第37話 エロスの… 前編

 十一月九日。

 タイムカードを押して逃げ出そうとすると、おっさんAに呼び止められた。

「ああ、エロスさん。あなたの持っているライセンスを教えて下さい」

「どっ……どうしてだ?」

「ホームページにあなたの情報をせるんですよ」

 俺はごまかして逃げるように事務室を出た。

 いよいよ、腹をくくらなければならない。

 どうしよう。


「フラン。次の対戦相手は?」

「U-20W杯があるためしばらくプリンセスリーグはありませんが、オランダからFC不労人間が遠征に来ており練習試合を組んでいます。注意すべき選手は高等遊民。他にめぼしい選手はいないようです」

「ミーティングルームに集合だ」


 自分でも思う。

 俺はプライドが高い人間だ。

 人間は駆け上がろうとする。

 俺は駆け上がりたくなっている。

 誰だって人に認めてもらいたいんだ。

 もう、負けるわけにはいかないんだ。


「次の試合だが、スタメンを一人、入れ替える」

 一度、全員の目を確かめる。刀は下を向いた。

「スタッフに変わって錫杖だ」

 パイプ椅子が床を擦る音がして。スタッフが立ち上がる。

わらわは前回の試合の後半に開眼した。もう二度と失態を見せぬと誓わん」

「確かに後半のスタッフは良くなった。が、最近の練習の様子を見るに前のお前に戻っちまってる。お前が常に覚醒してスタッフ+1になってくれれば使いようもあるが、現状、無理だな」

「そなたと妾の間には盟約が……」

 お前だって駆け上がりたいよな。でも。

 ここまで、だ。

 俺はサングラスをつまんで、外した。


「あれ……?」

「どこかでみたことがある!」

「なんだっけ?」

降魔ごうま……けん?」

「テニスの人?」

「え……でも降魔って真っ黒だったはずじゃ」

「……そうだ。

 俺は降魔剣。昔はテニスをやっていた。今は見ての通り、肌が白い」

 俺はドアを開ける。廊下には誰もいない。ドアを閉めた。

「四年前の八月。俺はかつてないほど好調だった。次々と難敵を倒し、ロジャー・フェデラーとの死闘を征し、ついにアンディ・マレーとの決勝戦を迎えた。


 観客のほとんどがイギリス国籍のマレーをサポートした。そりゃそうだ。舞台はロンドンオリンピックだったんだから。俺はATPツアー250優勝も未経験のランキング104位、二十歳のルーキーだった。


 準決勝で死ぬほど疲弊していた俺は第一セットを1ゲームも取れずに奪われた。こんな大舞台は初めてで、完全アウェーの異様な雰囲気に集中できなかった。もう泣きたくなるぐらい1stサーブが入らないんだよ。


 二セット目に入っても一方的な展開。

 休憩時間、足がいうことを聞かず痙攣を始めた。俺は絶望し、心は漂泊し、あらぬものに意識が向いた。


 ボールガールにすげえ好みの子がいたんだ。いやマジでそんなことしてる場合じゃなかったんだけどダメだダメだと思うと余計に彼女が魅力的に見えた。もう試合のコトなんて考えたくなかった俺はもうずっとその子を見ていた。おっぱいの大きな娘でね、飲み物を取ってきてと頼むと、それがもうゆっさゆさと揺れるわけよ。異様に興奮した。この一世一代の晴れ舞台でそんな性的衝動に打ち震えている自分に興奮した。倒錯した俺は、その……つい、勃起してしまった」


 さすがにガハハと笑い飛ばす者は誰もいなかった。可哀想すぎて。


「主審はジョークのつもりだったんだろうね。『 Take a seatお座り下さい』と言ったよ。俺は座ってるのに?」

 含み笑いを漏らす者がいた。カットラスなどは腹を抱え涙を流して笑った。

 ランスは一人泰然とエロスを眺めながら、ない顎髭アゴヒゲを撫でた。なるほど、殿方とう者は性的興奮を覚えると周辺の人々に己の劣情を開示してしまう。たいへんだのう。


「観客席は大爆笑だった。よく分からん東洋人がこんなことになっている。

 もう試合なんてできる状態じゃなかった。早くコートから逃げだそう。俺はやけくそになって全部強打した。マレーのボディ狙いのサーブをデュースサイドからダウンザラインに打ち込むと、マレーが反転し、バックハンドで返そうとした。俺のリターンはまぐれ当たりだった。無茶苦茶なスピードが出て、落ちきらずアウトになった。マレーは転倒。俺がアドバンテージサイドにつくと、マレーが腰を気にしている。


 彼はメディカルタイムアウトを要求した。トレーナーが治療を試みる。そしてマレーは首を振った。途中棄権だ。


 なんだこれ。


 俺の首に、金メダルががる」

 俺はスーツの中に手を突っ込んだ。メダルを取り出す。

「これは、俺の人生だ」

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