第19話 脱出作戦

 2020年4月13日 3:45 秦野市内


 大宝寺邸の周辺は静まりかえっていた。

 三軒の民家も、隣に建つ寺と付属する墓場も、それらを取り囲む雑木林にも、闇の中に溶けている。

 屋敷前の道には外灯が一本だけ。光源がいかれているのか、チカチカと点灯を繰り返している。夜空に月はなく、代わりに星が幾つか光っていた。

 それはいつもと変わらぬ静寂だった。

 だが、微かに人の気配がし始める。やがて、錆びた鉄が擦れ合うような音がして、大宝寺邸の正門がが大きく開いた。更に、遠慮がちに開閉される車のドア音と、かなり危うそうなエンジン音が続き、ヘッドライトと覚しき光が闇を貫く。

 そして、一台の古いガソリン式軽自動車が邸内から姿を現した。

 車はゆっくりとタイヤを回し、暗い道を左折する。後方の正門が、車の後輪が道に入った瞬間、再びガリガリという音を立てて閉じられていった。

 角刈りの中年男と眼鏡をかけた女が、カーナビの光で浮かんで見える。もちろん、田神芳雄二等空佐と国安隆子国税庁査察官だ。二人とも滲み出る疲労に緊張感をはらませた表情を浮かべ、無言で座っている。時折、国安女史が何かを警戒するように、何度も前後左右を注視していた。



 あのあと、皆で伝十郎の出してくれた夕食を食べ、思い思いに時を過ごした。

 空人はひよりにくっついていたようだ。二人とも属性が似ているせいか、言葉を交わせば必ず陰険な雰囲気になっていたが、痴話喧嘩と決めつけてしまえば微笑ましいものだ。

 国安女史は方々に電話をしていたが、やがて思い悩むように黙り込んでしまっていた。

 侵入者である南雲純樹も、携帯で何処かに連絡を入れていた。それを見咎めた田神は、早速その携帯を取り上げ、と送信先のメールアドレスを確認した。メール内容は今までの経緯を説明してあるだけ、送信相手は“宮下”という苗字だけだった。

 もちろん、国安女史と二人で純樹を問い詰めてみた。だが彼は一切口を割ろうとしない。存外、意思が堅い青年らしい。仕方なく田神は、アドレスは自分の携帯へと写しておいた。

 田神はというと、上官であり義兄でもある後藤田航空副幕長に電話を入れたが、曖昧さ加減に拍車をかけた返事が戻ってきただけだった。『大宝寺家に張り付いていろ』というようなニュアンス型の命令が下ったので、帰るに帰れない。当分は屋敷に常駐せざるを得ないだろう。自宅には一応電話をしたが、『あら、そうですか』という素っ気ない返事が戻ってきただけ。ただし、『流ちゃんが……』と何か言いかけたのは少々気になるところだが。



 田神と国安女史は今、伝十郎のたっての願いで食べ物を調達しに行くところだった。本当は夜が明けたら彼自身が買い出しに行く予定だったが、全員が反対した。理由は簡単。彼のような老人が屋敷から飛び出したら、あっという間に拉致監禁、ではなく強制出頭させられるだろうという見解だ。そこで選ばれた調達係が田神と国安女史だった。

 国安女史が不安そうに背後を見る。


「本当に大丈夫かしら……」

「夜は寝るという常識を、彼等が持ち合わせているとは思えませんね」

「けれど、車を強引に止めようなんてしないですよね?」

「それはないと思いますが、後を付けて、降りる際に拉致ということは……」

「まさか」


 田神と違って、法律は厳格に守られて然るべきと思っている国税局職員には、現実として受け止められないことらしい。


「用心に用心を重ねるしか、今は方法がないのでしょうが」


 前方から視線を逸らさず、田神はなぐさめるようにそう言った。


「屋敷の方は大丈夫でしょうか?」

「たぶん……」


 空人の話だと、正面と両サイドを塞ぐ高い塀には高圧の電流線が張り巡らされているという。屋敷の後方は竹林だが、そちらは崖となっていて心配はないそうだ。更に数カ所には防犯カメラも装備されているらしい。それらのことを鑑みるに、大宝寺氏が本気だったことだけは伺い知れた。

 車は緩やかな坂を下っていく。家庭菜園とも言うべき小さな畑と民家が徐々に目立ち始めた。野菜の自給率が惨憺たる昨今では、庭を潰し、屋上を耕し、プランターを並べ、必死に自家製野菜を作っている人間が増えてきた。ゴーヤ、シシトウ、ネギという微妙な野菜ばかりなのは、素人にも手が出しやすいからだろう。更にバナナの栽培も日本全国で行われている。温暖化した日本に、今や一番適した果物がそれだった。

 それはともかく、蛇行しながら丘を降りてきた道は、大きな街道とぶつかった。

 大型のトラックが数台行き交うだけで、交通量はあまり無い。エネルギーがバブリーな状況ではないから、無駄に車を走らせられる人間が徐々に減ってきている。それを象徴するように、ここ五年間で小型電気自動車の販売数がうなぎ登りだ。


「さて、最初にどこへ行きましょうか?」


 大通りに出てホッとしたのだろう。田神はやや緊張を解いてそう言った。


「まず市街へ。知合いと連絡を取っているので、その人を乗せて、それから私の自宅へお願いします」

「知合い?」


 その言葉に田神の右眉が上がった。


「あ、心配ご無用ですよ。彼にはこちらの事情は殆ど話してません。ただ食べ物など、私達が買うより、事前に買ってもらった方が良いかと思って」


 国安女史は、何故かモジモジとしながらそう答えた。


「彼?」

「大学の同窓なんです。えっと、今は国交省にいるんですが。ほら、防衛省、国税庁に加えて、もう一つ省庁の人間が絡めば、彼等も手が出しにくいと思いませんか?」


 どちらかというとややこしくしようとしているだけだと、田神は心の中でぼやいていた。


「で、ご自宅には何をしに?」

「私と妹の分の着替えを取りに行きたいんです。これでも一応女ですし、まさか宿泊することになるとは思ってみなかったので」


 そのはにかむような声色に、田神の鼻の下が少し長くなった。左目の端で眺めると、カーナビの淡い光に、女史がふと真顔に戻るのが見えた。


「あの……」 


 オヤジの想像力を活性化させたとも知らないで、彼女は躊躇いがちな言葉を発した。だが、言葉が続かないのか、その後はブツブツ口の中で言っているだけ。待ちきれず、田神は「なにか?」と催促をした。


「ええと、田神さんはどう思われましたか?」

「どうって、何が?」

「ひよりのことです」

「ああ……」


 田神は、少女が解読したと言った時から今までのことを思い出していた。

 彼女は確かにほぼ解読していた。十六の少女が行えたと言うこと自体信じられないことだが、もしも信じるとしたら彼女は希代の天才だろう。田神自身もあのマニュアルを眺めてみたが、到底読めた代物ではない。象形文字の羅列に、神経を逆なでされただけだった。

 しかし彼女は、ノートに文字群と数式を幾つか書いただけで、解読方法を見つけてしまったようだ。


「これは暗号に近いものですから、パターンさえ分かれば大したことがありませんでした。言語は英語を元に、時折、日本語も混ぜてありましたね。鏡文も入ってましたが、あなた方の知りたいことはそんなことはないですよね?」


 腰に手を置き、小首を傾げ、まさに傲慢を絵に描いたような態度と物言いだった。

 いったい何が書いてあるのか?

 詰め寄る皆に、少女はわざとらしいほど晴れやかな笑顔を見せて、操作方法です、マニュアルですからと返事をした。

 誰かがう“うぐぅ”と唸った。たぶん空人だったろう。国安女史は困り果てたように、額に手を当てた。田神自身も眉を寄せ、思わず少女を睨みつけていた。


「他に何か無かったんですか?」


 そう尋ねた田神に「他にとは?」と張り付いた笑顔の少女が逆に聞き返す。


「立場上、戦闘用なのか、それとも他に目的があるのか知りたいんですよ」

「ああ、そういうことですか。つまり探索レーザーみたいものや、スカッドミサイルなどが搭載されていなかったということですね。今のところ、ミサイル発射ボタンなどの記述はありません。書いてあったのはエネルギー充填方法、ロボットの操作方法、GPS機能、それから衛星からの静止画像についてですね」

「衛星!?」


 場の雰囲気が一瞬で凍り付く。衛星と言われ、皆が想像したのはたぶん同じであったであろう。

 それを察してか、少女はからかうような表情を作って、


「もしかして、スパイとか軍事とかの衛星を想像されましたか? 残念ながら違います。衛星と言ってもMTSAT-5ですから」


 さすがにそれだけでなにかを知るほど、全員の宇宙知識は豊かではない。


「あっ、わかりませんか。愛称はひまわり十号って言えばわかります?」

「おい、まさか、それ……」

「気象衛星です。確か大宝寺氏は開発に関わってたと思いますが?」


 ロボットに気象衛星からの静止画を取り込むのは不可解だが、きっと起動時の天候などを考慮する為だろうと、田神は何となく想像した。


「詳細は口で説明するのも嫌なので、これから日本語訳を書き出す予定です。けれど、まだ未解読部分がありますので、“ロボットに攻撃装置があるかどうかは今のところ不明”と、上司なり上官なりに報告して下さい」


 そう言って口を閉ざした少女に、皆はただ憮然と黙り込むより他なかった。



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