―11― ジョセフとアンバー(2)

――アンバーさんが、いずれこの王国の王妃に?!

 レイナは脈打ち始めた胸をギュっと抑えた。胸の動悸を掌に感じながら考える。

――でも、そう考えると、辻褄があうような気がするわ。何者かがジョセフ王子たちを導こうとしているのだとしたら……弟王子様が言った通り、アンバーさんは「この世を守る大きな存在」=「王妃」となり……それに、あのデブラの町の宿でゲイブって男の子が何者かから託されたらしい「必ず最後には悪しき者たちに勝つ。だから今は守るべきものを思って心強く進め」という言葉。やっぱり、絶対にアンバーさんはジョセフ王子と結婚して、この王国の……


 思考がグルグルと渦巻き出したレイナであったが、扉の向こうのカールかダリオ、どちらかが引き起こした大きなくしゃみにより、ハッと我に返った。

「大丈夫か」と言うカールの声が聞こえた。くしゃみの主はダリオであったらしい。

 レイナは、我に返ると同時に自分が人の話を思い切り盗み聞きしていたということに気づいた。彼らが知らないとはいえ、このことはとても褒められたことではない。

 顔がカアッと熱くなったレイナが重いドレスの裾をそっと持ち上げ、扉の前を離れようとした時、まだ喋り足らぬらしいカールとダリオは次なる話題へと移った。

「なあ、お前は”あいつら”はどう思う?」

 ダリオがわずかな鼻声で、カールに聞いた。

「ああ、”あいつら”か。うーん、何とも言えんな。今のところ、3人ともただの平民の若い男にしか見えないし、そうとしか思えないからな」

 彼らが言う”あいつら”とは、あのデブラの町の宿で、アポストルからの啓示を受け、自分も巻き込まれているこの件に、半ば無理矢理に巻き込まれることとなった3人の青年、ルーク、ディラン、トレヴァーのことだろう。

「あいつら、今、必死になって、この城内で兵たちから訓練を受けているけどさ……正直、付け焼刃にしからんだろ。俺らみたいに魔導士の能力を持って生まれてきたわけでもないし、兵としての訓練を受けていたわけでもないようだし……あいつらが”やがて英雄になる”なんて、とてもじゃないけど想像できんな」

 カールのその言葉にダリオが少しだけ声を落として言う。

「……まあ、俺が見た限り、あいつら3人とも運動能力や習得能力は人並み以上にあると思う。決して、素質がゼロに近いような奴らではない。特にあの一番デカい奴は力もすごく強そうだ。でも、やはりお前の言う通り、あとたった2日で何とかなるってもんじゃないだろうな」

「まさに、無謀ってとこか」

「ああ」

 ダリオがカールに頷いた時だった。

「あ、噂をすればあいつらだ」とカールが呟いた。


 扉の向こうにいる、カールとダリオのお喋りはピタリと止んだ。

 罪悪感をヒシヒシと感じながらも、依然としてその場を離れることができなかったレイナは、さらに強い罪悪感に襲われながらも耳を澄ませていた。

 扉の向こう、廊下より数人の足音と話し声が近づいてきた。この王国の最北の町で出会ったあの3人の青年たちがこちらに歩いてくるのだろう。

 途端、レイナはハッとした。

 あのデブラの町の宿で、愛らしい少女・ジェニーが言っていたことを。

 雪の中で倒れていたらしい自分を確か「ルークさんたちが助けてくれた」ことを、今この時になって思い出したのだ。

――いけない! ちゃんと、お礼を言わなきゃ……!

 もう二度と帰れそうにない元の世界で、人へのお礼はきちんと口に出して言うことを躾けられていた。もう二度と会うことができそうない、父・母、そして兄にも。


 いきなり、バン! と勢いよく扉を開けたレイナに、立っていたカールとダリオは飛びあがらんばかりに驚いた。

「あ、あの、驚かせてすいません。私、あの、ただ、あの人たちにお礼が言いたくて……あの、少しの間だけ……この部屋を離れてもいいですか?」

 彼らにペコッと頭を下げたレイナは、着慣れぬドレスを両手で軽く持ち上げ、廊下の向こう側より歩いてくるルークたちの所へと向かう。

 ほんのわずかな距離であるからか、カールとダリオが自分を追いかけて来ることはなかった。ただ、彼らの視線が自分の背中に痛いくらいに注がれていることは感じていたし、こんな行動力があった自分にも驚いていたし、恥ずかしくもあった。


 今よりわずか数分前――

 ルーク、ディラン、トレヴァーの3人は、真冬のさなかにあるにも関わらず、全身はうっすらと汗ばみ、熱を持ちほてっていた。

 彼らの腰に吊り下げられている剣は、魔導士・フランシスの決着に備えて与えられたものであり、歩くたびに重たげな音を立てていた。

 兵たちによる訓練を一時、中断し、城の中で体を休めるために廊下を歩いている今のこの時間は、まさに彼らにとっては「ほんのわずかな間の安らぎ」であった。彼らは今まで肉体労働が生活の糧であったため、体力には自信はあったものの、2日後に迫るあの決着の時までには、訓練などほんの付け焼刃にしかならないのは自覚していた。だが、何もしないよりかはマシであるだろうと、彼らは必死に剣を奮い続けていた。

「うぐ~~腰が痛え……レンガ積みの仕事していた時よりも痛えよ」

 顔を思いっきりしかめたルークは腰を押さえ、猫背になっていた。傍らのディランも、疲労困憊を隠せなくなっており、彼と同じく上体を屈ませながら歩く。

「はは、あのレンガ積みの仕事は本当に辛かったね。親方に朝から晩まで怒鳴り散らされるというストレスフルなおまけつきで……」

「ぐ~~嫌な奴だったけど、あの親方に鍛えられたよな。なんだか今は、上半身と下半身が分離されて、かろうじて砕ける寸前の腰で繋がっているような痛さだ」

 ルークのその例えに、トレヴァーが頷いた。

「的確な比喩だな。俺も体力には自信あったんだけど、今回はきついな。まあ、これから先のことには命がかかっている。ただ、1日1日の糧を稼ぐのとは違っているから、精神的なモンも来ているとは思うし……」

「正直、俺、肝心な明日の夜にまで、この筋肉痛が続いたら、どうしようかと思ってるんだよ……」

 ディランの言葉にルークが「そうだった」とハッとし、トレヴァーは「そういえば……」と視線を上に向けた。

「俺、体の痛みに効く薬持ってたんだ。しかも効き目の早い薬だ。今、思い出した」

「もしかして、トレヴァーが作った薬? ほんと、いろんな仕事してたんだね」

 トレヴァーはディランに向かって、首を振った。

「いやいや、俺が作ったわけじゃない。俺、デブラの町に立ち寄る少し前まで、旅一座にいたんだよ。裏方っていうか、単なる用心棒みたいなポジションだったけど……そこの団長が少しだけ魔導士の素質を持っていて、いろんな薬を作ってくれたんだ」

「素質を持っていたのに、その団長は魔導士にはならなかったのか?」

 不思議そうに聞いたルークに、トレヴァーが答える。

「ああ、あの団長は、魔導士の素質があるといっても、本当にほんの少しだって自分でも言ってたよ。手品レベルの魔術を使えるとか、普通の人間に比べたら勘が鋭いくらいだって。人体によく効く薬草などについては、旅を続けながら自分で努力して知識を増やしていったそうだ」

「魔導士としての力の強さってのは、この世に生まれ落ちた時に決まっているらしいからね」

「……ってことは、ジョセフ王子に仕えているあの魔導士軍団は、まさにエリート中のエリートってことか」

 ルークが腰を押さえ、続く痛みに顔をしかめたまま呟いた。

「俺らとそう変わらない年の人もいるっていうのに、すごいよね」

「確かにな……あのアンバーって人が、魔導士軍団を取りまとめているみたいだ。あの人が一番強い力を持っているんだろうな」

 トレヴァーが言う。それに、ルークとディランも頷いた。

「あの人……物凄く頭が良さそうな美人というか……やっぱり国の中心で働いているような女性は、並々の人ではないってことパッと見ただけも分かるもんだね」

「そうだよな、キリッとしていてとっつきにくそうな感じはするけど、あのジョセフ王子と並んでも見劣りしないというか、違和感がないのがすごいよな。一国の王子を前にして、全く物怖じもしていないし」

「俺らなんて、ジョセフ王子のあのオーラと迫力にビビりまくって、直視するのもはばかれるっていうのに……」

 ディランとトレヴァーは、ルークにうんうんといった風に頷いた。そして、彼らは次の話題へと移る。

「そういや、あのマリア王女の中に入っている魂って、平民の女の子のものらしいね」

「ああ、あの確か異世界から来たとかいう……まあ、あのデブラの町ではマリア王女が2人もいてビビったけど、よくよく思い出してみるとあの悪モンが連れていた方が本物のマリア王女というのには頷けるよな……あっちのマリア王女の方が立ち振る舞いが堂々としてたというか……」

「でも、いろいろとヤバい人だったじゃん。非の打ちどころがない美人であることが、余計あのヤバさを際立たせているような気がするよ」

「一生に一度でいいから姿を見たかった国中に名がとどろく絶世の美女をこんな形で見ることになるとはな……しかも、その裏側ときたら……これはもう国家機密級のタブーを覗いちまった気分だ」

 ルークとディランのやり取りを黙って聞いていたトレヴァーが言う。

「マリア王女があんな風だから、ジョセフ王子の心が休まる日は一日たりともなかったに違いない。ジョセフ王子はごくまともな人間としての心を持っているようだし、マリア王女がしでかす様々なことに心を痛め、兄妹として絶対にその尻拭いにも奔走して、神経をすり減らしていたんだろう」

「……確か、王妃様って3番目の御子を流産されたんだよな?」 

「その、たった2人の兄妹としての血のつながりにも、ジョセフ王子は苦しんでいたんだろうね」

「兄弟ねえ……俺らにも多分、兄弟はいるんだろうけど、顔も知らないし、そう探す気になれないってのが正直なとこだよな。なあ、ディラン」

 ディランが頷く。

「血のつながりはおそらくないだろう俺とお前が兄弟みたいになってるしね」

「無計画に子作りに精を出していた夫婦が、産んでみたものの経済的にパンクしたんで、名前だけ与えたまま俺たちを放り出して今に至るってとこか?」

 ルークの話を聞いたトレヴァーが口を開いた。

「多分、俺もお前たちとよく似た出生だと思う。それどころか、同じ境遇の奴は結構な数いるだろ。この王国は、ここ数十年は戦争や内乱は全くなくて、平和なもんだけど……正直、格差は激しいよな。それも、自分の力ではどうにもできない差がなあ……俺、今でもせめて文字ぐらいは、正確に読み書きできるようになりたいんだ」

「トレヴァー、お前は偉いな。俺はそんなこと思ったこと、一度もねえな。そもそも、俺、たぶんアホだと思うし……」

「まあ、それには同意だけどね」

 いつものように軽口を叩いたディランに、ルークは「何だと?」と彼の首に軽く腕を巻き付け、頭を小突く真似をした。彼らとこの冬に知り合ったばかりのトレヴァーであるが、これがいつもの彼らのやりとりだと思われるため「おいおい」と止めるふりをしながらも、笑っていた。

 その時、パタパタという足音とドレスが床に擦れる音が近づいてきたのに彼らは気づいた。

 彼らの視線の先にいたのは、掃除の行き届いたこの長い廊下をドレスを両手で持ち上げながら、やや危なっかし気に自分たちに向かって駆けてくる”マリア王女”であった。



 ほんの少し、といっても数十メートルの距離を走っただけなのに、乳房は揺れ、心臓が脈打っているのをレイナは感じた。

 あの3人の青年、ルーク、ディラン、トレヴァーは、”自分”の姿を見るなり、ハッとしてその足を止めてしまった。まるで、彼らの周りの時まで止まってしまったかのように。

 レイナは、彼らのその反応は、自分の魂が入っているこのマリア王女の絶世の美しさに見惚れているのだと理解していた。元の世界の元の肉体にいた頃は、一度としてこういった反応をされたことはなかったのだから。

 足を止め、大きく深呼吸したレイナは、彼らに向かって深々と頭を下げた。

「あ、あの、雪の中、助けていただいて本当にありがとうございました!」

 ポカンと口を開け、やや面食らっていた様子の彼らであったが、ルークが口を開いた。

「いいって、そんなこと。それより、あんたも災難だな。こんなややこしいことに巻き込まれてよ」

 そのルークの言葉に、レイナは曖昧に頷いて、苦笑いをするしかなかった。

「それより、中の人の名前はなんて言うんだ?」

「レイナです……」

「そうか、俺はルーク。で、もう知ってるとは思うけど、こっちはディランとトレヴァー」

 レイナの緊張をほぐすためか、頬を緩ませたルークは、親指でくいっと傍らのディランとトレヴァーを指した。ディランとトレヴァーも、レイナにニコッと笑いかけた。レイナもぎこちないながらも、彼らに笑みを返した。

 西洋人風の顔に見慣れていないレイナではあるが、彼ら3人はすぐに見分けがついた。

――この少しくすんだ金髪とキラキラした瞳で、笑顔が可愛くて、ちょっと気が強そうな人がルークさん。サラサラした栗色の髪で、ルークさんとは正反対で穏やかな優等生っぽい人がディランさん。そして、褐色の肌ですっごく大きくてプロレスラーみたいな体型だけど、優しそうな人がトレヴァーさんね。

 レイナの魂が入っているこのマリアの肉体は、元の自分の肉体より10cmは背が高いと思われた。だが、近距離で見るトレヴァーは本当に大きくがっしりとしており、その迫力に思わず圧倒されそうであった。おそらく2メートル近いか、もしくは超えているだろう。

 ルークとディランは2人ともほぼ同じぐらいの身長であった。ジョセフ王子と比べると低いように思うが、彼ら2人とも175cm以上は確実にあるに違いなく、伸びやかな若木のような肢体をしていた。

「なあ、レイナがいた異世界って、どんなところなんだ?」

 ルークはレイナに向かって、その榛色の瞳をさらに輝かせた。ディランがルークの肩をポンと叩いた。

「ルーク……レイナは住み慣れた世界から離れて、いろいろと寂しいだろうに、思い出させるようなこと言うなよ」

「す、すまん」

 ディランのその言葉に、ルークはハッとし、レイナに向かって頭を下げた。

「いいえ、いいんです」

 レイナは寂しげに笑うことしかできなかった。だが、今の一連のやりとりにレイナの心がわずかにほぐれたのも、事実であった。

 レイナの魂が入っているこの肉体という器はこの世界で最上級に高貴な身分であっても、中にいるレイナはもともと庶民(この世界でいう平民)であるためだ。くだけた言い方をすれば「気のいい兄ちゃんたち」にしか見えない彼らを前にしている今は、ジョセフやアンバーを前にしたような緊張感は全くなかった。

 そして、じゃれ合う若い彼ら3人を見ていると、レイナは「友達」という存在を思い出さずにはいられなかった。



――あと1日、怖いよ……

 レイナは両手を胸の前で、ギュっと握りしめた。汗で湿った手の感触を感じる。

 そのうえ、レイナはまるで自分が、いや自分の魂が暗闇に漂う雲の上にいるように感じていた。不安定で落ち着かなく、その雲に亀裂が生じれば、たちまち自分は落ちていってしまうのだろう。

 そして、レイナには分かっていた。落ちていくその先は、地上などではなく、何もない深淵であるのだと。

――怖い……

 さらなる恐怖が自分をねっとりと妖しく包み込み、再び両手を握りしめたレイナであったが、カタンという音に我に返った。

 途端、レイナは目覚めた。夢の世界から”現実”の世界に戻ってきたのだ。

 だが、その胸の動悸はおさまらないままであったし、自分を包みこんでいるねっとりとしたこの恐怖は現実の世界にも生々しく残っていた。いや、現実に戻ってきたことで、その恐怖はさらに強く自分の身をねっとりと包み込んでいた。

「……ごめんなさい、起こしてしまいましたか?」

 自分が身を横たえているベッドの側には、アンバーが立っていた。先ほどの音はアンバーがたてたものであったらしい。彼女は心配そうにレイナを見ている。

「……大丈夫ですっっ」

 レイナは慌てて上体を起こした。

 どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 今日の昼以降の記憶がぼんやりとしか思い出せなかった。

 そのうえ、窓の外から見えるのは、沈みゆく夕陽が白銀の世界を朱く照らし出している光景であった。

――もうすぐ、陽が沈む。そして、また陽は昇るわ。でも、次にその陽が沈んだ時……その時は……

 魔導士・フランシスとの決着。

 明日の青き月が隠れし夜に、あの気味の悪い魔導士・フランシスとこの部屋にいるアンバー含め、首都シャノンより呼び寄せられている魔導士たちが戦うのだ。

 そして、レイナの脳裏には、少年・ゲイブが何者から託された言葉が鮮明に蘇ってくる。


「必ず最後には悪しき者たちに勝つ。だから今は守るべきものを思って心強く進め」


 断言されし勝利。

 だが、この落ち着かなさは一体何なのだろう。ゾワゾワとした何かが、背筋を走っていくのをレイナは感じた。そう、これはまるで彼女の元の肉体が滅ぶ前日に感じた悪寒と同じものであった。魂が入っている器は違えども、同じ悪寒を、彼女の魂は感じているのだ。

 このアリスの城では、レイナはずっとアンバーと同じ部屋で眠りをとっていた。もちろんベッドは別であるが、この扉の外には兵や他の魔導士たちが寝ずの番で控えており、レイナは厳重な警護のなかにいるにも関わらず、この恐怖や悪寒は和らぐものではなかった。

 レイナは、自分を心配そうに覗き込んでいるアンバーを見上げた。

 彼女の頬もまた自分と同じく、青く引き攣っているのがレイナには分かった。

――アンバーさん……そうよね、実際に戦うのはアンバーさんたちだもの……あのフランシスって人は、どんな力を持っているか、そして何を考えているのかも分からないし、とにかく慇懃無礼で不気味で得体の知れない人としか……

 アンバーが「失礼します」と言って、レイナの隣に腰をそっと下ろした。そして、彼女は口を開いた。

「物心ついた日から今日までのことを思い出していたのです。何かゾワゾワとしていて、対決の日は明日なのにこんなことではいけませんね」

 レイナは驚いた。

 どちらかといえば言葉少なであり、自分のことをそう他人に喋らないといった印象があったアンバーが、自らの胸の内を、それもいかにも頼りなげなこの自分に吐露したことに。

 それと同時にレイナは思う。彼女が歩いてきた人生という道のり、そこには必ずあのジョセフ王子がいたのだとも。

 レイナは、アンバーに何と答えていいのか分からず、ただ、黙ってアンバーを見つめ返した。

 アンバーの身長は、このマリア王女とほぼ同じぐらいであるだろう。肩で切り揃えられた茶色がかった艶やかなストレートの髪、そして知的で意志の強そうな瞳と引き締まったやや薄い唇。

 15才の自分より恐らく5才かそこらかしか変わらないこの女性が、一国の王子とともに行動し、命を懸けた任務に従事しているのだ。

 レイナは恐る恐る口を開いた。

「あ、あの、アンバーさんはどういう経緯で魔導士となったのですか?」

 こう言ってしまった後で、レイナはハッとした。頓珍漢なことを、いやそれどころか物凄く無神経なことを聞いてしまったのでは、と慌てて口元を抑えた。

 だが、アンバーはそのレイナの問いに優しく答えた。

「そうですね、あなたのいる世界でも魔導士のような存在はいるのかもしれませんけど、この世界での魔導士とは力を授けられて誕生するのです。その魔導士の力を持つ者がこの世界で初めての産声をあげる時、その肉体が一瞬、金色に輝くのだと……」

 光に包まれ生まれてくる赤ん坊。

 その赤ん坊は、普通の人間にはない力を持っている。だが、その力は……

「あ、えっと、アンバーさんたちみたいにこの王国に仕えている魔導士の方もいれば、そうでなくて、あのフランシスって人みたいに良くない魔導士の人のいるのは、その魔導士の力は善と悪に分かれて授けられるということですか?」

 レイナは思う。

 あのマリア王女のように、生まれながら人の心を持たない人間が生まれたのなら、魔導士にも生まれながら悪の方向にしか働かせられない力を持って生まれる者もいるのではないかと。

 アンバーは黙って首を横に振る。

「いいえ、魔導士として授けられた力の大小はあれど、その質に善や悪はありません。ただ、その力を何のために使うかによって、異なってくるのです。そのうえ、普通の人間にはない特別な力を授けられて生まれてきた存在であるということが、奢りや高慢な心を引き寄せてしまいます。現に私もそのような心を抱いたことがありました。ですが、私の父も同じく王国に仕える魔導士であり厳しく育てられたのと、そして、あの実直なジョセフ王子がずっと近くにいました。自分の心を進むべき方向へと導いてくれる存在が、私のすぐ近くにいたことは幸運なことでした」

 誰もが我欲を捨て、正しい道を歩むとは限らない。そのことがレイナには分かった。

 アンバーはレイナを優しく見つめた。

「レイナ、今ここであなたの思っていることを全て私に吐き出してみてください。全て受け止めます。それが、あなたをこの世界にいざなった私にできることです」

 レイナは目を伏せてしまった。

 正直、最初の頃は恐怖や混乱の中に生じた、恨みもあった。だが、この世界に誘われた真実を知ってしまった今は、もうそんな恨みなどは微塵もなかった。

「……私が元の世界で死んだのは、アンバーさんのせいじゃありません。ただの事故です。ただ、あれが私の人生だったのかと思うと……もう一度会いたい人がたくさんいて……でも、もう何も会えない。どんなに会いたくても何も届きはしない」

 瞳から熱い涙が溢れ出してくる。

 レイナはしゃくりあげながら、その止めることのできない涙を手でぬぐい、話を続ける。

「私は本当に凄く狭い世界で生きていたんです。世界が狭かったんではなくて、私の見ようとしていた世界が狭かったんです。食べ物や命の心配なんてすることのなかった環境、でも私は受験に失敗……いえ、自分の思い通りにならなかったことがあって、自分も周りも拒絶して、未来への夢すら抱くこともできずに、何であんな風にしかいきられなかったのか……」

 レイナの脳裏で、物心ついてからの出来事がスクリーンに映し出されるように展開していく。

 幸せだった。確かに私は幸せだった。父と母、そして兄。皆いたって常識的で優しく、思いやりに溢れる人たちだった。そして、不本意に入学してしまったと思っていた光海女子高校で出会った女子生徒たち――川野留美をはじめとする、友人となれたかもしれない少女たちのことを思った。

 ヒックヒックと、しゃくりあげ続けていたレイナは、アンバーに不意にギュっと抱きしめられた。分厚い黒衣越しでも、アンバーの乳房はレイナがびっくりするぐらい大きかった。

「あったかい。お母さんみたい」

 レイナはアンバーに甘えるように、思わず瞳をそっと閉じてしまっていた。 

「私はまだ19ですよ。でも、少しの間こうしていましょう」と、アンバーがクスと笑った。

「あの……アンバーさんの夢って何ですか?」

「そうですね。私も狭い世界で生きてきました。お城とその周辺しか知りません。ただ私の夢は、ジョセフ王子が王となったその傍らで、この命果てるまでこの王国に身を捧げることです。それが私の夢です」

 そして、アンバーは続けた。

「レイナ、ジョセフ王子はいろいろ誤解をうけるけど、自分にも他人にも厳しく責任感の強いお方なのですよ」


 またしても、魂の奥底で深くつながっているジョセフとアンバーの深い絆を感じずにはいられなかったレイナも、そしてアンバーも気づいてはいなかった。

 今、彼女たちのいる部屋の扉の向こうにジョセフがいたことを。

 レイナとアンバーの話を全て聞いていたジョセフは、彼女たちに声はかけずにその場をそっと静かに立ち去った。

 あとたった1日だけの安らぎを残す、このアリスの城は深い闇へと包まれていき始めていた。

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