異世界フィールドワーク

高橋右手

1日目

1日目


 今日から日記をつけることにした。理由は二つある。一つは単純な備忘録だ。私は今、一つ一つの判断が生死を分かつような状況にある。何か迷うことがあったのなら、この日記を判断の材料にしようと思う。自殺志願者でもないのだから、少しでも生存確率を上げる努力はすべきだろう。

 もう一つの理由は、この異常な状況を客観視するためだ。自分の精神や脳が正常であることを、このノートに刻みつける。そうでもしなければやってられない! 今すぐにでも木に頭を打ち付けて、恍惚のまま鼻血の海に沈みたくなってしまう。

 愚痴はやめよう。冷静であれ。架空の読者に語りかけるように平常心が必要だ。


 これまで私は日記の類を書いたことがない。作法がわからないので、とりあえず今日あったことを時系列順に書いていこうと思う。

 まずは朝からだ。

 目が覚めると私は見覚えのない森にいた。初っ端からこれである。おしゃれ小説の冒頭のようで気に食わないけれど、どうしようもない事実だ。

 記憶をたどると図書館からの帰り道に行き着く。コンビニに寄ってペットボトルのお茶とおにぎり2個、それにお菓子を買ったはずだ。実際、土がむき出しになった地面には、コンビニ袋と鞄が転がっていた。

 お酒も飲んでいないし、不健全な薬物に手を出した経験もない。コンビニを出たところで記憶はぶつりと断絶し森の中だ。

 理解の範疇を超える異常事態に陥った人間は、本当に頬を抓るのだと理解した。自分の脳を疑うしかないから、そういった無意味な迷信や慣習に従うのだろう。

 頬のちょっとした痛みが薄れるのを待っても、森は消えないし、ピンク色の象さんも現れない。これが現実と思うしかなかった。

 映画や漫画のように、悪者に捕まって危険な森に放り出されたのだろうなんて妄想がよぎった。私は正義の味方でもなければ、他人にあれこれされる借金もない。テレビに映るタレントなら、どっきり番組だと考えられるけれど、幸か不幸かそういった職業に就いてもいない。

 あらゆる可能性を検討し終わってから、はたと気づく。鞄の中に携帯電話が入っている事に。毎日毎日使っている文明の利器の存在を忘れているとは、完全に冷静さを失っていた証拠だ。

 しかし、圏外だった。GPS対応の地図アプリも入っていないので、現在位置を確かめることも出来なかった。

 携帯電話を握る手が震え、自然と力を込めてしまう。この役立たずが7万円もすることを思い出して、色々と思いとどまることができた。一時の感情に身を任せても後悔しかないことぐらい知っている。

 とりあえず携帯電話の電源を切ることにした。こいつが役立たずのまま終わらない事を願った。

 立ち尽くして文句ばかり考えていても仕方ないので、周囲を歩いてみた。前後左右を見渡しても木しか見えない。とりあえず太陽を目印に南に向かって進むことにした。幸いなことに地面は平らで、背の高い木が多いせいで草はそれほど茂ってはいない。歩くのに苦労はしないけれど、行けども行けども森の中で、遠くを見通すことはできなかった。

 鳥の声や木々が揺れる音に混じり、犬の遠吠えのような鳴き声が聞こえた気がした。徐々に足が早まっていった。視界の端で茂みが揺れたのに驚いて転んでしまった。擦りむいた手のひらがジンジンと痛んだ。

 こうやって文字にすると冷静に思えるけれど、実際は神経質に辺りを見回しながら、それこそ初めてお化け屋敷に入った時のような心細さで森を歩いた。途中で何度も何度も携帯電話の電源を入れなおし、電波や時刻をチェックした。電池の消耗が早まることぐらい分かっているけれど、我慢できなかった。

 やがて日が傾き始めた。何も発見できず疲労と焦りだけが蓄積した。走り出したくなるような不安が身体を包んでいた。

 夜を覚悟した私は、少しでも安全に休める場所を探すことにした。日頃の行いが良かったのか、二本の倒木が重なり、ちょっとした角を作る場所がすぐに見つかった。多少は周囲から身を隠せるし、なにより近くに遮蔽物があるという安心感が良かった。

 野営地が決まれば次は火起こしだ。携帯電話の電池は節約したいし、なにより温かさが恋しかった。それに野犬や猪、もしかしたら熊もいるかもしれない。野獣を遠ざけるためにも火は必要だ。

 目の前にある二本の倒木は乾いていて薪にはちょうど良さそうだけれど、大きすぎた。割れた樹皮や裂けた部分を踏みつけて砕いてみたけれど、あまり焚火ができるほどの量は採れなかった。すでに夕暮れ時だ、遠くに行くのは怖いので周辺に落ちている枝や枯れ葉を集めた。焼き芋ぐらいならできそうな一山ができた。

 燃料が揃ったところで、私はコンビニの袋からお菓子の箱を一つ取り出し、薄いビニールの包を開けた。一〇個入りの一口サイズの板チョコを一つ取り出して銀紙を剥いて、ぱくっと口に放り込んだ。乾いた口の中に唾液がじゅわっと溢れだし、刺激的な甘さとともにチョコが舌の上で溶けていった。生命活動を思い出したかのように、頬がきゅっと窄まった。

 チョコを食べたのはお腹が減ったからだけではない。必要なのは、残った銀紙だ。

 長方形の銀紙の二つの長辺をえぐるように千切る。地図記号の橋やルビンの壺のような、両端が太く中央が狭くなるよう銀紙を加工した。鞄に入っていた電子辞書から単三電池を取り外せば、着火装置の材料は全て揃う。

 銀紙の千切りカスやポケットの糸くず、ノートの切れ端などなど燃えやすそうなものを、焚火の枯れ葉にのせる。これで着火準備は全て完了だ。

 電池のプラスとマイナスに銀紙の左右の太い部分を押し付け橋を渡す。すると、銀紙の細い部分から煙が上がりすぐに火がついた。急いで火種を糸くずに持って行ったけれど、銀紙の燃焼が思ったよりも早く燃え移らせられなかった。

 失敗したとはいえ、とりあえず今日の火種の問題は解決だ。小学校の理科室で学んだ実験が、こうして生死を分かつほど役立つ日が来るとは思いもしなかった。自由電子さまさまだ。

 結局、チョコを3つ食べることになったけれど、なんとか火を大きくすることができた。その頃にはすっかり日が落ち、辺りは木々の闇に沈んでいた。

 身体がおにぎりを求めていたけれどグッと堪えた。消費期限+1日ぐらいは大丈夫だろう。500mlのペットボトルでは潤沢とはいえない。飲み物も食料も節約しなければならない。

 固い地面からお尻に土の冷気がのぼってくる。寒いほどではないけれど酷く心細くなった。冷気を払おうと焚火に近づきすぎて火傷しそうになった。

 一息ついた私は酷く疲れていることを思い出した。だから頭を空っぽにしたくて夜空を見上げた。キラキラと音を立てて降ってきそうな満天の星空だった。それは住んでいる街の明かりが届かないほど、遠く離れた山の中だという事実を私に突きつけてきた。深い溜息に焚火が揺れ、いくつもの影が踊った。


 この程度の出来事だったのなら私がこの日記を書くことは無かった。疲れていたのだから、そのまま寝てしまっただろう。実際、その時の私は倒木に身体を預けうつらうつらとしていた。

 最初に聞こえたのは鳴き声だった。鳥とも獣とも判別がつかない声が森全体を打ち鳴らした。とにかく恐ろしい声だった。私の眠気は吹き飛び、本能的な恐怖に倒木の陰に身体を押し付け震えることしかできなかった。

 続いて木々の間から何かが逃げ出すように風が抜けていった。激しく炎が揺れた。焚火を守るべきかどうか迷っていると、大きな影が頭上を通り過ぎていった。私は思わず、その影を追って天上を仰いだ。

 白銀に輝く鱗、蛇か蜥蜴のような身体、そして一対の翼。

 それは竜だった。中世ファンタジーを題材にしたマンガや映画に出てくる、あのドラゴンだ。それも二匹! 目測で10メートル以上あるだろう巨体を軽やかに操り飛んでいたのだ!

 私は恐怖も忘れてその神々しい姿をボケっと見続けた。二匹の竜は私の視線になど気づいていないだろう。グルグル回ったり、急上昇と急降下を繰り返したり、二匹で絡まるように戯れたりと飛び続けていた。まるで夜更かしした幼い兄弟が、月光浴を楽しんでいるようだった。実際には求愛のダンスや生殖行動なのかもしれないが、距離と暗さで交接器などは確認できなかった。

 5分か、あるいは30分、もしかしたら1時間だろうか、星明かりの下で私は自分の置かれた状況も忘れ竜の演舞を楽しんだ。

 やがて二匹の竜は月の方角に飛び去っていった。森は安堵するように、そよ風の息吹を取り戻し静寂が戻っていった。

 私は鞄に手を突っ込み筆記用具とノートを取り出すと、弱まった焚火の灯りでこの日記を書くことにした。


 正直なところ、私が異常な状況に置かれているのか、私の脳に異常が発生しているのかは分からない。現実の私は病院のベッドで、心電図をピコンピコンさせているのかもしれない。

 ああ、静寂に気が遠くなりそうだ。眠いのに神経はツンツンと尖っている。とにかく身体を休めて、できることなら少しでも寝たい。目が覚めたら、全てが元通りになっているかもしれないのだから。

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