其ノ拾八 ~真相ノ暗示~
一月と千芹は、母の病室を後にする。蛍光灯に薄く照らされた病院の通路には、誰の姿も無かった。
「大丈夫なのかな、母さん……」
先程後にした病室に視線を向けつつ、一月は呟いた。面会の時には何事も無さそうだったが、もしも何かあったら――母の身を、一月は配慮している。
すると、彼の心配を払拭するように、千芹が答えた。
「大丈夫。いつき、しんぱいしないで」
「え?」
一月が千芹を振り返ると、千芹は袂を探っていた。
彼女は竹で作られた水筒を取り出し、一月に見せる。
「これ、保健室で飲ませてくれたお茶?」
千芹は頷いた。周りに人の気配は感じない。今は千芹と会話をしても誰かに聞かれる恐れは無い、一月はそう判断した。
「ただのお茶じゃないよ。これ、霊水でつくられたお茶なの」
不思議な効能を持つ水の事、一月は聞きなれない霊水という単語の意味をそう解釈した。。
保健室で一月が飲んだ際、そして今回鬼の負念に当てられてしまった一月の母。双方とも千芹の持つ竹筒に入ったそれのお蔭で、二人は正常な状態に戻る事が出来たのだろう。
「いつきのお母さんに飲ませておいたから、しんぱいしなくても大丈夫」
(あの時、そんな事を……)
琴音の黒霧に首を掴まれていた際、一月は薄らと視認していた。千芹が母に駆け寄り、何かをしていた事を。
どうやら千芹は、一月の母を助けるべく、行動していたらしかった。さらにその後、彼女は琴音に捕らえられた一月を助け出したのだ。
廃屋の時とそして今回、千芹に命を救われるのは二度目である。
「ありがとう。僕の事だけじゃなくて、母さんの事まで……」
「ううん、いいの」
千芹は笑顔を見せつつ、一月に応じた。
幼い外見に相応な、無垢で無邪気な笑顔を。一月から見て、千芹は可愛らしい外見と共に、とても心優しい性格をしていた。もしも千芹が精霊ではなく普通の人間だったのなら、周りからとても人気を集める子だったろうと思う。
再び、一月は足を進めようとする。
その時だった。
「っ……!?」
突然、一月の視界が回転した。
同時にまるでバランスを失ったかのように、一月の体がふら付く。
「いつき!?」
千芹が彼に駆け寄ろうとした途端、一月は壁にもたれ掛る。頭を押さえ、顔をしかめた。
とても苦しそうな表情を浮かべている一月に、小さな少女は駆け寄る。
彼女が近づいたのを気配で察した一月は、
「ごめん。何か、急に眩暈が……」
「あそこに座れる所あるよ、やすもう?」
揺れる視界で、一月は視線を上げる。
千芹は和服の袂を広げつつ、通路の隅に設置されていたベンチを指差していた。
「そうするか……」
覚束ない足取りで一月はベンチへと歩み寄り、力が抜けたように、ベンチに腰を下ろした。
背中を丸め、呻くような声を漏らしつつ頭を押さえる。
千芹は彼の隣に腰かけた。小さな彼女がベンチに座ると、床に足が届かずに裸足が宙に浮いていた。
「いつき、これ……」
千芹は、竹筒を差し出した。
一月は眩暈に襲われつつも受け取り、中の茶を一口、含む。
「ん……ふう……」
霊水で生成された茶を飲むと、一月の表情はみるみる和らぐ。
隣に座る白和服少女に、少年は竹筒を返した。
「いつき、やっぱりあの時の……」
平静に見えてはいたが、一月はダメージを受けていた。鬼と成った琴音に黒霧で首を締められた時の後遺症が今、現れたのだろう。
「あのさ……僕、前から気になってたんだけど」
「え?」
ベンチに腰かけたまま、不意に一月は新しい話題を切り出す。
「鬼はどうして、琴音と琴音のお婆さんを殺したんだろう……?」
それは、剣道場の教官室で黛の手紙を見た時から、一月が抱いていた疑問だった。
鵲村の言い伝えによれば、鬼とは死人の負念が連なり、寄り添い、形を成した姿だとある。そして生者を襲って殺害し、その者の魂を取り込む事で力を得ると。
一月にとって、ずっと引っ掛かっていた事だった。
鬼は何故、生者の中から琴音を標的に選んだのか?
単に適当に琴音を選んだのか、或いは他に理由でもあったのだろうか。
千芹は言う。
「きっと、ことねが……ううん、『あきざきの家系』が、特別な力を持っていたからかもしれない」
「え……」
彼女が口にした秋崎とは、琴音の名字である。
千芹は一月と目を合わせ、続けた。
「あの本に書いてあったでしょ? ことねのおばあさんが、れいのうりょくしゃだったっていう事……」
一月は頷く。
「きっとことねも家系柄、そういう何か……れいに類する力を持っていたんだとおもうの」
「まさか、その所為で鬼に狙われたって事……?」
「きっと、そうだと思う。れい的な力を持っているひとを取り込めば、鬼は大きな力をえられるから……」
千芹の仮説では、こういう事になる。
秋崎琴音は家系柄、生来霊的な能力を有していた。故に彼女の力に目を付けた鬼に狙われ、殺されてしまい、自身の魂諸とも、鬼に力を奪われてしまったと。
鬼は、最も美味しい餌として、琴音を選んだと――。
「何だよ、それ……」
怒声の籠った一月の声。
千芹が彼に視線を向けると、一月は両拳を握りしめていた。
「そんな理由で琴音は……彼女は、殺されたっていうのかよ……」
余りにも理不尽で不条理な理由に、一月は怒りを隠せなかった。
千芹の言う通りなら、ただ生まれつき授かった力の為だけに、琴音は殺されたという事になるから。
そんな理由で想い人であった少女が殺されたとなれば、我慢など出来る筈が無かった。
「でもいつき、それだと一つ分からないことがあるの」
「……?」
無言のまま、一月は隣に座る白和服少女に視線を向けた。
「鬼に狙われる程の霊力をもってる人なら、鬼は安易にその人には手をだせない筈なの」
「どういう事?」
一月が問い返すと、千芹は説明してくれた。
通常の人間とは違い、霊力を有する人間は鬼に対して耐性を有しており、鬼の魔手を寄せ付けない事を。
千芹の言う通り、鬼は琴音に安易には手を出せなかった筈だ。
「だったら、どうして琴音は……!!」
真っ先に浮かんだ疑問を、一月は言葉で発した。
鬼を寄せ付けない霊力を有していたにも関わらず、何故琴音は、鬼によって殺されてしまったのか。一月にとって、最大の疑問点だった。
白和服少女は視線を下へ向けつつ、答える。
「……きっと、ことねにとってとても辛い事があったんだと思う」
「えっ……?」
たった一文字で、一月は返す。
「人の悲しみや絶望……そういう心のすきまは、人の霊力をよわめて、鬼に付け入るすきを与えてしまうから……」
無言で、一月は少女の言葉に耳を貸す。
「だから何か……ことねにとって耐えられないような、とても悲しくて、とても辛いことがあったんだと思う」
千芹は一月に向き直った。
しかし、彼の視線は千芹を見てはいなかった。
(琴音が絶望するような事……)
思考を巡らせてみた物の、一月には琴音が絶望するような出来事に、思い当たる節は無かった。
しかし。一つだけ、一月には気になっている事があった。
廃屋で見た、琴音の日記である。
琴音が殺される日の前日のページの傷みが酷く、断片的にしか読めなかった日記帳――あのページに、何か重大な事が記されていたのかも知れない。
(あのページに一体、何が書いてあったんだろう……)
と、その時。
「それよりもいつき、もう迷ってるじかんはないと思うの」
真意の込められた千芹の声、一月は思考を中断した。
一月が白和服少女を振り向くと、彼女の凛とした瞳には、真に迫る意思が垣間見える。
「はやく鬼を……ことねを止めないと、お母さんみたいな目に遭う人がこれからも現れる。何もわるい事をしていない人が、鬼の負念の犠牲になってしまう……」
「……止めるなんて出来る訳無い」
一月はベンチから立ち上がった。
白和服少女に背を見せつつ、彼は言葉を続ける。
「他の人と同じように殺されて……それで終わりだよ」
所詮、自分はただの人間。
人智を越えた存在である今の琴音に、立ち向かえる筈など無い――彼はそう思っていた。
しかし、千芹は一月の思考を否定する。
「ううん、止められるよ」
間髪入れずに返ってきた千芹からの返事。
一月が千芹を振り返ると、彼女は言葉を繋げた。
「……いつきになら」
「それは……!!」
千芹が両手で持っていた物を見て、一月は驚愕した。
鞘に意味不明な文字が刻印された、古びた真剣だ。
「黛先生の机の下にあった剣……どうして……!!」
そう。紛れも無く、『霊刀・天庭』だった。
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