見つめていたのだ。「えっ」と辺りを見回すと、そこは小川に掛かる橋を渡り終えたところであった。

「うん。また明日ね。桜……」

 戸惑っている間に分かれ道に到着してしまっていた。景は後悔に苛まれながらも、震えそうになる声を正してそう言うと、そっと桜の背に腕を伸ばした。桜もこれに答えるように景の背に腕を回して、「ありがと、景ちゃん」と述べたのである。

 別れを名残惜しみ、景は何度となく振り返っては桜に手を振る。桜もこれに答え何度でも手を振り返す。やがて、道の先にぼんやりと見える一点の明かりの下へ景の姿は消えてしまったが、それでも桜はずっと佇んでいたのであった。

「ありがと、勝ちゃんがそばに居てくれなかった、きっと言えなかったと思う」

 振り返りそう言った桜は一人で歩きはじめ、「俺が言うわけにいかないからな」とそれに続いて勝が言った。

「勝ちゃん。私と最後の約束してくれない」

「急になんだよ」

 蜜柑畑が見えてきた辺りで、傍らを歩く桜がそう言って勝に顔を向けたのである。

 意味深な言葉を残し、桜はそのまま蜜柑畑の入り口まで眉を顰める勝の先を黙々と歩いた。

 蜜柑畑の入り口、バスの停留所は大海原の夜闇に浮かぶ燈籠のように電信柱に取り付けられた頼りない外灯に照らされほのかに明るかった。初夏には早い時分では外灯に引き寄せられる虫の姿も見当たらない。

「指切り」

 弱い明かりに照らされた桜の小指。やはり得心はいかなかったものの、勝は「おう」と渋々、小指を桜の指に絡めた。指切りげんまん……と聞き慣れた文言を唱え、指を離してのち、

「破ったら針千本のむんだからね」

 と釘を刺し、勝は「わかってるって」と返事をした。

「見送りに来ないでほしいの」 

「えっ」 

「約束したからね」

 勝に有無を言わせず桜は振り返ってしまった。

 確かに指切りは交わした。しかし、そんな約束であれば指切りなど交わすはずがない。最後の最後、見送りに行かないなど勝にはできようはずもない。本当であれば、学校などに行かず桜と哀別するその時まで同じ時間を過ごしたいと思っていたほどであるのだ。むろん二人きりではなく、景も母も含めて……

 よしんば登校するはめになったとて、抜け出せば良い話しであり、その後の拳骨すらも織り込み済みであった。

 朧気ながら明日のことを考えていた勝。そこにくべられた桜との約束は、まさに本末転倒なのである。

 例え約束であっても、ここは譲るわけにはいくまい。勝は桜の背に迫ろうと一歩踏み出したのだが……

「はじめて、もうどこにも行きたくないって思えたのにな。いつもはね、転校する前なんて〝早く次の場所へ行きたい〟って思うの、やっぱり嫌われるのは辛いから……」

 勝の言葉を遮るように桜は一人、話しはじめたのである。

「さよならの傷ってね。さよなら、しなくちゃいけないって伝えてから、離ればなれになるまでが一番痛むの、一緒に居たいのに、どうしようもなくて、離ればなれにならなきゃいけないんだって思いながらずっと過ごすことになるから。別れた後はむしろ楽になるんだよ。諦められるからかな……」

 声は震えていなかった。一人芝居のように桜は誰もいない夜に向かって語り続ける、きっと勝に面と向かっては言えない心情がそれをさせたのだろう。

 そんな話しを聞けば勝とて俯かざる得ないのである。唇を噛んで拳を握る。桜の言う通り、勝は余裕を持って〝さよならの時〟を伝えられて居たならば、普段通り桜に接することなどできなかっただろう。毎日が絶望なのである。勝は母のように自分の感情を潜めて接するという芸当など到底真似できないのだ。

「だから言えなかった。黙って行こうと思ったの……」

 声に力が抜けた……勝が顔を上げると、桜の背中は小刻みに震えていたのだった。居心地の悪い沈黙が幾ばくかあり、ついに堪えきれなくなったのだろう桜は「どこにも行きたくない」としゃがみ込んで泣き出してしまったのである。

 勝は一度、手を込めた力から解放した、しかし、またすぐに堅く握り締めた。目の前の少女にかける言葉が見当たらない……慰めて励まして……それはこの先に続く未来があればこそ力を宿す魔法なのである。明日この町を去ってしまう、離ればなれになってしまう桜にとってはそんな魔法は詭弁でしかない。

 言葉とは時に儚くも無力なのである。

 それでも、勝はただ黙って小さな背中を見守ることはしたくない。ゆえに桜の前に回り込むと浅い呼吸の後、肩の力を抜いてから徐に桜の両肩を持った。

 はじめての感触に驚いたように首をもたげる桜。見上げた瞳は赤く頬には真新しい涙の後が残っている。

「いつか、いつか絶対に帰って来いよ。俺も景も母さんも桜の帰りを待ってるから」

 桜のことはどんなことがあっても忘れることはない。例え、思い出が風化して蜃気楼のごとく揺らいで行こうとも、石切坂 桜と言う少女をはじめて見た時、その瞬間に胸を熱く焦がした想いと、その姿を見る度に、言葉を交わす度にときめいた心は一生涯忘れることなどできないのである。

 「絶対」鼻を啜りながら桜はそう言ったのであった。

 

      ○


 意気消沈と勝は家路についた。分かれ際、「私、勝ちゃんのこと信じてるから」と言い残して駆けて行った少女の背中はいかんとも忘れがたい。

 だからこそ、こんな夜でさえ、松浦道場からなる小道を歩くことができたのだ。まさに心中は現状と同じ暗中模索である。

 面持ちそのままに家に帰ると、出迎える者はなく居間には寂寥【せきりょう】と背を曲げた母が佇んでいた。その様子はまさに桜を送りに出た時と寸分の狂いなく既視感すら感じるところであった。

 勝がそんな母に向かって「ただいま」と言うと、「あら、お帰りなさい」と着物の袖で目元を拭い声だけは気丈に振る舞ってみせた。

 だが、勝を見上げた母の頬には今さっき拭ったはずの涙が伝っていたのである。

「母さん……涙」

 無理をして拵えた笑みの端を一筋の温かい滴が伝う。

「お母さんだって、寂しいのよ」

 再び袖を額に当てながら声を震わした母…………

 勝の中に意味不明な憤りが込み上げてきたのである。

 それじゃあ俺はどうしたらいい。勝は立ち据えたまま、鼻を啜った。できることなら、できることなら、景と桜と共に母の胸にすがって泣きじゃくりたかった。今だって大声を出して涙も喉も枯れ果てるまで泣きたい。しかし、男であるからそれが許さぬならば、それじゃあ俺はどうすればいい!

 込み上げる意味不明な激昂といかんともし難い胸の中を突き上げる心悲しさ。このゆいつにして最後の捌け口はもはや一つしかなく、それを我慢することなど人であれば何人にも不可能なのである。

 勝の足下に落ちる大粒。それを見た母は「おいでなさいな」と隣に座るように促し、勝は俯いたままそれに応じた。

「男の子は損ね。勝君が女の子だったら、桜ちゃんや景ちゃんと一緒に抱き締めてあげられたのに……」

 母はそっと頭を垂れたままの勝の肩に手を回して優しく語りかけた。母の顔を見上げた勝はもはや拭うことさえもしなくなった母の顔に暗黙の許しを得た気持ちとなった。

それでも、勝は抗うかのように立ち上がると、歯を思い切り食いしばって滲む視界のそれ以上をなんとか押さえようとしたのである。

「勝君」

 母は立ち去ろうとする勝の手を持つと再び腰を降ろすように促し、勝が膝を折ったところで、勝の顔を両手で包むように持つと親指で勝の涙を拭い、額を触れてさせて話すのである。

「男の子は涙を見せるものではないわ。だから悔し涙は隠れて流しなさい。でもね、嬉しい涙と感謝の涙は決して恥ずかしいものではないの。必ず見せてあげないといけないのは別れの涙。桜ちゃんだって見せてほしいと思ってるはずだもの。いいえ、見せてあげなさいね。別れの時はね……それだけでいい……哀しすぎるとね……声なんて出ないんだから……」

 震えた声で言い終えた母は再び口もとを押さえて涙をこぼしはじめた。母は精一杯の優しい言葉をかけてくれたのである。

 戒めの言葉ならば『涙を見せてはいけません』と一喝くれれば、不可解な心中において葛藤とそれに準ずる理不尽に反発する気持ちでこの場はなんとか堪えられたかもしれない。

 勝は呻吟と鼻を思い切り啜った。そして拳を握って額を思い切り擦る。気が付かないうちに頭は垂れて畳みに額が触れそうであった。人は心から感謝した時、謝罪したいと思った時自然と頭は下がると言う。だが、心底より悲しみに触れて心が震えた時もまた、頭はさがるのである。

 何度も何度も、袖がすり切れるほど額を擦り、込み上げる嗚咽を吐き出した。

 もはや、視界は滲まない。一度流れ出した水ではない温かい滴は瀑布のごとく止まるところをしらぬのである。

「別れの悲しみに男も大人もないんだから」 

 言葉として聞き入れるにはあまりに粗末な声色であった。母は勝に比べれば桜と過ごした時間は少なかったかもしれない。だが、実の娘のように掌の珠といつくしみ雲の裏で注がれた愛情の数々に時間など有無などなんの尺度となるだろうか。

 悲しくも気丈に振る舞うことを忘れない母。その母が涙を見せたのである、心及ぶまでもそれほど桜のことを心から愛していたのだろう。

 勝は母の膝にすがると拳を畳みに打ち付けて大声をあげて泣いた。幼子のように泣きじゃくった。

 いつまでもいつまでも……


      ○

 

 泣き疲れた酔夜を経て、珍しく夢見なくその朝を迎えた。朝日の心地よさを感じながら目が開かないのはどういうことか。まるで糊を塗られたように瞼はかぴかぴと煮汁の残渣のごとくこびりついているのである。

 紙やすりの代わりに袖で擦るとぼろぼろと目元に少々の痛みを伴ってようやく刮ぎ落とした。目を開けて見るとそこは何ら変化のない天井があった。窓から差し込む朝日が頭を温める頃合いならば、そろそろ起き出さなければならない。

 だが、あえて、寝返りを打った勝は、なんとか本日が昨日に戻るまいかと意気地なく布団に潜るのであった。

 かぎりなく愛おしい指の形、少女の情操に触れて一段と沸き上がる想いを抱いて眠ろうと試みたのだ。壊れそうな想いを抱いて、もう一度浅く微睡む。

「起きなさい、遅刻するわよ」

 そう言って布団を引っ剥がされた勝は、不本意ながらも居間へ向かった。

 もちろん朝餉はすでに用意されており、母は鉛筆を走らせ何やらしたためていた。

「手紙か」

 顔を洗い、制服に着替えてからちゃぶ台の前に腰を降ろした勝は「いただきます」と合唱してから母にそう聞いた。

「お見送りに行かせてもらえるよう、手紙をしたためておいたから、朝一番に橘先生に渡しなさい」

 そう言いながら母は茶封筒に書面を入れて勝に差した。

「俺、見送り行かないから、いらない」

「どうして」

咲恵は驚いた表情の後、眉を顰めた。

「桜と約束したんだ、指切りもしたし……」

 もしや、母に諭してほしかったのかもしれない。勝は知らずのうちに声を荒げてしまっていた。

「桜ちゃんとの約束を守る守らないは勝君が決めなさい。お母さんならその約束は必ず破ります」

 桜の心中に思いを巡らせたのだろうか、咲恵は少し瞼を閉じてから静かにそういったのである。

「……」

「勝君。約束は大切です。でもね、自分が後悔をする約束はしてはいけないわ。勝君はこのまま桜ちゃんと最後にお別れしないで後悔しない?約束を破って桜ちゃんに会って後悔するのと、約束を守って桜ちゃんと会わずに後悔するのとは、全然ちがうのよ」

「……」 

「とにかくお母さんはお見送りに行きます。昨日桜ちゃんに〝絶対に帰っておいでなさい〟って言い忘れてしまったもの、お母さんは後悔するくらいなら桜ちゃんに嫌われます」

 箸を止めて母の話に耳を傾けていた勝であったが、終始無言であり、何一つ反論することができなかった。

 約束とは誠に厄介である。

 いつもより遅く登校することになった。「御手紙、鞄の中に入れておくからね」と軽い鞄の中に弁当と一緒に手紙を入れる母。

  勝はさらに無言でその鞄を持って家を出たのである。

 戸を閉める間際、板間に立つ母の顔を見た。別段何を言うでもなく化粧気がないくせに端正な顔立ちは健在である。何を期待していたのやらと勝は力無く戸を閉めると、小道へと足を踏み出したのである。 

「おはよ、勝ちゃん」

角に景が立っていた。景は勝と出会い頭に目元を指で拭ってそう言った。

「おはよ。朝練どうしたんだよ」

「こんな顔で朝練なんか行けないわよ」

 目元は赤く、瞳とて兎のようである。確かに酷い顔であると、勝は口もとを綻ばした。

「景は泣き虫だな」

「うるさいわね」

 勝と景は並んで通学路を歩く。二人きりで登校するのは久方ぶりであろう。時折鼻をすする景を横目で見ながら、勝はいたしかなしと放っておいた。いつもなら『泣くな』と苛立ちを見せるのだが、事情は斟酌してあまりある。勝が泣けない分を景が代弁してくれていると思えば心持ちとて随分と軽くなる。

「はあ、なんで今日みたいな日に体育があるのかな」

「景の得意なソフトボールだろ」

「そうだけど、それとこれとは別よ」

 国道から坂道に差し掛かると、同級生の目を気にしてか、景は泣くのを堪えて「そんな気分じゃないの」と体操着に着替えることすらも億劫【おっくう】であると溜息をついた。

「それで、いつ見送りに行く?早い目に行かないとね」

「うるさい」

 咄嗟に言ってしまったのである。

「うるさいってなによ」

 口を尖らせる景。勝はそんな景に「見送りに行かないから」と冷淡に言ってのけたのだった。

「なんでよ。どうして?私たち友達じゃない」

「行かないもんは行かないんだ」

 視線をも逸らしてぶっきらぼうに言う勝。

「勝ちゃんらしくないよ。桜のこと嫌いなの?あんなに仲良しだったのに、最後のお別れもしないなんて、酷いよ。私、勝ちゃんのこと見損なった」

 腹に据えかねた景は、勝の前に立ちはだかり、面と向かって勝にはっきりと述べた。

「信じらんない」と最後には吐き捨てるように憤慨の言葉も忘れない。

 これに対して勝は母の時と同様に沈黙で受け流す構えであったが、母と異なった点は相手が幼なじみの景であったと言うこと……

「桜が見送りにくんなって言ったんだ。指切りまでしたんだぞ。いまさら行けるかよっ!何も知らないくせに偉そうに言うな」

 勝は憤懣【ふんまん】して景に顔を寄せ、傍目も気にせず声を張り上げたのである。怒りに火照る顔を悲痛な表情で見つめていた景は、まるで暴漢に襲われんとする幼子のように瞳が怯えていた。

 そんな景の瞳を見て、冷や水を浴びせられた勝は「わるい」と景から数歩後ずさった。「そうよ。私は勝ちゃんほどは知らないけど……そんな言い方しなくたって……私だって桜の友達だもん……」

 見る見る間に表情を崩した景はわなわなと大粒の涙を滴らせて泣き出してしまった。

 急に泣き出した少女に同じ制服を着た生徒たちが好奇の視線を向けて通り過ぎて行く。低学年は喧嘩だろうと、三年生は痴情の縺れかと、それぞれに興味を注ぐのである。

 だからと言うわけではなかったが、勝はこともあろうに泣きじゃくる景を一人残して駆けだしてしまったのであった。

 

      ○

 

 何をしているのだろうか。己の葛藤に呵責を起こし、こともあろうに幼なじみに八つ当たって泣かせてしまった。その上、その身をほったらかして一人教室へ逃げ込んだのである。まことに最低な男である。

 勝がそのように忸怩と机に突っ伏していた頃、教壇に立った橘先生が『突然のことなんですが、石切坂 桜さんがお父様のお仕事の都合で、本日転校することになりました。最後に皆さんと会うことができませんでしたが、どうか、みんな石切坂さんのことを忘れないで下さいね』と桜の転校を公表している最中であった。

 痛いほど知りおいている以上は改めて耳をかす必要はあるまい。

 ふて腐れる一席を除いて空前の盛り上がりを見せていた黒髪の乙女の突然の転校は、可憐な乙女へ淡い桃色心を抱きかけていた諸々の男子たちは一斉に溜息を漏らし、一様に頭を垂れてから勝と同じくふて腐れもう花も実もないと机に突っ伏したのである。

 その中に一郎の姿があったのには、勝も少し驚いた。

 その点、女子の反応は穏やかそのものであった。石切坂 桜は転入当日に宣言した通り、同性の異性、区別なく自分から接しようとせず、例え話しかけられようとも頑なに沈黙を貫いていたのである。 

 桃色を咲かせ一方的に鮮やかな好意を抱く男子どもとは違い、別段接さざるは接さずと女子は桜が転校したとて意に介さぬ様子であった。それでも、教室内どよめいたことは言うまでもない。

 落胆冷めやらぬも、事情を知らぬ数学教諭は何ごともなかったかのように、授業を開始する。

 渋々頭を上げる者どもの中にあって勝は一人机に横顔をひっつけたまま主不在の机を見つめていた。このようにして桜の姿を眺めるのは珍しいことではなかった。最後尾と言う立地のよさを生かして睡眠を貪るのである。眠ってさえいれば長く感じる授業とて瞬く間に終わってしまうからである。

 板書の音を子守歌に形の良い桜の横顔を肴にとろけて行く勝を横目に見ると、桜は決まって『寝ちゃだめ』『おきなさい』『おばさまに言いつけるよ』などと叱咤激励をノートの余白に鉛筆で書いて勝に見せるのだった。

 まことに約束とは厄介である。

約束したからには守らなければならない。もとい守ってしかるべきである。それも桜と交わす最後の約束なのである……

 これを破って見送りに行けば桜は自分のことを軽蔑して嫌うだろうか。今生の別れとなってしまうかもしれないのだ。できることならば、良い思い出だけを胸に焼き付けておきたい。

 相克のきわ、素直になるならば、単純に勝は桜に嫌われたくなかったのである。

 母は『……後悔するくらいなら桜ちゃんに嫌われます』と言い景とて友愛の極み、見送りに行かないのは殺生な仕打ちであると言わんばかりであった。恐らく、双方共に正しい主張であろう。仮に拒絶されようとも、嫌われようとも、見送りには行くべきなのだ。心内には決まっているのだが、『私、勝ちゃんのこと信じてるから』と言った桜の顔が浮かんでくるのである。そんな風に言われてしまったならば、裏切りたくないと思うのが心情と言うものではあるまいか。そんな勝の葛藤を全て景に八つ当たらせたのだ。

 勝は呼吸と同じだけ溜息を吐き、教室の掛け時計を見るたびに、不安を湧き立たせるのであった。

 煩悶としたまま、いくつかの授業が終わり。落ち着かない勝は渡り廊下へ行き、校門付近を眺めていた。下駄箱からは体育へ向かう景の姿が見える。

 そう言えば、あの校門のところで転入して間もない桜は森田 明美に言いがかりをつけられていた。思えばよく素通りしなかったものだと、内心で自分を褒めた。この行為がなければ桜は自分に心を開いてくれなかったかもしれないのだ。

 チャイムが鳴り、短い休み時間は終わりを告げる。

 振り返り際、校門の前に珍しくタクシーが止まったのが見えたが、気にせず、そのまま視線を廊下に向けた。

 蘇るのは桜に言い寄った上級生とそれに抗う少女の姿である。

 勝は教室に戻ると、鞄を開けて母が忍ばせた封筒を手に取った。時計を見やるに、この瞬間に駆け出さなければ間に合わないだろう。

 再び力無く机に顔を置いて隣の席を見つめる。不思議であった。朧気ながら桜の姿が浮かびあがるのである。目を擦ってみても、それは消えない。

 寂しげな表情を浮かべる桜。俯いたまま、勝と目線を合わせようとしない。幻であっても目を背けられるのか、と勝は苦笑した。

「桜」

 勝は呟いた。

 すると、少女はようやく顔を上げ、勝の顔を見て微笑んだのである。これには勝とて首を傾げた。そして、桜は目線を机から投げ出した腕の先へとゆっくりと移動させるのだ。まるで、逡巡する勝に何かを伝えるように……

 勝が視線の先を見ると、そこには茶封筒があった。

 勝は上体を起こして桜の顔を見やった。桜は驚いた表情の勝に、声は出さずともその意思をつたえる為に深く頷いたのである。

 折しも、橘先生が教室へ入って来たのと時を同じくして勝は徐に立ち上がった。そして封筒を机の上に置くと、ほぞを固めて教室を飛び出したのである。

 約束を破るのは心苦しい。しかし、やはり桜と最後に会えないのは絶対に悔しいのである。必ず後悔する、桜との約束を堅実に守った、と言い訳で誤魔化してみても後悔が先に立つはずがない。絶対に後悔すると確固たる自信がある。

 今までもそうであった。くだらない意地を男気と正義漢であると思い込んでしこたま後悔してきたのだ。

 今朝とてそうだ。情けないかな、最後の最後まで母に背を押してもらい本意でないながら……と、自分に言い訳をしようとしていたのだ。未だに母に導かれねば道を決められぬなど、涙が出るほど情けない!

 橘先生から桜がいずれ転校してしまう旨を桜自身から述懐を聞いて心はすでに決まっていたにも関わらず、一時の感情に翻弄され危うく一生涯の後悔を胸に焼き付けるところであった。勝は自分自身で決めた。仮に桜に嫌われようとも知ったことではない。己が正しいと掲げた錦の御旗が桜との縁を紡いでくれた言うのであれば、錦の御旗に縁を紐解くもよかろう。

 針など縫い針でも釣り針でも何でも持って来ればいい。千本でも万本でも飲み干してやる!

 廊下を疾走する勝は背中に橘先生の声が投げ掛けられたのもの意に介さず、勝は一目散に下駄箱へ駆けた。乱暴に靴を履いた勝が玄関を飛び出すと、そこには大切そうに胸元で大きな茶封筒を抱いた、折笠 響子とその後ろに母の姿があった。

「なんで」

 勝は思わず足を止めてしまった。

「遅くなってごめんなさい。まだ船に間に合うと思うから」

 勝に駆け寄った響子は封筒を勝に押しつけると、「本当にごめんなさい」と頭を下げたのである。 封筒には郵送するつもりだったのだろう。『筒串 勝 様』と宛名、住所が書かれてあったが、切っては貼られていない。

「勝君」 

 響子の横に並んだ母は強い眼光でそう言った。

「当たり前だろ」

 勝は母の言わんとすることを汲み取って、そう答えると、封筒を脇に挟んでグランドへ向けて全力疾走したのである。

 グランドでは授業前の準備体操が行われており、幸いにして教員の姿は見当たらなかった。

「けぇーいっ!」

 勝は恥も外聞も明後日に全力で投擲して、体操の一団の中へ闖入【ちんにゅう】すると顔を赤らめる景の手を取ってグランドの端にある通用口へ向かって駆け出したのである。

「ちょっと、勝ちゃんっ」

「写真が届いたんだ、これから桜に届けに行く」

 走りながら、そう言った勝は景の返事を待たずに手を放して金網張りの通用口を蹴破った。

「お前らどこへ行く気だっ!」

 外に出るところで担当教諭の怒号が聞こえたが、「お腹いたいので保健室に行きます!」と景が適当にあしらい。「そっちに保健室があるか!ばかもの!」と体育教諭は追いかけて来るのであったが、

「早く行きましょ」

 と景と勝は振り返ることなく、連れだって桟橋を目指したのであった。

 

      ○


 片息でなお駆ける二人。国道を曲がったところで、咲恵と響子が乗ったタクシーが二人に並び、「お乗りなさい」と母が声を掛けたが、「先に行って引き留めといてくれ」とタクシーを先に走らせた。

  その刹那、「勝ちゃん船」景が海原を指さして叫んだ。

 水平線よりも波打ち際にずっと近いところに、黒鉛を上げて海上を進む定期船が見えたのである。頃合いからして、桜はあの船に乗るだろう。

 顔を顰めた勝はさらに膝を高く上げて地面を思い切り蹴り上げる。

 空き地を過ぎて、船はすでに見えなくなっていた。視界に入る景は涙を浮かべ、嗚咽やら片息やらでしどろもどろになってしまっている。

 公園を過ぎ緩やかに曲がったところで、民家の間から桟橋がかいま見えた。先に到着している咲恵と響子に向かって桜の肩に手を置いて会釈をする良介の姿が見えた。赤いカチューシャをした黒髪の乙女は悄然と俯いている。

 まだ間に合う。桜に伝えたいのだ最後に会って伝えたいのだ『また明日……』と。焼き付きそうな肺にさらに鞭打って走る続ける二人。次ぎに三叉路を過ぎて船着き場の駐車場へ駆け込んだ時には桜がすでに船に乗り込み、船が徐々に桟橋から離れていくところであった。

 間髪入れず桟橋へ滑り込んだ二人。呼吸を落ち着かせるなどもはや眼中にない。

 景は桟橋に倒れ込むよう膝をついて号泣しながら荒い息を無理矢理押しつぶして「さくらぁーっ!絶対また会うんだからねぇ!」と何度も何度も声が裏返るまで叫び続けた。

「景ちゃん……勝ちゃんまで……約束したのに……」

 桜の頬を一筋の涙が伝った。

「千本でも万本でも飲んでやる!俺は約束破っても桜に会いたかったっ!」

「本当は!わたしも勝ちゃんに会いたかった!」

 昇降口から身を乗り出して言う桜。嬉しい涙に号泣であった。

「桜っ!写真できたんだっ!」 

封筒を掲げて勝が言う。

「ありがとうでも。もういいっ。みんなに会えたから!」

 遠のいて行く船。封筒を桜に届けるには勝の腕では短すぎる。勝の頭の中に走馬燈のように後悔が過ぎていった。振り向くと母も響子も一様に涙をみせながら肩を落としている。もしも、あの時タクシーに乗っていれば、この封筒を母に託していれば……桜の手元に写真があったはずなのだ。

「なにくそぉ」

 勝はすでに諦めた大人を尻目に全てを払拭するべく、自身の中に眠る錦の御旗に最後の賭けに打ってでよ!と突き動かされたのである。

 失敗しても後悔、このままでも後悔。なればその後悔に抗ってみせようではないか。


筒串 勝。一世一代の大勝負なのだ。


 勝は桟橋の端まで戻ると、離れ行く船に向かって猛然と鉄板を蹴った。足はまるで一本の鉛の棒のように重く筋肉が軋むようであったが、足が千切れるぬかぎりは機関車がごとく疾走は何人にも止めさせまい。

「勝ちゃん、もういいから!」 

 船からそんな桜の声が聞こえた。

 そうだ、桜は優しい乙女なのだ。そうやってすぐに我慢する強い乙女だ。だが、そんな乙女が涙を流している。これを救えるのは我が手中にある封筒と我が気概のみ。途中けつまずいたが、なんとか立て直し、目を丸める母と響子の前を走り抜けた。

 そして、鉄板の切れ端から大きく飛んだのである。

 不思議と全ての時間が穏やかに流れているように感じた。自分は海上に飛翔し、何かを叫ぶ桜は船体に膝をついて精一杯腕を伸ばしている。それでも勝の目線は急に海面へ近づいて行く。このままでは桜の腕には届かない。 

「受け取れよ!」 

 海面に片腕が触れる間際、勝はやけくそに封筒を船に向かって投げたのである。どのように投げ方をしたのかさえ覚えていないが、海に飛び込む間際、四方手裏剣のごとく滑らかに船体へ向かう封筒が見えた……

 その後は派手に海水の中であった。体勢は頭からであり下が地面であったならあわや大惨事であった。

 無我夢中で水面から顔を出した勝。

「ありがとう勝ちゃんっ!景ちゃん!おばさま!絶対絶対に忘れないから!」

 そう言いながら手を振る桜、その手にはしっかりと封筒が握られてあった。

 勝はそれを確認すると、あわや気が遠くなり海に沈むところ……

 そんな折、潮騒と船のエンジン音の間から微かに「さようなら……」と……

「違うっ!また明日だろ!また明日な桜ぁっ!」

 勝は意識を鋭敏とし、水面下で手足でもがきながら、桜に向けて叫んだ。そう桜に伝えたかったことを。 

「うんっ。また明日ね、勝ちゃんっ!また明日ね景ちゃん。おばさま必ず帰ってきます!」

 桜の声は水平線へと進む船と共に遠のき、やがて見えなくなってしまった。それでも誰一人その場を離れようとしなかったのである。まるで台本のない寸劇の余韻を味わっているかのように…………


      ○


 石切坂 桜が転校して来たのは、折しも、春一番が吹き去った後のことであった。雪の様に肌が白く、整った顔の輪郭には柳眉に大きな瞳、小さな鼻翼とおちょぼ口がバランス良く収められており、黒く切り揃えられた前髪と背中に及ぶ長髪は、アイロンを当てた様に真っ直ぐと伸びていた。

  スカートから伸びる小股が切れ上がった足と細く繊細な指は、まさに容姿端麗を絵に描いたよう…………

 突如として現れたそんな黒髪の乙女に勝は生まれてはじめて鼓動を高鳴らせ、胸を熱くした比類なき日のことはなお鮮明に覚えている。

 そして、言ったのだ。

「私は友達なんていりません、だから仲良くしないでください」と。

 桜は言った、さよならの痛みはずっと消えない。だから、誰とも話さないと決めたと。

 勝ははじめてその痛みを知った。

 止め処なく湧き立つ感情にどうにかなりそうなくせに、体はからは力がどんどんと抜けて行くのである。

 そう、目から止め処なく溢れ出る涙のように……

 桜と笑った日、怒らせた日、胸をときめかせた日、桜が隣にいた日々が走馬燈のように蘇っては消えて行く。あらためて勝は願った。これが夢であって欲しい。どんな悪夢にでも耐えうるであろう。これほど残酷で辛い夢はない……

 勝が見た夢。桜がいて母がいて景がいて……そして自分が居る。遠のいて行く桜の姿。人が描く夢とは、書けば儚いと表す。

 儚くとも夢を描くのは人に生まれた嵯峨。永久を望むも人に生まれた嵯峨なのだろう。

 しかし、勝は気が付いた、悲しい気持ちの中にある一握りの温かいものがあることを……それは『思い出』。

 目を閉じれば目の前に桜がいる。

 涙が一粒つたう度に心に繋がる光明が今ここに見えた気がした。


 

 いつかきっと出逢える。この気持ちはやがて夢のように覚め行くことだろう。目が覚めるその日まで忘れないでいようと心に誓った。

  


 そして願い事を一つ。 



 遠いまた明日で、逢えますように……






 

           終わり

















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