第62話 S波 ③
ネコは独立心が強くつれない生き物だと思われているようだが、外に出さず、他の生き物との接触を断つと案外デレデレになる。どうやら猫も寂しいという気持ちがあるようだ。うちにはクジャというスローロリスがいるが三浦に攻撃される可能性があるため、完全に隔離している。
俺がドアを開けると、三浦はもう玄関に座って待っていた。喉を鳴らしながら体を俺の足に擦りつける。
「ふああああん疲れたもおおおおおん」
と騒いでみても俺は独りだ。
なんだか妙に寂しくなる夜だった。
さ、ごはんにしようか。
闇の中、猫缶を取りに行く。
むりむりっ。ガラスが
地震だ。
揺れはだんだん強くなった。
だむだむだむ!
なんか変だ。三浦はどこぞに隠れてしまった。
ガラスだけが、揺れている?
ベランダの方を見る。
「ふぁっ!?」
エロスは息を呑んだ。
何か赤黒いものが、ガラスサッシにへばりついて、ガラスを叩いている。
「アケテ……アケテヨ」
その異形の魔物は腹部に巨大で真っ赤な口を持ち俺を咀嚼しようとぬらぬら蠢いていた。女の声のように聞こえるが頭には何やら角のようなものを生やしており、それが奇妙に輝いている。エロスは「ばああああああ!」とがらがらした声を上げ逃げようとするも立ち上がれない。呆然とサッシを眺めていた。
俺は、三浦の隠れているほうを目で追った。きっと俺が無償の愛を注いで育ててきたぐうたらな我が愛猫はこれを機会と野生の力を覚醒させ、俺を守ってくれるはず!
助けてくれ!
ああ、ダーウィンが来ない!
三浦は物陰に隠れ息を潜めている。
仕方ないのでフランはサッシを開けて中に入り、エロスの胸に飛び込んだ。
「Merry Christmas」
「なんだ……フランか……」
フランは伸び上がるようにしてエロスにキスをした。エロスは動けなかった。フランは舌をエロスの口に挿し入れる。
甘い。砂糖よりも甘い。
たばこを喫まず酒も飲まず食べ物に気を遣うエロスの口腔はみずみずしい。
フランはエロスをむさぼるように口づけ、しがみついたまま動きを止めた。急に力が抜ける。三浦が遠くでカサコソ物音を立てる。
やがて息が苦しくなったのだろう、フランが口を離す。吐息が漏れた。
「で?」
フランは一瞬、硬直した。そして、俺の首に手を回し、抱きしめ、震えた。
可愛い奴だ。
とっさに、俺は彼女の背中に手を回したくなった。抱きしめたくなった。どうしてそんな衝動に駆られたか。そして、俺が彼女を異性としてではなく愛おしくなったのだと気づいた。
三浦を可愛いと思う感覚。に近い。さっきまでの威勢はどこへやら。フランは動かない。
そうだな。お前は日本人になっちまったんだな。
日本人女性の奥ゆかしさを、抱きかかえて。そんなもん、何の役にも立ちはしないのに。
突然、フランは泣き出した。
わけがわからん。子供のように、ああ、まだ子供だから。声を上げて。
「どうして泣くんだ」
「……どうしてあんたなんか好きになるのかしら。……悔しいのよ!」
かわいそうなフラン。
お前がここに来て、監督として突っ立っていたのはほぼサッカーの知識のないおっさんAだった。たぶん、俺はお前にサッカーのようなものを教えた最初の人間だ。でも今日俺は思い知ったよ。世の中には俺より優秀なコーチが掃いて捨てるほどいる。でもお前がサッカーを知るためには、俺に接近するしかなかった。そのはずみで、恋の芽を踏んづけてしまった。
芽は折れなかった。負けることなく伸びて。
俺はお前に辛く当たったんだぜ?
でも。
フラン。
お前は、俺を
とてもフランが俺のことを好いているとは思えなかった。俺は、フランをいじめ抜いた。つもりだった。三十試合ほどを見守ったがフランが出たのは一試合だけだ。
そうだ。きっとそうだ。
何か
どんな?
いつも思っていた。
フランはいつも必死だった。
どうしてそんなに高いところを見るのだろう。
他の子とは全然違っていたのだ。
俺はフランに助言したことがない。
一人で答えを見つけてしまうからだ。
人に教わるのではなく、自分で導き出した解答は着実に血肉になる。
正直に言えば。
俺はフランベルジュに嫉妬していた。
俺のテニスプレイヤーとしての人生は絶たれたのに。
彼女の前に
俺は、フランベルジュを壊してやろうと思った。
まぶしすぎたんだ。
その済ました優等生の仮面を剥いでみたかった。手を掛けて、驚いた。人間の肌だったんだ。引っぺがそうとしたら、彼女を傷つけてしまった。つまり、仮面なんて付けちゃいなかったんだ。背伸びして周りに強い自分を見せようとしていただけ。
フランは、普通の女の子だった。
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