第26話 与えられるもの
コルネリアが誰なのかわからなくて、わたしは一瞬反応が遅れてしまった。
でも、マティウスは素早く反応する。
「……母上が?」
「え?」
マティウスが母上と呼ぶということは、コルネリアとはエッフェンベルグ夫人のことか。
どういうことなのか、どう怒っているのかを氏に確認しようとしたちょうどそのとき、サロンの扉が静かに、でも容赦無く開け放たれた。
まさかと思ったときには、その人は……その人たちは入ってきていた。見るからに怒っているという様子をしてーー。
「あなた、もうお話は済んだのかしら?」
「ああ、カティに昨日のことを話して、大丈夫だからねと説明したところだよ」
「そう」
いつも通りの上品な笑顔を浮かべたまま怒りのオーラを纏う夫人は、まず氏に対してそう声をかけた。そして、こちらに向き直った。
さすがは高貴なお方。怒っていても美しさは相変わらずだけれど、そのぶん笑顔に凄みが増して怖い。もう帰りたいと思わせるほど、怖い。
マティウスとの仲を知ったから、わたしに対して物凄く怒っているのだろうか。……それ以外、考えられない。
わたしは「泥棒猫!」とか「薄汚いドブネズミ!」なんて罵られるのだろうか。……この場合は違う気がする。
でも、わたしは夫人の大切な息子であるマティウスをたぶらかした女として夫人に叱責されるに違いない。そう覚悟を決めて、わたしは膝の上でグッと拳を握りしめた。
「ーーマティウス」
目が合わないなと思っていたけれど、夫人はわたしではなくマティウスを見ていたらしい。
立派にするために厳しく接してきたと言うだけあって、夫人が名前を呼ぶだけでマティウスは背筋をピッと伸ばした。
「あなた、何てことをしたの!」
「え?」
「カティは昨日すごく気分が悪かったというじゃない? それなのに、そんなこの子に無理をさせて、それでも男ですか! しかも聞けば、精神的に傷つくようなことがあったというのに……そんな弱ったところに付け入るような男に育てた覚えはありませんよ!」
「す、すみません……」
マティウスを厳しい口調で叱り飛ばしたあと、夫人はわたしのほうへ身を乗り出した。その目にははっきりと心配の色があり、わたしはわけがわからなくなる。
「カティ……大丈夫? ただでさえあのアダム・グラマンという男のことでショックだったでしょうに」
「はい、大丈夫です……」
わたしの手を握り、その美しい瞳を潤ませて夫人はわたしを見つめる。怒られるとばかり思っていたから、思考が全く追いつかない。
もしかして、怒っているというのはわたしにではなくマティウスになのだろうか。
その疑問を解決してくれたのは、もう一人の怒れる人の発言だった。
「……マティウス、よくもカティを……!」
アンドレが、夫人の横で拳を握りしめて震えていた。完全にマティウスだけをロックオンしていて、だから怒りの矛先がマティウスなのだとわかる。
「ア、アンドレア、乱暴はよせ」
「よくもカティを!」
「や、やめて殴らないでくれ!」
「ちょっと、アンドレ! わたしは大丈夫だから!」
放っておいたら仇でもとりそうなアンドレをわたしは必死に宥めた。わたしは生きてるし、良いところのお嬢さんであるアンドレに暴力なんて振るわせられない。
「マティウス、よくもカティにひどいことをしてくれたわね!」
拳はおろしても、怒りがおさまらないアンドレは牙が見えそうな勢いでマティウスを睨みつけている。
……本当は何もなかったから、こんなに怒る必要はないのに。
でもマティウスが「ひどいことなんてとんでもない。優しくしたさ。……なぁ、カティ?」などと調子に乗った発言をしたから、わたしも殴ってやりたくなったけれど。
それにしても……こうやって氏や夫人やアンドレに昨夜のことが伝わっているのは、間違いなくセバスティアンの仕業だ。あのジジイがラッパでも吹きながら屋敷中を宣伝してまわったんじゃないかと考えてしまう。
何もなかったからまだいいとして、本当にマティウスと一夜を過ごしたあとだったら、わたしは恥ずかしさのあまり寝込んだかもしれない。
そのくらいひどい話だ。プライバシーというものはないのか。いくらお金で雇われている立場だからといって、これはあんまりだ。
「ところでマティウス、ひとつ確認しておきたいのだけど」
わたしがセバスティアンへの怒りで震えていると、夫人がマティウスにそう声をかけた。
アンドレと無言の睨み合いをしていたらしいマティウスは、その声にハッとして姿勢を正す。
「マティウス、あなたはカティのことが好きなのよね?」
「そうです。私はカティが好きだ。カティの存在は何者にも代え難い。私はどうあってもカティを離さないと決めたんです。婚約したいと考えています」
夫人に対してきっぱりと宣言すると、マティウスはわたしのほうを見て頷く。
改めて誰かを前に言われたその言葉は、妙な重みを持ってわたしの心に届いた。もちろん嫌な意味ではなくて、その真逆のとても幸福な感覚として。
その宣誓のような言葉を聞いて、夫人は少し納得したように頷いた。
「そう。それで、カティの気持ちもきちんと確認したのね?」
「はい。昨夜、お互いの気持ちを確認しました。カティも私を愛していると言ってくれました」
「カティ、本当なの?」
「はい。間違いありません」
「……それならよかった。マティウスは思い込んだら真っ直ぐなところがあるから、自分の気持ちを一方的に押し付けて、その激情に押し流される形でカティが関係を許したのではないかと思って心配したの。カティ、あなたは優しい子だから」
「そんなこと……」
ああ、わたしは本当にこの人に心配されているのだ。もしわたしの母が生きていれば、こんな表情をするのかもしれないーーそう思ったとき、夫人が怒っていた理由も、先ほどの質問の意味もしっかりと理解することができた。
「本当に? マティウスに脅されたりしたんじゃないの?」
「大丈夫よ、アンドレ。わたし、マティウスさまのことが好きなの」
「カティ……」
アンドレも、友人としてわたしを心配してくれているのだ。
昨日のことがあったから、マティウスがわたしを脅したのではないかと考えても仕方がない。きっとアンドレの頭の中には、ギースレーがわたしの父親であることを理由に、マティウスが関係を迫っている図が浮かんでいるのだろう。
マティウスが悪い奴であれば、そういうこともあったかもしれない。
でも実際のところは屋敷を去ると言ったわたしを、マティウスがどうにかして引きとめようとしたのだ。……貞操の危機はあったわけだけれど。
「マティウス、カティ」
アンドレが落ち着いたのを確認して、夫人は改めてわたしとマティウスに呼びかけた。続けて名前を呼ばれると、自分たちが対になったのだという気がして少しだけ照れくさい。
それはマティウスも同じだったらしく、わたしたちは視線を交わして頷き合って、そしてもう一度夫人を見た。
「あなたたちがお互い好き合っているのはわかったわ。身分や生まれになんてこだわる時代ではないし、思いあっているのは素晴らしいことだから二人の仲を反対したりなんてしないわ。……でもね」
わたしたちは関係を認めてもらったのだと喜ぼうとした。でも、どうやらその言葉には続きがあるらしい。
「婚約は認められないわ」
予想していたことだったけれど、夫人の口から聞くのは少しショックだった。
わかってはいた。でも、マティウスは納得いかないというように吠えた。
「母上、なぜですか⁉︎」
マティウスは必死だけれど、そんなの聞くまでもない。
恋愛は自由かもしれないけれど、結婚は別だ。甘い夢を見るのは個人同士の話だけれど、結婚は現実で、家同士の問題なのだ。
だから、反対されても当然だーーそう思っていたから、そのあとの夫人の言葉に耳を疑った。
「マティウス、あなたはまだ何者にもなれていないのに結婚するというの? お父様についていって貿易のことを勉強するでもない、学院で魔術師になるべく良い成績を残すでもない、そんな状態でカティに並べると思っているの?」
「……え?」
「あなた、このままじゃカティに相応しくないわよ。婚約は、せめて将来のことが決まってからになさいって言っているの。何を目指すかとか、どこに就職するかとか、そういったことが定まってからにしなさい。好きな女性を自分の手で守る手段も持たないまま婚約だなんて、恥ずかしいわ。しっかりなさい」
「……はい」
認めてもらえないなら暴れてやるという感じで息巻いていたマティウスは、夫人の言ったことを理解し、空気が抜けたように萎んでしまった。確かに、まだ何者にもなれていないし、何も決まっていない。
でも、それを言ったらわたしだって同じだ。
夫人はわたしを見て、にっこりと微笑んだ。
「カティ、あなたもまだまだ育っていくという意味ではマティウスと同じだわ」
「はい」
「これまでよくひとりで頑張ってきましたね」
「……はい」
頷くわたしに夫人は柔らかな笑みを浮かべる。彼女の最大の魅力はその金茶色の艶髪でも、灰青の瞳でもなく、この女神のような愛に溢れた微笑みだと思う。
マティウスに向けるものと変わらない笑みを浮かべて、夫人はわたしに語りかけてきた。
「でも、これからは私たちにあなたを支えさせてもらえないかしら?」
「え?」
「今後、エッフェンベルグ家があなたを後援します。学費も、学院での生活でかかるお金も、すべて力になるわ。ご飯をしっかり食べて欲しいの。本も好きなだけ買えるわ。私たちは、可能性のある若者を支援していきたいと考えているの。あなたはその第一号よ。カティ、どうかしら?」
「……」
夫人の申し出があまりにも夢みたいで、わたしは言葉を失った。
だってそれは、もうお金の心配をしなくていいと言われたようなものだ。奨学金とアルバイトのお金でギリギリ生活していたような暮らしが、嘘のような暮らしをさせてもらえると言うことだ。
夫人の申し出を受ければ、もう欲しい本とその日の食事を天秤にかけなくてもいい。きちんと食べて、おまけに好きなだけ本を読んで勉強できるのだ。
一攫千金どころの話ではない。
「ありがとうございます!」
わたしは、深々と頭を下げた。
夫人と、夫人が来てから空気のようになってしまっていたエッフェンベルグ氏に。
氏を見れば、すべてわかっていたというような顔をしていて、このことが随分前から二人の間では話されていたことがわかった。
そう考えると、一体どこからが仕組まれていたことなのだろうと思ったけれど、そんな疑問はこの嬉しい出来事の前にはいつの間にか気にならなくなっていた。
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