第30話  第五巻 聖域の闇 因縁

鹿児島冷泉寺住職の菊池龍峰に引導を渡し、大手洋菓子メーカー・ギャルソンの創業者柿沢康吉との示談交渉を終えた森岡洋介が、ほっと一息吐いたある日のことである。

 大手出版社発刊の人気週刊誌に異聞が掲載された。

 記事を要約すると、新興市場への上場を目前にした大阪のITベンチャー企業の青年社長が、二十七年前、島根県の小さな漁村で起きた、当時九歳になる少年の海難事故死に関わっているという内容であった。

 実名は避けていたが、関係者には森岡を指していると容易にわかる内容だった。森岡はこの手合いの週刊誌は読まないが、たまたま南目輝が手にしたため、彼の知るところとなった。

 森岡は一笑に付した。

 峰松重一ら広域指定暴力団・神王組との黒い交際ならともかく、何を今更三十年近くも昔の話を、と取り合わなかったが、上場のアドバイザーである幹事証券会社は問題視した。

 刑事事件にはなっていないし、仮になっていたとしても、同じく当時九歳の森岡は免責であり、何よりもとうの昔に時効である。一笑に付した森岡ではないが、わざわざ記事にするような事件ではなかった。

 むろんのこと、幹事証券会社の懸念はそのようなことではない。

 今やマスコミの目にも留まり、しだいに時代の寵児になりつつあった森岡のスキャンダルは、上場に向けて致命傷になりかねないのだ。致命傷というのは言葉が過ぎても、株価に反映する可能性は高い。

 しかも、内容は具体性に乏しく、いかに真相の追究よりも販売促進を重視する週刊誌とはいえ、記事にするにはいささか疑問符が付いた。つまり、出版社は更なる材料を掴んでおり、第二弾、第三弾と小出しに連載する意図なのか、あるいは背後に森岡潰しの絵図を描いている者が潜んでいると考えられた。

 証券会社は素早い対応に出た。

 まず、証券部長が出版社の編集長に直接会い、真意を訊ねた。だが、編集長はのらりくらりと言い逃れをした。

 そこで証券部長は、金銭的な利益供与を提示したが、編集長はこれも即座に断った。この場合の利益供与は直接的な金銭授受ではない。出版社の主な収入源は、出版物の販売収入と広告収入である。証券部長は広告の長期掲載を打診したが、編集長は全く取り合わなかった。

 森岡の記事は、週刊誌の発行部数を大きく伸ばすようなものでも、公権力や企業の重大な不正を糾弾するといった社会正義に則ったものでもない。証券部長が提示した条件の方が遥かに魅力的なはずであった。

 にも拘わらず、編集長はにべもなく断った。この態度に、訝しいものを覚えた証券部長は、続いて役員を通じ政治家に働き掛けた。付き合いの深い国会議員から、出版社の社長に直接因果を含ませようとしたのである。

 だが、出版社側はそれをも断った。仲裁役を買って出た国会議員の面子を潰してまでの、頑なな態度は並々ならぬ決意を如実に物語っていた。

 いったいその源泉は何であろうか、と幹事証券会社はきな臭い成り行きに当惑した。

 森岡自身は記事の出所が誰なのかを推量した。

 二十七年前の事件を知っている者は、故郷浜浦とその近隣の村人たちだけである。その中で最も疑わしいのは、言わずと知れた石飛将夫である。唯一と言っても間違いではないだろう。

 しかし、横領により勤務先の証券会社を懲戒解雇され、浮浪者同然の彼を、一流出版社が相手にするはずがない。幹事証券会社の報告を吟味すれば、石飛将夫個人が画策したとは到底思えなかった。

 森岡も自身に対する誹謗より、背後関係に関心を寄せた。そして、そこに潜む巨大な影を意識したとき、彼は社長の座を辞する決意をする。

 森岡は権力や地位に連綿とする男ではない。問題が長引き、神村の貫主就任に累が及ぶことの方に重きを置いたのである。

 森岡は野島真一にその旨を打ち明けた。

「少し時期が早まるかもしれん」

「社長の件ですか」

 そうだ、と森岡は肯いた。

「週刊誌の記事が原因ですか」

 退院した後、森岡は野島だけには過去の海難事故を語っていた。

「火種の小さいうちに対処しておきたい」

「しかし、あのような中傷記事など気にされることもないと思いますが」

「ウイニットだけなら無視するが、先生に迷惑が掛かるようなことにでもなれば、悔やんでも悔やみ切れなくなる」

「心中お察し致します」

 野島も沈痛な面持ちで言う。

「もう少し様子を見るが、連載が続くようだと……な」

 決断すると森岡は言った。

「心積もりはできているな」

「内々に打診されたときから、その心構えでおりました」

「よし、では次刊の記事内容を確認してから判断する」

 森岡は厳しい顔つきで野島に言い渡した。


 森岡は幹事証券会社にその旨を伝えた。

「それは……」

 担当役員が言葉を失った。

「私が辞任すれば、中傷記事を無力化できます」

「しかしそれでは」

 と、証券部長も露骨に困惑顔を森岡に向けた。

「株価に影響しますか」

 森岡には、彼らが上場時の引き受け手数料を気に掛けているとわかっていた。上場前のスキャンダルは株価を下げる。手数料は公募売り出し価格に一定率を掛けたものと約定しているので、株価が下がると手数料は減る。また成功報酬であるから、契約数の減少が懸念される事態は避けたいのだ。

「それは、まあ……」

 担当役員は否定しなかった。

「それはご心配なく。後継は野島ですから、ウイニットの業績には影響しません」

「野島専務の力量を疑っているわけではありませんが……」

 証券部長も歯切れが悪かった。

 森岡はカリスマ経営者である。その彼の辞任となれば、ウイニットの業績に疑問符が付くと憂慮するのは至極妥当だった。

「お二人のご懸念は理解できます。ですが、私が社長を退いても我が社の将来は安泰ですのでご安心下さい」

 森岡の口調に曰くを感じ取った担当役員が、

「何かありますか」

 と訊いた。

「これからお話しすることは、まだ公表する段階ではありませんので、ここだけの話にして頂きたいのですが」

 森岡はそう前置きをすると、

「現在、松尾技研さんと業務提携の準備に入っているところです」

「松尾技研とは、松尾グループの」

 証券部長の声が明るくなった。

 はい、と森岡が肯く。

「ソフトウェアーの共同開発や人事交流はもちろんですが、資本提携も視野に入れています」

 これは虚言である。森岡の頭の中に、当面松尾技研との資本提携の考えはない。だが二人を納得させるためには、共同開発や人事交流だけでは説得力に乏しいと判断したのである。

「それはインパクトがありますね」

 担当役員が大きく肯いた。

「そういうことであれば、森岡さんの辞任を相殺して余りがあるかもしれません」

 証券部長も安堵の顔で言った。

 こうして幹事証券会社は、ウイニットの社長交代劇を了承した。

 ところがその矢先である。

 突如、出版社から交渉に応じる旨の連絡が幹事証券会社に入った。総理経験もある、大物国会議員が仲裁の労を取ったというのである。

 この急転は、幹事証券会社のトップが、さらに大物国会議員へ手を回したのだと思いつつ、森岡は出版社側との交渉に随行した。

 出版社側は、記事の出所は最後まで秘匿した。ジャーナリズムに関わっている者であれば常識であり、森岡も無理強いはしなかった。ただ一点だけ、背後に政権与党の幹部議員の監物照正が関与していることを暗に仄めかした。

――天真宗の実力者の企てか……。

 森岡の脳裡に、銀座の高級寿司店六兵衛での警察庁内閣官房審議官平木直正の言葉が駆け巡っていたが、瑞真寺の真意は判らず仕舞いだった。


 南目輝もまた、古い因縁を清算しようとしていた。

 前杉母娘に遊興の借金を押し付け、森岡と縁浅からぬ祇園のクラブ菊乃のママ片桐瞳を凌辱した勝部雅春に対してである。

 このとき勝部は東北のある飯場にいた。飯場とは、鉱山や土木、建築工事の現場近くに仮設された作業員の合宿所である。

 当初森岡は、瞳の心身を傷付けた代償として、片腕でも奪おうと思っていたが、南目の知人である前杉に借金を押し付けていたこと考慮し、一時撤回することにした。苛烈な制裁は、彼が肩代わりをした借金を返済させてからでも遅くないと思い直したのである。

 そこで、神王組傘下の企業が請負った工事への飯場送りとした.。

 飯場での生活は意外と金が溜まる。日当は一万円から一万五千円、月に二十五日として、月額二十五万円から三十五万円余と、それほど高額ではない。だが、家賃や光熱費の心配が不要で、三食が付き、周囲に遊興施設が無いとなれば、仲間内の賭博に手を出さない限り、嫌でも賃金はそっくり残るという寸法である。

 むろん、勝部には神栄会から委託された神王組傘下組織の監視の目が光っている。彼には、年間四百万円前後の返済で八年間の労働が課せられていた。

 言うまでもないが、表向きは勝部本人の意志ということになっている。


 ある日の昼休みのことである。

 勝部は、現場監督からの面会者の来訪を訝しげに聞いた。神栄会の取立ての日ではないのである。

――何事だろうか。

 勝部は疑念を抱きながら、来訪者が待つという、現場監督が事務所と住居を兼用している建屋へ入った。

 一歩足を踏み入れた勝部は、

「あっ」

 としばらくその場に立ち竦んだ。

「勝部、久しぶりやな」

 南目が冷たい声で言った。

 その表情に、勝部は南目が旧交を温めようとしているのではないとわかった。

「なんで、お前が此処にいる」

 勝部も伝法な口調で言い返した。南目の横に、過日自身を東京から大阪へと拘束、移送した神栄会の組員の姿を見とめたが、かつての友人に対し、精一杯の虚勢を張ったのである。

「そんなところに立ってないでこっちに来い」

 南目の厳しい命令口調に、勝部はおずおずとソファーに座った。

「お前、なんで八年もの長い間、飯場送りになったかわかるか」

「そりゃあ、森岡という男の女を強姦したからやろう。神栄会に拘束されたとき、そう聞かされた」

 勝部は嘯くように言った。

 違う、と南目は首を横に振った。

「もし、それが理由やったら、お前の右腕は叩っ斬られていたところやったぞ」

「なに」

 勝部は思わず右腕を擦った。

「それなら、どうしてだ」

「お前、前杉さんに借金を押し付けて逃げたやろう」

 うっ、と勝部は言葉に詰まった。

「そ、そんなことまで知っているのか」

「二ヶ月ほど前やったか、梅田で偶然出会ってな、話は全部聞いた」

「……」

 目を伏せて無言を通す勝部に、南目が畳み掛けるように言う。

「美由紀さんを狙っていたお前が、関西庶民信用組合の件を自分の手柄にしたのは許せる。せやけど、そないことまでして手に入れた彼女をなんで幸せにしてやらんかった」

 南目の声は怒気を含んでいた。

「俺だって、幸せにしてやりたかったさ。だけど、あいつは俺に心を許さなかった。身体は許しても心は最後まで閉じたままだった」

「どういうことや」

 南目にはわけがわからなかった。

「あいつの心の中にはずっとお前が棲んでいたのだ」 

 勝部は吐き棄てるように言った。

「な……」

 今度は南目が言葉を失った。

 前杉美由紀は、初めて南目と出会ったときから、彼に好意を寄せていたのだという。しかし、幼い頃から一貫して母恭子の言うがままに育った、言わば洗脳された操り人形も同然だった美由紀は、南目ではなく勝部を選んだ母親の意思に従ったのである。

「まさか、そんなことが」

「お前だって気があったのだろう。それなのに彼女から逃げやがって」

 うな垂れる南目を勝部は詰った。

 惚れたとまでは言えなかったが、たしかに気になる女性ではあった。だが南目は、純真無垢な美由紀と少年院送致という暗い影のある自分とでは、釣り合わないと思い込んでいたのである。

「昔のことだ」

 南目は、そう言い返すのが精一杯だった。

「昔のことだと」

 勝部の顔が恨みがましいものに変わった。

「あのときお前に縁を切られてから、俺の人生は狂ったんだ」

「何を言うか。あれはお前が俺の忠告を聞かなかったからだろうが」

 南目は強い口調で抗弁した。

 二人は京都の立志社大学で同級だった。

 高校時代に傷害事件を起こした南目は、一年間の少年院送致を経験していた。その後、森岡との知己を得て、心機一転勉学に励み、見事立志社に合格したときは二十一歳であった。

 対して勝部は、京都の名門京洛大学を目指したが、二度の受験に失敗し、滑り止めだった立志社に入学したのである。彼もまた二十一歳になる年だった。

 勝部が両親と諍いを起こし、勘当されて南目のマンションに転がり込んだのは 四回生のときだった。

 その原因というのは女性問題だった。

 勝部は、友人から紹介された十歳も年上の女性と結婚を前提に交際していた。年令だけであれば、勝部の両親も渋々ながらも容認したであろうが、彼女には三歳になる男児もいたのである。

 これには勝部の両親も憤慨した。何も好き好んで、わざわざ離婚経験のある瘤付きの女性でもあるまい、と思うのは親の情である。両親は、再三縁を切るように説得したが、勝部が聞き入れなかったため、止むを得ず勘当したのである。

 親に勘当されてまで彼女との交際に拘った勝部だったが、思わぬことに彼女の方から一方的に別れを告げられてしまった。失意の勝部から居候を懇願され、南目は断ることができなかったのである。

 同居生活を始めてみて、南目は勝部が明晰な頭脳の持ち主であることを知った。高校時代の成績は優秀で、その偏差値は二度の受験に失敗した京洛大学どころか、我が国最高学府である帝都大学への進学も可能な数値だった。

 気心も知れたあるとき、南目は身の上話の折に、森岡と神村についても触りを話した。実名は伏せながらも、一時寄宿していた寺院の住職が、各界に人脈を持つ高僧であること、その住職に可愛がられている男を実の兄とも慕い、彼の許での仕事を欲していることを語ったのである。

 話を聞いた勝部は、心躍る思いになり、是非自分も仲間に入れて欲しいと願い出た。南目は優秀な勝部のこと、必ずや森岡も気に入るだろうと、いずれ紹介すると約束をした。

 そのようなときであった。

 例の一方的に別れを告げた子持ちの女性が、再び勝部の前に現れた。復縁したいと言うのである。勝部は小踊りした。彼にすれば、彼女が嫌いで別れたのではないのだ。彼女の申し入れを断る理由がなかった。

 だが、勝部から女性を紹介された南目は強硬に反対した。

 南目に女性を見る自信などなかったが、それでもその女性は性悪に見えた。男性にだらしのない女性に映った。たとえ復縁しても、彼女はまた他の男性に心を移し、勝部の許を離れるだろうと推察したのである。勝部の両親が勘当までして反対した真の理由もそのあたりだと思われた。

 しかし、惚れた弱みなのか、眼に霞の掛かっていた勝部は南目の忠告に耳を貸さなかった。

 そこで南目は、最終手段として『自分と取るかその女性を取るか』と迫った。

 結局、勝部は南目のマンションを出て、彼女のアパートに移ったのである。

 その後勝部は、短期間だが年上の子持ち女性と美由紀の二股交際をしていたことになる。だが南目は、子持ち女性との相談を受けたとき、勝部が美由紀と交際を始めていたとは知らなかった。

 あのホテルの喫茶店で再会したとき、勝部が美由紀と結婚していたことを知らされて、時期が重なっていると気づいたのである。

 というのも、勝部に誘われて以来、何度かエトワールには顔を出していたが、そのような話を耳にしなかったし、勝部が出て行ってからは、すっかり足が遠のいていた。  また、勝部自身とも大学内で顔をあわせることはあったが、お互いが敬遠し合っていたのである。

「すぐに捨てられたんやろう」

「ああ」

「だから、そうなると忠告したんや」

「あのとき、もっと強引に引き止めてくれていたら、お前と決別することはなかった。俺は……」

 勝部はいや、と頭をを横に振った。

「もう昔の話は止そう。それより、そんなことを言うためにここに来たわけではないだろう」

「そうや。今日の本題はこれや」

 南目は鞄から一枚の用紙を取り出した。美由紀との離婚届である。

「そういうことか。それで、美由紀はお前が面倒を見るのか」

「それはわからん」

「わからんって、じゃあなぜお前がこんな物を持っているのだ」

「二人はうちで働いているんや」

「うちって?」

「ウイニットという会社や」

「ウイニット……社長は森岡だな」

「そうや。兄貴が金融屋と話を付けてくれたんや」

「話を付けるって……そう言やあ、神栄会の若頭とも親しいようだが、森岡という男はそんなに凄い男なのか」

「勝部、峰松さんで驚いちゃあ、身が持たんぞ」

「どういうことだ」

 勝部は少し考えて、

「寺島親分か」

 と驚愕の面で言った。南目はにやりと笑うと、首を横に振った。

 瞬間、勝部の顔面から血の気が失せた。

「ま、まさか、六代目?」

「ああ、兄貴は蜂矢六代目と昵懇の仲やで」

 南目が睨むように言った。それは、今後勝部が邪な考えを起こさないようにと引導を渡したものであった。

「わかった。離婚届に印を押そう」

 勝部は素直に従った。

 署名捺印した勝部の口調が変わった。

「南目、お前が大学時代に慕っていたのはその森岡さんやな」

「……」

 南目は無言で肯いた。

「そうか、俺は人生を誤ったんだな」

 勝部は慟哭にも似た声で呟いた。

 離婚届に瑕疵の無いことを確認した南目が語り掛ける。

「勝部、最低三年は真面目に働け。そうすれば、俺から兄貴に放免を願ってやる。場合によっては兄貴の許で働けるように頼んでやってもええで」

「本当か」

 勝部の目に力が籠もった。

「嘘は言わん。いろいろあったが、一度は一緒に仕事をしようと思ったお前だ。救えるものなら救ってやりたい」

 これは南目の本音だった。勝部が根っからの悪人ではないと信じていた。

「実はなあ、勝部。俺は兄貴から途方もない事業を任されることになったんや」

「途方もない事業?」

「そうやな、十年もすりゃあ、世界を又に掛けて一兆円を超える事業に化けるかもしれん」

「一兆円だと? いったい何をするのだ」

「今は言えんが、お前次第で仲間に入れてやってもええで」

 勝部は必死の形相になった。

「頼む。真面目に働くから、必ず真面目に働くから……」

 とテーブルに頭を擦り付けながら何度も繰り返した。

「だがな、勝部。そうなったらお前には日本を離れてもらうで」

「美由紀、いや美由紀さんの手前だな」

 勝部は、南目の真意を理解したかのように言った。

 いや、と南目は首を左右に振り、

「もう一人の方が重大事やで」

 と咎めるように言った。

 森岡は、南目から直談判に及ぶ決心を聞かされたとき、勝部が親しい知人の片桐瞳を凌辱した男だと告げていた。

 南目は必ずや事の仔細を勝部を問い質すだろう。そのとき、勝部の曖昧な抗弁を耳にするより、前もって自身の口から事実を話をしておいた方が良いとの判断であった。

 うっ、と勝部は言葉に詰まった。

――そうだった。強姦した女性は森岡の大切な女性だった。

 あらためて後悔の念に苛まれた勝部は、縋るような眼で訊いた。

「本当に許して貰えるだろうか」

「生涯、死に物狂いで忠誠を尽くせば、な」

 因果を含めた南目は、

「だから決して俺らを裏切るなよ。次は間違いなく埋められるぞ」

 と情に絆されそうになりながらも、釘を刺すことを忘れなかった。


 高尾山の瑞真寺では、執事長の葛城信之を前に、栄覚門主が苦渋に満ちた顔をしていた。寝耳に水の報告を受けていたのである。

「野津が枕木山に入っただと」

「中原宗務次長から御門主のお耳に入れるようにとの連絡がありました」

「伐採の件は三年前に決着が付いたというのに、なぜ今頃になって……」

 栄覚は唇を噛んだ。まさか勅使河原が、野津の実娘である芸者小梅を利用して、森岡を罠に陥れようとしていたことなど知る由もなかった。

「同行者がいるようです」

「誰だ」

「記帳には坂根と足立とありました。二人とも二十代の若者だそうです」

「何者だ」

「わかりせん。宗務院も初顔だそうで……」

「拙いな」

 栄覚は口の端を歪めた。

「枕木山には何かございますので」

「今はまだ言えぬ」

 探るような目で訊いた葛城に、栄覚は厳しい口調で返した。

「差し出がましい口を利きました」

 葛城は怯むように詫びた。以前、栄覚から聞いた家宝と関わりがあるのではとの直感を働かせていたが口にすることはできない。

「では、いかがしましょうか」

 遠慮がちに指示を仰いだ。

「今日のところは様子を見る」

――何も気づかれずに済めば良いが、もしものことがれば口止めせねばなるまいな。

 栄覚は心の中で呟いた。

「念のため、鬼庭に若い者を寄こすよう連絡してくれ」

「虎鉄組に? 勅使河原会長を介しますか」

「いや、勅使河原は拙い。中原上人に善処してもらうよう頼んでくれ」

「承知しました」

――枕木山の秘事は、勅使河原会長にも秘匿しておられるのか。ますます怪しい……。

 葛城は確信に近い思いを抱きながら、携帯を手にした。

 電話を掛け終えた葛城に、

「ところで執事長、例の件だが、進捗はどうか」

 と、栄覚が訊いた。

「残念ながら、未だ何の手掛かりも掴めておりません」

「『雲』からの報告もないか」

「何も」

 ありません、と葛城が申し訳なさそうに頭を下げた。

「よいよい。こればかりは神村が動かねばどうにもならない。傍におる雲に掴めぬというのであれば、致し方あるまいな。だが、神村が我が父であり師でもある栄興上人から受け継いで足掛け十五年。もうそろそろ動きがあっても良い頃だ」

「少なくとも、天真宗の僧侶ではないのでしょう」

「そうだな。立国会からもそのような報告は無いしな」

「そういえば、過日神村上人は高野山を訪ねたと耳に致しましたが……」

「高野山……堀部真快大阿闍梨か」

 栄覚は呻くように言った。

「元は大阿闍梨から我が父に継承され、父から神村に伝承されたものだからな。再び高野山に戻っても不思議はないのう」

「そのようなものですか」

 葛城のような凡僧にとっては、想像も付かない次元の話ではある。

「しかし、御先代様が御門主に伝承されておられれば、このような苦労はなされませんものを……」

 と言った葛城の顔から、サァーと血の気が引いていった。

 栄覚が睨み付けていたのである。

「こ、これは、とんだ失言を致しました。お許し下さい」

 葛城は、泡を食ったように額を畳に擦り付けた。

「執事長、たとえ貴方でも我が父への批判、中傷は許しませんぞ」

 心臓を突き刺すような冷たい声だった。

 葛城を咎めた栄覚だったが、その実、栄興前門主に密教奥義伝承を願った際の、

『お前など、神村上人の足元にも遠く及ばぬ。身の程を知れ』

 との叱責が蘇り、忸怩たる思いに身体を震わせていた。

――あのときの屈辱は決して忘れはせぬ。

 栄覚は奥歯を噛みしめた。

「こ、今後は肝に命じまして……」

 葛城は声を震わせて詫びた。

「いや、わかれば良いのです」

 穏やかな口調に戻った栄覚は、

「真の野望を成就するためには、是非とも密教奥義を我が手中に収めねばならない。たとえ高野山に戻っても、何らかの手立てを講ぜねばなるまいな」

 と意を決した声で言った。


 週刊誌の件が解決されてしばらく経った頃、ウイニットのオフィスに思いも掛けぬ人物が姿を現した。

 森岡の幼馴染だった石飛浩二の兄将夫が訪ねて来たのである。森岡が、自身を刺した犯人だと思っている男である。

 あまりの突然のお訪いに、茫然自失となった森岡に向かって、

「あの夜、わいを刺したのはおらだ」

 と、将夫は開口一番、何の躊躇いなく言い放った。

「やはり将兄ちゃんでしたか」

 森岡はやるせない声で呟いた。

「わい、なんで警察に黙っちょっただ。おらだとわかっちょっただらが」

「……」

 森岡は黙って肯いた。

「わかっちょって、黙っちょったちゅうことは、やっぱりあれに負い目があるだな」

 石飛将夫は、糾弾するような目で森岡を見つめた。

「負い目と言えば負い目かもしれませんが、警察に告発する前に、一度将兄ちゃんと話がしたかった」

「今更何の話じゃ。言い訳なら聞かんんじぇ」

「たしかに二十七年も経って今更ですが、真実を話そうと思いますので、聞いてもらえませんか」

「……」

 何も答えない石飛将夫に向かって、森岡は勝手に語り出した。


 海に投げ出された石飛浩二は、必死の形相で助けを請うていた。

「たすけて、洋くん」

 だが、洋介はすぐには助けなかった。

 それどころか、くすっと笑った。

「た、す、けて……」

 浩二は相変わらず手足をばたつかせ、必死に海面に浮かび上がろうとしている。

――あれ? 何か変だ。

 このときになって、洋介はようやく彼の異変に気づいた。というのも、運動神経抜群の浩二は、当然のことながら泳ぎも得意だった。ただ、海に落ちたぐらいでは溺れるはずがないのだ。

 洋介が心の中で笑ったのは、浩二が溺れる芝居をして、

――おらを欺こうとしているな。

 と思ったからなのだ。

 だが、どうもそれが違うらしい。まるで海坊主にでも足を捕られているかのように、身体が沈まないようにするのが精一杯のようなのである。

 それでも洋介は、もがき苦しむ浩二を見て、

――ざまあみろ。

 と心の中で呟いた。

 洋介は、このような機会こそを長らく待ち望んでいたのかもしれないと思っていた。自尊心をズタズタに切り裂かれながらも、浩二と行動を共にしてきたのは、ひとえに眼前でもがき苦しむこの姿を見るためだった、と。

 暗雲は天空を覆い尽して漆黒の闇と成し、風雨は肌に突き刺さるほどに強まっていた。洋介の心には、この空模様のようなどす黒い企みが浮かんでいた。

 その代償がどれほどのものであるかなど、幼い洋介には想像できなかった。彼は、この機会に高慢な浩二を懲らしめてやりたかった。釣り下手を嘲笑する浩二を甚振ってやりたくなった。

 いや、自身のことだけであれば我慢できたかもしれない。だが、母を卑しめる言葉だけは許せなかった。かつて浩二が、母を『男狂い』と罵ったとき、洋介の心の何かが壊れていたのである。

 波打ち際まで降りて、竿を差し向ければ十分に届く距離だったが、洋介はもう少し浩二に恐怖を味合わせてから助けるつもりでいた。

 そして、洋介がようやく竿を差し出そうとしたとき、予期せぬことが起こった。

 いつの間にか女性が背後に立っていて、

「お止めなさい」

 と、森岡の両肩を掴んだのである。

 森岡は唖然として顔を後ろに向けた。

 子供心にも、この世のものとは思えないほど美しい女性だと目を見張った。

 それでも洋介は、前に向き直って足を前に踏み出そうとしたが、女性に抱きすくめられて身動きができなくなってしまった。

 その数秒の間が悲劇を生んだ。突如として高波が襲い来て、浩二の身体を巻き込むようにして、沖へと奪い去ってしまったのである。

 呆然と立ち竦む洋介の耳に、

「洋、くん、たす、け、て……」

 という絶叫を残し、浩二は海の藻屑となった。

 数瞬後、洋介が我に返ったときには、すでに女性の姿は無かった。

 これが真実の全てであったが、魔訶不思議な女性のことは秘匿した。この期に及んでも、まだ言い訳をしていると思われたくなかったのである。

「俺はコーちゃんが羨ましかった」

 森岡は呻くように言った。

「羨ましいだと? 何を言っちょうだ。分限者の跡取りが」

「そういうことでないのです。俺は、将兄ちゃんに釣りを教えてもらえるコーちゃんが羨ましかった。いや、兄弟そのものを羨んでいたのかもしれません。それに……」

「それに」

「コーちゃんを恨んでもいました」

「恨む? 何でだ」

「コーちゃんは母を侮蔑したのです」

「なんて、侮辱だと」

 将夫は怪訝な顔をした。

「浩ちゃんは母を、母を男狂いと罵りました」

「そ、それは親の言葉尻を捉えただけだと思うだが」

「たぶんそうでしょう。今思えば、悪気はなかったと思いますが、そのときは悔しさに身体が震えたのです」

「そが言ったって、わいのやったことは許せるもんじゃないが。わいがすぐ竿でも差し出し出しちょれば、浩二は助かったかもしれんだけんな」

「それはそうです」

 森岡は潔く認めた。

「将兄ちゃんの言うとおりです。何を言っても俺が悪い。ですが、これだけは信じて欲しいのですが、あのときコーちゃんが死ねば良いとは、露ほども思っていませんでした」

「それは言い訳に過ぎんが」

 石飛将夫は咎めるように言った。

「そうですね。たしかに言い訳ですね」

 森岡は力を落とすと、

「では、どうしますか。また刺しますか」

 と、将夫を見た。

「……」

 石飛将夫は黙ったまま、森岡を睨んていたが、

 ふいに、

「ふふふ、馬鹿馬鹿しい」

 と笑った。

 事故現場にも足を運んだ将夫は、

――当時の状況を想像すれば、たとえ洋介がすぐに竿を差し出しても、浩二は助からなかったであろう。

 との考えに至っていた。

――むしろ、足場の悪さから洋介自身も海に引きずり引き摺り込まれてしまい、二人とも溺死した可能性が高い。

 とさえ思っていた。

「一度刺したけん、もう昔のことは忘れる。その代わりと言っちゃあなんだけんど、わいに一つ頼みがある」

 石飛将夫の声が神妙になった。

「何でも言って下さい」

「菊池上人を許してごさんか」

「はあ? 菊池上人って、まさか鹿児島の……」

 驚きを隠せない森岡に向かって、

「その冷泉寺の菊池上人だ」

「将兄ちゃんは、菊池を知っているのですか」

「知っちょうどころか、冷泉寺の御先代は命の恩人と言ってもええだが」

「いったい、どういうことですか」

 思わぬ話の展開に、森岡の頭は混乱を極めていた。


 逃れるように浜浦を出た石飛一家は、父定治の実弟が住む福岡に移った。

 実弟の伝手で、ようやく遠洋漁業の船員の職に就いた定治に、思わぬ災難が降り掛かったのは、それから僅か半年後のことだった。

 漁船が給油と整備のため鹿児島県枕崎に帰港した折、休暇を利用して鹿児島市内の繁華街で羽を伸ばしたのだが、酔った勢いから地元のヤクザ者と口論になり、刺殺されてしまったのである。

 訃報を聞き、現地に赴いた将夫の母民江は途方に暮れた。

 灘屋、つまり森岡家の水揚げを着服した定治の所業により、石飛家は村八分の処分を受けていたため、民江は夫の遺骨を浜浦の墓地に埋葬できないと思い込んでいたのである。

 浜浦の村八分は、火事と葬儀の二分を対象外としていたので、実際には遺骨を埋葬することはできたのだが、近くの町から嫁いだ民江はそのあたりの事情に暗かった。

 というより、そもそも現実には古い慣習である村八分など存在しない。だが、世間の白い目というのはある。村人たちが、自発的に付き合いを敬遠することはままあった。

 さて、途方に暮れる民江に救いの手を差し伸べたのが、冷泉寺の先代住職であった。地元の警察署から遺体を引き取るとき、別件で来署していた葬儀屋に相談したところ、冷泉寺を紹介されたのだという。冷泉寺の先代は、大変な人徳者との評判が高かったので、葬儀屋が紹介したのである。

 はたして葬儀、供養を引き受けただけではなく、事情を聞き出し、生活苦を察した先代住職は、民江を自坊の離れに使用人として住み込ませたのだった。肉山であればこそできた慈悲とも言える。

 先代に受けた恩を返そうとしている将夫に、

「良くわかりました。今後、菊池が二度と悪ささえしなければ、俺の方からは手を出しません」

 と約束した森岡だったが、

「ただし、もし何か仕出かしたら、そのときこそ容赦はしないと菊池に伝えて下さい」

 厳しい最後通告も忘れなかった。

「ところで……と、森岡の語調が変わった。

「あの日、よく俺の住まいがわかりましたね」

「そりゃ、わいが有名だったけんだが」

「有名、とは」

 森岡は首を傾げた。

「北新地で、わいのことを知らん奴はおらんかったけんな」

――そういうことか。

 と、森岡は心の中で自身の所業に舌打ちをした。


 長引く不況下において、会社を懲戒解雇になった石飛将夫の再就職は容易ではなかった。やがて生活に困窮した彼は、やむなく大阪西成で日雇い労働をして食い繋ぐようになった。

 将夫は身の不運を嘆いた。生まれ故郷からの夜逃げ、父の災難、苦労に苦労を重ねた母の無念の死、そして己の懲戒解雇。まるで、絵に描いたような不幸の連鎖に、将夫は全ての不運の発端は、弟の不慮の死にあるとの思いに至った。

 そのようなとき、気晴らしをしていた立ち飲み屋で森岡の噂を耳にした。サラリーマン風の男たちが、北新地で豪遊する男の噂話をしていたのである。

 サラリーマンたちが言葉の端々に吐いた森岡という名が、将夫の忘れていた記憶を呼び起こした。まさか、と思いつつ噂の真偽を確かめてみた。なけなしの金を手に北新地に出向いた将夫は、噂が事実であることを確認した。

 むろん、直接ロンドに出向いたのでも、高級クラブに行ったのでもない。彼はそのような金は持ち合わせていない。将夫は北新地でも、場末のラウンジで話の顛末を聞いたのだが、それが余計に彼を逆上させた。森岡の評判は、北新地の隅々にまで伝わっているということだからだ。

 将夫の頭にカァーと血が上った。

 身の不幸の端緒になった弟の死に関わりのある男が、自分たち家族を浜浦から追い出した灘屋の総領が――石飛将夫も父の不正を知らされていなかったのである――ほどなく数十億円という途方もない大金を手に入れるらしく、このご時世に馬鹿げた豪遊をし、湯水の如く散在しているというのだ。

 将夫は、あまりの怒りに見境が無くなった。

――洋介を道連れにして自分も死のう。

 懲戒解雇、それも保証人になった知人の失踪で借金を背負い込んだため、つい顧客の金に手を出してしまった。それが原因で離婚する破目にもなった。

 自暴自棄になった彼は、その捌け口を森岡に向けた。そして、恨みが極点に達したとき、森岡刺殺という常軌を失った暴挙に駆り立てたのである。

 石飛将夫は通信会社のタウンページでウイニットが新大阪にあることも、森岡の住居が箕面であることも突き止めた。大阪府内に『森岡洋介』という同姓同名者は五人いたが、高級マンションと思われるのは、箕面の物件だけであった。

「しかし、帰宅時間までようわかったの」

「わかりゃせんがな。だけん、毎日二十二時から二十三時半まで待ちょったがな」

 まさに執念と言えた。石飛将夫は、この十日間、毎深夜マンションの物陰に潜んでいたのだという。最寄り駅の、大阪市内方面行きの最終電車は、二十三時五十五分発だった。マンションから駅までは徒歩で二十分、と計算しての行動だったのである。

 乗用車の車種はわからなかったが、ようやく待ちに待った見覚えのある男が車から降りた。将夫は玄関ドアのセキュリティーパネルの前に立った森岡に近づき、本人確認をしたうえで凶行に及んだ。

 その後の生死はわからなかったが、いずれにせよ警察の手が廻ると思っていた。

 森岡を刺したとき、

――おまえは……。

 と察しが付いたような森岡の言葉を耳にしたからである。当然、森岡は運転手に伝えているはずである。

 ところが、いつまで経っても警察はやって来なかった。

――洋介は、気づいていなかったのか?

 自分の勘違いかもしれないと思ったとき、将夫は急に命が惜しくなった。

『洋介を殺して俺も……』との覚悟が揺らぎ、彼の生死がわからない以上、犬死のような気がしてきた。

 ともかく、将夫は西成を離れることにした。といって、彼に行く当てなどあるはずもない。

 将夫の足は、自然と鹿児島の冷泉寺へ向かっていた。浜浦を除けば、彼の人生で最も心の安らいだ場所である。彼は優しく接してくれた住職に、無性に会いたくなった。事件のことを告白し、自首するつもりにもなっていた。

 しかし、先代住職はすでにこの世を去り、菊池龍峰が後を継いでいた。落胆した将夫だったが、心の整理を付けるため、菊池に事件の一部始終を話した。龍峰が養子であることを知らない将夫は、面識のあった彼に警戒感がなかったのである。


――繋がった。

 と、森岡は思った。

 菊池龍峰は石飛将夫の告白を瑞真寺に言上したに違いない。そして、瑞真寺の指示に従い、出版社に持ち込んだ。監物照正はその後ろ盾になったのであろう。

――瑞真寺は御前様だけではなく、この俺にも牙を剥くというのか。

 森岡は、自身も標的だった事実を知り、武者震いを禁じ得なかった。

「だから、記事の件は俺のせいなのだ」

「その件はもう良いですよ。それより、今後はどうするつもりですか」

「どうもしやせん。また日雇いでもするわな」

 石飛将夫は、弱々しい笑みを浮かべた。

「どうです、ウイニット(うち)で働きませんか」

「はあ?」

 将夫にとって思いも寄らない言葉だった。

「証券会社に勤めていたのですよね」

「あ、ああ」

「ウイニット(うち)は現在、上場に向けて幹事証券会社の指導を受けていますので、証券業務に精通した将兄ちゃんは十分な戦力になるのですが」

 森岡は、唖然として佇む将夫に言った。

「……」

「ゆっくり考えて、その気になったら、連絡を下さい」

 森岡はポケットから名刺を取り出し、将夫の手元に置いた。

 そのときだった。

 隣の部屋で南目と蒲生が言い争っている声が漏れ聞こえてきた。社長室へ入るには、蒲生のいる秘書室を通らねばならないのだが、そのうち、二人が崩れ込みようにして社長室に入って来た。南目は、石飛将夫が訪ねて来たと聞いて、もしやとの勘を働かせ、確かめにやって来たのだった。

「もしかして、お前が社長を」

 南目は、石飛将夫を睨み付けた。

「ああ。私が刺し……」

「このやろう!」

 言い終えないうちに、南目は怒号を浴びせると、石飛将夫の胸倉を掴み、拳で殴った。彼の一撃は、石飛将夫の身体を床に叩き付けるほど強烈だった。

 南目は、いまにも殴り殺さんばかりの形相で石飛将夫の身体に跨った。

「輝、止めろ!」

 森岡が大声で怒鳴った。南目が一瞬怯んだ。

「しかし、兄貴。こいつが兄貴を……」

「それには理由があるのだ」

「理由? どんな理由や」

 南目は大きく肩で息をしている。

「俺は、この人の弟を見殺しにしたのだ」

 森岡は、自身の言葉に慄くように言った。

「なんだと……」

「えっ」

 南目は絶句し、蒲生は呆然と立ち竦んだ。

「子供の頃、二人で釣りに出掛けたとき、海に落ちたこの人の弟が溺れ死んで行くのを、俺は助けもせずに、ただ黙って見ていたのだ」

「……」

 南目には返す言葉が無かった。

「だから、非は俺にある。俺はこの人に殺されても文句は言えんのや」

「しかし、しかし……」

 南目はそう呟きながら、膝を折った。

「輝。この人は俺を許してくれた。だから、俺が刺されたことも無かったことにしたいのや。わかるな」

「ああ」

 南目は虚ろな目をして頭を垂れた。

「なあ、輝。俺は、いずれ例の大事業をお前に任そうと思っているが、それまでは俺の傍らで榊原さんや福地さん、松尾会長とも関わりを持つことになる。そのお前が、こんなことで事件でも起こしてみろ。向こうさんの手前、傍に置こうと思っても置けんようになるやないか」

 森岡は諭すように言った。

「兄貴……」

 目を真っ赤にした南目は、拳を何度も自身の膝に叩き付けた。










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