其ノ拾六 ~襲イ来ル怨鬼~

 一月は、何も出来なかった。自身の母親が窮地に陥っている状況と言えども、成す術が無い。

 相手が普通の少女だったのなら、まだ打つ手はある。だが、今一月の母を捕らえているのは、鬼と化した琴音。人智を越えた存在なのだ。

 向かっていけば、逆に自分が殺される。廃屋での出来事を覚えている一月は、恐怖に足を震わせていた。


(どうすればいいんだよ……!?)


 徐々に徐々に、母は高い位置まで吊り上げられていく。

 彼女の口からは、まるで空気が漏れ出すような声が発せられていた。もがくようにばたつかせていた両足は、徐々に動きを失っていく。


「ぐっ……!!」


 一月は拳を握る。

 手は汗まみれになり、口の中がカラカラに渇いていた。一刻を争う状況だという事は、一月自身が最もよく分かっている。

 だが、彼には何も出来なかった。


「鬼が……!? どうしてここに……!!」


 一月の後に続き、居間に足を踏み入れた千芹。

 居間の状況を視認すると、白和服少女は呟いた。

 琴音が発する黒い霧に首を捕らえられ、吊り上げられている一月の母が、千芹の視界に入る。


「!!」


 はっとしたような表情を浮かべると同時に、千芹は和服の袂に右手を入れ、探る。

 廃屋で一月を助けた時と、同じ仕草だった。


(そうだ、この子なら……!!)


 一月は望みを抱いた。

 そう。廃屋で琴音と遭遇した時、千芹は小刀を取出し、一月を捕らえていた黒霧を分断し、彼を救った。鬼と化した琴音と同じく、千芹も人智を越えた力を持つ存在なのだ。彼女ならば、母を救ってくれると思った。


 数秒後、千芹は袂から小刀を取出し、銀色の刃に指を添えた。

 一月は知っている。廃屋の時と同じならば、この後彼女は経のような呪文を唱え、小刀に青い光を宿す筈だ。

 想像通り、千芹は口を開く。


「唵……っ……」


 ところが、呪文の一文字目を呟いた途端、千芹は口をつぐんでしまう。

 そして――彼女は小刀を降ろした。


「どうしたの!?」


 焦燥に駆られるように、一月が問いかける。

 千芹は無言だった。彼女は俯くように視線を降ろし、目を瞑っている。片手には、小刀を握ったままだ。


「助けてよ、このままじゃ母さんが……!!」


 千芹は、首を横に振った。

 腰まで伸ばされた艶やかな黒髪が、左右に振られる。


「……だめ、たすけてあげられない」


 そして、一月の望みを絶つ言葉を呟いた。

 彼女の可憐な声で発せられる言葉に、一月は絶望感を掻き立てられる。


「さっきも言ったけど、わたしは……いつき以外の人をたすけることはできないの」


「!!……」


 学校の保健室で、聞いた内容だった。だが、一月にはそんな言葉で片付けられる事では無かった。

 この状況で、母を救えるのは千芹だけ。彼女が母を救わなければ、母も殺される。殺されて、鬼に取り込まれてしまう。


「何でだよ!? 君にしか――」


 危機的な状況に冷静さを失い、一月は千芹に掴みかかりそうになった。だが、小さな少女の顔を見た途端、彼はその手を止める。

 その理由は、千芹の表情。

 彼女は固く目を瞑り、今にも泣きだしそうな表情をしている。


「だめなの……!! そういう決まりだから……!!」


 助けたい。助けてあげたい。それでも、助ける事は出来ない。千芹が相当な断腸の気持ちを抱えている事は、一月には見て取れた。

 彼女を責める事は、一月には出来なかった。


(だけど、このままじゃ……!!)


 一月は、黒霧に吊り上げられて行く母に視線を戻す。

 母の足の動きは、みるみる内に小さくなっていた。最早、悩んでいる時間は無かった。一刻の猶予すらも残されていない状況だ。


(だったら……!!)


 意を決したように、一月は震える足に力を込めた。

 そして彼は、黒霧で母を捕らえている主――鬼と成った琴音へと、駆け寄り始める。


「いつき!?」


 無我夢中だった一月は、千芹の呼びかけに返事を返さなかった。

 何も出来ないとは分かっていた。下手をすれば、自分が琴音に殺されるかも知れない事も承知だった。

 自身に危険が及ぶ事を理由の一つにし、黛の意向には従わなかった一月。だが、眼前で殺されようとしている母を前に、ただ指を銜えていられる筈など無かった。

 鬼と化した想い人に、一月は力の限り叫んだ。


「やめろ、琴音!!」


 黒い霧の発生源――琴音に向かって、一月は走り寄る。側まで走り寄ると、一月には琴音の姿が一層に禍々しく思えた。

 黒い煙に包まれるような姿をし、風も無いのに靡く髪からは、恐ろしいほどの殺意に満ちた瞳が覗いている。正しく、無数の死人の負念が形を成した存在――鬼に違いなかった。

 彼女の周囲の空気はとてつもなく重く、そして冷たい。

 しかし、一月には恐れている猶予など残されてはいない。


《見つけた……》


 走り寄って来る一月を視認した途端、琴音は一月の母を捕らえている黒霧を解いた。黒霧から解放された母の体は、背中から居間の床へと落下する。

 千芹が、母に駆け寄った。

 手の届く範囲まで駆け寄り、白和服少女は一月の母の首元に手を当てる。


(まだいきてる……だけど、このままじゃ危ない……!!)


 一月の母は、まだ生きていた。

 しかし、長時間に渡って首を圧迫された所為だろう。


「はっ、うっ……げほっ……!!」


 額に汗を滲ませ、固く目を瞑り、苦しげに首を押さえ、一月の母は過換気症候群のように呼吸を乱していた。

 鬼の負念に長時間侵されてしまっている、このまま放って置けば命も危うい、千芹はそう判断を下す。彼女は一旦小刀を袂に仕舞い、代わりに一本の竹筒を取り出した。

 保健室で、一月に渡したのと同じ物。竹筒の水筒である。

 千芹は栓を空けて、飲み口を一月の母の口へあてがう。

 だが、容易には飲ませられなかった。

 苦しさに悶え続ける一月の母に、千芹は手こずる。


「のんで、お願い……!!」


「う……っ……げほっ!!」


 千芹が一月の母の口へ茶を流し込む。

 一月の母は咽返り、吐き出した。しかし、全部を吐いた訳では無かったらしく、少量は飲み込めたらしい。


「っ……ん……」


 苦しげだった様子は消え、一月の母の表情が落ち着いた。

 母は目を閉じ、気を失う。千芹は安堵した。最悪の結末は、回避出来たらしい。

 千芹が言うように、精霊はある特定の人間(彼女の場合は、一月である)しか助ける事を許されていない。

 だが、それには一定の基準がある。

 その者が絶対に『死ぬ』と確定している場合、精霊は干渉する事を許されていない。

 故に千芹は、一月の前に廃屋に立ち入った二人の女子高生を助けることが出来なかった。鬼に遭遇した時点で、彼女達の『死』は既に決していたからである。

 さらに今回、一月の母が琴音の黒霧に捕らえられた際も同様。

 しかし、その者が『死ぬ』かどうか定かでない場合――精霊が干渉する事によって、死から救える可能性がある場合。

 今回のように鬼の負念に当てられ、身体的に異常を来してしまった等の場合は、そのままでは助かるか、或いは死ぬかどうかは判断出来ない。

 場合によって『死ぬ』か、『生きるか』である。

 絶対に死ぬとは言い切れない状況の為、千芹は一月の母を助ける事が出来たのだ。


 だが、危機的状況である事に変わりは無かった。

 一月の母が解放された代わりに、一月が黒霧に捕らえられてしまったから。


「がっ……!!」


 首に絡み付く黒霧の感触は、一月には廃屋の時よりも一層不気味に思えた。


《殺してやる……!!》


 憎しみと殺意に満ちた琴音の瞳が、一月の顔を映していた。

 琴音の伸ばされた髪が、蜘蛛の巣のように靡いている。


「もう、やめろ……琴音、こんな事……!!」


 黒霧に捕らえられながら、眼前の負念の塊と化した想い人の少女に、一月は哀願する。彼は止めさせたかった。何の罪も無い人の命を奪い続ける、琴音の凶行を。


「本当の君は、そんなんじゃないだろ……!!」


 例え少しでも、僅かでも――。

 一月は琴音に、生前の頃の優しさを、温かさを思い出して欲しかった。

 だが、憎しみや妬みや嫉み、人間の持つ負の感情の塊と化した琴音には、彼の言葉など届かなかった。


《死ね……!!》


「あ、がっ……!!」


 黒霧がより強く、一月の首を圧迫し始める。

 眼球が零れ落ちそうな錯覚すら覚える程、一月は目を見開いた。


「琴……音……!!」


 それでも一月は、琴音の名を呼び続ける。大切だった親友、初めて好きになった少女。どんな姿でも、一月にとって彼女は秋崎琴音だったから。


(……それでいいんだよ、いつき)


 傍らで、千芹は竹筒を仕舞い、再び白銀の小刀を取り出していた。


(あなたが一歩をふみ出せば、わたしはその背中をおしてあげられる)


 小刀の刀身部分に、千芹は指を添える。

 そして彼女は目を閉じ、呟いた。廃屋で一月を助ける時に唱えた物と同じ、魔除けの経――光明真言を。


「唵 阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽 入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽……」


 千芹が握る小刀が、青い光を纏い始めた。

 そして、白和服姿の少女は、琴音に、一月を死の世界へ引きずり込もうとしている鬼に、険阻な面持ちを見せる。





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