其ノ九 ~雨音止マヌ保健室~


 保健室に連れられた一月は、白いパイプベッドの上で寝息を立てていた。

 暫く横になっていれば気分も良好になるだろう、というのが養護教諭、すなわち保健室の先生の診断だったのだ。その養護教諭の若い女性は一月が気持ちよさそうに寝息を立て始めたのを確認し、所要を足す為に一度保健室から退室した。

 保健室に他の生徒の姿は無く、一月だけである。

 薬品の匂いが仄かに漂う室内の壁には大きな窓がはめ込まれていて、無数の雨粒がまるで体当たりのようにぶつかっている。


《いっちぃ……》


 眠っていた一月の頭の中に、聞き覚えのある声が浮かんだ。

 いや、聞き覚えのある、所では無いだろう。一月の事を『いっちぃ』と呼ぶのは、この世にただ一人だけである。


「……!?」


 眠りから引き戻された一月は、ゆっくりと目を開く。

 すると、視界の端に誰か……少女の姿を捉えた。視線を上へ動かし、一月はその少女の顔を見る。


「え……!?」


 そして、言葉を失った。

 雨粒が窓を叩く音が支配する保健室の中、パイプベッドの側に立っていた少女は――。


「こ、琴音……」


 そう、秋崎琴音だった。

 しかも廃屋で遭遇した時のような悪霊としての姿ではなく、生前の彼女と何ら変わりのない、普通の少女としてである。


《いっちぃ……》


 琴音は、一月へと右手を差し伸べた。一月はベッドの上で身を起こして、自らも右手を差し出す。

 どうして彼女がここに居るのか、今はそんな事はどうでも良かった。もしかしたら、琴音が命を落としたという出来事自体が、悪い夢だったのかも知れない。ただ、彼女ともう一度会えた事が嬉しくて堪らなかったのだ。


 だが、一月が琴音の手を取った瞬間、


「!?」


 真っ先に、一月は違和感を感じた。

 差し伸べられた琴音の右手は、どう考えても人間の手の感触では無かったのだ。


(冷たい……!!)


 体温が存在しない、まるで氷のような――。『死んだ人間』の手を握っているかのような感触が、耐え難い程に不気味だった。

 一月は直ぐに琴音の手を払おうとした。しかし、それは叶わなかった。少女とは思えない恐ろしい力で、琴音は一月の右手を握りしめていたのだ。

 離さない、逃がさない……そんな意思が込もっているように感じた。


「!!」


 途端、一月の右手を握っている琴音の顔が、変貌していく。

 目が充血し、口からドボドボと鮮血を溢れさせ――数秒前までの普通の少女の姿は、見る蔭も無くなっていく。流れ落ちた生臭い血液が、一月の右腕にも零れ落ちて来た。


「あ、あああ……ああああああっ……!!!!」


 凄まじいまでの恐怖に、一月の口から意味を成さない言葉が漏れ出す。

 必死に振り払おうとしたが、琴音は一月の右手を放さなかった。

 気付いた時には、もう何もかも遅かった。琴音は廃屋で遭遇した時の『鬼』の姿へと完全に変貌し、一月に襲い掛かった。

 逃げる事など出来ない。


「っ!?」


 一月の右手を握って琴音の手が、みるみる黒い霧のようになっていく。

 黒い霧はまるで命を持つかのように一月の腕にまとわりつき、彼の腕を、肩を、首を、顔を、やがて全身を覆っていく。


「う、うわあああああああああああッ!!!!」


 喉が潰れそうな程の声で叫んだ後、急激に一月の意識が遠のいていった。

 ここで意識を失えば、取り返しのつかない事になる。一月は本能でそれを察知した。

 しかし、最早抗う術など無かった。

 全身にまとわりついた黒い霧は、一月の鼻を、口を塞ぎ、やがて首に絡み付いていく。


「う……ぅ……ぁ……」


 黒い霧に完全に捕らわれた一月には、叫ぶ力すら残っていなかったのだ。

 次第に薄れゆく意識の中、一月が最後に目にしたのは――。


《お前も……此方の世界へ……》


 親友であり想い人でもあった少女、秋崎琴音の醜悪な笑顔だった。命尽きようとしている一月を見下ろしながら、彼女は血塗れの歯を覗かせて笑っていた。


《思い知れ……お前の犯した罪の重さを、その身を以て思い知れ……》



 ◎ ◎ ◎



「!!!!」


 目を開いた時、一月は保健室のパイプベッドの上に横向きに寝ていた。ベッドの側には琴音は立っておらず、全身に黒い霧は纏わりついていない。

 耳に入って来るのは、雨粒が窓を叩く耳障りな音だけである。

 まるで脱力したように、一月は大きくため息を吐いた。 


(なんて夢だ……)


 夢だったという事実に一月は一応の安堵を覚えたものの、ただの夢と呼ぶには余りにもリアルで生々しい物だった。

 呼吸が荒いでいて、背中にも額にもびっしょりと汗をかいていた。


「……!?」


 その時、横向きにベッドに寝ていた一月の首に、何かが触れたような感触が。

 さらさらとした、糸のような物。


(何だこれ、細い糸……?)


 一月は顔を正面へと向ける。

 それと同時に――。


「……え?」


 幼い少女の顔が間近にあった。長い黒髪の白和服少女、千芹である。

 彼女はベッドの上に座り、身を乗り出すようにして一月の顔を見つめていた。


「わ、わっ!?」


 先程、一月の首筋に触れたのは、どうやら彼女の長い黒髪の一部分だったらしい。


「いつき大丈夫? すごいうなされてたよ?」


 千芹は何食わぬ顔で、一月へと問い掛けてくる。

 一体、いつからベッドの上で一月の寝顔を眺めていたのだろうか。


「……嫌な夢を見たんだ」


 一先ず、一月は落ち着く事にした。

 ベッドの上で体を起こし、彼は前髪が汗ではり付いた額に片手を当てる。


(本当に……嫌な夢だ)


 先ほどの悪夢を思い返しつつ、一月は心中で呟いた。

 まるで焼付くかのように鮮明に、夢の中で体験した出来事が頭の中を巡る。思わず右腕を確認したが、黒い霧は絡み付いていなかった。

 側にいるのは琴音ではなく、千芹だ。


「……喉渇いたな」


 一月はベッドから出ようと、靴を履こうとする。

 寝汗を多量にかいた所為だろう、口の中がカラカラに渇いていた。


「ちょっと待って、いつき」


 不意に後ろから呼び止められ、一月は千芹を振り返る。

 和服姿の少女は、右手を和服の袂に入れ、何かを探っていた。


「何?」


 数秒後、千芹は袂から竹筒を取り出した。

 竹を切り抜き、水筒へと加工した物である。飲み口の部分には、小さな栓がはまっていた。


「のんで、きぶんも良くなるよ」


 栓を外しつつ、千芹は竹筒を一月へと差し出した。

 一月は栓の外れた竹筒を受け取る。軽く振ってみると、ジュースの缶を振ったのと似た音がする。

 中には、何かの液体が入っているらしい。


「これは……?」


 一月は直ぐに飲み口に口を当てようとはしなかった。

 中の液体が何か分からない上に、竹筒の水筒というのは普段使い慣れない為、どこか抵抗を感じたのだ。


「なかみはお茶だよ」


 少年の心中を察したのか、千芹は一月に告げた。

 僅かばかり悩んだ後、一月は飲み口に口を当て、竹筒の中身を少しだけ口に含んだ。

 千芹の言う通り、中身はよく冷えた茶だった。


(このお茶……?)


 しかし、そこらで手に入るような単なる茶とは違った。

 僅かな量を口に含んだだけで喉がみるみる潤うだけでなく、気分までもが良好になっていく。

 一月の体から汗が一瞬で引き、先程の悪夢のことまで忘れられそうだった。


「ぐあいはどう? 良くなった?」


 一月は頷き、


「大分……」


 一月は竹筒を千芹に返す。彼女は栓を締め直し、竹筒を袂へと仕舞う。


(そういえば……)


 彼女の行動を見て、一月はふと思い返した。

 廃屋で一月が琴音に殺されそうになった時、彼女は突然現れ袂から小刀を取出し、そして一月の窮地を救った。その点に関しては、一月は彼女に――千芹に、深く感謝の念を抱いている。

 しかし、肝心なのはここからだ。

 廃屋の仏間で見た、二人の女子生徒の死体。状況的に考えて、あの二人は琴音に殺されたのだろう。

 彼女達二人も、一月と同じような恐怖と苦痛を味わったに違いない。


(……)


 一月は、無言で千芹の両目を見つめた。


「なに?」


 千芹は無垢な笑みを浮かべつつ、応じた。

 自分を助けてくれた少女だ。別に疑いを抱いている、等ということは無い。けれども、どうしても一月は訊かずにはいられなかった。


「あの……さ、廃屋で見たあの二人は、助けてあげられなかったの?」


 雨音が鳴り渡る保健室の中、一月は少女に問いかける。

 もし彼女が助けていれば、あの二人はあんな凄惨な死に方をする事も、無残な亡骸を晒される事だって無かった筈だ。

 千芹の行動一つで、救えた筈の命なのだ。


「……!!」


 途端、千芹の表情から笑みが消えた。

 そして、まるで激しく罵倒されたかのような、今にも涙を流しそうな表情を浮かべていく。

 黒髪をぱさりと靡かせ、彼女は一月に背を向けた。


「あ……ごめん、別に君を責めるつもりは……!!」


「たすけてあげたかったよ」


 一月に背を向けたまま、千芹は応じた。その声は可憐ながらも悲しげだった。


「でもね、わたしはいつき以外の人をたすけることはできないの」


 千芹の瞳は、保健室の壁にはめ込まれた大きな窓に向いていた。

 窓の外に映っているのは、高校のグラウンド。湖のように巨大な水溜りに雨粒が降り注ぎ、雨音と共に無数の波紋を作り出していた。


「どうして……?」


「わたしはいつきを鬼から救うためにつかわされたから。だから、ほかの人をたすけちゃいけない」


 僅かな沈黙が保健室を支配する。

 いや、耳障りな雨音の所為で、『沈黙』と呼ぶには相応しくは無いかもしれない。


「それがわたし達……『精霊しょうりょう』の、たいせつな決まりごとなの」





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る