ダイエットは食事のあとで

真野絡繰

第1話 タマキヒロシ

1 「直接ご依頼がございましたので」

むろすずさま。オハヨウゴザイマス」


「室井鈴花さま。オハヨウゴザイマス」


 ――んん……?


 ――な……なに?


 誰かの声がした?

 でも、なんだか機械みたいな声で

 人の声じゃなかったような……


「室井鈴花さま。オハヨウゴザイマス」


 ――だ……誰?


 ぼんやりと続いていたまどろみを自ら打ち破り、鈴花は半ば以上強引にぐぐいっと目を覚ました。と同時に、さりげない素早さで口角からこぼれ落ちそうになっていた唾液――一般名称・よだれ――を手の甲で拭う。


「もう……誰よぉ、起こさないでよぉ……」


 まだ和歌山の実家に住んでいた高校生の頃、毎日のように母親にたたき起こされていた記憶がよみがえる。鈴花は目ヤニがてんこ盛りにこびりついた瞼をこすって視界を確保して、枕元の目覚まし時計を見た。――09時03分。


 やだ。睫毛抜けちゃったじゃん。


「誰か、いるのぉ?」


 呼びかけてみたが、返事はなかった。――なんだ、夢か。

 体の右側を下に、横向きの姿勢で寝ていた鈴花はひとつ伸びをして、体位をあおむけに変えた。四肢の全部を駆使して、体からズレていた羽毛掛け布団の位置を器用に修正し、きちんと全身を覆うようにする。――うん、あったかい。


「もう朝かぁ……」


 今日は土曜日なのよ、会社も休みなのよ、今週も1週間頑張って働いたのよ、昨日はけっこう飲んじゃったし、もうちょっと寝てたかったのにぃ……でも少し寝すぎかもね、もう9時だもんねと思いつつ、鈴花は室内を見渡す。家賃7万6000円、築20年超の賃貸ワンルームの様子は、いつもと何も変わらない。ベージュの天井、アイボリーの壁、置く物を少なめにした(なんちゃって断捨離の)無機質っぽい部屋。渋めのオレンジ色のカーテンは半額セールで買ってきて、つい先日換えたばかりだった。


「やな夢、見ちゃったかな」


 故郷の和歌山の地味な高校を卒業して東京の大学に入ってから、社会人になった今もずっと同じ部屋でのひとり暮らし歴7年目。自分のほかには誰もいない気楽さから、ついつい言葉を発してしまう(独り言の)癖がついていた。――でも、独り言なんてみっともないよね、愛しい矢沢さんの前でやっちゃったら最悪だから気をつけないとね、と鈴花は思う。


「誰か、いるのー?」

 鈴花は再び、誰もいない部屋に声を投げた。

「いないよねー?」

 もちろん、その声は空中を無力に漂うだけで、何の反応も得られなかった。


 ――はずだった。でも、違ってた。


「お目覚めでいらっしゃいますか? 室井鈴花さま。オハヨウゴザイマス」


 ――えっ!?


 なに、なに、なに?

 誰、誰、誰?

 なんで、なんで、なんで?

 誰が私を呼んでるのっっ??


 どこかから声がした。自分を呼んでいた。それは、脳内にだけ響いてくるような「感覚的な伝達」じゃなく、明らかに、ということは物理的に、鼓膜を揺らして聞こえた。――これは夢じゃない、私はもう寝てない、起きてる、目覚めてる、覚醒してる。それなら……やっぱり! だだだだだだ……誰かがこの部屋にいる!


「誰よっ!」

 鈴花は体をこわばらせ、誰もいない(はずの)部屋に向かって叫んだ。


「本日はざわさま――矢沢大だいさまとの念願の初デートのご予定です。そろそろ起きて活動開始をなさったほうがよろしいのではありませんか?」


 ぎゃあああああああーーーー!!!!

 ぐええええええええーーーー!!!!


 なななななななななな

 なになになになになに


 なんで、なんで!

 なんでそんなこと知ってるのっ!?

 なんで、なんで、なんで~!


「だだだ……誰よっ!」

 鈴花は再々度、誰もいない(はずの)部屋に向かって声をぶん投げた。返事はない。――何がなんだか混迷・混沌・混乱したまま、鈴花は室内を見回した。侵入者らしき姿は見えない。物音もしない。


 と、そこに再び声がした。


「申し遅れました。ワタクシはコンセルジュのキイと申します」


 はっきりと聞こえた。抑揚のない、初音ミクっぽいデジタル的な音声だったけど、その声は明らかに自分に話しかけてきていた。――枕元からだ!


 鈴花は上半身を起こし、おそるおそる振り返る。目覚まし時計のほかに枕元に置いてあるのは、3ヵ月前にレイコたちとディズニーランドに行ったときに買ったプーさんのぬいぐるみだけだ。途中から雨が降り出して大変な目に遭ったけど、楽しかった。


「プーさん。あなた……喋ったの?」

 まさか、プーさんが喋るなんてありえない。でもビクビクしていたせいで、自分で予定したボリュームの半分ぐらいの声しか出せなかった。

「いえ、喋ったのはプーさんではなくワタクシです。キイです。現在は、プーさんの体を一時的にお借りしてお話ししています」


 ――ぎぃえええーーーっっ!!


 ――プーさんが

 ――プーさんが

 ――プーさんが

 ――しゃ、喋ったぁぁぁあああーーー!!


 ウソでしょウソでしょ、絶対ウソウソウソ、ウソに決まってんじゃん、ぬいぐるみが喋るわけないじゃん!! ひいーーーっ!!


「キキキキキ……キイ……ってだだだだ誰よ!? だだだだだって、あああ、あなたはクマのププププーさんじゃない!」


 鈴花は、顎をガクガクさせながらプーさんに聞いた。一気に、全身に汗がだだだだと広がる。でも、不思議と恐怖を感じることはなかった。この「キイ」と名乗る人物――というか、何かの存在のようなもの――が、自分に危害を加えようとする意思をもってはいないように思えたからだ。もし悪意をもっていたとしても、相手はせいぜい身長20センチの小さなぬいぐるみだ。いざとなったら、床にたたきつけるか引きちぎるかすれば、喋るのをやめるだろう。税込み2160円だったから、ちょっともったいないけど。


「プーさんはぬいぐるみですので、話すことなど不可能でございましょう?」

「え……」

「驚かせてしまったのでしたら、誠に申し訳ございません。あらためて自己紹介させていただきますと、ワタクシはコンセルジュのキイと申します。キイ、というのが名前で、特に苗字はございません」

「紀伊? 紀伊って言った? それって、もしかして私が和歌山の山奥のさらに山奥のどん詰まりの、田舎を煮詰めたみたいに劇的かつ本格的なド田舎の出身だから言ってるの? それとも、私の正統派の和歌山弁が抜けてないのがバレた? これでも必死に東京弁に直してるつもりなのにぃ……にぃ……」

「いえいえ、誤解をなさいませんように。関西地方南部を占めている紀伊半島の紀伊ではなくて、キイです。日本語で表記するならば、カタカナに変換なさると最もイメージに近いかと存じます」


 鈴花は釈然としなかったが、キイの言葉に一応は納得した。一応だけど。


「あっ、そう……。じゃあ聞くけど、あなたは私の部屋で何してるの? ていうか、何しに来たの?」

「それには、深い深い事情があるのでございます」

「じ……事情って、何よ?」


 どうやら、この「キイ」と名乗る人物――というか、何やら得体の知れない存在のようなもの――には、もって回った話し方をする性質があるらしい。くどい。


「昨日、あなたさま――室井鈴花さまから直接ご依頼がございましたので、本日こうしてお邪魔いたした次第です」

「い……い……依頼? 私が?」

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