仇、一名様、ご案内。
さかもと希夢
1
二〇〇×年。
「静粛に、静粛に!」
衆議院議長のほとんど悲鳴といっても良い言葉は、ざわめく議場に虚しく響き渡っては、ざわめきに吸い取られて消えていった。諦めたように議長は大声を張り上げる。
「賛成三八九・反対九十一。よって本法案は可決された」
議場はより一層のざわめきと、叫ぶような反対の声、そして絶叫に包まれた。そんな大混乱、阿鼻叫喚の大会議場の中で唯一人、優雅に立ち上がって議場を満足げに笑顔で見回してから一礼して扉の中へと消えた男がいた。
その男こそが、この大混乱の大本であり、この国の総理大臣である小原慎一郎である。
総理が消えたのを知ってか知らずか、いまだに醒めやらぬ狂乱の中で、誰かがポツリと呟いた。
「いったいどうなるんだ、この国は……」
今、日本は大きな転機を迎えようとしていた。
党首にして内閣総理大臣の小原慎一郎率いる与党第一党が、衆議院選挙で恐ろしいとも言える大勝利をし、圧倒的多数の議席を独占してしまうという異常事態が起きていたのだ。それまで大きな顔をしていた野党第一党も、かつての第四野党以下に落ちぶれ、小原慎一郎とそれに一も二もなく従う与党に対抗する術もない。
そんな状況に国民の一部は驚き呆れたが、大半は喜びを持って迎えた。彼のやることなすこと全てがセンセーショナルで、国民を飽きさせなかったからだ。その上慎一郎は顔がよい。
そんな政治の流れの中で今、ある刑法の政府提出改正案が、小原慎一郎を恐れる大多数の議員に支持されてすんなりと議場を通過した。
その改正案が議論されることもなく、あっさり参議院を通過するのは間違いない。例によって例のごとく、決まってしまえば、国民に意見できることなど、何もないのだ。
二年後、大混乱を巻き起こした改正案が正式に施行された。
正式名称『殺人事件被害者遺族による加害者への刑罰選択の法律』――通称『仇討ち法』。
……つまりこの近代国家日本で、仇討ち制度が復活したのであった。
『仇討ち法』が衆議院を通過して四年、施行されてから早二年。相も変わらず小原慎一郎の独裁政権は続いている。昔と変わったことといえば、今までの殺人事件加害者のうち四分の一ほどが被害者遺族に仇討ちで倒されているので、刑務所に少々の余裕が出来たということと、新聞もほとんどの仇討ちを日常茶飯事として報じなくなったことくらいだろう。
施行当時は白い着物姿の仇討ち衣装の人々が、インタビューを受けている姿をよく見たものだが、それは今や日常だ。今となっては誰も珍しがったりしない。
そんな時代の中、探偵業の谷崎(やざき)は、今日も暇だった。頭の中では『こうなるはずではなかった』という言葉が渦巻いている。彼にはこの状況が不満でならない。
木枯らしが吹く今日も、朝からアパートの階段を掃除した。暇にかまけて普段は滅多に行わない、郵便受けの拭き掃除までやってしまった。探偵だというのに情けないことこの上ない。
「俺も仇討ちの仕事してぇなぁ……」
ボロボロなソファーに寝転がって見たサングラス越しの冬の空は、どこまでもどんよりと曇っている。その重たい曇り加減はまるで二十代も半分以上を通り過ぎて、うすらぼんやり過ごしている今の谷崎のようだ。お菓子と缶コーヒーが散らばる机の上には、今まで持っていただけでろくに使ったことのない、手帳サイズの探偵資格証明書が置かれている。
『仇討ち法』が制定されたのと同じ時期に、探偵には国家資格が必要となった。それには理由がある。
第一に警察官の数が足りなくなってきたこと。これは前々から問題になっていたことだ。あまりの未解決事件の多さに、人々からの『探偵を国家資格に!』の声が高まってきたためとの話だが、どこまでが真実かは分からない。
そして第二の理由は『仇討ち法』の重要な仕事を、探偵が警察と弁護士に代わってできるように法律で決められたためだった。
『殺人事件被害者遺族による加害者への刑罰選択の法律』――通称『仇討ち法』。
明治時代に作られ、今までほとんど改正されることなく埃にまみれていた『決闘罪ニ関スル件』を現代に合わせて改正し、新設された刑法だ。
これは、殺人事件の被害者遺族が、加害者を『今まで通り、通常の法律の範囲内で罪を償わせるか』それとも『自らの手で加害者を裁くか』を決められる制度である。被害者の遺族・四親等までが、加害者を自ら裁く……つまり仇討ちする権利を有する。
今まで通りを選んだ場合、裁判・判決・刑罰を受けるという通常の流れで犯罪者は国家に裁かれる。裁判も制度が変わりスピーディになったため、昔のように何十年とかかることもなく、これはこれで構わないという被害者も多い。
だが『仇討ち法』の場合は少々違う。
裁判・判決までは今までと一緒だが、被害者遺族によって『仇討ち法』申請を受けた加害者は判決を受けた後、頭にICチップと居場所が一目で分かる発信器を埋め込まれ、政府による監視付きで釈放される。そして受信装置が遺族に渡されるのだ。大量殺人犯や連続殺人犯の場合、遺族の数だけ受信装置があり、世間の目と相まって、想像以上に厳しい監視体制がしかれることとなる。
このICチップと発信器、ちょっとやそっとでは取り出せない政府のお墨付きの品だが、何にも例外はあり、超高額の闇手術で取り除かれてしまうこともある。そうなると素人である被害者遺族に加害者を捜し出すことはほぼ不可能だ。
それを探し出し、遺族に教えるのが探偵の仕事のひとつである。人捜しとなれば従来までの仕事とほとんど変わらない。
だがもう一つ、探偵に特別な仕事が国から与えられている。
仇討ちの立会人である。
当初、弁護士もしくはそれに類する資格の人間が立ち会うべきだとの意見が多かったのだが、そうするには有資格者が少なすぎた。犯罪者と仇討ち希望者が予想よりも多かったのだ。
今や日本は安全な国ではない。年間に起こる重大事件の件数は二十万件を軽く超える。某世界の警察を自称する国に並ぶほどの、犯罪大国なのだ。それなのに我が国には弁護士が、なんと二万人ちょっとしかいない。その中で『仇討ち法』が適用される殺人事件はおよそ千五百件。『仇討ち法』はその特殊性から、手続きが面倒で時間がかかるから、大忙しの弁護士達だけではまるで手が回らない。
そこで小原慎一郎は国民にこういった。『民間に出来ることは民間で』と。
そんなこんなでおはち(ヽヽヽ)が回ってきた探偵業は、御陰で国家資格&登録制となり、爆発的に人員を増やした。勿論一定のレベルで忙しくなったわけではない。事務所ごとの格差が驚くほどに広がっている。
当然ソファで寝転がっている谷崎はこの探偵社会の三角形(ピラミット)の中では、裾中の裾にいる。古い革張りのソファーに寝転がりながら、テーブルに置かれたウーロン茶の缶に口を付けた。冷え切っている。買いに行くのが面倒で、部屋の隅に置かれたアパート管理の自販機に入れる缶を引っ張り出してきただけなので仕方ない。
空になった缶を乱暴にテーブルに置くと同時に、長々としたため息が漏れる。まったくもって、この状況はつまらない。彼が探偵の養成所を出て、さらに勉強に励み、今一番人気の探偵国家資格を取るのにあんなに苦労したのは、何よりもスリルとサスペンスに憧れたせいだったはず。
なのに現実はどうか? 真っ昼間からこんなボロアパートの一室にある、探偵事務所とは名ばかりの室内でぼけっと過ごしている。
「つまらん。ひじょ~~につまらんぞ」
こんな退屈で仕事のない状況でも、彼は生活に困ることはない。何故ならこのアパートが彼の持ち物だからだ。彼は、親から生前分与されたこのボロアパートの大家なのだ。だからこんな怠惰な生活が出来ている。
大家としての仕事も、おざなりながらこなしていた。彼の日課には、アパート全部の掃き掃除がある。せめて気分だけでも探偵らしくと、憧れの刑事ドラマの主人公を演じた、柴本恭助を真似た格好で、拳銃代わりに箒を握る。カラーシャツにネクタイ、サングラスに皮コート……。掃除には少々向かないかもしれないが、自分では似合うと信じている。
見た目も完璧に探偵だというのに、彼に依頼しようという近所の人間が一人もいないのが不思議だ。ペット探し、尋ね人、素行調査の仕事すらも滅多に入らないのだから、何のために探偵になったのか全く分からない。
そんな彼なので今まで仇討ちの仕事なんて、夢のまた夢。憧れの的なのである。
この日もグチグチと文句を垂れ流しながら終わるはずであったのだが、何としたことかそれで終わらなかったのだ。
ソファーに座ったまま、うとうとしていた谷崎の部屋の扉が遠慮深げに叩かれた。のっそりと体を起こした谷崎は、アパートの住人が来たのだろうと、ドアに向かって大声で返事した。
「開いてるよ」
しばしの沈黙の後、ドアがおずおずと開かれた。
「あの、タニザキ探偵事務所って、ここでいいですか?」
扉の影から顔を覗かせたのは、一人の少年だった。
「お、お……」
客だと分かった瞬間、谷崎は慌ててソファーから飛び起き、テーブルの上に散らばっていた荷物を抱えて隣の和室へ放り込み、音を立ててふすまを閉めた。
悪印象を持たれては、まずい。ようやくやって来た待望の依頼人なのだ。
「タニザキ探偵事務所って……」
返事のない室内に少年はもう一度声をかけた。
「そうですとも、ヤザキ(ヽヽヽ)探偵事務所はここですよ。どうぞどうぞ」
愛想よく手を揉みながら、サングラスを胸ポケットにしまって、さりげなく自分の名前を訂正し、谷崎は少年を室内に通して、ソファーを勧めた。
落ち着かない様子の少年は、物珍しそうに室内を見渡している。掃除していなかったことを谷崎は少々後悔したが、仕方ない。事件はいつ起こるか分からないのだ。
そう考えた瞬間、頬が緩んだ。事件はいつ起こるか分からない……。探偵らしい考え方だ。悪くない、いや、いい。本当にいい。
「僕の顔に何かついてます?」
少年に突っ込まれて始めて、自分がにたにたと笑っていたことに気が付いた。慌てて顔を引き締める。探偵事務所に用があるのなら、もうペット探しでも素行調査でも何でも構わない。暇にかまけてアパートの階段を磨き上げるよりはずっとましだ。
「いや失礼しました。今日はどういった用件で?」
少年は沈痛な面持ちで押し黙った。何か言いづらいことなのだろうか? 言い辛いこと……もしやして親の不貞? なにせ探偵業のおおかたの仕事は夫婦の素行調査なのだ。谷崎は下世話な想像を頭の中で巡らせた。なおも押し黙ったままの少年にしびれをきらし、そのまま想像したことを口に出す。
「ご両親の間の愛に曇りが生じたとか?」
「違います」
即座にきっぱり否定され、きまりが悪くなった谷崎は視線をそらした。またしばしの沈黙。話のきっかけも掴めずに、谷崎は視線を再び少年に戻した。少年は思い詰めたようにテーブルを見つめたままだ。
じっくりと見てみると少年は、まだ幼さが残る年齢だ。谷崎よりも十歳ほど下だろう。彼が依頼人とは思えない。少年は顔を上げると大人びた寂しげな表情を浮かべて、微かに笑った。
「両親はいません」
「……その、そいつは失礼……」
思わず謝ってから、谷崎は首を捻った。いったい何の相談だろう。経験不足の谷崎には見当がつかない。
「……僕、今日の誕生日で十五歳になったんです」
唐突な言葉に谷崎は混乱しつつも、反射的に答えていた。
「ああ、おめでとう」
俯いてしばし黙った後、少年は心が決まったように、谷崎を見つめた。
「タニザキ探偵、仇討ちの下限は十五歳でしたよね」
「? 仇討ち!」
思いも寄らぬ言葉に、谷崎は大声を上げてしまった。まさに待ち望んでいた最も探偵らしい仕事だ。なにせ探偵を始めて早二年、彼は一度も仇討ちの仕事をしたことがない。
その仕事が出来る? 本当に? 嬉しさと驚きで固まった谷崎に、少年は心配そうな声をかけた。
「僕はギリギリの年齢なんです」
「は?」
舞い上がっていた谷崎は、少年にしては冷静なその言葉でようやく舞い戻った。そこでその難しさ、面倒くささを理解したのである。
そんな谷崎に目もくれず、少年は独り言のように呟いた。
「だから、どこの探偵事務所も引き受けてくれなかった」
一気にやる気を失って、谷崎はソファーに座り込み、そして力無く倒れ込んだ。
仇討ちには下限の年齢が決められている。法令では一応、十五歳が下限ということになっているが、今までの仇討ち実行者で最低年齢は十八歳、高校卒業と同時に行っているのだ。
理由は倫理的、教育的配慮なのだという。十五歳から仇討ちしてよしといわれているが、精神的に未熟であるその年の子供に、仇討ちは刺激が強すぎるという。
噂ではその年齢を決めたのは小原慎一郎であるといわれている。あくまでも噂だが彼はこう言ったそうだ。『昔はねぇ、十五歳で元服だったんだよね。元服、大人ってことだよ』と。本当にこの一言で年齢制限が決まってしまったのなら、この国はもうすでに終わっている。
そんなわけで十五歳の仇討ちなんぞに立ち会ったら、いくら無名の谷崎とて無事ではいられないだろう。よくて教育委員に押しかけられるか、悪くてマスコミを通したブラウン管の悪者だ。
悪いけど、帰ってくんないか?」
谷崎は起きあがりもせずに、サングラスを胸ポケットから出してかけた。
「でも……」
「いいから。俺無理だよ。悪いけど無名の俺にはそんな大役負えねぇよ」
ちらりとも自分を見ずにそう告げた谷崎をじっと見つめていた少年は、やがてゆっくりと立ち上がった。帰るのかとホッとしていると、少年はキッチンに入っていってしまった。
「おい、そっちは玄関じゃねぇ!」
慌てる谷崎に目もくれず、少年は何もないキッチンに唯一置かれた小さな鍋を使って、お湯を沸かし始めていた。
「何してんだ、お前?」
意味の分からぬ行動に、少々薄気味悪くなった谷崎は、小声で少年に呼びかけた。
「決まってるじゃないですか、お茶を入れているんです」
「はぁ? 誰が頼んだよ、んなこと」
「いいんです。長丁場になりそうなんで」
「な……」
谷崎は確信した。こいつ、居座る気だ。
少年は谷崎を見もせずにいった。
「他の探偵事務所には、警備員がいまして、つまみ出されてしまうんですけど、ここなら安全ですね。タニザキさんしかいなそうだから」
「俺はヤザキ(ヽヽヽ)だ」
「すみません、ヤザキさん」
訂正しながら谷崎はため息を付いた。これは話を聞くしかなさそうだ。居座られてしまっては、どうにもこうにもならない。
はっきりいって、谷崎は腕力に覚えがある方ではない。少年は強そうではないが、見る限り賢そうだ。それなら説得して帰って貰うしかない。
だが話は、谷崎が意図したのと違う方向へ進んでいく。少年は……驚くほど弁が立った。
「いいですか谷崎さん、僕と谷崎さんは利害関係が一致してます」
少年は、三角錐で出来た紅茶のティーパックを鞄の中のお茶筒からとりだし、カップに入れて谷崎の前に並べながら話し始めた。いい香りがふわりとカップから立ち上り、谷崎の鼻腔を刺激する。
「どうぞ。ダージリンのいいところを僕がパックにした物なので、味はいいはずです」
言い返す言葉が無いまま、谷崎は紅茶をすすった。思いの外、美味い。
「美味いでしょ?」
「う……まぁ……」
美味いと言いかけて、あわてて誤魔化す。ここで認めてどうするのだ。
だが、インスタントコーヒーに熱湯をドボドボ注いだだけのいつもの飲み物とは、次元が違う。本当に美味い。この少年、いったい何者だ?
「両親が喫茶店を営んでまして……」
「ああ……」
聞いてもいないことを少年はすらすらと答える。どうして分かるのだ? もしかしてエスパーか?
「でもそれがあだになっちゃんたんですよ。そのせいで両親殺されちゃいましたから」
谷崎は紅茶を吹き出しそうになって、すんでの所でそうせずにすんだ。さらっと両親が殺されたことを話した少年は、真剣に谷崎を見つめた。
「僕は仇討ちがしたい。その為には探偵が必要です。そして谷崎さん、あなたにはお客さんが必要でしょう? ここ流行ってないみたいだし」
うまい紅茶の湯気を楽しんでいた谷崎は、ムッとしながら少年を睨む。
「何で流行ってないって言い切れるんだよ」
「……近所に聞きました。怪しい格好で掃除している自称探偵がいて、何だか怖いって」
なんと、あのいけてる格好が気味悪がられていたとは。だから近所の人が依頼に来なかったのだ。全く知らなかった。ショックを受けている谷崎を無視して少年は言葉を続けた。
「それにこの部屋は汚れすぎています。僕が来た時、ソファーに寝てたじゃないですか」
谷崎には返す言葉もない。確かにこの少年が扉を開けた時、ソファーで寝転がっていた。見られていたのだ。それに言われてから見てみると、テーブルの上は煙草の灰や缶の跡でかなりベタついて汚れている。谷崎はため息を付くしかなかった。
そんな落ち込む谷崎を、少年は真っ直ぐ見つめた。あまりに真剣なその瞳に、引き込まれていく。
「僕は先ほどいったとおり、天涯孤独です。両親は殺されてしまいましたから……。ですから親戚に迷惑をかけるということはありません」
徐々に谷崎は、この少年の依頼を受けてもいいかなという気分になってきた。こうも真剣に頼まれると弱い。元来、彼は人を信じやすい性格なのである。それが嫌で斜めに構えているのだが、少年にはそんなことは見通されている気がする。
「谷崎さんはきっと世間の評価を気にしてるんでしょうけど、人の噂はすぐ消えます。殺人事件だってあっという間に世間から忘れ去られてしまうんですから」
それは少年の両親殺害事件のことだろうか? 一瞬物思いに沈んだ後、少年は言葉を続けた。
「だから谷崎さんがもし世間に文句言われたって、すぐに忘れられます。だからお願いします」
「う~ん」
まだ最後の踏ん切りのつかない谷崎に、少年はにっこりと微笑みかけた。
「探偵事務所が有名になることだけは、確かなんだけどなぁ」
「有名ったって悪い方じゃ、意味ないだろ」
有名という言葉に、微かになびいた谷崎の気持ちを読み取ったのか、少年は益々嬉しそうに微笑む。
この顔、まるで無垢な子供のようだ。だが、頼んでいるのは仇討ち、人殺しなのだ。そのギャップに、谷崎は少々理解を超えた世界を感じたが、次の少年の一言に折れた。
「探偵の格好でアパートの掃き掃除やってる暇、無くなると思いますけどね」
それをいわれると、返す言葉もない。
「分かったよ。やればいいんだろ。だけどな、俺仇討ちの仕事初めてだから、どうなっても知らんぞ」
半ば投げやりに紅茶を飲み干した谷崎に、少年はにこやかな微笑みで、おかわりを注ぎ入れて答えた。
「ご心配なく。やることなら全部僕が分かってますから。谷崎さん、これを読んでくださいね」
受け取った冊子には、仇討ちに際して探偵のやるべき事が手書きで事細かに、分かり易く記されていた。あまりのことに谷崎は口をパクパクさせた。こいつ、なんでわかってんだ……? 谷崎が何も知らないことを……。
おののく谷崎に、少年はにっこりと笑った。
「谷崎さんが仇討ちの仕事をしたことがないらしいというのは、近所を調査した段階で分かりました。この冊子は僕が探偵の国家資格試験テキストと探偵の業務が詳しく書いてある本から抜粋し、編集し直したんです」
ということはつまりこの少年、念入りに谷崎の周辺を調査していたということだ。だから谷崎が一人であること、流行っていないこと、つまみ出されないことを分かった上で訪ねてきたのだ。
「負けたよ、これ読んどくわ」
苦笑する谷崎に、少年は始めて申し訳なさそうな顔をした。
「すみません、どうしても仇討ちをしたいんです。谷崎さんしかいないんです。お願いします」
思い詰めた真剣な表情に谷崎は負けた。最初からそうして頼んでいてくれたら、もしかしたらすぐに引き受けたかもしれないのにと思ったが、本当のところはどうか分からない。谷崎は小心者なのである。
しばしの沈黙の後、ソファーから立ち上がった少年は玄関に向かった。帰るのかとその後ろ姿を見ていると、少年は玄関の外から、大きな旅行バッグを二つも持って戻ってきた。
「お前、なんだその荷物」
鞄は両方ともぱんぱんにふくれている。入りきらなかったらしい木製のバットは、無理矢理鞄に結わえ付けられていた。
「僕の全財産です」
嫌な予感に谷崎の口調は尖った。
「……何で全財産がここにあるんだよ?」
谷崎の感情に気が付いているはずなのに、その声にもめげることなく、少年はにっこりと微笑む。
「仇討ちで迷惑かけたら嫌だから、施設を出てきたんです。住み込みの仕事をするって事で」
「な……」
少年は物置になっている洋室の扉を、静止の声も聞かず勝手に開けた。
「やっぱりここは使ってないですね。僕、ここに住みます」
「勝手に決めるな! 俺になら迷惑かけていいってのか?」
谷崎が怒鳴っている間にも、少年はとっとと洋室の片づけを始めていた。この少年、人の良さそうな顔をしているくせに頑固だ。にこやかなくせに人の話を聞きやしない。
「おい、大体どうしてそこに部屋があるって分かったんだよ」
少年に聞こえるようにわざと大きめのため息を付いてから、少々諦め気味に尋ねた谷崎に、少年はにっこりと自慢げに笑った。
「近くの不動産屋でこのアパート住む人募集してますよね」
「おお、してるぞ」
質問とかけ離れた少年の台詞にも、谷崎は逆らわず頷いた。もう少年に文句をいうのは無駄だと谷崎には分かりつつある。
「そこに貼ってあった図面とこの部屋の構成、同じだったから」
なるほどこの少年、そこまで調べてからこの事務所に乗り込んできていたのか。谷崎は疲れたように座り込む。
「お前探偵になれるよ」
皮肉をたっぷり込めて告げた谷崎のその言葉に、少年は極上の笑顔で答えた。
「ええ、二十歳になったら探偵の資格を取る予定ですから」
自分は完全に負けてるようだ。ふてくされ気味にソファーに寝転がると、ポケットから煙草を一本とりだして火を付ける。落ちこぼれ探偵谷崎より、この少年の方がいい探偵になりそうだ。微妙に悔しい。
「で、坊主、名前は?」
まだそんなことも聞いていなかったことを思い出し、谷崎はぶっきらぼうに尋ねた。
「すみません、そうでした。僕、宮前進といいます。名前に前進が入ってるから、前向きに生きてくようにって、死んだ両親が付けてくれたんです。だから僕、名前に恥じないよう、前向きに生きてるんです」
一瞬そんなけなげな少年・進の言葉に今までの敗北感を忘れて、ぐっと涙がこみ上げた谷崎だったが、気付かれないよう文句をいってソファーに転がった。
「前向きにも程があるぜ」
「あはは、そうですね」
初の仇討ちの依頼と共に、大変な事を引き受けてしまったのかもしれない。
ふてくされたふりをしながらしばらく様子を見ていたが、片付けに手間取っているようなので、仕方なく谷崎は進の為に部屋の荷物を片づけ始めた。片づけるというよりも、壁際に物を寄せたという方が正しいのかもしれない。
全てを片付け、進の少ない荷物が収まった頃には、もう日がとっぷり暮れていた。くたくたの谷崎を尻目に、進は冷蔵庫の有り物で夕食を作った。施設で一人で生きていけるように仕込まれたのだという。
進の作った夕食を食べながら、谷崎は進の施設での生活などの話を聞いたが、あえて仇討ちの話は避けた。依頼人……その上子供ではあるが、久々に話す人がいる生活はなかなか楽しい。
「谷崎さん、どこか素振りできそうなところないですか?」
夕食の後、進はかなり使い込んだと思われるバットを片手にそう尋ねた。
「敷地内で危なくなければどこでもいいぞ」
「分かりました。ありがとうございます」
ジャージ姿の進は、スニーカーを履いて部屋の外に出た。退屈な谷崎も何となく表に出る。このアパートには、道路と建物の間に、細長い四畳ほどの庭があるのだ。
「うぉ、さみっ!」
寒さに縮み上がった谷崎を尻目に、進は庭に出てバットを構えた。背は大きくないが、その姿はなかなか様になっている。谷崎は寒さに身を縮めながらも部屋の外にある低い塀に寄りかかり、煙草に火を付けた。これは長くいられそうにない。この寒さに震えることなくバットを構えて素振りを始めた進に目を遣る。
一心にバットを振る姿は、何か鬼気迫る物がある。こうしてまだ十五歳のこの少年は、両親のことを忘れるためにバットを振ってきたのだろうか? そう思うと鼻の奥がつんと痛くなってくる。呆れるほど自分はお人好しだ。
そんな感情とは別に、寒くて鼻が垂れてきた。やはり長くはもたない。一回鼻をすすると、谷崎は進に声をかけた。
「熱心だな。どこの球団が好きなんだ?」
寒さと進をおもんばかっての感情が交じり合って、谷崎は変に陽気な声で尋ねた。だがその言葉に返事はない。ここで引いてしまっては、余計に気を使ったことがバレてしまうから、谷崎は陽気に自らの質問の答えを口にした。
「俺はやっぱジャイアンツだな。読売新聞好きだし」
「……好きな球団、特にないです」
ようやく返ってきた進の返事はそれだった。その声には暗い響きがあって、谷崎は慌てた。聞いてはいけないことだったのだろうか? もしやして父親がどこかの球団の熱烈なファンで思い出したくなかったとか……。
だが今更話題を変えるのもおかしいだろう。なので野球がらみの質問をするしかない。
「じゃあ野球することが好きなんだな? 野球少年か? ポジションはどこだったんだ?」
自分の声が変に白々しく響くのを感じたが、谷崎はそれ以外何を尋ねることも出来ない。
「……野球、あんまりやったこと無いです」
しばしの沈黙の後に、ポツリと進は答えた。夜の暗さの中に、素振りの音だけが響く。これ以上何もいうことが見つからない谷崎は、黙って煙草を地面に捨て、靴で火を消した。
「適当にやめとけよ、寒いから風邪引くぞ」
「はい」
この少年はどれだけ大変な物を背負ってしまったんだろうと思うと、ため息を付くしかない。せめて今まで怠けた分、この少年の依頼をきちんとこなしてやろうと、谷崎は心に決めた。
彼の後ろでは、まだ進が素振りしている音が聞こえていた。
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