真知子の怪異 〜墓場アパート編〜
有本博親
第1話
◯
大通りから救急車のサイレンが聞こえた。
ブラインドの隙間から西日が差し込まれ、事務所の壁に山積みされた段ボール箱が夕焼け色に染まっていく。
気がつけば、夕方の六時を過ぎていた。
帰路に向かう学生や会社員が駅前に集う中、賃貸ビルに居を構える真知子の探偵事務所に足を運ぶ客はまだいない。
「ヒマだわ」
革張りのソファーに仰向けで寝転がる船頭真知子は、ぽつりと独り言をつぶやく。
「だろうな。見りゃわかる」
缶コーヒーをすすりながら、デスクのガスチェアーに座る猿島義人がいった。
「すごいヒマよ。ヒマすぎて死にそう」
「ああ、そうだな。おかげ様で休日なみのローテンションで過ごさせてもらってありがたいことだぜ」
皮肉めいたセリフで返す猿島は、ガスチェアーの背凭れに体重をかけ、空になった缶コーヒーをデスクの端に置いた。
猿島の片手に持つのは、先月発売されたゴシップ雑誌だった。
グローブのような太い指でページをめくり、丸坊主頭の後ろあたりをコリコリと掻いている。
ヒマなのは仕方がない。
探偵は儲けが見込めない仕事だ。資産のある大型グループの探偵事務所ならいざ知らず、数人単位の小規模探偵事務所なら、引き受ける案件は月単位でせいぜい三件あるかないかの世界だ。
まったく依頼がない月もあったりするので、真知子が「ヒマだ」とぼやくこと自体、業界ではとくに珍しいことではない。
「いくらヒマでもその髪はねぇよな」
こんもりと山のように盛り上がった巨漢の背中が、呆れているように見える。
真知子はソファーから起き上がった。
ふと室内の壁かけ鏡に自分の顔が映っていることに気付く。
ソファーで横になっていたせいで、ロングストレートの黒髪がくしゃくしゃに乱れている。ほとんど寝起きと変わらないひどい有様だ。
「ヒマの象徴よ」
「くだらねぇ。さっさと身だしなみ整えて来い」
「つまんないわね、あんたって」
「うるせぇ」
真知子は立ち上がり、事務所の洗面台に向かった。
「それはそうと、さっきから見当たらないわねあの子。どこ行っちゃったのかしら」
「誰のことだ」
「イナバ君よ。お昼ぐらいから急にいなくなったきり見ないんだけど」
蛇口から水をひねり出し、洗面台の鏡の前で真知子は立つ。
ロングストレートの黒髪をブラシで丁寧に下し、ついでに目元の化粧が崩れていないかチェックをする。
「あいつなら役所だ。税部関係の書類をまとめて提出しているはずだ」
「ああ、そういえばそうだったかしら。でも、それにしても遅いくない?」
「どうせ戻っても暇だから、どっか寄り道しようって思ってるんだろ。実際、無理に呼び戻したところで仕事は何もねぇしな」
むぅっと真知子は唇を尖らせる。
くやしいが、猿島のいうとおりだ。戻ってきたところで、やることといったら事務所の掃除をするぐらいだ。
「そろそろやめにしないか」
面長のゴリラ顔が、下顎に生えたヒゲをぞりぞりと指で擦る。
蛇口から流れる水を真知子が止めた。
ロングストレートの髪を後ろにまとめ、ポニーテールに結った真知子は、猿島の座るデスクに振り向いた。
「何かいった?」
「真知子。俺たちがこの事務所を立ち上げてどれくらい経ったか覚えているか?」
「二ヶ月よ」
「それまでにこの事務所で引き受けた案件はいくつだ?」
「二つよ。あんたも知ってるでしょ」
「そうだな。たったの二つだ。二ヶ月経って引き受けた案件はたったの二案件だ。それまでに依頼のあった素行調査や浮気調査の依頼が一〇件以上あったのに、お前それを全部どうしたか覚えているか?」
「全部断ったわ」
あっさりと真知子は答えた。
「どうして断った?」
「ウチはそういうのは専門じゃないから」
「浮気調査をしねぇ探偵なんて聞いたことないぞ。やっぱり探偵事務所って看板出している以上、仕事に選り好みはできねぇと思うぜ」
比較的冷静な口調で猿島はいった。
真知子は腕を組んだまま、「ふーん」と鼻を鳴らしながらソファーに歩み戻った。
「あんた浮気調査したいんだ」
「ちげぇよ」
どすっとソファーの上に乱暴に腰を落とし、足を組んで猿島に体を向けた。
「儲けがねぇとまずいんじゃないかって俺はいいてぇんだ。探偵なら探偵らしい仕事をするべきだ」
「ええ、そうね。ここがあんたのいう普通の探偵事務所だったら確かにその通りだわ。利益を上げる為にも依頼された案件は積極的に引き受けるのが自然ね」
「わかっているじゃねぇか」
「でも、残念ながらここは”普通の探偵事務所”ではないの」
「じゃ一体なんだんだ」
「私の探偵事務所よ」
堂々と真知子は言い切った。
落胆のため息とともに、猿島は頭を抱えた。
「だから二ヶ月経っても繁盛しねぇんだ」
「ええ、おかげさまで時間だけはたっぷりとあるわ」
「少しは依頼主のニーズに答えようっていうサービス精神はねぇのか? これじゃいつまでたっても赤字経営のままだぞ」
「それに不満があるの?」
「おおありだ。あんたの道楽に付き合っている俺たち社員の身にもなれ」
「そんなにお金が欲しいなら、この事務所を辞めてヤクザの用心棒に戻ればいいじゃない。たしかに私はあんたをスカウトしたけど、強制はしてないわ」
「今更戻る気はねぇよ。もう年齢的にきつくなったから、あんたの誘いに乗ったんだ。出所した前科者の俺を拾ったのは、他でもないあんただからな。俺にだって恩義はある」
「生意気な口利く割にはわかってるじゃない」
「もちろんだ。だからこそ言わせてもらいたい。毎日ソファーの上でゴロゴロするなら、これからの経営方針を変えるべきだ。そこはあんたのベッドじゃねぇぞ」
猿島は真知子を見つめた。
真知子も猿島を見つめ返す。
しんと静まり返った事務所内。電車が陸橋を走り切る音が遠くから聞こえてくる。
「なるほど。よく、わかった。あんたのいいたいことが」
「わかってくれたか」
ほっと安堵するように猿島の表情がほころびる。
「ええ。もちろん。でも猿島。あんた重要なことを忘れてるわ」
にこっと真知子は満面の笑みを浮かべ、組んだ足の太ももの上に肘を乗せて頬杖をついた。
「私、ヒマは好きじゃないけど『忙しすぎる』のはもっと嫌いなの」
「……そうかよ」
無表情となり、けっと猿島は吐き捨てた。。
言うだけ損をしたといわんばかしに、ガスチェアーの背を向けてゴシップ誌を手に取った。
「なによ。キレてるの? 眉毛なしゴリラのくせに」
「キレてねぇよ。それに眉毛は薄いだけだ。ないわけじゃねぇよ」
瞼の上にある太い顔の筋肉を猿島は指でさすりながらいった。
うん、わかりやすい。
誰がどう見ても、こいつは怒っている。むしろ、不機嫌アピールしていることが直に伝わってくる。
「いいわ。そこまでいうならひとつ賭けようじゃないの」
「賭ける?」
「今日、イナバ君が帰ってくるまでの間に、依頼人が来れば事務所の経営はこのまま続行。あたしの勝ちよ」
「来なかったら?」
「あたしの負け。明日から素行調査でも何でもするふつーの探偵事務所にリニューアルするわ。それとビールもおごってあげる」
ぴくっと、猿島の額の肉が微動した。
「てめぇ……いい加減なことぬかすなよ」
「ええ、そうね。この船頭真知子に二言はないわ」
「真知子。こいつはゲームじゃねぇぞ。来週からならいざ知らず、今日の今から都合よく来ると思うのか? 新聞の折り込みチラシやネット告知をしてもほとんど人が来なかったこの探偵事務所に」
「さぁ、わからない。だからこそ賭けるの。それであんたは乗るの? 乗らないの?」
「もちろん乗るさ。そしてこの賭けは俺が勝つに決まっている。そして俺は本気だ」
「そう。大した自信ね。でもね、猿島。賭けを始める前に、私からあんたにいいたいことがあるの」
「なんだ?」
「焦らなくても、遅かれ早かれ私たちの『仕事』はやってくるわ。私たちの専門スキルが必要とされる『仕事』がね」
「だろうな。百年後か一万年後くらいにな」
「……」
壁掛時計の秒針の音だけが、室内に静かに響く。
二〇分が経過した。
ソファーには猿島が腰を掛け、事務所内に置いてあるダンベルを使って筋トレを始めた。
真知子は自分のデスクに戻ると、ノートパソコンのキーボードを叩き始めた。
「おい、暇だぞ」
猿島がつぶやいた。
「そうね」
モニターを見つめたまま、真知子が返事する。
「やっぱり賭けは、俺の勝ちだな」
猿島がいうと、真知子は肩をすくませた。
ドアが開いた。
真知子と猿島が、同時に顔を向けた。
「え? なに? どうしたんスか?」
スーツ姿にメガネをかけた青年が、驚いた顔で二人を見た。
真知子と猿島が、同時に肩を落とし、あからさまなため息をついた。
「なんだおめぇかよ」
「帰ってくるのが遅いわよ……イナバ君。時間がかかるんだったら連絡してっていつもいってるでしょ?」
「いきなり戻ってきてひどいっすね二人とも」
ぷぅっとイナバは頬をふくらませ、両手に引っさげた紙袋をソファーの上に乗せた。
猿島は「あ」と声を漏らした。
「イナバが先に帰ってきたってことは……賭けは俺の勝ちだな」
真知子を見ると、苦虫をかみつぶしたような渋い表情を浮かべている。
「まだ営業時間は残ってるわよ」
「いいや、お前はたしかに言ったぞ。イナバが帰ってくるまでに依頼人が来なかったら普通の探偵事務所にリニューアルするってよ」
「あの、何の話っすか?」
一体何の話か理解できないイナバは、猿島と真知子を交互を見遣った。
「よぉ、イナバ。朗報だ。この貧乏探偵事務所の今後の経営方針が決定したぜ」
「あ、そうだ。真知子さん。いきなりなんですけど、『仕事』持って帰ってきましたよ」
「仕事?」
「どうぞ入って」
イナバが言うと、事務所の入口に待機していたのか、人が入ってきた。
女の子だった。ブレザーの制服姿の小柄な少女だった。
「あの、すみません。失礼します……」
きょろきょろと事務所内を見渡した後、少女は真知子に目を向け、ぺこりと一礼した。
「仕事って何よ? イナバくん」
「えっと、あれです。あれ! 数日ぶりに来ましたあれですよ!」
「わからないわよ。あれだけだったら。何よあれって」
「……『死人』を捜してほしいんです」
少女は視線を下に向けたまま、ぽつりとつぶやいた。
「ったく、無視するんじゃねぇよ」
後頭部を掻きつつ、猿島がひとりごちた。
救急車のサイレンの音が、遠くから聞こえた。
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