ときはぐ椅子

「少し過ごしやすくなってきましたね」

 隣に座った青年が、親しげな微笑みでこちらを見つめていた。

 いつから、いたのだろう。全く気付かなかった。

 もしかしたら、うとうとしてしまっていたのかもしれない。そういえば、夢を見ていた気がする。

「そう、ですね」

 反射的に同意はしたものの、そうだっただろうか。いや、そうなのだろう。

 目の前の桜の木はまだつぼみが固く、茶一色ではあるけれど、陽ざしは少し明るくなった気がするし、確かに寒さは感じなかった。

「どなたかと待ち合わせですか?」

「えぇ」

 やわらかな口調が主人に似ていて、初対面の青年なのになんだか落ち着いた。

「僕もです。ただ、少し早く来すぎてしまったようで」

「結婚前の主人も、良く待ち合わせ時間より早くついてました。せっかちな人なんです」

 そうだった。

 私が約束の時間少し前に着いても「遅い」と文句を言っていた。

 同じ家に住むようになって、外で待ち合わせることもなくなったから忘れていた。

「僕の場合は単純に時間を見間違えたんです。せっかちじゃなくて、そそっかしいんです」

 青年は、はにかむ。

 落ち着いている風で、とてもそんな風には見えないけれど、人は見かけによらない。

「息子もあったわ。日曜日なのに学校へ行ってしまったり」

 なつかしい。

 大人になった今ではもうそんなことはないだろうけれど。

「息子さんがいらっしゃるんですね」

「ひょろっとした感じが、あなたと少し似ているかしら。あぁ、でもあなたみたいな美人と比べるのは失礼ね」

 隣に座った青年はきれいな顔立ちをしていた。身長と声とで男性だというのはわかったけれど、黙っていたら女性かどうか迷いそうだ。

 息子は、もちろん自分の子供だからかわいいけれど、客観的に見ればごく普通の顔立ちだった。

「どうかしたかしら?」

 ふと青年を見ると眉じりを下げて、どこか困ったような表情をしている。

「いえ。なんでも。待ち人、なかなかいらっしゃいませんね」

「そうね。私も随分早くに来てしまったの。あの人、せっかちだから、ね。私はそれより早く来て、待ってることにしたの」

「ずっと待っているのは辛くないですか?」

「せっかくのお出かけ、気持ちよく過ごしたいじゃない。お互い。それにあの人が、私を見つけてちょっと慌てて来る姿を見るの、好きなの」

 待ち合わせ場所に、はじめて私が早く来ていた時は、時計と私とを交互に何度も見返していて、その慌てた様子がおかしかった。

 私の方が早く到着するのが何度か続いた後は、あの人がもっと早く来るようになって、それを見越して私も早く来てと収拾がつかなくなった頃。

「プロポーズされたの」

 もう一緒に住んでしまいましょうかと。そうすれば、こんな意地の張り合いみたいにしなくて良いからと。

 子供じみたやり取りも実は少し楽しかったのだけれど、それ以上に、ずっと一緒にいられるのが嬉しかった。

「素敵ですね」

 穏やかな笑顔でうなずいてくれる。

 こうして話を聞いてもらえるのは、すごくうれしい。浮き立つ気持ちのまま、取り留めもない話を続ける。

 青年は、つまらなさそうな顔することなく、にこやかに受け止めてくれた。

「あ……」

 青年が何か言おうとしたのと同時に、足元に黄色いゴムボールが転がってくる。

 足取りが覚束ないような小さな子供がボールをおってぽてぽてと歩いてきた。

 それを見た青年の顔がどことなく曇ったように見える。

 青年の拾ったボールに手を伸ばしながら近づいてくる子供にむかってボールを投げる。

 力加減を間違ったのか、ボールは子供のいる場所より向こうへ飛んでいく。

 子供はボールを追いかけて拾うと、持ったまま青年の方へ近寄っていく。

 青年の膝の上にボールを置いて、少し離れる。ボールを投げてもらうのを待っているようだ。

「気に入られちゃったみたいねぇ」

 困り顔の青年はもう一度ボールを投げる。先ほどより、もう少し遠くへ飛んで行ってしまったボールを子供は懸命に追いかける。

 子供が苦手なのだろうか。ボールの投げ方といい、どことなく関わりたくなさそうにしている。それは、この穏やかな青年のイメージとはそぐわないけれど。

 ようやくボールに追いついた子供は、もう一度こちらに引き返してこようとしてバランスをくずし、ころぶ。

「うゎーん」

「あらあら」

 転がっていくボールと泣き声にあわてて立ちあがった私を青年の手が掴んだ。

「待ってください」

「放してちょうだい。息子が泣いているから行ってあげないと」

「駄目です。あれはあなたの息子さんではない」

 厳しい目でこちらを見つめる。

 感じの良い青年だと思っていたのに、少しおかしな人だったのかもしれない。関わってはいけなかったのだ。

 息子は泣き続けている。早く行ってあげないと。

 青年の手から逃れるように、強く腕を引いた。



   ※ ※ ※


 より強い力で女性は子供の方へ向かう。

 自分の息子だと主張して。

 優先すべきを、間違えてはいけない。

 彼女はすでに死者であり、子供には長い未来がある。

 女性の手をより強く引く。反発するように引かれた手を、放す。

 急に解放され、女性はつんのめるようにして地面に膝をつく。

 その隙に子供を起こし、片腕で頭を抱きかかえる。なにも見ないように。聞かせないように。

 振り返れば、ひどくゆがんだ般若のような表情の女性がこちらに手を伸ばす。

 もう猶予はない。既に間に合わないかもしれない。

 先ほど彼女が語った『息子』は大人であるはずなのに、今はそこにいる幼児を息子だと思い込むほどに記憶はすでに狂ってしまっている。

 散らしてしまうべきか。

「あなたにはまだ息子は居ませんよ。ほら、あちらにあなたの『彼』が」

 あきらめきれず、空いた手で桜の木の向こうを指さし、ぼんやりと光る人影を作る。

 わずかに表情が緩んだ女性は視線を人影に移す。

 出来るだけ穏やかに、何事もなかったかのように声を落ち着ける。

「待ち人、来ましたね。行ってください」

「あぁ。……えぇ、そうね。あなたの相手も早く来ると良いわね」

 混濁した記憶のおかげでうまく騙されてくれたようだ。

 元の穏やかな表情に戻った女性は、目を細めて笑う。そしてゆっくりと人影の方へ向かい、その光に包まれて消えた。



「ごめんね。大丈夫? ケガはない?」

 抱いていた子供を解放し、目線を合わせて尋ねる。

 いつの間にか泣き止んでいた子供は、涙のあとが残る顔でじっとこちらを見つめる。

「おにーちゃん、いたいの?」

「痛くないよ」

 子供に心配されるような表情をしていたのだろうか。情けない。

「あ、ママぁ」

 呼ぶ声に、子供はぽてぽてともと来た方へ戻っていく。

「大丈夫。間に合った」

 地面に座り込み、言い聞かせるように声に出す。

 見込みは甘く、巻き込んでしまったけれど最悪の状態は回避できた、はずだ。

 小さく震える手を鎮めるように指を組み、小さな背中を見送った。


                                  【終】



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