曳航 ――ひかりの水脈――

たびー

第1話 1

 荒れた波の向こうにあったのは、穏やかな入り江をもつ小さな島だった。島の中央あたりがゆるやかに盛り上がり、山となって薄い雲がたなびく。

 寒薙かんなぎは入江の漁港に降り立つと、血の気の失せた顔で、しきりと胸をさすった。

「こっちに来たとたんに、ヒョウシヌケするでしょ? おてんきがよくて」

 ピンクのスニーカーが見えた。寒薙がゆっくりと頭を上げると、花模様のチュニックに七分丈のスパッツを着たおかっぱ頭の女の子が立っていた。

「めずらしくだれか来たとおもったら、オバサンひとりだけ?」

 女の子はネックレスよろしく、首にかけた赤い毛糸をいじりながら声をかけてきた。

「お、おねえさん、だよ」

 寒薙は風に乱れたショートの髪を手早く整えると、ぎくしゃくと腰をのばした。青白い顔のまま、ディパックを担ぎなおして胸をそらす。女の子はきょとんとした顔で寒薙の顔を見つめている。

「いつくに見える?」

 寒薙が小首をかしげて尋ねると、女の子は眉毛をぎゅっと寄せて、顔をのぞき込んだ。

「だれかのお母さんみたい。さんじゅう? でもホチョウキつけてる。よんじゅうご?」

 寒薙は濃いめの眉を歪めて、ぷっと吹き出した。

「補聴器、知ってるんだ。こっちだけ聞こえが悪くてね」

 左に入れた精密機器を寒薙は指差した。

「歳は、ええと今年で……二十七。オバサンじゃないわよ」

 そういうと、いつの間にか三毛猫が寒薙の足元にからみついていた。

「しゃしん、とりに来たんでしょ。ねこの」

「うん。あなた、学校は? 今日は平日よ」

「あんなとこ、コドモの行くとこ。それにこの島にガッコウなんてないもの」

 きっぱりとした物言いと日に焼けた肌が、小学校低学年らしい彼女を大人びて見せる。

 筋が通っているような、通っていないような。寒薙は首を傾げたが、聞き返したりしなかった。

「あたし、みお。みんなには、みーちゃんってよばれてる」

 みおは、くるりと背を向けると顔だけ振り返って寒薙に言った。

「ねこがたくさんいるとこに、アンナイしたげる」

 そのまま寒薙を先導して漁港のコンクリートの防潮提のうえに、ひょいと登った。

 港に立つ小さな案内板には、半分はげ落ちてはいたが赤いペンキで『ようこそ、鹿呼志島かこしじまへ』と書かれてあった。

 寒薙は、晴れた五月の空をみあげると大きく息を吸いこんだ。


「ここんチの、おばあちゃんがゴハンあげるから、たくさんいる」

 みおが案内してくれたのは、島の細い道の上り坂の途中だった。道路の真ん中で、黒や白、トラや三毛の猫がのんびりと日向ぼっこをしていた。

「すごい人慣れしているね。さわっても逃げない」

 寒薙はいそいそとカメラをディパックから出すと、レンズを猫たちに向けた。

「猫が多いけど、人は?」

 ここへ来るまで誰とも会わなかった。

「んーと、おじいちゃんたちと、おばあちゃんたち」

「みおちゃんの、お家には?」

「おばあちゃんがいる。お父さんとお母さんは、三鹿みしかのほう」

 そういって、みおは海の向こうを指さした。三鹿には鹿呼志島へ渡るフェリーの桟橋がある。寒薙はシャッターを切る手をとめて、視線をさ迷わせた。

「きにしてないよ。鹿呼志に来たいっていったのは、みおだし」

 そういうと、毛足の長い白い子猫を抱き上げてほおずりした。

「みーんな、ここを出ていっちゃうんだ。タイクツなんだって。何にもないから。くーちゃんちも島にいたら、くーちゃんのベンキョウができないからって、ヒッコしちゃった」

 そんなことないのにねえ、と一人言のようにつぶやくと、海風に晒された瓦屋根の向こうに広がる海を見つめた。

 沖には白い波濤が立っているが手前の水面は穏やかだ。寒薙も目を細めて眺めている。

 みおは、ひとしきり猫を撫でてからおろして、寒薙を手招きした。

「じんじゃもあるよ、ねこじんじゃ」

 観光するような場所は、それくらいしかないようだ。みおは、坂道を駆け足で登ってゆく。寒薙はその後を息をきらしながら追う。

 細い道、軽トラック一台がやっと通れるくらいの道幅だ。舗装があちこち剥げて穴があいている。

 家は半分が空き家のようで、更にその半分は廃屋になっている。日に焼けたカーテンが引かれた家や、建物の中で木が育ち、窓や屋根から枝が突き出している家も見うけられる。家の周りは草や木が折り重なるように生えている。誰も足を踏み入れた気配もない。

波の音がかすかにするくらいでテレビやラジオ、人の話し声は聞こえない。

 建物の作りが全体的に古めかしい。窓枠が木製、はめられているガラスは磨りガラス。瓦屋根には緑の苔が生えている。

たまに、かすかに引き戸が開けられている小屋がある。覗いてみると、たたきに縁の欠けた茶碗が数個並べてある。猫用らしい。

 空気が抜けてひしゃげたボール。軒下に置かれた子供用の自転車が、雨ざらしで錆びている。

まるで時間が止まったような集落だ。

 寒薙はそんな家々もカメラに納めた。

 坂の途中が切れ、下へおりるような白い手すりが見えた。寒薙は足を止め、手すりが続く先へと視線を下ろしていった。

 杉木立に邪魔されて見えづらい。木の幹の色と同化するように、正方形に近いかたちの、茶色く錆びたトタン屋根があった。

「神社かお寺……」

 寒薙はつぶやくと、建物のかつての原型の痕跡をたどるように視線を動かした。左の耳に手を添えて、かすかにまぶたを閉じる。

 唇が小さく動く。

「おねえちゃん、おそいよ」

 みおの声がして、寒薙はまた坂道を登り始めた。


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