第45話「がしゃどくろ -千里とパリート、ジャマル-」

 すっかり桜の季節だが、この動物園はそれほどお花見には向かない。

 桜は園門がある広場に数本生えているだけだし、園内は全面禁酒禁煙だ。

 科学動物園と名乗っている以上当たり前のことである。酔っていて動物の観察ができるものか。

 広場からは放射状に道が伸び、どの動物の放飼場にもすぐにアクセスできる。

 園路を彩る緑は、キリンとシマウマのサバンナに向かう道にはアカシアと芝草。トラとバクのジャングルに向かう道には竹、シカやタヌキの里山に向かう道ならコナラにアカマツ、といった具合。まだ葉が生え揃っていない木が多い。

 そして、国内で見られる中ではパラサウロロフスと並んで最大級の恐竜、アマルガサウルスのいる分園には、ソテツとヒカゲヘゴとナンヨウスギに囲まれた道を東に行くのだ。

 やがて道は陸橋に続く。先を見れば円筒形の建物の二階が見える。

 そして陸橋の左右を見下ろすと、その建物が赤い砂の敷かれた放飼場にすっかり取り囲まれた小島であることが分かるだろう。

 橋の入り口にはアマルガサウルスのシルエットが図示されている。

 丸々とした、アフリカゾウに勝るとも劣らない胴体。それを支える柱のような四肢。背中は横に並んだ人間のシルエットより頭二つ分も高い。

 首と尾は胴体と同じくらいの長さがある。とても太い首が前に突き出されている。

 何よりも目を引くのは、首の背中側に並んだ細長い棘だ。揃った箸のように左右ペアになり、少し後ろに傾いている。首の中ほどのものが最も長く、四十センチほどある。

 頭は、先がすぼまった首に直接口が付いているように見えるくらい小さい。

 橋の上から放飼場を見下ろせば、当然その姿を探すことはできる。

 オスメス二頭ずつのアマルガサウルスは、大体メスは二頭が寄り添って、オスは一頭ずつ、思い思いの場所で思い思いのことをしているだろう。

 しかし、ここで八方に広がる放飼場からアマルガサウルスを探すのは徒労というものだ。

 放飼場には植え込みや岩の柱、池や丘がいくつもあり、大きなアマルガサウルスでさえ風景に溶け込むことができる。

 中心にある建物、観察センターまで進んだほうが断然見やすい。

 そして、センターを囲むテラスから見ても陸橋から見ているのと大して変わらないので、センターの中に入ってしまう。

 すると高々と掲げられた大きなディスプレイと向かい合う。

 丸い広間の中心に向かって進んでいくと、周りを全てディスプレイに取り囲まれる。

 それら全てが放飼場の様子を映していて、いくつかは縁が青く光っている。

 オスのうちの一頭、パリートが、池に向かって歩いていくところが映っていた。

 橋にあったシルエットで見ると単に太いだけだった首は、太いというよりも縦の幅が広い。

 首を斜め下に向けていると、その上に並ぶ棘は真っ直ぐ真上を向く。棘の表面には無数の傷があり、その合間から黒々とした鈍い艶を放っている。

 背中にもごく短い棘がある。体全体は薄い青と濃い黒緑の、縦長な形をしたまだら模様に覆われている。

 棘の形と模様の形が溶け合い、棘がとても長いようにも、ぼんやりとした形の茂みが動いているようにも見える。

「恐竜あっちだって!行ってみよう!」

 親子連れの来園者がディスプレイの表示を見て外に出ていく。

 一つひとつのディスプレイの下に出口があり、今アマルガサウルスが実際にいるところを外のテラスで見られるのみならず、センター外壁の階段を下りて園路から見ることまでできる。

 そして、ディスプレイは単に来園者の案内のためだけにあるのではない。

 私達飼育員も、広間の中央にあるブースで映像をチェックしている。

 パリートの進む先を見やると、すでにもう一頭のオスが池で水を飲んでいた。

 やや色の薄く見えるジャマルだ。

 私はブース内で行っていた観察記録の整理を中断し、タブレットを手に池のほうに向かった。

 これから目視で観察しておくべきことが始まるのだ。

 私が堀の向こうに池が見える位置まで来たときには、パリートはすでにジャマルに出くわしていた。

 来園者もディスプレイの表示のおかげでジャマルの見える位置に集まっている。

 放飼場は園路より一段高く、パリートの首も背中も、そそり立つ壁のようだ。よく見れば棘だけでなく体にもたくさんのひっかき傷がかすかに付いている。

 パリートの頭の形はヤギのものにいくらか似ている。口は裂けて皮膚は鱗に覆われているが。

 そう、パリートはまさに雄ヤギのような恐竜だ。

 私はタブレットを操作し、広間のディスプレイ用とは別のカメラを起動させた。

 池の岸辺に据え付けられたVRカメラが全周立体映像を撮影し始める。

 パリートは首を上下に振ってみせた。前後の棘の先が触れ合ってカチャカチャと音を立てる。

 ジャマルもそれに応える。思ったとおりだ。

 二頭は池に頭を向けて平行に並んだ。パリートが奥、ジャマルが手前にいる。

「仲良しだねえ」

 来園者の誰かが勘違いして言っている。

 次の瞬間、パリートが首を全力で横に振った。

 ドコココン。

 ぶつかり合った二頭の首と棘が音を立てる。

 首そのものが当たるドッという音が一つと、棘同士がぶつかるコンという音がたくさん。それで独特の複雑な音が鳴るのだ。

 来園者からも驚きの声が上がる。叫び出す子供もいる。

 ドコココン。ジャマルの反撃だ。首の側面が太鼓のように震える。

 やはり二頭は水を飲む順番をめぐって争い始めた。

 二頭は交互に首をぶつけ合う。

 次第に二頭の頭がこちらを向き始めた。奥のパリートが手前のジャマルを圧倒しているのだ。パリートが首を当てる音は大きく、ジャマルが首を当てる音は小さくなっていく。

 パリートの鼻息が聞こえ、それが自信の表れのように思える。ジャマルが口からブッと息をもらす声は苦しそうだ。ジャマルの体勢がみるみる逃げ腰になっていく。

 とうとう、パリートの首がジャマルの肩に当たった。もうさっきまでのような複雑な音は鳴らない。

 ジャマルは岸辺から退き、パリートに水を明け渡した。

 運良くこの激しい場面に出くわした来園者は、皆呆然として余韻に浸っていた。

 こうしたとき私は、来園者がアマルガサウルスに関心を持ってくれて本当に良かったと安堵する。

 アマルガサウルスはあくまで国内にいる中でだけ最大級の恐竜だ。今時もっと大きな恐竜の姿が図鑑でもテレビでも見られる。そちらと比べられてしまったら……。

 映像は撮ってあるので、これが研究者や来園者の役に立つときがすぐに来るだろう。この撮影の操作自体は今のところ業務に差し挟まった一行程でしかない。

 それより気がかりなのは、パリートがまた勝ってしまったことだ。

 ここ最近は三回に二回はパリートが勝っている。このままではパリートとジャマルの立場に差が付きすぎてしまうだろう。自信の喪失は健康問題にも関わる。

 それに、二頭ともまだ若いからこの程度で済んでいるが、もっと成長して争いが激しくなれば怪我にもつながる。

 早いうちに二頭を同時に放飼場の同じ区画に出さないよう段取りを組む必要がある。

 パリートが水を飲み終えてその場を離れ、ジャマルもその後から飲み終えたところでVRカメラを止めた。

 しかしまだセンターに戻らず、メス二頭、メルとアガタの様子もついでに見ておくことにした。ディスプレイで見てはいてもやはり肉眼で観察するのも大事だ。

 タブレットの表示を切り替えると、二頭は池の前からさほど離れていないところにいるのが分かった。

 近付いてすぐ争いを始めたオスと違って、メス二頭は寄り添ったまま行動している。

 あまり力比べを行わないので、棘も肌も傷が少なくつやつやとじている。模様はオスと比べて細かく、色が薄い。

 尾の先を触れ合わせながら、植え込みの中に顔を突っ込んでいる。

「何してるんだろうね」

 親子連れの来園者が不思議そうにしていたので、私は声をかけて説明した。

「あの奥に餌がないか確かめているんですよ。自動で餌が出てくるようになっているんです」

 二頭は植え込みに隠された給餌装置、通称「自販機」の受け皿を調べているところだった。

 私は来園者にタブレットの画面を見せた。

「わあ、食べてる」

 タブレットには今メルとアガタがいる自販機の受け皿の映像が映っている。ちょうど餌が出ていたところだった。

 自販機は放飼場の五ヶ所に設置されている。ガチャポンや十円ガムの自販機のように、餌を貯めるタンクから下の受け皿に餌が出てくる仕組みになっている。餌は米ぬかとアルファルファ、野菜を主にした何種類かの固形飼料だ。

 ただし餌はアマルガサウルスの好きなタイミングではなく、ランダムに出てくる。

 アマルガサウルス達は五台の自販機の間を、植え込みや岩を避け、丘を登り降りしながら歩き回ることになる。

 いくらこの放飼場が広いとはいっても、それは日本の動物園にしてはという程度だ。

 運動量を増やしたり生活に変化を与えたりする工夫がなくては、アマルガサウルスの飼育が認可されることはない。

 それに、科学的な研究を行うという姿勢も必要だ。

 画像認識によりどのアマルガサウルスがどのくらい餌を食べたかがきちんと記録されている。他のデータとも組み合わせれば、健康状態や繁殖のサイクルが手に取るように分かる。

 そのデータを取得する源が放飼場の中に落ちている。つまり、糞である。

 これでさえどの個体がしたものか記録されている。メルのものだ。

 掃除のときにも糞を単なるごみ扱いせず、個体ごとに拾い集めて、重量を測定し、サンプルを取って未消化物やホルモンを分析するのだ。

 ついでに繊維質から紙を作ってチャリティーグッズとして販売したり、乾燥させて寒い時期に竜舎内や放飼場の一部を暖める燃料にしたりする。

 アマルガサウルス達の健康を守り、アマルガサウルス達から知ることのできることを余さず捉えるための設備と技術に満ちている。とても恵まれた飼育環境だ。

 とはいえ、本当の本当に恵まれた施設とは全く比べ物にならないことを、私は知っているのだが。


 閉園日、私達飼育員は設備展示課の加藤さんの呼びかけで、観察センターの一階に集まっていた。

 このフロアでは標本やパネルの展示、図書の公開を行っている。中央にはアマルガサウルスの骨格が立ち、他にも南米のものを中心に恐竜やアンモナイトの化石が並んでいるから、ちょっとした博物館である。

 以前は端のスペースを持て余していたが、今そこは黒い壁でふさがっていた。壁には三つの扉があった。

 痩せた初老の男性、加藤さんが、にこやかにこの壁の向こうにあるものを説明した。

「皆さんに協力していただいて撮れたVR映像が、ついに上映できるようになりましたよ」

 私とあと二人の飼育員がそれぞれ扉の中に案内された。

 そこは壁の外側と同じく真っ黒の、円柱形をしたものものしい空間であった。

 正面だけでなく八方に大小のスピーカーが備え付けられ、中央には天井からVRゴーグルが吊り下げられている。

 放飼場と同じ赤い砂が敷かれた段の上に上がり、手すりをつかんで、ゴーグルを付けてもらった。

 何も見えない状態で真後ろから扉の閉まる音が聞こえ、上映が始まった。

 黒い背景に「竜脚類 巨大恐竜の生活」というタイトルが現れた。

 それが消えると、私は古い建物の荘厳なホールに立っていた。

 ここはロンドン、大英自然史博物館だ。

 目の前のあまりにも大きな黒い骨格で気付いた。

 一見アマルガサウルスと似ているが、アマルガサウルスをはるかにしのぐ体格。

 アマルガサウルスよりずっと長い、何メートルもある首と十メートルに達する尾は、棘などなくシンプルだ。洗練されていると言ってもいい。

 大英自然史博物館メインホールの主であるディプロドクスの骨格、通称「ディッピー」である。

 由緒ある見事な骨格を肉眼とあまり変わらない立体感と臨場感で見られるなんてありがたい。優雅な弦楽器の音色と私には特に新味のない解説が流れているのを聞き流しながら、私はディッピーを観察した。

 一つひとつが細かい柱の集まりからなる椎骨。自分の重量は抑えつつ、支えられる重量を増やす構造だ。真っ直ぐな四肢も体重を支えることに徹したもの。骨盤は胴体と後肢の間で力を伝達する。

 頸椎の構造を確かめたかったが、手すりの中にいてはよく見えない。

 ディッピーは二十メート余りあるのに私はその場に立ち止まって見ないといけない。

 もどかしいなと思っているうちに、重厚な建物が暗闇に変わった。

 そこには私とディッピーだけが残され、音楽はフルート中心の軽快なものに変わっていた。

「現在では化石から再生された竜脚類を飼育することにより、化石のみで研究を行っていた頃とは比べものにならないほど多くのことが明らかになっています。例えば体の構造だけでも、骨だけでなく、筋肉や腱、内臓の構造……」

 ディッピーの腰の上で何かが光った。

 するとそこから、前後の背筋に沿ってピンク色の帯が伸びていく。

 全身を吊り橋のように支える靭帯だ。ディッピーの首は脱力し、明らかに靭帯に支えられていると分かる向きに変わった。

 脊椎の上にある棘突起はすっかり靭帯で覆われた。頸椎や胴椎の空洞は白い袋で埋まっている。呼吸を助ける気嚢だ。

 それも上から赤い筋肉が覆い被さって見えなくなった。骨盤や四肢、尾も同じだ。

 気道、食道、それに太い血管が顎から頸椎の下を通って、肋骨の籠の中に到着した。

 肺や心臓や肝臓が膨れ上がり、胃や腸が伸びていった。それらもすぐに薄い肉で包まれる。

 ついに眼窩の中に目が生まれ、こちらをぎょろりとにらみつけた。

 しかしこのままではまるでゲームに出てくるドラゴンゾンビだ。

 そう思うやいなや、ディッピーはパウッと短く吠えた。

 その震動が伝わるように、顔から皮膚が生えて全身を素早く覆っていく。背中にはごく短い棘まで生えていく。

 皮膚の皺は関節の動きに従って刻まれる。鱗の一枚ずつが若葉色から青灰色や赤褐色まで異なる色をまとい、どんな模様とも言いがたい。

 積年の傷や、土ぼこりまでまとっている。

 ディッピーはとうとう生きていた頃のとおりに蘇ってしまった。

 いや、目の前にいるディプロドクスは、もはやディッピーではなかった。いつの間にかもっと大きくなっていた。

 それに、私はこのディプロドクスを世話していたことがある。

「フレディ……」

 米国立自然史動物園で暮らしているオスのディプロドクス、現在の地上で最大の動物、フレディの姿に間違いなかった。

 フレディは左前肢を浮かせ、前に進めた。

 フレディの向いているほうから見る間に光が広がり、強い風とともに視界が全て白くなる。

 それがおさまって金管楽器の重厚な音色が響くとともに、私はさらに懐かしい、恐ろしいものを目にした。

 見渡す限りに広がる野原、ちらほらと立っている針葉樹。

 フレディを始めとするディプロドクス達が十頭ほどの集団を作り、二十メートルも離れていないところを通ろうとしている。

 アマルガサウルスの世話をする前に研修を受けていた、自然史動物園の超巨大放飼場の光景だった。

 ディプロドクスの規制ランクはティラノサウルスと同じでアマルガサウルスの一つ上、どんなに優れた設備と研究体制を用意しても原産国でなければ飼育できないものだ。

 その上のランクは、化石から再生してはいけないものしかない。

 音楽に混じって、ディプロドクスが尾を振り空気を切る音が聞こえてくる。

 尾があまりにも長いものだから、ちょっと揺らしただけで先端が猛烈な速さで往復するのだ。その音と動きをサインにして群れがまとまっている。

 一目で群れ全体を見渡すことなどできるわけがない。私は何度も左右を見回した。

 脇腹がちょうど目線の高さにある。

 群れは皆地表の食べ物を求めて、首を下に傾けて左右に振っている。

 まばらに生えた草は、ここのディプロドクスにとって現代での重要な代用食であるアルファルファやクローバー、アブラナといった様々な植物だ。

 充分に育った株を見付けては、ウマに似た長い口の先でむしり取る。

 一頭ずつ口元にカメラ、喉に加速度センサーが貼り付けてあり、食べたものの種類と量が記録される。

 フレディもアルファルファを食べようと首を左に伸ばしたが、もう一頭のディプロドクスとかち合った。同じくらいの体格のオス、ロバートだ。

 フレディは首を右に引っ込めた。一見諦めたように見えるが、それは違う。

 勢いをつけて、フレディはロバートに首を叩きつけた。

 ボォン、と、重く低い音が一つ。

 ロバートもこれにはアルファルファどころではない。この二頭は互角の争いを続けているのだ。

 二頭とも四肢を踏みしめ、本格的に力比べを始めた。

 さっきよりずっと大きく首を外に向け、そこから渾身の勢いを込めて相手の首めがけて振り抜く。

 ボォン。ボォン。

 竜脚類が化石から再生されるようになるまでは、肉食恐竜に長い首の側面をかじられるイラストがよく描かれた。

 確かに下側の気道と動脈は弱点かもしれないが、的確にそこを狙う当てもなく近付いても、なぎ払われるだけだっただろう。

 しかしこんな場面はなかなか直接見られるものではない。

 ネット配信はされているものの、限られた平らな画面では迫力は無きに等しい。

 今は、研修で見ていたのとほとんど変わらないものが眼前で繰り広げられている。

 これはVR技術の勝利だ。以前よりずっとたくさんの人々が、ジュラ紀の巨大生物の威容を目の当たりにできるのだ。

 では私達のアマルガサウルスにとっては敗北なのだろうか。

 フレディとロバートの戦いは、現実のものでないにも関わらず、パリートとジャマルのそれをしのぐ迫力を感じさせる。

 この映像はゴーグルがあれば家庭でも見ることができるだろう。そうなったとき、私達が科学動物園で見せられるものとは何なのだろうか。

「いかがでしたか?ジュラ紀の大型竜脚類の生活がスケールのとても大きなものであったことがお分かりいただけたと思います」

 全面的に肯定せざるを得ないナレーションだった。

「中生代にはこのような大きな竜脚類がとてもたくさん現れました。しかし全ての竜脚類がこのように巨大だったのではありません。それでは、私達の動物園で暮らしている身軽な竜脚類、アマルガサウルスの生活を見てみましょう」

 再び、強い光と風。

 その向こうに見慣れた姿が現れた。

 四頭のアマルガサウルス達が竜舎から放飼場に出て、こちらに向かってくるところだ。

 音楽は鳴り止み、植え込みの葉がそよ風で鳴るのが緻密に聞こえる。その風は、本当に私の頬に当たっている。

 いつもよりアマルガサウルスの背が低く見える。ディプロドクスと比べているからだろうか。そうではなかった。

 足元は赤い砂だ。

 アマルガサウルス達が来る前に放飼場から出なければ。

 私は一瞬取り乱して振り向こうとしたが、手元には実在しないはずの手すりがある。そのおかげで我に返ることができた。

 四頭は数歩踏み出せば触れそうなところまで近付いてきた。このほうがかえってディプロドクスよりはっきりと大きさが感じられる。

 ディプロドクスの映像は通常の見学で使う観察用のジープから撮影したのだろう。配布用の特別でない映像を使ったのに違いない。

 今度は、四頭が砂を踏む一歩一歩の足音まではっきりと耳に届く。

 砂ぼこりが舞い立ち、乾いた風が届いてくる。

 その風が強まり、吹き飛ばされるように場面が入れ替わった。

 湿った風。池のそば、先日の争いが起こった場所だった。

 ジャマルがすぐそこで水を飲んでいる。じゃばじゃばと水をくわえ取っている。

 後肢が私の背丈より頭一つ分長いことや、棘のうち一本だけ先が欠けていることがよく分かる。

 振り向けばパリートも尾一本分のところまで迫ってきていた。

 気を付けて、ジャマル。今思ってももう仕方がないけど。

 パリートが首を振って棘を鳴らし、ジャマルもそれに応えた。間近で鳴るそれはとても殺気立って聞こえた。

 二頭は並び立ち、小さな目でお互いをにらみつけた。

 眼光に鳥肌を立てながらも、これが見られて良かったとも思う。

 弓を引き絞るようにパリートが首を反らし、

 振り抜く。

 ドコココン。

 棘が当たる一ヶ所ずつに至るまで、首の柔らかい部分に立つ波紋に至るまで、全て見えるかのようだ。

 ドコココン。ジャマルの反撃。

 硬そうな棘が眼前に迫り、ここで見なければ分からないほどかすかにしなる。

 さらにもう一撃ずつ繰り返せば、パリートのほうが優勢なのがわずかに読み取れる。

 パリートは鼻息を荒くして、ジャマルの体勢が整わないうちに追撃を与えていく。ジャマルの反撃は次第におぼつかなくなり、気嚢から息が押し出される。

 今私は、最高の観察をしている。

 これが録画された映像にすぎないとしてもだ。

 じりじりと砂が鳴る。パリートは踏み込み、ジャマルは押し切られる。

 パリートの最後の一撃がジャマルの肩に当たり、棘の一本が新しい引っかき跡を付けた。

 ジャマルが引き下がっていく。

 そのとき、後ろから「すごかったね」という声がはっきり聞こえた。

 来園者のものだ。

 私がこの動物園で最も聞きたい言葉に違いなかった。

 そうだ。アマルガサウルスはすごいのだ。

 ここにアマルガサウルスがいる以上、ここではアマルガサウルスがヒーローだ


 上映が終わって、設備展示課の加藤さんに驚かれるくらいお礼を言い連ねてから、手近の出口で園路に出た。

 そこから少し離れた「自販機」に餌が出ているところだった。

 ジャマルが向こうから歩いてくる。パリートは離れたところにいた。これなら安心だ。

 記録の整理は後でもできる。

 私は、ジャマルが自販機に近付くのを待ち、食事を見てからセンターに戻ることにした。


[アマルガサウルス・カザウイ Amargasaurus cazaui]

学名の意味:ルイス・カザウ氏の案内によりラ・アマルガ累層で発見されたトカゲ

時代と地域:白亜紀前期(約1億2500万年前)の南米(アルゼンチン)

成体の全長:約10m

分類:竜盤目 竜脚形類 真竜脚類 新竜脚類 ディプロドクス上科 ディクラエオサウルス科

 竜脚類は長い首と尾を持つ四足歩行の植物食恐竜のグループである。全長10mを大幅に超えるものが多く、一部の種が全長30mを超えたことは確実とされる。

 しかしアマルガサウルスなどディクラエオサウルス科に属するものは、竜脚類としてはやや小型で首も短かった。また頸椎や胴椎の棘突起が長く発達していた。

 アマルガサウルス自身も全長は約10m程度で首は胴体と同じくらいの長さだったが、頸椎の棘突起が二又に分かれ、非常に長く発達していたのが特徴である。

 アマルガサウルスの頸椎の棘突起は根元でUの字に分かれ、2本の枝が数cm程度の間隔で平行を保ったまま後ろに傾いて伸びていた。首の中央に当たる第7・第8頸椎のものが最も長く、頸椎の棘突起を除いた部分の2倍以上、65cmに達した。環椎(第1頸椎)には棘突起がなく、首の最初の棘突起である軸椎(第2頸椎)の棘突起だけは分岐していなかった。胴椎の棘突起も長く、頸椎の棘突起が作る輪郭から続いていた。

 生きていた時にこの棘突起の周りにどのような組織があったかは意見が分かれている。

 左右の棘突起の間に別々に膜が張って2枚の帆になっていたという説、棘突起の断面が丸く先細りになっていたことから棘であったという説、左右の棘突起全体が軟組織に包まれ1つの帆になっていたという説などがある。

 2007年、スイスのバーゼル自然史博物館に所属するシュヴァルツ、フレイ、メイヤーが発表した論文によると、ディプロドクス科とディクラエオサウルス科の頸椎をワニや鳥類と比較したところ、頸椎の空洞、分岐した棘突起の間、頸肋骨が作る空間の大部分は気嚢によって占められ、その周囲を筋肉や靭帯が取り巻いていたという。内部が空洞で軽くなった首を靭帯で上面から引っ張り、筋肉で動かしていたようだ。

 気嚢は鳥類のものと同じく呼吸を補助するため、長い首により肺や気道の中の換気が悪くなるのを補うことができた。

 そしてこの検討の中で、アマルガサウルスの棘突起の下側3分の1は気嚢の支えで、上側3分の2は角質に覆われた棘であったとされている。外観としては1つの低く分厚い帆(または単なる背中側の盛り上がり)から対になった棘が生えていたことになる。

 この検討結果も広く支持されているというわけではなく、どのような姿であったかを示す有力な証拠は見つかっていない。

 棘突起を帆として考えると体温調節、棘として考えると捕食者やライバルに対する武器、どちらであったとしてもそれらに加えて視覚的ディスプレイとして機能したと考えられる。

 頸椎以外には後頭部、胴椎、前肢、仙椎、骨盤と後肢が発見されているが、最初に見付かったこのほぼ全身の化石以外は発見されていない。頭骨等は主にディクラエオサウルスを参考に復元されている。

 アマルガサウルスの化石が発見されたのはアルゼンチン・ネウケン州のラ・アマルガ累層である。当時は網状河川や湖のある平原で、その前の時代と比べて乾燥しつつあったが水場はあり、おおむね温暖な気候だったようだ。アマルガサウルスはこのような環境の中であまり高くない植物を食べていたと考えられる。


[ディプロドクス・カルネギイ Diplodocus carnegii]

学名の意味:アンドリュー・カーネギー氏の支援により発掘・復元された2本の梁

時代と地域:ジュラ紀後期(約1億5000万年前)の北米(ニューメキシコ、ワイオミング)

成体の全長:約26m

分類:竜盤目 竜脚形類 真竜脚類 新竜脚類 ディプロドクス上科 ディプロドクス科

 竜脚類の中でもジュラ紀後期の北米に生息していた大型種は、古くから知られていて研究が進んでいる。ディプロドクスを始めとするディプロドクス科の恐竜はその中でも、尾が非常に長く、前半身がやや低かった。

 ディプロドクスは全長ではかなり大きくなったが、細長い体形をしていて、体重ではそれほど大きくはなかったようだ。

 8m近い首は、棘突起が二股に分岐するなど基本的な構造はアマルガサウルスと共通していたが、棘突起が長く発達するような装飾的な特徴はなかった。ただし背中にほぼ正三角形をした角質の棘があった痕跡が1例のみ知られている。

 従来は首を高くもたげて高い木の葉を食べたと考えられていたが、現在では首を上向きに曲げた姿勢はニュートラルなものではないと考えられている。むしろ首を上だけでなく下や左右など広い範囲に動かすことで、巨体を維持するための多くの食料を体をあまり動かすことなく集めていたようだ。

 首の柔軟性がどれほどであったかは、頸椎の間の軟骨がどれだけ厚かったか、また頸椎の周りの軟組織がどれだけ関節の動きを妨げたかによる。恐竜の関節は哺乳類と違って軟骨によって形状が左右されていたようなので推定は難しい。

 後肢と尾だけで立ち上がって非常に高い木まで口を届かせたという説もあったが、現在はあまり支持されていない。

 細長い頭部はやや下に向いていた。口の先は幼体では幅が狭く、成体では幅が広かった。幼体のうちは早く成長するために栄養価の高い植物を選んで食べていたのではないかとも言われる。細長い歯が口先にだけ櫛のように生えていた。植物をよく噛みこなすというより葉を引きむしったり噛み切ったりしていたようだ。

 尾は非常に長く、全長の半分かそれ以上を占めた。先端の尾椎は非常に細く単純な形をしていた。尾の振り方によっては先端の速度が音速に達し、とても大きな音を立てたため捕食者に対する威嚇に役立ったという説もある。

 ディプロドクスの発見されているモリソン層は基本的には乾燥した氾濫原であったと考えられている。ディプロドクスは群れを成して、背の低い植物を中心に食べて生活していたようだ。セイスモサウルスという属だとされていた全長30m以上に達する恐竜は、属の独自の特徴が否定され、ディプロドクス・ハロルムと分類されている。

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