第6話 ほんの少しの不安

 甘ったるい健全な花見が終わり、桜の木はすっかり青々とした葉を広げていた。

 夏之の会社にも新入社員が入社してきて、その教育に追われている。即戦力なんて期待する方が馬鹿馬鹿しい。幸いにも今流行のブラック企業ではないので、今年の新入社員にまだ根を上げる者は見られない。

 ベランダに出て一服していても、びらびらと新聞紙が踊る向こう側から、ピンク色のスリッパが覗くことはなかった。

 明里も明里で忙しいらしく、最近は顔を合わせていない。たまにメールが送られてきて、作りすぎたらしい晩ごはんのおかずを分けてもらうことがあるくらいだ。


 それ以外に特に変化はなく、あっという間に春が終わった。

 じわじわと直射日光が肌を刺す季節が近づき、コンクリートからの照り返しが汗を誘う。スーツの上着を腕にかけ、アイロンをかけ忘れたハンカチで額の汗を拭いながらマンションのエレベーターに乗り込んだ。

 今日は珍しく営業先からの直帰が許されたおかげで定時前という奇跡の時間に上がれたが、この時間に外をうろつくと帰宅するだけで汗だくになる。

 すぐにシャワーを浴びたい思いを背中に背負ったまま、夏之は玄関を乱暴に開け放った。明日は休みだ。スーツをハンガーにかけることもせず、脱衣場に脱ぎ散らかして浴室に雪崩れ込む。シャワーノズルから勢いよく噴き出した水が肩で跳ね、全身に心地よい鳥肌が走った。


 汗を流してさっぱりしたあと、下着姿にタオルを引っかけた状態でリビングをうろつく。そういえば、この格好でいると真帆によく叱られたものだ。「ちゃんと服着て! あと頭も! ちゃんと拭いて!!」はいはいと適当に流しては、さらに機嫌を悪くさせるという悪循環だったが、そんなやりとりですら楽しかった。

 その姿のままタバコをくわえ、ベランダの扉に手をかけたところで、夏之ははっとして動きを止めた。高さ的に外から姿が丸見えになる心配はないが、問題はお隣さんだ。さすがにこの姿を見せるのは忍びない。在宅しているのかどうかは分からないが、年頃のお嬢さんに恋人でも家族でもない男の下着姿を披露するのは抵抗がある。

 ジーンズに適当に足を通し、上は羽織らないままで外に出た。

 待ちきれない。ジーンズを穿きながら火をつけたタバコをぷかりとふかし、思い切り肺に吸い込んでから吐き出す。身体を巡るニコチンの感覚が気持ちいい。

 そう言うと、真帆も明里もあまりいい顔をしなかった。健康に悪いことは承知しているが、こればっかりはやめられそうにない。


 半分ほど短くなった頃、夏之は思い出したように穴の方に目を向けた。新聞紙のカーテンがひらひらと棚引いている。その向こうには相変わらずの観葉植物とピンク色のスリッパがあって、それ以外のものは見えない。

 なんだ、いないのか。

 若干残念がっている自分に苦笑しながら、夏之はビールを取りに戻った。エコだなんだと騒がれているご時世だ。ガンガンに冷房を効かせた部屋の中で飲みたいが、ここはぐっと我慢してベランダで一杯決めることにする。

 弾ける苦味が喉を滑り落ちていくのを感じながら、ベランダの手すりにもたれて地上を見下ろした。ランドセルを背負った子供達が走り回り、セーラー服の女子高生と学ラン姿の男子高校生がコンビニの前でアイスを分け合っている。赤く染まり始めた空が綺麗だ。

 大きな息を吐いたそのとき、夏之の耳にころころとした笑い声が飛び込んできた。

 思わず過剰反応して取り落としそうになった缶ビールをしっかりと握り直し、隣を見た。どうやら在宅だったらしい。節電のためか、窓を開けた状態で誰かと話しているようだ。相手の声が聞こえないことから、電話だろうか。

 盗み聞きする趣味はないので、そそくさと退散しようとした。――だが、聞こえてくるのは日本語ではない。すべて英語で会話しているらしく、内容はちんぷんかんぷんだ。どうしたものかと一瞬考え、内容が分からないのなら盗み聞きにはならないだろうと判断して、再び手すりに上体を預けた。

 英語が苦手な夏之でも、これだけは分かる。流暢な英語だ。発音も綺麗で、テンポもいい。時折混じる笑い声は夏之と会話しているときのそれとなんら変わりないのに、その声が紡いでいる言語はまったく違う。不思議な感覚だ。


「さすが、有名大学のお嬢様ですことー」


 くすりと笑い、ビールを一口。

 鈴を転がすような声で奏でられる流暢な英語は、まるで歌のようにさえ聞こえた。そんな声をBGMにビールを飲んでいたのだが、耳が慣れてくると、いくつか単語が聞き取れてしまうことに気がついた。

 まずい。これではただの盗み聞きだ。

 頻繁に聞こえてくる「Nick」の音は、おそらく名前だろう。ニックといえば、もう男性名としか思えない。そこに加えて、「会いたい」だの「好き」だのといった意味合いの単語が聞こえてくる。

 口に入れたビールが、途端に苦いだけの炭酸になった。まずい。これは、まずい。

 じゃりじゃりと口の中に砂でも入っているかのような不快感と、妙な焦燥感に胸が炙られる。ニックって誰だ。あれだけ国際的な彼女なのだから、恋人が外国人でもおかしくはない。おかしくはない、が。


「……聞いてねーぞー」


 夕暮れ。みんなと一緒に遊んでいたのに、自分一人だけ公園に置いて行かれたような気分だ。ぽつん。取り残されたような感覚は、明里にそういった思いを抱いていたからなのだろうか。

 しかし、それも仕方ないと思うのだ。あれだけの美人に、あれだけ気を持たせるようなことをされたのだ。勘違いするなという方が酷ではないか。

 気になるなら、あとで聞いてしまえばいい。「たまたま聞こえちゃったんだけど、英語ぺらぺらなんだな。ニックって友達?」軽い調子で、なんでもない風に聞けばいい。

 けれど、握り締めた携帯は明里の名前を表示することはなく、ベランダで彼女と声を掛け合うこともなかった。次のゴミ捨ての朝も、その次の夜も、「ニック」はずっと謎のまま、夏之の胸にとどまり続けた。





 「ニック」が誰か分からぬまま、二週間が過ぎた。ここのところ残業続きで、夏之は謎の男「ニック」について考える余裕などこれっぽっちもなかったし、開け放たれたベランダから流暢な英語が聞こえてくることもなかった。なにもかも、すっかり忘れた気でいた。

 ビールの代わりに駅で買ったコーラを飲みながら、マンションのエントランスでエレベーターを待つ。久しぶりに徹夜の残業明けということもあり、もはや身体は人形のように言うことをきかない。外は白み、随分と明るくなっていた。しんと静まり返ったエントランスには、エレベーターのモーター音と外から聞こえる鳥の囀りが目立っている。

 壁にもたれてうつらうつらと船を漕いでいると、こつこつとヒールで床を叩く足音が鼓膜を震わせた。こんな早朝から足音を響かせるなんてと、苛立ち交じりに瞼を押し上げ、――目を瞠る。


「あれ、影山さん? おはようございます。もしかして、お仕事、いま終わったんですか?」

「え、……あ、ああ、うん」

「うわ、お疲れ様ですー! 大変ですね」


 「あ、エレベーター来ましたよ」先に乗り込んで扉を開けて待っている明里の姿に、ずきりとこめかみが痛んだ。

 普段出かけるときに見かける服装よりも随分とラフな格好で、化粧もほとんどされていない。肩に提げたトートバックからは歯ブラシセットが覗いていて、どう見ても「朝帰り」の様子に、忘れていた靄が再び襲ってきた。

 友達の家に泊まっただけかもしれない。男の家とは限らない。睡眠不足で機能低下している頭を必死にクールダウンさせるが、役に立たない頭は次から次へと嫌なことばかり考えてしまう。

 俺はこの子のことが好きなのか。最も大事なところかもしれないのに、それをそっちのけで話を進めようとしている自分の頭を殴りたい。

 眠気と疲労を慮ってか、彼女の方から話かけてくることはなかった。そんな気遣いを悟ってしまうと「ああやっぱりいい子だよなあ」などと思い、ふわっとしたような、もやっとしたような、そういった筆舌に尽くしがたい思いに駆られる。

 チン。到着を告げる音に、明里はボタンを押したまま微笑んだ。


「着きましたよ、どうぞ」


 掠れた声で礼を言い、家の前まで無言で歩く。ちらちらとこちらを窺ってくる明里はなにか言いたそうだが、今こちらから声をかけて余計なことを言わない自信がない。欠伸と一緒に余計なことを噛み殺し、明里が扉の向こうに消えるのを見送ろうと、身体を傾けたときだ。


「影山さん、今日の夕方はお家にいますか?」

「へ? ああ、うん。たぶん。もしかしたら寝てるかもしれないけど……」

「じゃあ、起きたらメールして下さい。晩ごはん持っていきますから」

「……へっ?」

「甘い卵焼き、作っておきますね。――あ、それとも、迷惑ですか?」


 うさぎのキーホルダーがついた鍵をぎゅっと握り、おずおずと窺ってくる明里の様子に、疲れ切っていた身体が勝手に反応していた。「いいや、全然!」勢いよく頭を振ったせいでくらりときたが、そんなものを気取られないように笑ってみせる。

 胸に痞えていたものが、すうっと消えていくような気がした。


「じゃあ、遠慮なく。起きたらメールする」

「はい、待ってます! お仕事お疲れ様です。それじゃあ、おやすみなさーい」


 嬉しそうに笑って部屋に入る明里を、ふわふわとした気持ちで見送った。

 風呂も入らずにベッドにダイブし、冷房を効かせた寝室でスーツのまま爆睡した。夢と現の狭間で、夏之は小さく笑っていた。

 男の家から朝帰りするような女が、仕事で疲れたただの隣人に夕飯を作って持ってくるわけがない。やはり彼女は友達の家に泊まっていただけなのだ。

 幸せな気分のまま眠りについた彼が目を覚ましたのは、とっぷりと日の暮れた午後八時のことだった。

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