第8話 桜の下で

 __今年で40代も終わる。


 思えば俺も年を食った。時間の流れというのは早いものだ。自分が年老いていくというのは空しい気持ちになってくるが、悪いことばかりでもない。子供たちの成長していく姿を見られるというのは素晴らしい。


 3月31日。

 年度終わりの時期。

 この時期はいつも忙しい。新年度の準備。いつもの基本的な仕事のほかに、退職者の送別。それに伴う引継ぎ作業。やがてやってくる新入社員への教育。やるべきことは山ほどある。

 それに加えて今年から長男が県外の大学へ行くことになった。残念ながら、妻は季節外れのインフルエンザでダウンした。病気では仕方ない。早く元気になってほしい。


 しかし、向こうで暮らすアパート、家電用具・家具の用意など長男の新生活の準備は私が手伝う必要があった。

 忙しい時期に忙しいことは重なるものだ。嘆いていても仕方ない。

 仕事の合間を見つけて、どうにか休暇を半日、一日単位でもらって長男を手伝い、引越しについてはやっと昨日ですべて終わった。


 昨夜は、いや、もう今日か日付が変わるまで残業したが貯まった仕事はまだまだある。

 連日の残業でそろそろ体力的に限界だ。睡眠不足で頭がぼうっとする。今日は車で外回りの仕事だ。午前中にやらなければいけないことを優先して終わらせ、後の時間は休憩しよう。

 車内で数時間でも仮眠をすれば、すっきりとするだろう。そうだ、もう桜が咲き始めている。もうそんな時期なのだと桜を見て実感した。丁度いい、午後からはどこか道沿いの桜の下に駐車して、桜を眺めながら寝よう。風も暖かい。とても気持ちがいいだろう。


 私は今日の予定を決め、営業先を回ることにした。


 __途中、駅の近くに車を駐車し近くの商店を歩いて回っていると、一軒の靴屋の前で女子高生二人を見つけた。



「ねえアイちゃん、見て見て「田植え用長靴あります」だって」

「あー。そろそろ田植えシーズンか。まあ私らには関係ないよ」


 春休みなのに制服を着ているので目立つ。


「まあそうだけど。なんかこういう手書きの紙で書かれてるのを見ると無性にほしくなってくるというか」

「……え。あんた田植えするの?」

「しないよ。でも、見てよ。親指のとこが分かれてるこの武骨な感じ、ちょっと可愛いと思わない」

「思わない」

「そう。うーん、買おうかな。どうしようかな」

「あんた靴集める趣味でもあるの? この前も登山靴持って帰ってきてたし」

「あれは成功報酬だよ」


 二人は楽しそうに会話をしている。年は私の下の娘と同じくらいの年齢だろう。


 さあ、後1件まわって今日はもう休もう。

 やはり体調がよくない。息切れがひどい。軽く冷や汗も出ている。きっと疲れているのだろう。途中で、コンビニによって栄養ドリンクでも買うかな。いや、寝る前に栄養ドリンクはよくないか、お茶にしよう。



 __山間の道路でいい場所を見つけた。広めの駐車スペースがあって、木陰にも入っているので車内で寝るのに涼しく丁度いい。何より桜がよく見える。


 桜はまだ五分咲きといったところか。今年は例年より遅いらしい。

 ああ、窓から入ってくる風が心地いい。スマートフォンのアラームをセットして寝よう。






 __夢を見た。


 __夢を見ている。


 桜だ。満開の桜がとても美しい。


 俺は? 

 たしか、桜の木の下で休んでいたはず?

 よく覚えていない。


 ただ、目の前の桜が、とても綺麗だ。

 赤い。こんなに鮮やかな桜はいままで見たことがない。

 満開の赤。まるで、血のような色。


 とても気分がいい。


 とても心地いい。


 このまま、ここで、ゆっくりと桜でも眺めて…………うん?



「あー。ちょっと来るの早かったかな?」

「ええ!? ちょっと、ちょっと! この人死にかけてない!?」


「もうすぐだったのにね」

「ええと!? あの、大丈夫ですか!!」


 何だ? 体が揺さぶられている?

 今とても心地いいんだ。放っておいてくれないか……いや、なんだ? ああ、気持ちいい。とても気持ちよくなってきた。君たちも一緒に桜を見るかい?


「どうしよう、どうしよう? ……あ、夜子ちゃん、救急車呼ぼうよ? スマホ持ってたよね! 早く電話して!!」

「私、救急車とか呼ぶのはちょっと遠慮したいというか……折角だからもう少し待ってよう? 今日は肉体労働しなくても済むから楽だよ?」

「聞きたくなかった。聞きたくなかったんだ、お花見いくのにどうしてスコップ持ってくるの、とか……でもやっぱり。やっぱりそういうこと!」

「あと少し~あと少し~」

「ええい。ちょっとスマホ貸しなさい! ……もしもし! えと、病人です。すごく気分悪そうにしてるっていうか、死にそうな人がいるんです! そうです。場所は……」


 …………遠くからサイレンの音が聞こえる。

 ああ、君たち行かないでくれ。苦しい。とても胸が苦しくなってきた。戻ってきてくれ。頼む。君たちが離れていくと苦しい。


「アイちゃん? もう少しここにいよう。もう少しだから?」

「はいはいはい。早く別の場所行こ。別の場所、あんたがここにいれば碌なことにならないわ」


 ……二人は行ってしまった。苦しい。胸が締め付けられる。何だこの痛みは。ああ、サイレンの音がもうすぐ近くまで。


 私は目を開けた。

 なんだ? 頭がぼんやりする。胸が痛い。息が苦しい。どうしてしまったんだ。


 外はもう夜だ。しまったな、寝過ごしたか。これは早く会社に連絡しないといけない。

 スマートフォンを取り出そうとしたが、上手く力が入らない。


 桜が咲いている。綺麗だ。でも、夢で見たほどじゃあない。まだ5分咲きだ。明日か明後日がきっと見ごろだろう。

 ああ、救急車が来た。どうしたのだろう。誰か病人でもいるのかもしれない。


 あと数日で仕事もひと段落する。

 忙しい時期も終わる。

 妻の病気も回復しているはずだ。

 そうだ、時間が取れれば家族で花見に行こう。


 夢で見た桜ほどじゃあないだろうが、家族で見る桜も、また、いいものだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る