―2― 弄ばれ、嬲られる正義(1)
漆黒のなか、うねり歪んだ空間。
そこから、あふれ出る深紫の靄はこちらへとその不気味な手を伸ばしてこようとしている――
後ずさったレイナの前で、その深紫の靄はさらに濃くなり――
アンバーの手を強く握りしめたレイナの心臓はドッドッドッと強く脈打ち始めた。なんとか息を整え、ガクガクと震える脚を冷たい雪の上で立て直したレイナの瞳は、深紫の靄の中にいる、悪しき者たちの姿を映し出した。
松明の灯りが照らし出している一面の白銀と、同じ色の白衣を身に着けた、厳かな面持ちの魔導士・フランシス。
その彼の隣にすり寄るようにして、漆黒のドレスを身に着けているマリア王女。 そして、マリアをかばうように彼女の両肩に手を置いている人形職人・オーガスト。
まず、ジョセフに目を留めたフランシスは、恭しく頭を下げた。銀色の長い髪がサラリと揺れる。
「恐れ入ります、ジョセフ王子。皆様、勢ぞろいで我々を待っていてくださったとは……時間を正確に指定していなかったとはいえ、お待たせしてしまい、恥じ入るばかりでございます。さしたる理由もなく、お待たせするとは本当にご無礼をいたしました」
フランシスの変わることのない、丁寧で穏やかな物言い。
レイナにはそれが余計、ジョセフを馬鹿にしているように思えた。
頭をあげたフランシスは、ジョセフの傍らのアンバーと、そして”レイナ”にチラリと目をやり、ニッと笑った。
彼の隣で、同じく優雅な笑みを浮かべているマリアは、体をくねらせ、甘やかな声でジョセフに問う。
「ねえ、お兄様。今宵の私の姿はどう思われます? 褒めてくださいませんこと。フランシスにおねだりして、ドレスを新調いたしましたのよ。今宵、青き月は隠れていますけど、遥か上空には数多の星がお兄様とアンバーの別れの日を祝福するように輝いているのですもの。私といたしましても気品ある服装で臨もうと思いまして……」
マリアの喪服の思わせる漆黒のドレスに、金色の髪が波打っていた。ジョセフが予測していた通り、マリアは完璧にめかしこみ、オーガストを連れてこの決着の場にやっている。
何も言わずに自分を睨み付けるジョセフにニヤリと嫌な笑顔を見せたマリアは、チラリと彼の傍らのアンバーを見やった。
唇を結んだままのアンバーは、挑発を含んだマリアのその視線にひるむことはなかった。そして、アンバーはマリアに見えないように、自分の隣で震えている”レイナ”の手をギュっと握った。
アンバーの手の温かさと、アンバー自身のわずかな震えもレイナに伝わってきた。でも、レイナにはその震えの中のアンバーの強い決意が伝わってきた。
――何があっても、絶対にあなたを守ります、と。
フランシスが優雅な手つきで、この場に揃い勇んでいる魔導士たちの頭数を数え出す。
「これはやはり大勢で……アンバーにカールにダリオ……その他、他9名の総勢12名の魔導士でのお出迎えでございますか? こちら側はきちんと当初のお約束通り、私1人で受けて立ちますよ。ジョセフ王子は私たちとの決着では惑うことなき役立たずでございますし、近くでぎこちなく剣を構えている3匹のネズミさんたちには後で用がありますからね」
ニイッと笑ったフランシスは、その唇より綺麗な白い歯を見せた。
今のフランシスの言葉に、ジョセフとアンバーはグッと眉根を寄せ、マリアは瞳を輝かせ、オーガストは焦ってマリアの視線(興味)をルークたちから逸らそうとマリアの両肩をグッと自分の方へと引き寄せた。
当のルークたちは、フランシスとマリアが自分たちを値踏みするように見たことに、「??」という疑問と不気味さしか感じなかった。
すぐさま、戦いに入るのかと思われたが、フランシスはなおも話を続ける。
彼の今宵の”獲物”であるアンバーをじっと見つめたまま――
「アンバー……あなたは生まれてからずっと城内で、つまりはジョセフ王子のお側で育ってきたのですよね。恐らくあなたはジョセフ王子と同じ目線で、この世界で起こる様々なことを眺め、生きてきたのだと」
「何が言いたいのです?」
アンバーは冷静にフランシスに言葉を返した。フランシスはフフッと笑って話を続ける。
「さて、正義とは何だと思いますか? あなたは、いやあなた方は自分たちこそ正義だと思っているのでしょう? でも正義とは、自分の立ち位置と自分がこうあって欲しいという理想によって変わるのですよ。まず第一に、私の今宵の目的の1つである、マリア王女の魂を元のマリア王女の肉体にお戻しするという事態になった経緯にしたって、あなた方が自分たちこそ正義だと思い込み、身勝手きわまりない理由でこの見事なまでに美しいマリア王女の人生を奪おうとしたのです。この世に生を受けた全ての者に等しく生きる権利があるにも関わらずね……」
顔を背けたオーガストが「それをお前が言うなよ」と、ボソッと呟いた。
その声をフランシスは聞き洩らさず、オーガストに即座に振り向き「黙っていなさい」と睨み付けた。
アンバーは真っ直ぐにフランシスを見たまま、答えた。
「私は私の心に従ったまでのことです」
「おやおや、あなたの場合はご自身の心とジョセフ王子にでございましょう?」
フフフっと嬉しそうに笑ったフランシスに同調し、マリアもウフフッと嬉しそうに笑った。
マリアの魂は作り物である人形の中にあるはずなのに、”自分”と変わらぬ生気に満ちた彼女の美しさにレイナは息を呑んでしまった。
そして、マリアはアンバーからすっと視線を逸らし、”自分”を見た。
自分の本来の肉体を。
マリアは何も言わなかった。だが、レイナには彼女の心の声が聞こえてきた。
――今度こそ、逃しはしないわ、と。
アンバーの手を握りしめたまま、後ずさったレイナの足元で、雪がザクッと音を立てた。気づいたアンバーが、レイナを背にかばった。アンバーの背――といっても”今の肉体は”彼女とはほぼ同じ背丈であるため、レイナは完全に隠れることができなかったが。
後ずさったレイナは、気づく。
カールとダリオ、2人の男性魔導士。彼らは、楕円を書くようなかたちで構えている12人の魔導士たちのそれぞれ両端にいた。その彼らが後ろ手で”何か”を行おうとしていることを。
レイナが生まれ育った日本風に表現するとしたら、彼らはその手に印のようなものを結び始めている――
彼らの手から蒸気のように発せられ始めているわずかな光。
アンバーがレイナの手をもう一度強く握りしめた後、フランシスたちに気づかれないようにそっと離した。
レイナには分かった。戦いの火蓋はもうすぐ本当に切って落とされる。
けれども――
フランシスは、カールとダリオが何をしようとしているのかが分かったらしく、「おやおや」とククッと笑った。
「さあ、長話はここらへんにして、そろそろ私”も”始めますか……私は見かけによらず、結構な年でございますからね。自分の興味のないことには余計な労力をあまりかけたくないのですよ……」
ため息交じりにそう呟いたフランシスは、右の掌をすっと上げた。
それと同時に、カールとダリオが躍り出るよりも早く、フランシスの手より、2本の弓矢のようなものが、彼らに向かって発せられたのだ!
ビュッと風を切る2つの音。
「!!!」
即座に身を伏せたカールは間一髪、”それ”を避けることができた、だが――
ダリオの首よりピュッと噴き出した真っ赤な血は、純白の雪の上にパッと飛び散ったのだ。
「ダリオ!!」
魔導士たちの間からあがった鋭い悲鳴。
レイナは飛びあがり、ズザッと後ずさった。
ダリオは首を押さえ、雪の上にドサッと倒れ伏した。レイナには、彼の呻きが聞こえ、彼の手がみるみる血に染まり、雪の上に新たな血の刻印を落としていくのが見えた。
「残念。一瞬で頭と胴体を断絶させるだったのですけど、うまく避けましたね」
フランシスが蛇蝎のようにいやらしい笑みを見せた。
そして、先ほどフランシスの手より風を切り発せられたのは、弓矢などではなかった。
2匹の大きな白い蛇。
冷気でできたように透き通ったその蛇の目は、今まさにダリオが雪に浸み込ませ続けている血と同じく赤かった。
「レイナ、絶対に私から離れないで!」
前にいるアンバーが叫び、フランシスに向かってその両手を構えた。
同じく他の魔導士たちもフランシスに向かって構え、レイナの隣にいるジョセフ、そしてルーク・ディラン・トレヴァーたちも、ザッと剣を構えた。
けれども、フランシス(とマリア)の笑みと比例するかのように、2匹の蛇はその濃度と大きさを増していく――
つい先ほどまで、例えるならこのマリア王女の肉体の脚ほどの太さと長さであった2匹の蛇は瞬く間に2倍、3倍と大きく膨れ上がり、より濃くその実体を示していく。
青き月が隠れし、この闇夜を風が切り裂く音――
それは今度は自分たち側から、フランシスが操る2匹の大蛇に向かって、発せられたものであった。
だが、その発せられた風を、2匹の”氷”の大蛇のまるまるとした胴体はガキン! と弾き飛ばした。
ズザザザと激しい音を立てながら蛇の腹は雪の上を滑っていく。
ついに、優に30メートルを超えるほどとなった2匹の蛇は、グルリとレイナたちを取り囲んだ。
アンバーが、この大蛇たちを操っているフランシスに向かって、印を構えた。
すべての元を断つために。
けれども――
自分たちの周りをグルグルと猛スピードで回り続ける大蛇たちによって引き起こされた風によって、アンバーの視界と手の動きは阻まれてしまったのだ。
レイナの、いや取り囲まれた者たちの視界は白一色となってしまった。
頬だけではなく、目や口の中にも雪が吹き付けてくる。目を守るために顔を覆ったレイナを、硬い腕(おそらくジョセフであるだろう)がかばった。
容赦なくこの身を削らんばかりの吹雪、そして、耳の奥でキーンと鳴る音はより強くなり――
ほんの1分もたたないうちに、全く姿が見えなくなってしまったアンバーたちを見たフランシスはニンマリと笑った。
「おやおや、私が練り上げたこの程度の”気”に反撃すらできないとは、やっぱり随分とドンくさい方たちが揃っていたんですねぇ」
目の前で繰り広げられた光景に、遥か上空に浮かぶ星ほどに瞳を輝かせたマリアが、オーガストの腕の中からするりとすり抜け、フランシスに寄りかかった。
「すごいわ、フランシス。城での”あの時”とは別人みたいだわ。アンバーですら碌に反撃もできず、勝負にすらならないなんて……あなたって、本当にすごい力を持っていたのね」
「……人というのは、ただ一時の一面だけでは測れないものですよ。私もいまだに、自分のなかで知らない自分を見つけることがあるのですから」
意味深に微笑んだフランシスに、マリアは「?」という表情をし、その美しいピンク色の唇をわずかに開いた。そして次に彼女の表情に差し込んできたのは、”不安”の影であった。
「ねえ、フランシス。アンバーたちを苦しめるのは、一向に構わないけど、私の肉体には傷1つだってつけないで欲しいわ。私の美しさはこのアドリアナ王国一の芸術品なのよ」
目の前で開始された殺戮からは、目を逸らしたままであったオーガストも、マリアのその言葉に同調し、フランシスにザッと歩み出た。
「そうだ! フランシス、お前、これだけの力を持っているなら、無駄な時間を使っていないで、すぐにマリア王女の魂を元の肉体にお戻しするんだ! どれだけ、この時をマリア王女が待ち望んでいたのか、お前は分かっているのか!?」
唾を飛ばさんばかりに喚くオーガストに、フランシスは”いい加減に黙りなさい”と言いたげに、彼の唇に向け、人差し指をすっと指した。
「全く……性交を覚えたての馬鹿はうるさくて礼儀知らずで、なおかつ無粋でいけませんね」
「誰がだよ?!」
オーガストが靴で足元の雪を掻き分け、フランシスにさらに詰め寄った。
「まあ、いいでしょう。あなたには急な仕事を依頼したことという借りもありますし、”第一段階”はそろそろお開きといたしましょう」
フランシスは、獲物を取り囲み、猛スピードでグルグルと回り続ける2匹の大蛇に目をやり、パチンと指を鳴らした。
強制的に発生させられた吹雪。
キーンという耳鳴りは徐々に強くなり、今にも鼓膜が破れんばかりだった。
その体も今にも吹き飛ばされそうなレイナであったが、アンバーとジョセフにかばわれ支えられていた。だが、彼女たちの温かな体温を感じるレイナの胸の谷間に挟まれた、もしもの時の小瓶はより冷たい感触で、脈打つ心臓へと伝わってきた。
――怖い……
あの魔導士・フランシスは、この王国きっての精鋭ぞろいである魔導士たちですら、こうして手も足も出せないほど、本当に絶大な魔力の持ち主なのだと。
――だけど……!
レイナはしっかりと思い出す。
あのデブラの町で、少年・ゲイブが言った言葉を。
”必ず最後には悪しき者たちに勝つ。だから今は守るべきものを思って心強く進め”
そう、”最後には”ということ。その最後までの過程はどうであれ、結果としてはアンバーたちが勝つのだ。それを信じようと。
アンバーとジョセフに守られながら、雪が吹き付けてくる右腕をレイナは動かした、そして胸元へと右手を――
――怖い……死ぬのは怖いよ……嫌だよ……でも、こうすることで……
レイナの冷えた指先はついに小瓶(自分を二度目の死出への旅へと導く標)へと触れた。
――あのフランシスって人の目的は、マリア王女の魂をこの肉体に戻すことと、アンバーさんに何かをすることだわ。でも私が今ここでマリア王女の肉体を死なせてしまったら、あの人たちの目的の1つは達成できなくなるのよ……
――私も何が正義かなんて分からないし、この世界に来るまでそんなこと考えたこともなかった。でも私も自分の心に従おう。同じ人間である者たちを嬲って喜ぶような人たちの思い通りにさせるなんて……!
レイナは取り出した小瓶を強く握りしめた。
これは、何もできない今の自分が悪しき者たちにできる、唯一の抵抗であり、そして最後の抵抗なのだ。
死んだら自分はどこへ行くのだろう?
元の世界の家族や友人たちの顔がよぎっていった。そしてこの世界で出会った本当にほんのわずかな間ではあったが、縁を紡いだ人々の顔も――
「……いけません!」
小瓶の蓋に触れたレイナの手をアンバーが押さえた。
吹き荒れる吹雪により、レイナの目は非常に痛かったがアンバーの顔が見えてきた。彼女の白い頬にも雪は容赦なく、吹き付け、綺麗に整えられていたストレートの肩までの髪も乱れていた。
けれども、ちょうどその時……
荒れ狂っていた風のスピードが弱まった。
小瓶を握りしめたままのレイナは、この肉体に吹き付ける吹雪がやわやわとゆるゆると弱まっていくのが分かった。
そして、先ほどまでと比べるとわずかに温かな空気が、そして視界は霧が晴れていくようにはっきりと――
フランシスとマリアだけは、依然として面白そうに自分たちをながめていた。
そして、その彼らの背後の宵闇、その上空に輝く星までもがはっきりと見えた。
だが、あの2匹の大蛇はまだいた。蜷局を巻き、じっと自分たちを見ている。
理由は分からないが、攻撃の手を緩めたフランシス。
フランシスはくいっと手を下に向けた。2匹の大蛇は再び動き始めた。だが、同時にわずかな隙も生じた。
即座に、フランシスへと向かっていこうとしたアンバー含む無傷な魔導士たちとレイナの足元がぐらついた。
その強いぐらつきは、一回きりのものではなかった。地響きのような激しい揺れ。
「!!!」
白い雪はマグマのようにボコボコと湧き上がり、そして自分たちを円で取り囲む形に雪が盛り上がった。それを理解した次の瞬間、雪は自分たちへがいる内側へと覆いかぶさってきたのだ!
「レイナ!」
アンバーとジョセフがとっさにレイナを守ろうとした。
だが、左薬指のフェイトの石が熱く脈打ち、アンバーとジョセフの手を、そしてレイナ自身が硬く握りしめていた小瓶までもを吹き飛ばしたのだ。そのうえ、レイナは見えた。自分と同じく吹き飛ばされたアンバーが深紫の邪悪な手に掴まれ、連れ去られるのを――
「おいっ!!」
「なっなんてことをしてくれたの! 私の肉体まで……!」
フランシスの胸倉にガッと掴みかかったオーガストと、顔面蒼白となったマリアの眼前で先ほど繰り広げられたこと。
それは、自分たちの獲物が瞬く間に雪に飲み込まれ、そして押し流されていった光景であった。
フランシスが操っていたあの2匹の大蛇は、眼にも止まらぬ速さで獲物たちをまたしても円形に取り囲んだ。1つ、先ほどと違っていたことは、大蛇はそれぞれの尾をその巨大な口でくわえたということだ。
完成された円。
大蛇たちはそのままの姿で大地へとズズッと潜りこんだ。
その円を中心として、地響きを起こし、そして盛り上げた雪を押し寄せる波のようにして、獲物たちを押し流していった。
傷1つだってつけてはいけないマリアの本当の肉体までも――
「言ってるそばから、何やってんだよ! お前は?!」
自分の胸倉を掴み、喚くオーガストに、フランシスはフッと笑った。
「あなた、この雪で頭を冷やしたほうがいいですよ。第一、私がそんな初歩的なヘマするわけないじゃないですか? マリア王女の肉体は、きちんとフェイトの石で保護しております。ほら、あれに……」
フランシスはある一方向を指さした。
オーガスト、そして青い顔でブルブルと震えていたマリアが見たのは、透明な光に包まれ、荒らされた雪の上に浮かびあがっているマリアの肉体――すなわちレイナであった。
「手を離してください、オーガスト。服が伸びてしまいます」
フランシスのその落ち着き払った声に、オーガストは唇をギリと噛みしめたものの、手を離した。
襟元の乱れをサッと直したフランシスは、オーガストに言う。
「そうカッカしないで、あなたもマリア王女と一緒に、マリア王女の肉体に入っている者で遊んでみたらいかがでしょうか? その間、私はアンバーにちょっかいをかけるといたします。その他の雑魚の相手には、あなたが作ってくれた”あれ”を使用させていただきます。あなたのその態度には問題大有りですけど、仕事の質は非常に高く、期日を守っていただいたので助かりましたよ」
フランシスはオーガストの肩をポンと叩いた。
そして、自身がかき回した雪原を見て、ほうっと白い息を吐き出し、独り言のように呟いた。
「ジョセフ王子は後ほど掘り起こして、いじめてみますか。今宵はゆっくりと楽しむ時間の余裕があることですし」
笑みを浮かべたままのフランシスは”レイナ”が浮かんでいる場所とは、明後日の方向へと雪の中をサクッと進み始めた。
――……どうなったの? 私は……”まだ”生きているの? それとも、ここは……?
今、レイナが感じる凍てつく寒さは、先ほどまでと変わらないものであった。
ゆっくりとだが、瞳を開くことができたレイナに見えたのが、青き月が隠れし夜空であった。漆黒の空の上空には、数多の美しい星がまたたいていた。
――生きている……私はまだ生きてるんだ!
吐き出した白い息が、瞳に映っている美しい星空に重なりあった。
冷え切った、そしてわずかに痛む体をレイナは起こそうとした。だが、気づいた。自分が雪の上ではなく、宙に浮かんでいることに。
フランシスが操る2匹の大蛇によって、引き起こされた雪崩に巻き込まれる寸前に起こったこと。それは今、左薬指のフェイトの石が熱く脈打ち、自分を守ってくれようとしたアンバーとジョセフの手を、そして手の内に握りしめていた小瓶も、弾き飛ばし……
フランシスの息がかかったフェイトの石が、この肉体を透明な光に包み保護していた。それは”自分”を守るためではない。マリアの肉体を守るためだ。
――それだけじゃない! あの変な手がアンバーさんを……!
アンバーがあの不気味な深紫の手にとらわれたのは、決して見間違いなどではなかった。
純白のローブに身を包んだレイナの肉体の背面に、雪の感触が伝わった。
レイナは即座にガバッと身を起こした。
――アンバーさん……ジョセフ王子……!
ふらついた両脚が、乱れた雪に重い足跡を残した。
レイナには、自分が今いる場所がどこなのか分からなかった。だが、雪に足をとられながらもレイナは駆けた。
月が隠れし今宵の決着のために、道しるべのごとく立てられていた松明の多くは先ほどの雪崩になぎ倒されたも、まだ松明の灯りは幾数も残っていたのだ。
なぎ倒され、とうに火が消えていた松明の木を近くで見つけたレイナは、それをまだあかあかと燃え続けている松明へと近づけた。湿りきった木であったが、何とか灯りは灯った。
――早く、早く、皆を助けなきゃ……!!
悪魔の手によってかき回された白銀の世界には、生者が自分1人しかいないように思われた。レイナの心臓の鼓動は早くなり、瞳が潤み出した。松明がパチパチと燃える音も、震える鼓膜を通じて響いてくる。
レイナは松明を手に、盛り上がった雪の箇所を見つけては、そこを必死で掻き分ける。
無論、レイナは馬鹿ではない。闇の中、こうして松明の灯りを使うことは、悪しき者たちに自分の居場所を教えることと同義であるとは分かっていた。
だが、一刻も早くこの雪から助け出せる者たちを助け出さないと、凍え死ぬか、窒息死してしまうだろう。
自分を守ろうとしてくれたアンバーとジョセフ。
首から血を噴き出したダリオの生死や、その他カール含む魔導士たち、この場に自分と同様に同行することになったルーク、ディラン、トレヴァーの3人の青年たち……
だが、レイナの手は虚しく盛り上がった雪を掻き分け続けるだけであった。
――まさか、今ので皆……死……そのうえ、アンバーさんはフランシスにとらわれて……
レイナの瞳より盛り上がった涙は、雪の上にポタリと落ちた。
その時、自分の背後より雪を踏みながら近づいてくる足音にレイナは気づいた。
凍てつく寒さのなかにあるにも関わらず、レイナの全身からは汗がブワッと噴き出し始めた。
後ろから迫りくるその足音。それは自分が助けたいと望んでいる者の誰かなのか、それとも……
近づいてくるのは、正義か悪か。自分が振り向いた時、それが分かるのだ。
涙がピタッと止まってしまったレイナは、心臓をギュっと押さえた。そしてゆっくりと、周りに漂っている冷たい空気を深く吸い込んだ。そして――
思い切って振り返ったレイナは、正義か悪か、そのどちらが”笑みを浮かべながら”自分に近づいてきているのかを理解した。
マリア王女、そしてオーガスト。
レイナが身を包んでいる純白のローブと、対になるような漆黒のドレスを身にまとうマリア。1人は生身の人間で、もう1人は精巧に作られた人形であるが、寸分違わぬ美が、黒と白との見事なコントラストを描いていた。
マリアは、レイナが雪の中に手を突っ込んでいるのを見て、眉を潜めた。
「いやだ、私の手にひび割れができちゃうわ」
そのマリアの言葉を聞いたオーガストが、レイナに即座に駆け寄り、レイナの両手首をグイッと掴み、雪の中から引き出した。
「きゃあっ!」
無理矢理、その場に立たせられたレイナは、オーガストの手から逃れようともがいた。オーガストの力はその細身な肉体から想像できないほど強く、レイナは全く抗うことができなかった。
「今までみたいに優しく扱ってね、オーガスト」
なおも諦めずにもがき続けるレイナを見たマリアは、クスクスと笑った。
迫りくる死。迫りくる最期。誰の助けも呼べないまま。そして、誰も助けられないまま――
「今度こそ逃がしはしないわ」
レイナ(自分の肉体)を前に、マリアの青き月のごとき人形の瞳はさらに輝きを放った。
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