第3話 3

 みおが寒薙を案内したのは、海が見下ろせる山の中腹に建つ木造住宅だった。

 茶色の屋根瓦は潮風にさらされたせいか、白っぽくなっている。サッシがアルミではなく木枠という、島でよく見る古めかしい家だった。玄関の引き戸の上には明かりとり用の欄間らんまがあった。手の込んだ竹の彫刻で飾られ、ガラスがはめられている。玄関のひさしには、白い琺瑯ほうろうの傘をかぶった丸い電球が外灯用にある。夜にはオレンジ色の明かりが灯るのだろう。

「おばあちゃんに、ご挨拶しないと」

 寒薙がみおに伝えると、ひとつうなずき、みおは戸を開けて家の中へ入っていった。

「ただいまー、おばあちゃん?」

 家の中を駆け回る小さな足音が外まで聞こえる。

 寒薙は庭を眺めている。風にゆれる白い雪柳、あざやかな黄色のレンギョウ。クンシラン、アネモネ、キンセンカ、桜草……。

 庭は春の花であふれていた。その草花に隠れるようにして小さな祠があった。

 あまり手入れはされておらず、扉は片側が壊れていた。おままごとで使うような大きさの、お神酒徳利おみきどっくりが倒れているのを直し、左右の神狐しんこの汚れをパーカーの袖でぬぐい所定の位置に戻すだけで、祠はこざっぱりと整った。

 寒薙はしゃがんで両手を合わせ目を閉じた。唇は声を発することはなかったが、歌うように動いた。

「おばあちゃん、いない。出かけたみたい」

「そうなんだ。じゃあ縁側のほうを使わせてもらえるかな。海が見えて、気持ちがいいから」

 立ち上がった寒薙の申し出に、みおは再び家に入ると縁側のガラス戸を開けてくれた。縁側にそってある座敷は、穴や皺ひとつない障子戸がぴたりと閉じられていた。

 縁側に座り、寒薙はバッグからハンカチ包みのお弁当とスリムタイプの水筒を取り出した。

「ゴハン一緒にたべよう」

 うん、と言うとみおは家の奥に引っ込こんですぐに戻ってきた。

「それなの?」

 寒薙は慌てたようすで尋ねた。みおが持ってきたのは、スナック菓子の袋とチョコレートだった。

「うん、あとでおばあちゃんがゴハンつくってくれるから、これでいいの」

「わたしのあげるわ」

 寒薙は包みをほどいた。おにぎりが二個とおかずのタッパーには卵焼きや鶏の唐揚げ、ミニトマトやほうれん草のゴマ和えが彩り豊かに詰められている。

 おにぎりを差し出されても、みおは首を横に振って受けとろうとはしなかった。寒薙は困ったように首をかしげたが、無理強いはしなかった。

 ふたりは並んで腰掛けて、それぞれの食事をとった。

 海は日差しをうけて輝いているが、沖には黒い雲が立ちこめている。ときおり白波がたつのは風が強い証拠だ。

「春にね、くーちゃんとこに行くはずだったの」

「ああ、島から引っ越したお友だちね」

 うん、とみおはスナックをひとつつまんで口に放り込んだ。ほんの少しずつしか食べない。まるで小鳥が木の実をついばんでいるようだ。

「きょねんのなつは、くーちゃんがあそびにきたんだよ。いっしょに海でおよいで、よるは、お父さんがにわにテントを作ってくれたから、いっしょにねたんだ」

「楽しそうね」

「うん、すっごいたのしかった。だからね、春やすみになったらこんどは、わたしがくーちゃんのところにあそびにいくはずだったんだけど」

 みおはそこで言葉を切って遠くを見るような眼差しになった。寒薙も箸を止めた。

「いけなくて」

「そっか……」

「まえはね、あきにはおまつりもあったけど、やらなくなったし」

 島全体がのんびりとしているといえば、のどかな印象を受けるだろうが老人ばかりで活気はない。何かしらの行事をするには人も手間も及ばないのだろう。

 にゃあ、と路地裏から猫の声がした。

「……だれも来ないから」

 みおの言葉に寒薙が問い返した。

「来たでしょう?」

「きょねんは、くーちゃんが」

 みおはチョコレートの銀紙をむきながら、話し続けた。

 みおにチョコレートを差し出されたが、寒薙は首をふって辞退した。

「私の知人が来たはず」

 寒薙はカメラを片手にみおの前に立った。

「お父さんとお母さんがお正月に、き……た……」

 不意に辺りが暗くなった。裏山から黒い雲が湧くようにして流れてきた。

「みおちゃんは、いつの話しをしているの?」

 みおの瞳が暗闇の猫のようにするどく光った。

「おねえちゃんは、何のはなしをしているの?」

 互いに見つめあったまま、押し黙った。

 遠くで雷の音がした。吹く風に冷気がまざっている。強い風は、みおの切り揃えられた髪を扇のように広げた。

「……みおちゃん、今年は統一暦何年?」

「なんねんって、にせんごひゃく……」

 みおは首にかけた、あや取りの毛糸に指を絡めたりほどいたりした。

 沈黙が占める小さな庭に、するどい金属音が響いた。

 島内放送らしい。機械の調子が悪いのか、スピーカーからの音声はうねりながら、訛りがきつい老人の声で何かを伝えている。

「うみがあれてるから、ふねはこないって。おねえちゃん、とまっていって」

 みおは縁側からおりると、寒薙を見上げた。みおの口が、耳まで届くかと思えるほど大きくつり上がった。

「みんなは、しまにのこってくれたよ?」

 ね、とみおは無邪気に笑った。

「……私は帰るわ。あなたも行きましょう。迎えに来たの」

 寒薙はカメラを手にするとフラッシュを焚いた。瞬間辺りがまばゆく光った。

 光が消えると、小さな画像が寒薙を取り巻くように無数に浮かんでいた。

「あ」

 閃光を避けるようにしていた腕をさげて、みおは息を飲んだ。

 それは島に来てから寒薙が撮った写真だった。

 猫が、集落が写っていた。けれどそれは……。

 みおは唇を噛み締めて、寒薙をにらんだ。

「ほんとのことしか、写せないの」

 猫は数匹しか写っていなかった。太っちょの猫は痩せ細っていた。毛並みの悪い骨ばった猫たちが、風を避けて社の陰にかたまっていた。

 廃屋ばかりの家並み。そのほとんどが屋根が破れ、柱が折れて崩れていた。

 みおの視線に焼かれるように、画像はまるで紙を燃やした灰のごとくカサカサと崩れて消えた。

「はい、捕捉しました……座標そのままでお願いします。残り時間内に」

 寒薙が左耳に手をあて、独り言をつぶやく。

「行きましょう、小椋澪おぐらみおさん」

寒薙の言葉に、みおは両手で頭を押さえ、絞り出すような声を発した。

「お、おむかえが……こないも、ン……行かない!」

 みおは鎖を振り切るようにして、隣家とのあいだの狭い道を海のほうへとかけ下りた。

「みおちゃん!」

 寒薙はみおを追った。


 海は荒れていた。

 黒い雲で覆われ暗くなった浜辺には、大きな波が絶えず押し寄せ二人の足元を濡らした。

「みーちゃん!」

 寒薙はみおの腕を捕まえた。

「なにをしたの、なにをしにきたの? へんだよ、みんながザワザワしてるのは、おねえちゃんのせいでしょ!」

 山の上から、島のあちらこちらから、暗闇を退けるように細く金色に輝く光の帯が空へと伸び始めた。

「お願いしたの、神さまたちに。力を貸して、残っている魂を行くべきところへ行かせてあげてって」

「だれもこなかったくせに! だれもたすけてくれなかったくせに!」

 寒薙は左の耳を押さえたかと思うと、補聴器をもぎ取った。そのままめまいをこらえるように、ふらつきながらパーカーの内側から巻き紙を取り出し、右手で端を掴むと肩幅ほどに引き伸ばした。

 紙は純白に淡く光り、寒薙の顔を照らした。

 寒薙の半開きの瞳も、まるで内側から照らされているように光りを宿す。

「み、みおちゃんへ」

 寒薙の声は別人に変わっていた。柔らかい女性の声だ。

 みおは寒薙を凝視している。

「地震のときに、そばにいてあげられなくて、ごめんなさい」

「お母さん……?」

「津波、どんなにか怖かったでしょう。すぐに助けに行けなくて、ごめんなさい」

 寒薙が巻物を読むそばから、紙がほろほろと溶けると真っ白な泡になり、集まっては鳥になって羽ばたいていった。

「お父さんとお母さんが、島にたどり着いたときには、みおちゃんは高波にさらわれたあとでした」

 寒薙の顔が苦しげに歪む。

「どこを探してもあなたは見つからず、お父さんもお母さんも泣いてばかりでした。みおちゃんを島へ預けたことを後悔しない日はありませんでした。お父さんとお母さんは……」

「やめて!」

 寒薙は、ひゅうと喉を鳴らして息を吸い込み激しく頭を振った。

「おねえちゃん、やめて!」

 紙は残りわずかだ。寒薙の瞳はまっ赤に血走った。

「あちらであなたにあえることがゆいいつののぞみです。どうか、まよわずにわたしたちのところへきてくれますように」

 一息で読み上げると、紙がすべて白い鳥となって消えた。寒薙は砂浜に跪いた。

 激しい呼吸に耐えかねるように、浜辺に両手をつき今にも倒れそうになっている。

 荒れた海から、ひときわ高い波がせまりくる。

「おねえちゃん!」

 みおが寒薙の手を強く引いたとき、大きくうねった波は止まった。同時に風も止んだ。

「テントから見た星空、きれいだったね……」

「え?」

「今も忘れられない。あちこちに猫がいて……神社の階段でグリコして、あやとり……」

 みおは寒薙の顔を見つめ、何かに気づいたように小さく叫んだ。

「くーちゃん……?」

 寒薙が小さくうなずいた。

「なにもないなんて嘘。ここには、みーちゃんと思い出があるから」

 みおの足元から光が溢れだした。それは島の方々から上がった光りと寄り合わされるように束となった。空に舞う白鳥しらとりが一例になり、天高く果てしなく伸びて橋をかけていった。

「この先だよ」

 息を取り戻した寒薙が空の先を指さした。

 ゆらゆらと、無数の小さな影が上っていく。

 にゃあんと、まるでみおを呼ぶように猫の声がした。

「お父さんとお母さんが待っている」

 みおはうなずくと、あや取りの糸を寒薙の首にかけた。

「ありがとう、くーちゃん」

 みおは泣きそうな顔で笑った。遠く遠くに人影が二つ。みおは光の橋を渡ってその影へ駆け寄っていく。

 寒薙は空にかかって消えて行く光の水脈みおを見上げてつぶやいた。

「ばいばい、みーちゃん」

 そのまま倒れた寒薙のそばで、補聴器レシーバーからかすかに通信音がした。


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