第28話 第四巻 欲望の果 報復
その日、森岡洋介が大阪梅田の高級料亭幸苑に着いたとき、すでに午後二時を回っていた。本来であれば、夕方からの営業の仕込みのため客は取らないのだが、森岡は特別扱いで入店を許可された。
「お昼のお弁当も出払ってしまい、何にもありませんのよ」
女将の村雨初枝が申し訳なさそうな顔をした。
いえ、と森岡は顔の前で手を振った。
「無理を言っているのは私の方です。ビールとつまみを少々、あとはおにぎりで結構です」
「板長が何か賄いで取り繕っています」
「いやあ、それは有り難い。幸苑の賄いを食べられるなんで、こんな楽しみなことはないです」
森岡は明るい顔で言った。
賄いとは、余った材料などを用いて作る、料理人や従業員の食する料理のことである。この賄い料理が転じて、店の看板メニューになることもよくあることだ。
「それにしても、お昼からビールを召し上がるとは、何か良いことでも有りましたか」
「良いことではありませんが、心の憂いが晴れました」
「神村先生の件ですね」
「はい」
「それは良うございました」
女将の初枝も安堵した顔をする。
「女将にもご心配をお掛けします」
「あら、私如きが心配しても何の足しになりません」
「そのようなことはありません。女将にはずいぶんと勇気付けられています」
「そう言って頂けるだけでも嬉しいですわ」
女将は会釈をしながら立ち去った。
彼女の足音が遠ざかると、途端に森岡の顔つきが険しくなった。
「輝、お前に言っておくことがある」
「なんや兄貴、怖い顔をして。あれから俺は悪いことは何もしとらんで」
南目は気圧されるように抗弁した。以前、彼は勝手に森岡の過去を調査したため、きついお灸を据えられていた。
「勝部雅春の行方がわかった」
勝部雅春とは、南目の大学時代の友人で、彼のマンションに居候をしていた男だが、前杉母娘に借金を押し付けて行方を暗ましていた。
「なんやて、本当か」
南目が驚愕の顔を向けた。
「この男やろう」
森岡は、背広の内ポケットから一枚の写真を取り出し、南目に見せた。
「そうや、こいつや。せやけど、なんで兄貴が勝部の写真を」
持っているのか、とすかさず疑いの視線を送る。
「別件で伊能さんに調べてもらったら、こいつが網に引っ掛かったんや」
「別件? 先生の件か」
違う、と森岡は首を横に振る。
「お前は知らん方がええ」
「神村先生の件でないなら、そういうわけにはいかん。兄貴、こいつをどうする気や」
「少々、痛め付ける」
極めて冷徹な声だった。
一瞬、たじろいだ南目だったが、
「なら、その後でもええから、こいつと会わせてくれ」
と頼んだ。
「今更会ってどうする気だ」
森岡は探るような眼を向けた。
「文句の一つも言いたいし、美由紀さんとの離婚を認めさせる」
「離婚? そうか、籍はまだ入ったままやったんか」
南目の心情を汲んだ森岡は、
「ええやろ。そういうことなら、時期を選んで必ず会わせてやる」
と約束した。
幸苑を後にした森岡は、その足を大阪梅田のパリストンホテルへ伸ばし、神栄会若頭の峰松重一との密会に臨んだ。いつものように、蒲生亮太と足立統万の二人が同席した。
パリストンホテルは、JR、地下鉄、阪急、阪神の各駅から程近く、北新地とも目と鼻の先にあった。その利便性から、昼間は若者やビジネスマンで溢れ、夕方からは社用族の接待や、ホステスとの同伴の待ち合わせ場所として賑わっていた。
森岡は、一階の喫茶店ではなく、スイートルームを予約していた。
「六代目も寺島の親父も、喜んでいました」
峰松が、両手を膝に置いて腰を折り、深々と頭を下げた。ボティーガードとして、かつて森岡を拘束した大男二人に加え、四人の厳つい男たちがその場に居たが、事情を知らない彼らは一応に驚きの表情になった。
「どこまでできるかわかりませんが、全力を尽くします」
と、森岡も同様に頭を下げた。熟慮の末、蜂矢六代目から懇請されたブック・メーカー事業を受ける旨の返事をしていた。
「お前ら、この方が親父を若頭に押し上げて下さった森岡さんや。よう、顔を覚えておきや」
「はっ」
四人の男たちが一斉に腰を折った。
これは峰松の大仰な芝居である。森岡の仲介による福地正勝からの金が寺島の六代目若頭就任の一助になったことは間違いないが、そのときすでに寺島新若頭で趨勢は決していた。
極道は所詮極道であり、その本分は力、すなわち暴力である。若頭という位置は天真宗でいえば総務の立場に当たり、実質的に組内外の諸事を取り仕切る役目を負っている。そのような重責を担う者は、いかに経済的な貢献が有ったとしても、敵対勢力から舐められるような神輿であってはならないのである。
峰松は、そうした神王組内に漂い始めた思惑の流れに、駄目を押すための金策に奔走していたに過ぎなかったのだ。然るに、峰松が森岡を殊の外丁重に扱う所以は、むしろ今後に対してのものだといえよう。
「この者らは、神栄会(うち)の若頭補佐ですわ。九頭目は御存知でしょうが……」
と言って峰松は残りの三人の男たちを紹介した。三人はそれぞれ窪塚、田代、二宮と名乗った。
「貴方は窪塚さんとおっしゃるのですか」
「いや、その節は」
窪塚は決まりが悪そうに軽く下げた。
窪塚は法国寺裏山の土地買収を巡って対立したとき、森岡を拘束した極道者だった。
「森岡はん、それはもう水に流して貰えませんか」
自身が咎められているような気がした峰松は苦笑した。
「御懸念なく。全く気にしていませんから」
森岡は鷹揚な笑みを返した。
「森岡はんはな、六代目からプラチナバッジを送られはったんや。その意味がわかるな」
「プ、プラチナ……」
若頭補佐の四人は唖然として言葉がなかった。彼らは銀バッジなのである。森岡に比べ二階級下であった。
これまた天真宗に照らし合わせれば、六代目の蜂矢が大僧正の法主、プラチナバッジが大本山と本山の貫主に与えられる権大僧正、金バッチが僧正、銀バッジが権僧正、銅バッジが大多数の末寺の住職である大僧都以下といったところであろうか。
「ええか、親父の厳命や。島根での失態もある。この先、夜の街などでなんぞ森岡はんがトラブルに巻き込まれはったら、いや巻き込まれんよう、これまで以上に影ながら神栄会(うち)でお護りするんやで。ウイニットの森岡はん、この名前を若い者にも徹底的に覚えさせておけ」
と、峰松は声高に命じた。
関西随一の繁華街と言っても良い北新地の縄張りは、少々複雑であった。本来であれば、街毎あるいは番地毎に『しま』が線引きされていたが、この北新地とミナミは特別で、複数の組によって割譲されていた。
神栄会はその中の一つに過ぎなかったが、古くからの名門組織であるうえに、神王組本家の若頭を務める組になったため、その威勢は北新地全域に行き渡ることになったのである。
従来は、用心棒としての見ケ〆料が主な収入源だったが、暴力団対策法の施行以来、激減した。しかし、暴力団が黙って大人しくしているはずもなく、別の方法でしのぎを確保していた。
たとえば、お絞りやアルコール類、おつまみ、花等々、これまでも関係する会社を噛ませて利益を得ていた業種の強化や、新手として清掃会社、ホステスや黒服の派遣会社といった職種にも手を広げて行った。これらは全て合法であり、司直の手も届かないのである。
「峰松さん、そこまでして頂かなくても現状で十分です」
峰松の意図を見抜いている森岡は遠慮した。
いいや、と峰松は語気を強めた。
「ブックメーカー事業を受けて貰ったからには、ますますもって森岡はんは神王組の福の神やから、親父からも丁重に遇せと命じられとるんですわ」
峰松重一は必死だった。
あの神戸灘洋上での蜂矢の言葉で、親分の寺島が七代目になることはほぼ確実となった。そのとき、自身が若頭の座を射止めるためには、森岡の協力が必須だと考えていたのである。しかも、東京の虎鉄組が島根半島の浜浦で森岡を襲撃している。峰松は、自身の栄達に不可欠となった森岡を失うわけにはいかなかった。
「しかし……」
森岡は、なおも逡巡したが、
「ところで、緊急の用ってなんですの」
と話に蓋をするように森岡の用件を問うた。
「それが」
森岡の面が一変した。
「峰松さんに、少々面倒なお願いをしにやって来ました」
と何時になく厳しい顔つきに、
「ほう。森岡はんがそないな顔をしはるとは珍しいでんな。ややこしいことでっか」
峰松の声も自然と低まった。
「二人の男に落とし前を付けて頂きたいのです」
「落とし前? わしに頼みはるということは、もしやこれでっか」
峰松は片手で口を塞いだ。暗殺という意味である。
「ん?」
森岡は首を傾げた。薄々はわかっていたが、言葉にして確認する必要があった。
「命(たま)を取るんでっか」
峰松の眼が鈍く光った。
「いえいえ。そこまではお頼みしません」
森岡は激しく首を左右に振った。
「そうですね、指の二本か、腕の一本で結構です」
「なんや。それぐらいなら、簡単なことでんがな。相手は誰でっか」
「この二人です」
森岡は数枚の写真を峰松の目前に置いた。その中には、先刻南目に見せた写真があった。
森岡から依頼を受けた伊能は、柿沢康弘の周辺を徹底的にマークした。そして、柿沢が銀座の高級クラブにおいて、二人の男と密談する場面を目撃した。伊能はホステスに鼻薬を利かせて、二人の男の正体と、どうやら柿沢に金銭を要求しているらしいことを聞き出した。
その後は警視庁の知人から二人の素性に関する情報を得るなどして、この男たちが片桐瞳を強姦した実行犯である確信を得た。
余談だが、銀座の高級クラブの多くが会員制を謳い、一見客を制限している。柿沢をマークするとなれば、当然その高級クラブにも足を運ぶことになるはずと、森岡はプラチナカードを伊能に渡していた。むろん、入店のための方便であり、精算は現金で済ませていた。
「小太りの方が鷺沼幸一(さぎぬまこういち)、若い方が勝部雅春という男です」
森岡の声には怒気が滲んでいた。
「何者ですの」
「飲み屋の付けの取立てや、借金の仲介と取立て、他には地上げの手伝いなどもやっているようですね」
「極道者ですかのう」
「正式な構成員ではないようですが、全くの堅気でもありません」
「せやけど、仕事柄どっかの組の息が掛かっていますわな」
「どうやら、稲田連合系の極亜会と付き合いがあるようですね」
「極亜会? 確か石黒組の枝やなかったかな」
峰松は、記憶を搾り出すように言い、
「となりゃあ、後々面倒なことにならんように、石黒組に断りを入れとかなにゃあきまへんな」
と左手で顎を撫でた。
「そこで、一億用意しました。石黒組と極亜会には、峰松さんの裁量で話を付けて下されば、と思っています」
「一億? 本式の構成員やないなら、石黒組と極亜会に大きい方を一本ずつ、神栄会(うち)には二本もあれば十分でっけど、今回は一円も要りまへんわ」
峰松は人差し指を立てて言った。単位は千万である。
「それはまた、どうしてですか」
「例の金でんけど、五億の利息は一億で話が付きましたんや。つまり、一億は余ることになりまんな。親父はその一億も森岡はんから受け取るなと命じはったんですわ。それに虎鉄組から分捕った五千万も、結局わしが貰いましたしな」
と、峰松は決まりの悪そうな顔をした。
浜浦で森岡を襲った暴漢者は、虎鉄組の差し金と判明していた。峰松は虎鉄組に乗り込み、直談判し謝罪料として五千万円を支払わせた。
森岡は怪我一つ負ってはいない。にも拘らず、このような高額で決着したのは、言うまでもなく襲撃されたのが他ならぬ森岡だったからである。
だが、森岡は一円たりとも受け取ってはいなかった。
「では、その浮いた利息の一億もあらためて峰松さんに預けることにしましょう。峰松さんも本家の若頭補佐に昇進し、貫目も上がりましたから何かと物入りでしょう」
森岡は淡々と言った。
彼は極道組織との付き合い方と知っていた。借りを作れば取り込まれるが、金銭的な貸しがあれば等距離の関係を保つことができる。ただ、これは相手の力量にもよる。いわゆるチンピラといわれる下っ端などは、いかに貸しを作っていようと、いざとなれば仁義もへったくれも有りはしない。
――これだから、何があってもこの男は手放せん。
峰松はその意を強くしながら、
「おおきに」
にやりと笑って礼を言った。八代目の芽が息吹いた彼にとって、この先金はいくらあっても余るということはないのだ。
「しかし、いつもながら業腹でんな」
生粋の武闘派極道で通っている峰松にしては、いかにもあからさまな追従をした。これもまた、いかに森岡が彼にとって重要人物であるかの証左である。
「今回は、あるところからたっぷりと慰謝料を取り立てます」
森岡は柔和な笑みで応じた。
「あるところ」
「ええ。相手の名は言えませんが、全くの合法ですよ」
意味有り気な口調に、峰松は曰くを感じたが、それ以上の詮索はしなかった。
「そうでっか。ほなら、金は予定通り宗教法人から回して貰うことにして、一応こいつらを痛めつける理由を聞いておきましょか」
峰松が身を乗り出した。
「詳しいことは勘弁して欲しいのですが、私の女に手を出したから、ということにしておいて下さい」
「森岡はんの女ねえ……こいつらも安目を引いたの」
峰松は写真を手に取り、同情とも付かぬ言葉を吐いた。
借金を前杉母娘に押し付け、東京に逃れた勝部雅春は、しばらく夜の世界で生きていたが、灰色世界の住人である鷺沼幸一と出会ったことで転落の道を辿っていた。
「それと、お願いしたいのが、こいつらを痛め付けるとき、私の名を告げて下さい」
「名前を明かしてええんでっか」
峰松は意外という顔つきで訊いた。通常は報復を恐れて、己の存在を悟られないよう用心するものである。
「是非、そうして下さい」
森岡は強い口調で言った。
彼には、鷺沼と勝部には嫌というほど後悔の念を刻み込んでやるという怨念と共に、二人の復讐心を一手に受けようという覚悟があったのである。
「よっしゃ。そういうことなら、ついでに今後下手なことをすれば、命を取ると恫喝しておきまっさ」
と言った峰松が、一転呆れ顔になった。
「しかし、あんたはんも次から次へと忙しいことでんな」
「面目もありませんが、私が望んだものではありませんよ」
森岡は頭を掻くと、
「面目無さついでに、今すぐではありませんが、別件でもう一つお願いしたいことがあるのです」
峰松に何やら耳打した。
森岡は、菊池龍峰に対しても苛烈な報復を決意していた。
自身や神村に何か実害があったわけではない。それどころか、十億円という巨費を投じたとはいえ、天山修行堂の敷地を手中にしただけでなく、次期法主が内定している総務清堂や将来が嘱望されている景山律堂とも知己を得ることができた。
森岡にとっては、まさに災い転じて福と為した格好だったが、それはそれとして卑劣極まる菊池が許せない性分なのである。
彼の頭を真っ先に過ぎったのは、岩清水老人から紹介された『松平』と名乗った男である。岩清水に仲介の労を取ってもらい、松平と再会することになった。
松平は待ち合わせ場所として、東京駅・八重洲側出口の正面に建つ、八重洲観光ホテル一階ロビーの喫茶店を指定してきた。
森岡は、その喫茶店に一歩足を踏み入れた途端、異様な気配に鳥肌が立った。神栄会の事務所で受けた威圧感にも似た、一種独特な雰囲気なのである。
森岡は、その正体が何であるかすぐにわかった。松平が到着するまでの間、さりげなく、しかしつぶさに周囲を観察したところ、微かに洩れ聞こえる会話の端々に『詐欺話』の臭いがしたのである。
彼らが発した『山林を担保』、『未公開株の売買』、『手形の割引』といった言葉は、いずれも真っ当な経済用語ではあるが、これらを口にした連中が、どうみても堅気の人間には見えないのである。この喫茶店はアングラ経済活動の巣窟なのだ、と森岡は理解した。
納得と同時に、森岡は少し自己嫌悪に陥った。隣のテーブルに座った蒲生亮太はもちろん、足立統万にさえも異様な視線を送った彼らが、森岡には誰一人として奇異な眼差しをする者がいなかったのである。つまり彼らの目には、何の違和感もない同種の人間と映ったということなのであろう。
――やはり俺も落ちるところまで落ちたか。
覚悟していたとはいえ、現実を突き付けられ、瞬時弱気の虫が湧いた森岡だったが、すぐに振り払った。
やがて、松平と岩清水が顔を見せた。そして、もう一人松平の後方から顔を覗かせた女性に森岡は目を剥いた。なんと、銀座の最高級クラブ有馬の美佐子がそこにいたのである。
「き、君は……」
開いた口が塞がらない森岡に、
「お久しぶりです、森岡さん」
美佐子は楽しそうな声を掛けた。
「なぜ、君が?」
松平がにやりと笑った。
「あらためて紹介しよう。私の娘、桜子(さくらこ)だ」
「ええ!」
森岡の声が辺りに響いた。
隣のソファーにいた蒲生と足立だけでなく、周囲の注目が一斉に森岡に集まった。
森岡は四方に軽く頭を下げた後、
「大変失礼しました」
と額の汗を拭いた。
美佐子の本名は児玉桜子、松平改め児玉久孝(ひさたか)の実娘だという。
だが、児玉が愛娘に詐欺の片棒を担がせたことは一度もなく、森岡と同様、夜の世界での情報収集役に留めていた。
「銀座のクラブでお会いしたようですな」
「はい」
「私があまりに貴方を誉める上げるものですから、悪戯心が湧いたようです」
「何か裏事情があるとは思っていましたが、まさか松平、いや児玉さんのお嬢様だとは思いも寄らぬことでした」
「貴方を品定めするなんて、不躾なことをしてごめんなさいね」
美佐子はぺこりと頭を下げた。
「それはどうでも良いけど、あの夜君を口説かなくて良かったよ」
森岡は安堵したように言った。
「私としては、そういう関係になってくれた方が良かったのだがね」
児玉は本音とも冗談とも付かぬことを言うと、笑顔を折り畳むようにして、
「さて、私に用があるということだが」
と用件を問うた。
森岡の表情に緊張が奔った。
「是非、児玉さんのお力をお貸し願いたいのです」
「私に願い事を……地獄に落ちることになりますが、その覚悟はありますかな」
児玉は森岡を見据えた。
「もちろんです。もう大概落ちています」
森岡の揺るぎのない声に、
「ならば、お聞きしましょう」
と、児玉は静かに言った。
森岡は一呼吸間を置いた。
「単刀直入に申し上げます。菊池という坊主を騙して頂きたい」
「菊池? 鹿児島の菊池上人かね」
岩清水が口を挟んだ。
「そうです。奴がいては、この先神村先生に害を成します」
「何かあったようだね。神村上人の本妙寺貫主就任の遅れと関係があったのかな」
「ええ。ですが、詳細はご勘弁下さい」
森岡は、岩清水の目を見据えて言った。
「わかった。これ以上何も聞くまい」
岩清水はそう言うと、
「松っちゃん、どうだね。協力してやってくれないかね」
と偽名の方を呼び、児玉に軽く頭を下げた。
「しかし、その菊池とやらを奸計に嵌めるといっても、何か材料が無ければどうにもなりませんが」
「その点は、私に考えがあります」
森岡は、菊池を落とし入れる計略を披歴した。
じっと考え込んでいた松平は、
急に、ははは……と高笑いした。
「どうやら、あまりに稚拙だったようですね」
森岡は顔を赤らめた。
「いやあ、申し訳ありません」
松平は笑いを消し去ると、
「全くその逆です。岩清水さんから話を伺い、また先日直接お目に掛かって、私なりに貴方の能力を量ったつもりでしたが、いやはや恐れ入りました。貴方は詐欺師の素養もお有りになる」
と言ったものである。
「では、お力添えを願えますか」
「もちろんです。一週間ほどお持ち下さい。詳細な計画を練ってきます」
松平は、獲物を狙う蛇のような眼つきで請合った。その眼光の色は、神栄会の峰松と寸分違わぬ同種のものである。
「お礼ですが、一億で足りますか」
「一億? ははは……」
松平は再び哄笑した。
「なんとまあ、太っ腹な……貴方はきっと」
松平は言い掛けて、
「いや、止めましょう。それにしても貴方は実に楽しい人だ」
と言葉をあらためた。
「楽しい?」
森岡は首を傾げた。
「そう、貴方を見ているとこちらが心躍る思いになる」
そう言った松平は、
「一億は結構です。その代わりと言っては何だが、娘の願いを叶えてやってくれると有り難い」
と、桜子に視線を送った。
「桜子さんの願いとは」
「詳細は、この後本人から聞いて欲しいのだが、ともかく一週間後にお会いしましょう。そのとき、メンバーも紹介します」
そう言い終えると、児玉と岩清水は立ち去って行った。
「じゃあ、君の願いというのを聞こうか」
「彼女にして頂戴」
桜子は開口一番に切り出した。
「だから、それは出来ない相談なんだ」
森岡は困惑顔で断った。
「そういう顔も魅力的ね」
桜子は、森岡を弄ぶかのようにどこまでも不敵である。
「年上をあまりいじめるなよ」
とうとう森岡は降参する仕種までした。
「冗談よ、冗談。実は、ビジネスパートナーになって欲しいの」
「ビジネス、とはどのような」
「当面はホステスの派遣会社だけど、先々はモデル、イベントコンパニオンの派遣や芸能界のプロダクションも考えているの」
「芸能プロダクション……」
森岡の目が反応した。
「面白そうだね。それでいくら出資したら良いのかな」
「いくら出せるの」
「望みのままに……」
「じゃあ、三億」
「了解」
森岡は即諾した。
「呆れた。貴方の頭の中には、疑うとか躊躇うという言葉は無いの」
「五億なら、迷ったかもしれないな」
森岡は笑った。
「三億も冗談。父に提示した一億で良いわ」
「一億なら出資でなくても良い。君にあげるよ」
「それは困るのよ」
「困る? どうして」
「私みたいな小娘が、一億円の大金を元に事業を始めたとなると、もし税務署に目を付けられたりしたら、厄介なことになるわ」
桜子は税務署の目が何かの拍子に、父である児玉久孝に向くことを恐れているのである。森岡の事業出資であれば、誰も疑うことがないというわけであった。
「そういうことか。じゃあ、二億にしよう。その代わり一つ頼みがある」
「あら、一億の頼みって何かしら」
桜子は目を輝かせた。
「タレントの卵を一人預かって欲しい」
「タレント?」
桜子の顔から喜色が消え去った。
「いったい、どういう女の子なの」
「おいおい、俺は女だなんて言っていないぞ」
「じゃあ、男なの」
棘のある声である。
「いや、女だ。しかも、台湾人」
「なっ、台湾人……いつの間に」
桜子は女性特有の勘で、森岡が関係を持った女性だと察した。言い様のない嫉妬で心が搔き乱れたが、表面上は冷静を装った。
森岡は天礼銘茶社長の林海偉の招きで訪台し、彼から依頼されたことを話した。沈美玉という台湾の美少女コンテストで優勝し、歌とダンス、そして芝居のレッスンを受けている最中だが、一月後に日本に呼び寄せ、それらの熟練度を高めるつもりであることを告げた。また、彼女の写真も見せた。
「いくつなの」
「十七歳になったばかり」
「日本語は」
「日常会話程度なら問題ないが、これも日本で徹底的に習得させるつもりだ」
「デビューは何時頃を予定しているの」
「彼女次第だが、早ければ一年後、遅くても二年後にはデビューさせたい」
「この写真と話を聞いた限りでは、私のプロダクションの第一号タレントしては勿体ないくらいの女の子ね」
「どうだ。引き受けてくれるか」
「貴方が後援するのでしょう」
「表には出ないが……」
と顎を引いた。
「じゃあ、引き受けない法は無いけど、私で良いのかしら。もっとメジャーな事務所に入れた方が確実にスターダムにのし上がれるのじゃないのかしら」
「俺もそう勧めたのだが、本人が小さな事務所の方が良いって言うんだ」
「たしかに小さい事務所の方が貴方の意志は通り易いわね」
桜子は嫌味を滲ませて言った。
「俺は口出しする気はない」
「一度彼女に会わせてくれない。それから返事させてもらうわ。それで良いかしら」
「もちろんだ。じゃあ、詳細な事業計画書を提出してもらえるかな」
「一週間後に用意しておくわ」
芸能事務所はともかく、彼女の計画は森岡にとっても悪い話ではなかった。児玉久孝が、愛娘でありながら情報屋として使っているほどである。桜子は情報収集の能力に長けているのだろう。その彼女が、ホステスの派遣業をするということは、諜報活動の範囲が広がることを意味している。
「そうだ。お土産があったわ」
「お土産? 鴻上のスポンサーがわかったのかい」
「さすがに察しが良いわね」
「それで、誰だ」
「吉永という飲食店の女性経営者よ」
「吉永? 吉永幹子か」
森岡の声が上ずった。
「知っているの」
「ちょっとした因縁がある」
――吉永幹子か……これで筧克至の関与は疑いようもない。
森岡の表情に暗い影が射した。
「そんな顔、初めて見たわ」
「引き続き、情報収集を頼めるかな」
「いいわよ。でも、これ以上何を調べるのかしら」
「鴻上と吉永の背後にいる人物を探ってくれないか」
「吉永という女性がスポンサーじゃないの」
「金は彼女が出したのかもしれないが、どうも後ろで二人を操っている人物がいるような気がするんだ」
「考え過ぎじゃない」
「そうなら良いが、何となく胸騒ぎがする」
森岡は不安な心情を吐露した。
「わかったわ。鴻上さんには正直に打ち明けて許してもらったから、それとなく聞き出してみる」
「だけど、決して無理をするなよ。俺の勘が当っていれば、身の危険だって有り得る」
森岡は慎重のうえにも慎重を期するように桜子に忠告した。
京都大本山本妙寺の新貫主選出の合議まで一か月半と迫っていた頃、鹿児島市冷泉寺の住職菊池龍峰の許へ一人の来客があった。
冷泉寺の檀家役員且つ護山会会長の柚原幸宣(ゆずはらゆきのぶ)である。護山会の会長であれば日常の光景なのだが、この日山門を潜った柚原には緊張の面が看て取れた。
柚原は、菊池にとって耳寄りな話を持ち込んだ。東京に住む彼の知人から二億円を寄付したいという申し出があったというのである。
菊池は喜色を隠し切れなかった。
ことさら彼が心を躍らせたのには理由があった。このとき菊池は、ある本山の貫主就任へ向けて確かな足掛かりを掴んでいた。
森岡の介入によって『天山修行堂を我が物にし、天真宗の裏支配を……』との野望が潰えてしまった菊池龍峰は、すぐさま表世界での出世へと方針転換していた。したがって、金ならいくらあっても邪魔にならない彼にとっては、まさに棚からぼた餅の瑞兆話だったのである。
いま一度説明しておくが、別格大本山法国寺以外の、大本山や本山の貫主人事は、基本的に現貫主の腹一つで決まる。
常套なのは、後継者を執事長の職に据え、その者を後継とする旨の書類を総本山の宗務院に提出し、承認を得る方法でる。八割方がこのケースに当てはまる。
現貫主の急逝などによって、宗務院の定めた書類の提出ができない場合でも、遺言書などの公文書に後継者の名が記載されていれば、就任へ向けての有力な支援材料となるが、それも無い場合は本妙寺での神村正遠のように関係各位の署名・捺印が必要となる。
ただし、神村の例を挙げるまでもなく、思惑が絡み合う関係各位の推薦状を得るのはなかなかに難しく、結局のところは合議、引いては選挙投票ということになるのが大方であった。
菊池龍峰は、現在大本山や本山の執事長の職になかったので、彼が貫主になるためには、選挙に立候補し、当選を勝ち取る場合に限られるのだが、いま菊池はその戦いの渦中にいたのである。
一ヶ月前、宮崎県高千穂にある本山華法寺(かほうじ)の大平落(おおでらおとし)貫主が、九州南部を襲った地震の被災により、急逝してしまった。大平落は貫主になって僅か一年。執事長には、長年親交のあった弟弟子を据えていたが、彼は荒行を三回しか達成しておらず、貫主就任の資格がなかった。
神村の場合は有資格者であったから、関係各位の署名・捺印の有無という段階を踏んだが、今回の場合は即時選挙という運びとなった。しかも、立候補の受付期間は一ヶ月間という短いものだった。
締め切り一週間前の時点では、立候補者は一人であった。長崎に自坊を持つ、七十代後半の老僧である。しばらく様子を窺っていた菊池は、他に手の上がる気配がないことに、この老僧が相手ならば勝算有りと踏んで、華法寺の貫主就任選挙への出馬を決めた。
全国に三十九寺ある本山のうち、九州地区には五ヶ寺しかなかった。そのため、貫主選挙に限り、中・四国地区を組み入れて実施されていた。すなわち、中国地方の三ヶ寺と四国地方の二ヶ寺を合わせた十ヶ寺から、当該の華法寺を除いた九ヶ寺の貫主の合議、または投票によって決することになったのである。
菊池の自坊冷泉寺は間違いなく肉山であった。
室町時代の前期に、領主である菊池家の一門が出家して開山された当寺は、代々領主の手厚い庇護の許で多くの信者を集め、繁栄の礎を築いた。
敷地は八千坪もあり、本堂、歴代住職の霊廟、多宝塔の他に、参拝客の宿坊までが建立されるなど、地方の末寺にしては異例の壮麗さを誇っていた。現在でも、檀家数は千五百を有に超え、葬礼などによるお布施で潤っていた。
そのうえ、森岡から搾り取る金が計算できる。札束戦に持ち込めば、菊池の優勢は明らかであった。だからこそ、菊池は景山が持ち込んだ『アメ』の話を断ったのであり、二億円でも十分と、森岡の減額提示もすんなりと受け入れたのである。
ところが、菊池龍峰にとって想定外のことが起こる。
締め切りの前日、忽然として仙台市北竜興寺の弓削広明(こうめい)が、貫主の座に名乗りを上げたのである。広明は弓削広大の実父である。
この難敵出現の背後に、森岡洋介の影があるのは明白であった。森岡が、宝物の件の意趣返しのために、弓削広明を担ぎ出し、自身の行く手を阻害しようとしているのだと、菊池にも容易に想像できた。
客観的に見れば、菊池龍峰の優位は揺るがなかった。
戦いの舞台が、他所者の弓削広明とは異なり、菊池の御膝元である九州の中でも、さらに地下(じげ・地元)ともいえる高千穂の本山だったからである。
また、九州地区寺院会副会長の地位を利用した政治活動が可能であるし、さらに大平落前貫主が、様々な会合において菊池を高く評価する発言をしていたことは、九州、中国、四国の各本山にも届いていた。
心証からすれば菊池の優位は疑いようがなかった。
だが、それでも当の菊池龍峰は相当の苦戦を覚悟した。
その資金力もさることながら、森岡の智力が尋常でないことは、東京目黒澄福寺貫主の芦名泰山説得の際に痛感していた。
しかも、法国寺の宝物紛失の一件で、影の法主の久田帝玄だけでなく、次期法主の藤井清堂までを味方に付けていることが判明した。それはつまり、此度の選挙と直接には関係なくとも、全国九ヶ寺の大本山の貫主たちまでが、彼の手中にあると見なければならないのである。
まして、弓削広明の嫡男である広大は、青年僧侶の全国組織・妙智会の会長である。妙智会の力は、総本山宗務総長の永井大幹を通じて、総務清堂に圧力を掛けたことでも実証済みだった。
菊池の不安は止まることがなかった。その不安を払拭するために、菊池は喉から手が出るほど金が欲しかった。森岡から毟り取った二億円では足らないと焦った。
その焦りが、彼の冷静な判断を少しずつ狂わせて行った。
東京のJR山手線・有楽町駅前のテナントビル六階に、『朝比奈法律事務所』という弁護士事務所がある。
いま柚原幸宜は菊池龍峰を伴い、その事務所に入って行った。中に入ると、事務員らしき妙齢の女性が応対した。薄化粧で清楚な身形ではあったが、目鼻立ちの整ったなかなかの美形である。
事務所は十坪ほどであろうか。応接室は、左右に離れて二部屋あった。会話の内容が漏れないようにするためであろう。
「先客が有りますので、少々お待ち下さい」
透き通った声でそう言い、頭を下げたときに垣間見えた白く豊かな谷間が、菊池の眼に艶めかしく映り込んだ。
菊池は思わず舌なめずりをした。彼の好みの女性だったのである。
菊池は好色家だった。彼に限らず、僧侶しかも高僧になればなるほど、その傾向が強いように思われる。
煩悩を避けるための厳しい修行は、まま命懸けであるため、皮肉にも種の継承という本能が働くためであろう。
好色とは違うが、あの神村でさえ千日荒行達成後に妻帯したほどであるから、他は推して知るべし、である。僧侶にとって、とかく昨今は女人を遠ざけることの難しい時代になった証左ともいえた。
「お待たせ致しました」
と言って、六十絡みの男性が部屋に入ってきた。見るからに人品卑しからざる風体である。受け取った名刺の肩書きには、
「東京第一弁護士会副会長、朝比奈慶一郎」
とあった。
弁護士一人、男女事務員一人ずつの小さな事務所ではあるが、その貫禄から相当な実力者と看て取れた。
朝比奈が詳細に説明した。
「寄進を申し出ておられるのは、私が顧問をしております、舛森不動産という会社の舛森社長です。社長は、あのバブル時代に大儲けをなさり、手際良く手を引かれたため相当な資産をお作りになったのですが、最近になって罪の意識に苛まれるようになられましてね。いえ、バブルのときには、ときに地上げなど、それなりに阿漕なこともされていたようですので……そこで、贖罪のおつもりで寺院に寄付を、と思い立たれたのですが、何分親しい寺院など無く、そこで知人の柚原さんに相談されたという経緯なのです」
言い終えると、朝比奈は柚原に視線を送った。
「舛森とは東都大学時代からの友人でしてね。今でも年に二、三度は会食をする仲なのです。何時だったか、私が護山会の役員をしていることを話したので、それを憶えていたのでしょう」
柚原が補足した。
「なるほど、良くわかりました。これも御仏様のお導きなのでしょう。有難くお受け致します」
菊池は合掌しながら、いかにも慇懃に言った。
「ところで、一つだけ条件があるのです」
朝比奈が頃合を計ったように申し出た。
「条件?」
菊池の目が鋭くなった。
「受取書は白紙でお願いしたのです。いえ、金額ではありません。受領項目の欄です」
「受領項目とは?」
「先方の会計上の都合です。何分、昨今の税務署は使途不明金についてなかなかに厳しいものがありましてね。有らぬ疑いを掛けられないために、どうしてもとの枡森社長のご要望なのです」
朝比奈は事務的に言った。眉一つ動かさずに言ったが、
――はて、面妖な。
と、菊池は訝った。自身が署名捺印をするのに、それを確実にとはいかなることであろうか。
「無理なようでしたら、この話は無かったことになりますが」
菊池の心中を看て取った朝比奈が、軽い催促をするように言った。
「少々時間を頂戴できませんか。明日にでもご返事致します」
やや間を置いて、菊池が願い出た。
さすがに菊池である。ふと、胡散臭いものを感じた彼は、ホテルに戻ると、さっそく自坊に電話を入れた。若い執事に、インターネットで『弁護士・朝比奈慶一郎』と『舛森不動産』を検索させた。
その結果、朝比奈慶一郎も舛森不動産も実在した。
東京第一弁護士会のホーム・ページには、たしかに朝比奈慶一郎は東京第一弁護士会の副会長であり、事務所の所在地も一致した。そして、何よりもFAXで伝送されてきた顔写真と、事務所で会った人物との面相が一致していたことに、菊池はほっと胸を撫で下ろした。
また、舛森不動産のホーム・ページにも、事務所において朝比奈や柚原が説明した内容と同一の情報が記載されていた。もっとも、こちらの方は個人会社のホーム・ページであるから、丸ごと信用することはできないが、仲介に入る弁護士が間違いないのであれば、自ずと信用に値した。
菊池は、その日の夕方に寄付を受けるとの連絡を入れた。
その夜、二億円の寄付話が纏まった菊池は上機嫌だった。
朝比奈弁護士に承諾の連絡を入れた後、折り返し舛森本人から夕食を共にしたいとの連絡が入った。柚原も同席し、三人は銀座の高級寿司店『六兵衛』で夕食を済ませ、すずらん通りにあるクラブ『若菜』に繰り出していた。
広さは十五坪ほどの、こじんまりとした店ではあったが、八名のホステスは粒ぞろいで、いずれも最高級クラブに勤めていてもおかしくはないほどの、いわゆる上玉ばかりだった。
菊池が目を剥いたのは、その中に朝比奈弁護士事務所の女性事務員がいたことである。
彼女は源氏名を『公佳(きみか)』と名乗った。濃い目の化粧と、胸元の開いた白いドレスで着飾った彼女は、抜きん出て目を引いた。公佳は、昼間の仕事だけでは生活が苦しいので、週に三日店に出ているのだと説明した。
菊池を上機嫌にさせていたのは、寄付のことだけではなかった。この上玉ぞろいのホステスの中から気に入った女性を持ち帰って良いと、舛森から耳打ちされていたのである。
はたして菊池は、公佳を連れてホテルに戻った。
「舛森社長というのはどういう人かな」
菊池は、さっそく公佳に探りを入れた。寄付話を疑っているのではなく、今後の皮算用を弾いているのである。
「お上人はご存じないの?」
「今日会ったばかりでの。あまり良く知らんのだ」
「もの凄い大金持ちで、ママのパトロンなのよ」
「そう言えば、ママは大変な美人だったのう。あれだけの女性を口説いたとなると、相当に金を使ったのだろうね」
「これぐらいじゃないかしら」
公佳は三本の指を立てた。
――うむ。それならば、今後の援助も当てにできるかもしれない。
愛人に三億円も使うほどの資産家であれば、と菊池は内心ほくそ笑んだ。
「さて、君は決まった男はおるのかの」
如何せん、このあたりは世間知らずの坊主である。仮に居ても、彼女が『居る』と言うはずがないのに、下らない事を訊いてしまう。
「居たら、こんなところに着いてくるはずないじゃない」
公佳は艶めかしい眼つきで答えた。
「では、ときどきこうして会ってくれるかの」
「お手当てを弾んでくれるのなら」
公佳は思わせ振りに菊池の胸を人差し指で突いた。
翌日の昼、柚原と朝比奈がボストンバッグを一つずつ携えて、菊池の部屋を訪ねてきた。
菊池は現金を検めると、白紙の受領書に署名捺印をした。昨日の話では、そこで終わりのはずであったが、朝比奈弁護士が、また妙なことを言い出した。
『捨印が欲しい』
と言うのである。
菊池は再び、はて? と思った。
なるほど、契約書などでは訂正を予測して欄外に印を押しておくが、受領書にも捨印を押すことがあるものだろうか、と疑念を抱いた。しかも、受領書ではなく白紙の用紙に捨印までするといった話は耳にしたことがない。
「どうされましたか」
朝比奈がやんわりと催促した。そのにこやかな表情には、一点の陰りもないように見える。
――朝比奈も舛森も確認した。間違いはない。ここにきて二億円を失うことはできない。
森岡洋介の影に怯える菊池は、現金の束を見せ付けられ、目の前の金を逃すのがことさら惜しくなった。人の心理、弱さである。
「わかりました」
とうとう朝比奈の言うがままに、菊池は二枚の白紙に署名捺印をした。
意気揚々と鹿児島に戻った菊池は、さっそく投票権を持つ九ヶ寺の貫主のうち、事前面談で感触の良かった六名に連絡を入れ、面会の日時を決めていった。
一人、二人と面会し、確実な支持を取り付けて行った菊池だったが、三人目あたりから妙な事に気付いた。三人とも弓削広明、あるいは森岡洋介からの接触は無いというのである。
――なぜだ?
菊池は疑心暗鬼になった。彼は、法国寺の一件での森岡のやり様を見ている。尋常ではないその智略に舌を巻いたものである。それが何の動きも見せてはいないのだ。
支持を表明していた六人との面談を終えた菊池は、森岡が一切の動きを止めていることに言い知れぬ不安を覚えた。
――あの男は、いったい何を考えているのだ。
菊池の胸は、得体の知れない不安で塞がっていった。
そのような菊池の許に、目を疑う書類が郵送されて来た。東京の弁護士事務所から届いた郵便物の封を開けると、中には冷泉寺敷地の売買契約書が入っていたのである。 瞬時、いかなる次第か理解できなかったが、そのうち悪寒に身体が震え出した。
菊池は、何かの間違いだと自身に言い聞かせて、朝比奈から貰った名刺の電話番号に掛けてみた。
「はい。朝比奈法律事務所です」
若い女性の声だった。一夜を共にした公佳だと思い、
「わしだが」
と言い掛けて、菊池は口を噤んだ。どこやら、公佳とは違う声のような気がしたのである。
「菊池と申しますが、朝比奈先生はいらっしゃいますか」
菊池は言葉をあらためた。
「少々お待ち下さい」
女性がそう言うと、しばらくして、
「弁護士の朝比奈です」
と少し甲高い男性の声が伝わった。先日の、野太い声とも違う気がした菊池は、波打つ動悸に胸の痛みを覚えた。
「先日お会いした鹿児島・冷泉寺の菊池です」
「鹿児島の冷泉寺? 菊池さん……お会いしたことがありませんが」
男は訝った声で返した。
「先週の土曜日、そちらの事務所でお会いした菊池ですが」
「先週の土曜日は学会で名古屋へ行っておりました。失礼ですが、何かの間違いではありませんか」
「確認させて頂きますが、東京第一弁護士会の副会長をされている、朝比奈慶一郎弁護士さんですよね」
「そうです」
「事務所は有楽町駅前のビルの六階ですね」
「良くご存知で」
「では、先週の土曜日、たしかにお会いしたはずですが」
菊池は、弱々しい声でもう一度確認した。
「いいえ。何度も言いますが、先週の土曜日は休日にしましたので、事務所は閉めておりました」
男は語気を強めた。有無を言わせぬ口調には、これ以上の押し問答は無用との意が込められていた。菊池はなす術も無いまま、携帯を切らざるを得なかった。
菊池は、続いて舛森にも電話をした。こちらは舛森本人が出たものの、確かに売買契約を交わしたと、強く主張した。むろん、菊池が受け取った売買契約書と同じ書類を所有していることも付け加えた。
――やられた……。
菊池は、鉈で脳天を割られたような痛みを感じた。
――詐欺か……仕掛けたのは、おそらく森岡……道理でいっこうに動きを見せないはずだ。
菊池は、絶望の淵に立たされていることを理解した。
『あの森岡が仕掛けたことなら、抜かりはないだろう』
ということである。
だが、次の瞬間、別の想いが過ぎった。
――柚原はどうなのだ? もし詐欺であれば、柚原が証人になってくれるのではないか。
柚原は『善意の第三者』の立場にある。双方の主張が食い違えば、柚原の証言が決め手となるはずであった。
それに、そもそもこの寄付話を持ち掛けたのは柚原である。
菊池は藁をも掴む想いで、柚原に連絡をした。
一時間後、駆け付けた柚原に、
「柚原さん、これを見て下さい。寄付と言いながら、売買契約書の写しが送られて来た。どうやら詐欺に遭ったらしい」
と縋るように言った。だがこのとき、菊池は柚原の冷酷な目を見た。
「お上人、何を言っておられるのですか。間違いなく貴方は売買契約書に署名、捺印をされたではありませんか」
柚原は、能面のように表情一つ変えていなかった。
――そういうことか……。
菊池は脳天を割った鉈が、そのまま背を切り裂き、身体を真っ二つにされたような絶望感に襲われた。
「貴様、俺を嵌めたのか」
菊池は、柚原の胸元を掴み、食って掛かった。だが柚原は、高校、大学時代と柔道をしていた強靭な肉体の持ち主である。柚原は、いとも簡単に菊池の手を払い退けた。
悄然として、その場にへたり込んだ菊池は、唇をきつく噛み心の中で呻いた。
――柚原には、決して気を許してはいけなかったのだ。
売買契約書には、
売主・菊池龍峰。
買主・舛森不動産。
と明記してあり、仲介した朝比奈慶一郎なる人物の痕跡はどこにもなく、売買契約書を作成した弁護士は別人だった。この状況で、柚原と舛森が売買契約だったと主張すれば、菊池に勝ち目はなかった。
人間の欲というのは恐ろしいものである。
世の中の詐欺という詐欺はすべからくこの欲があればこそ成立する。人の心に欲という業(ごう)がなければ、およそ詐欺など有り得ない。
これまでも金、ゴルフ場、ブランド牛、未公開株、海外投資など巨額のペーパー商法詐欺が摘発されてきた。然るに、同じ手法の詐欺によって被害を受ける者が後を絶たないのはなぜか。テレビや新聞で盛んに報道されているのに、簡単に引っ掛かるのはなぜか。
ニュース報道は埒外だからである。
詐欺報道を見て、あるいは読んで『必ず儲かるはずがないだろう』と、むしろ被害者の方に侮蔑の目を向けるのは、実際にその詐欺の儲け話に直接触れないからである。
ところが、自分はこのような幼稚な詐欺には引っ掛からないと自信満々だった者が、傍目からは実に怪しい投資話にまんまんと引っ掛かってしまう。詐欺を見分ける嗅覚が消え失せ『ようやく自分にもツキが回って来た』などと、都合良く解釈してしまう。
これ全て、欲のなせる業(わざ)なのである。
菊池龍峰は荒行を六度成満している。言わば、人間に百八あると言われる煩悩を消し去ったはずの高僧である。にもかかわらず、欲に塗れたために森岡の罠に落ちたのである。
いや、むしろ高僧なればこそ、余計に欲が湧くのかもしれない。修行を積めば積むほど己の才を確信し、精神の高みを意識する。そして、自分ほどの者がなぜ今のような低い地位に屈しているのか、社会的低評価に甘んじなければならないのかという妄念を抱いてしまう。
その妄信を打ち消すには、さらなる修行が肝要なのだが、その先に向かう者は少なく、菊池のように堕落の道に逸れてしまうのだろう。
柚原幸宣、五十八歳。彼の生家は、代々檀家総代や護山会の役員などの要職を務めるなどして冷泉寺を支えてきた、鹿児島の名家柚原本家であった。
この柚原幸宣と菊池龍峰の間には、奇しき因縁があった。
実は三十八年前、幸宣の父と冷泉寺の先代住職との間で、将来柚原家の次男幸宣を冷泉寺の一人娘の雛子(ひなこ)と妻わせて、後を継がせることで話がまとまっていた。幸宣自身も前向きに捉え、東都大学から天真宗宗門の大学へ転学するつもりでいた。
寺の年中行事などで、父に従って再々冷泉寺を訪れていた幸宣は、決して美形とはいえないが、優しげな顔立ちに、テキパキと雑用をこなす高校生の雛子に好意を抱いていたのである。
ところが、正式な婚約の直前になって思わぬ横槍が入った。菊池龍峰の生家・総本山の名門宿坊の一つ『蓮(はす)の坊』の時の住職が、三男龍峰を雛子の婿にと、強引に押し込んできたのである。
冷泉寺の先代は、思わぬ事態に苦悩した。長年に亘って自坊を支えてくれた有力支援家と、総本山の名門宿坊との板挟みになり悩み抜いた。
だが、最後は名門宿坊を選択した。というのも、室町時代に開山された冷泉寺は、その長い歴史の中で、蓮の坊とは度々養子縁組で結ばれていたからである。言うまでもないが、明治時代以前の養子縁組は婚姻を伴っていない。
柚原幸宣は、名門宿坊の横暴という、この世の理不尽さに打ちひしがれた。そのとき味わった挫折感が、澱のように彼の腹の奥底に横たわっていたのである。いや、もしかすると本人は忘れ去っていたかもしれなかったが、その燻った怨念を煽った者がいた。
森岡洋介である。
菊池も、自身の婿入りの経緯は知っていた。知ってはいたが、何のわだかまりも見せぬ柚原に、いつしか気を許してしまっていたのだった。
時間は少し遡る。
菊池龍峰を罠に掛ける決意をした森岡は、まず真っ先に榊原壮太郎に会い、菊池個人と冷泉寺の調査を依頼した。その結果、菊池が本山華法寺の貫主就任への野心を知った森岡は、続いて投票権を持つ九州、中国、四国の九ヶ寺の腹の内も調べさせた。
その調査報告を受けて、森岡は、華法寺貫主への野心を逆手に取り、菊池を奈落の底に叩き落す計画を練った。
仙台市北竜興寺の弓削広大の実父・広明を対抗馬に担ぎ出し、強敵の出現で危機感を煽る。同時に自身の存在を知らしめ、物量戦の様相を臭わせることにより、菊池にさらなる資金調達の必要性を迫る。焦った菊池の目の前においしい餌をぶら下げ、飛び付いたところで足元を掬うという計画だった。
首尾よく児玉久孝から協力の確約を得た森岡は、次いで仙台に弓削広大を訪ねた。
「一瞥以来です」
森岡は丁重に頭を下げた。かつて、久田帝玄の醜聞の件で協力を仰ぎに訪れたことがあった。
「何かありましたか」
弓削は心配気に訊いた。
「実は……」
と、森岡はこの間の事情を掻い摘んで話した。
「うーん」
弓削は腕組みをしたまま沈思した。
彼は久田帝玄と菊池龍峰の軋轢を何も知らなかった。したがって、帝玄の法国寺晋山式の後、神村の本妙寺貫主就任の報が伝わらないので不審に思っていた。だが、その彼にしても、まさかそのような事態に陥っているとは思いも寄らないことだったのである。
「今度は私に何をせよ、と」
弓削は緊張の面で訊いた。
「ご尊父、広明上人に九州の華法寺の貫主へ立候補して頂くよう、説得をお願いしたいのです」
「えっ? 私の父が……」
切れ者の弓削も言葉に詰まった。
広大の父弓削広明は七十八歳。天山修行堂で六度の荒行を積み、昨年まで仙台市にある本山勝持寺(しょうじじ)の貫主を務めていた。したがって、格上の大本山か京都の本山であればともかく、同じ地方の本山では気が進まないと推察された。
「しかも、立候補をお願いしておきながら恐縮ですが、私は一切助力致しません」
「はあ?」
にべも無い森岡の言葉に、弓削の頭は混乱していた。森岡が資産家であることは承知している。神村のためであれば、それを惜しみなく使うことも知っている。その彼が父を担ぎ出しておいて、一切協力しないとはどういうことなのか。
「無礼千万なお願いであることは、重々承知しておりますが、もはや貴方に頼る以外手立てがないのです」
森岡は椅子から立ち上がると、床に土下座をして頼み込んだ。
「止して下さい、森岡さん。わかりました。貴方がそうまでされたのですから、何とか父を説得してみましょう」
森岡の苦衷を察した弓削は、腹を決めたように言った。
「これは迷惑料です」
森岡が、ボストンバッグから札束の塊を五つ取り出して、テーブルの上に置いた。
「いや」
弓削は遠慮した。
「ご尊父様の経歴に傷を付けることになります。この五千万はその代償ですから、此度は是非とも受け取って頂きます」
森岡は語調を強めた。
「で、では遠慮なく」
押し切られるように受け取った弓削は、実父が当て馬に利用されるわだかまりなど忘れ、心の中で呟いた。
――この男、今度はいったい何をする気なのだ。
後日、森岡の素案を基に児玉久孝が披露した計画が、朝比奈弁護士事務所を舞台にした詐欺行為であった。
森岡の、菊池を奈落の底に落とす一番の方法は、自坊の冷泉寺から追い出すことであるとの言を受け、冷泉寺の土地と建物を巻き上げることを思い付き、寄付を餌にした売買契約を考えた。
そこで児玉は、社会的信用のある弁護士に扮するべく都合の良い人物を探した。というより、すでに彼の脳裡にはある人物が浮かんでいた。
東京第一弁護士会・副会長の朝比奈慶一郎である。
肩書きも申し分なかったが、何よりその骨相から、弁護士に扮するのであれば、朝比奈慶一郎だと思っていたのである。
児玉は変装の達人であった。昨今の特殊メイクの技術と組み合わせると、遠目では本人と区別が付かないだろう。ましてや写真ともなると、見分けることは至難の業といっても良かった。運転免許証の証明写真の、あまりの違いに愕然とすることがままあるが、それに比べれば断然似ていた。
児玉の変装は顔だけではない。知識はもちろんのこと、口調や仕種においても成り切ることに長けていた。弁護士であれば法律の専門用語から、関係する条文まで頭に入れるという周到さであった。
あの日、本物の朝比奈慶一郎弁護士が名古屋へ出張していることを突き止めた児玉は、事務所に入り込んで菊池を待った。鍵を開けることなど朝飯前であり、土曜日ということで、同フロアーの他の会社が休日であることも調査済みである。
言うまでもないが、公佳と名乗った事務員の女性も詐欺仲間であり、銀座のクラブ若菜も偽装である。貸し店舗を大家と交渉して、一日だけ借り受け、ホステスは風俗嬢の中から選りすぐりを集めた。最近の風俗嬢は、芸能人並みの美形が多いので苦労はしなかった。ただし、菊池の好みのタイプが公佳であることも事前に承知していた。
唯一残った懸案が、寄付話を持ち込む人物であった。この役割は、ある程度菊池の信用を得ていて、尚且つ彼に含むものがある人物でなくてはならない。なかなかに難題であった。
児玉から相談を受けた森岡は、榊原に目的を打ち明けて――といっても詐欺の詳細は知らせていない――もう一度綿密な調査を依頼した。そこで浮かび上がったのが、柚原幸宣の過去であった。
柚原には、予期せぬ運命が待ち受けていた。
破談の後、彼は東都大学を卒業し、民間の企業に勤めたが、二十五歳のとき、兄が急逝したのである。柚原本家は九州でも有名な焼酎の酒蔵である。父は、幸宣に後継者となるよう働き掛けた。
幸宣は悩んだ。自分が柚原本家を継ぐとなれば、義姉を追い出すことになる。義姉には二歳の娘がいたため、不憫でならなかった。意を決した幸宣は、一緒にならないかと義姉に話を持ち掛けた。
義姉に否はなかった。後家が亡夫の兄弟と一緒になることは、昭和三十年代の、地方の田舎ではよくあったことである。現在と違って兄弟も多く、一旦嫁に出た者が実家に戻っても、居場所などないのである。
幸宣は後継者となる条件として、義姉との婚姻の了承を求めた。父にも反対する理由がなかった。幸宣には破談という辛い目に遭わせていたし、僅か四年ではあったが、嫁の心根の良さに好感を抱いていたことも前向きにさせた。
だがその結果、幸宣は有力支援者として、冷泉寺において度々雛子と顔を合わせることになった。
むろん、お互いに伴侶を持つ身であり、少しずつわだかまりは消えて行った。 消えては行ったが、完全に霧消したわけでもなかった。微かにではあるが、しかし沸々と幸宣の心底で燻っていたのである。
森岡は、その『鬼火』なるものを扇いだだけである。還暦間近の幸宣も、己の運命を変えた理不尽を――といっても菊池龍峰本人に罪は無いが――全てを飲み込むほど、人間ができてはいなかった。
もちろん、それだけの理由で森岡の謀略に加担しようと思ったわけではない。幸宣を決断させた決定的な理由は、平素の菊池の目に余る所業である。
たしかに彼は、荒行を六度満行し、僧正という高い僧階を得、いずれは本山の貫主にも登る逸材ではある。
しかし一方で、酒を好み、愛人が途切れることのないほど女色に溺れる姿を目にする度に、雛子の心情は如何ばかりかと、同情せずにはおれなかった。
――本山の貫主になれば、彼はますます天狗になる。その前に一度きついお灸を据えてやろう。
柚原幸宣はそう思ったのである。
雛子の心情を汲んだ柚原は、『菊池を冷泉寺から追い出さない』ことを条件に、森岡の申し出を受けた。
森岡も条件を呑んだ。彼自身も、当初はもっと手荒いことを考えていた。僧籍を剥奪されるような罪を着せるか、少なくとも冷泉寺から追放しようと思っていた。
だが、それでは野に虎を放つようなものである。執念深い菊池が、どこでどのような力を蓄え、鋭利な牙を研ぐかもわからず、その牙をいつまた神村に向けるとも限らない。そうであれば、冷泉寺という檻に閉じ込めて置く方が得策だと思い直していたのである。
静岡岡崎家での景山律堂の言ではないが、出世欲、権力欲旺盛な菊池とっては、藤井清堂、永井大幹の間、そして森岡の思惑が実現すれば、その後の神村が法主の間の三十年近くに亘り、つまり生涯要職には就けないという失望感を味わう方が塗炭の苦しみに違いなかった。
数日後、森岡は菊池龍峰に引導を渡すべく、鹿児島市の冷泉寺に菊池龍峰を訪ねた。蒲生と足立を駐車場に待機させ、弁護士と二人で中に入った。このとき、いつもは影警護を務める九頭目ら神栄会の組員の姿はなかった。
売買契約破棄の条件として、森岡は華法寺貫主への立候補辞退と、契約金の三倍返し、つまり六億円の違約金を要求していた。
宝物返還のための二億円、詐欺行為の寄付として使った二億円と、謝礼替わりに桜子の事業に出資した一億円、そして弓削に寄付した五千万円の、合わせて五億五千万円を取り戻しただけでなく、沈美玉の預け代として桜子に増額出資した一億円の半金も手当てが付く計算である。
菊池にすれば、実質的には石黒組から宝物を買い取った際の五千万円を合わせても、二億五千万円の持ち出しに過ぎなかったが、存外大きな痛手であった。菊池は投票権を持つ九州、中国、四国の九本山の内、六本山の貫主たちに、一ヶ寺あたり七千万円の布施を約束していた。当初は四千万円を提示していたが、弓削広明の出馬で三千万円増額していた。むろん、この約定は破棄せざるを得ず、彼の信用は大きく失墜したのである。
これが、彼の将来に暗い影を落とすことは言うまでもない。冷泉寺を追われることよりはましであるが、飼い殺しの状態に追いやられたのも同然だった。
柚原の護山会・会長職辞任も大きな痛手であった。いかに肉山といえども、最大の支援者を失ったのである。冷泉寺の経営にも暗い影を落とすことが目に見えていた。
ただ柚原は、冷泉寺が代替わりすれば支援を再開しようと心に決めてはいた。
尚、後日弓削広明も立候補を辞退した。
「君にはしてやられた」
菊池は意外とさばさばした表情で言った。森岡は違和感を覚えたが、
――おそらく……。
と心当たりがあった。
「所詮は器の違い。身の程知らず、とはこのことです」
森岡は穏やかな面で一刀両断した。
「手厳しいのう」
菊池は悔しげな顔を隠さなかった。
交渉は短く終わった。森岡と弁護士は、早々に冷泉寺を辞去しようしたが、蒲生と足立の待つ寺内の駐車場に赴いたとき、三台の車から七人の悪相の男たちが近付いて来た。
――やはりな。
森岡は、菊池の表情の裏を読み取っていたのである。
中から、兄貴分らしき男が近づいてきた。
「何も言わん。小切手を置いて行け」
抑揚のない低い声だった。一般人であれば、これだけで股間が縮上がるであろう。
現に弁護士は身体を震わせている。
だが、
「おたくらは、どこの組の者ですか」
森岡は落ち着いた声で訊いた。
「ほう。兄ちゃん、ええ度胸してるな。とても堅気には見えんな」
兄貴分は口元に不気味な笑みを湛えている。
「わしら、九州仁誠会傘下・坂口組の者だ」
「九州の仁誠会といえば、神王組と和解した友好団体ですね。貴方は若頭ですか」
「なんだと。利いた風な口を叩くと痛い目に遭わせるぞ」
兄貴分が恫喝した。だが、森岡が怯むことはなかった。
「痛い目に遭うのはどちらでしょうかね」
森岡の表情には余裕があった。それが兄貴分の男の癇に障った。
「堅気が極道に向かって言う台詞じゃないな。おとなしく言うことを聞いていれば無事で済んだものを……」
兄貴分は顔を後ろに向け、
「おい、少々甚振ってやれ」
兄貴分の冷徹な声が寺内に響いた。
冷泉寺は敷地が約八千坪もあり、北西の角の三百坪ほどが駐車場だった。敷地内は高い塀で囲われており、声は漏れても外から中の様子は窺い知ることができないようになっている。
蒲生と足立が決死の形相で森岡の前に出た。九頭目がいないことから、二人は身を賭しても森岡を護る気概に溢れていた。足立は近付いて来た若いヤクザにいきなり頭突きを食らわし、蒲生はもう一人のヤクザに前蹴りを入れた。
足立は育った環境から喧嘩馴れをしており、先制攻撃こそ喧嘩の常道であることを知っていたし、蒲生は元SPである。格闘には優れていた。
まさかの攻撃に、鼻骨を折られた一人は顔を抑えて蹲り、また一人はもんどりを打つかのように背中を地面に打ち付けた。
「やろう!」
兄貴分が血眼で叫んだ。
その怒声に残りのヤクザ者がいっせいに刃物を抜いた。
――やばい……。
森岡の腹部に、先の凶刃の痛みが奔った。
むろん、このときの極道たちに、本気で森岡らを刺す気はなく、脅しが主眼である。警察沙汰になれば、少々の手間賃では割りが合わないからである。
それでも森岡は極度に緊張していた。蒲生と足立が手を出してしまったことで、不測の事態を誘発する雰囲気が充満していたからである。
そのときである。
キキー、というけたたましいタイヤの摩擦音を鳴り響かせて、二台の高級外車が駐車場に乗り込んで来た。後の車のドアが開き、貫禄を極めた男が出てきた。
「そこまでや。お前ら、その人を傷付けたら、指を詰めるだけでは済まさんぞ」
ドスの利いた声が男たちの背に届いた。驚いた男たちが振り返ると、男は近付きながら、
「このこと、健(けん)は知っとるのか」
と訊いた。
「健? うちの親分を呼び捨てにしたな。お前は誰じゃ」
兄貴分が気色ばんで言った。
「われ、確か持田とかいう坂口組の若頭だったな」
男は目からサングラスを外しながら言った。
「なんだと」
と意気込んだ若頭と思しき男の顔から、見る見る血の気が失せた。
「貴方は、もしや神栄会の若頭?」
「せや。峰松や」
峰松はそう言うと、森岡に視線を送り、にやりと笑った。
彼の後方には九頭目の姿もあった。
「遅かったですね」
森岡が安堵の声で言うと、
「いや、すんまへん」
峰松は片手で拝む仕種をした。
菊池の近辺を調査していた榊原から、菊池が地元のヤクザと付き合いがあるとの報告を受けた森岡の、万が一の用心であった。
ただ友好団体とはいえ、坂口組は神王組傘下ではない。森岡は若頭補佐の九頭目では相手を威圧できない可能性を危惧した。そこで峰松重一に直々の出馬を願ったのである。
蒲生はほっとした表情を浮かべ、足立は魂を抜かれたように、茫然と立ち尽くしていた。子細を聞かされていなかった二人は、ともかく森岡を護らねばと、決死の覚悟の先制攻撃だったのである。
「峰松さん。わしらが指を詰めるだけでは済まないとはどういうことですか」
持田は腰を屈めて訊いた。
「この森岡さんとわしは、五分の盃を交わした兄弟分や」
え? と持田が目を丸くする。
「それだけやないで、寺島の親父が本家の若頭になれたんも、この森岡さんの助力があったからや。せやから、この人に手を掛けるということは、神栄会との全面戦争ということになるで、持田」
峰松が睨み付けた。持田は背筋が凍り付くような戦慄を覚えた。
さらに峰松は引導を渡すかのように、
「森岡はんは、六代目からプラチナバッジを貰うてはる」
と駄目を押した。
「プ、プラチナバッジ? で、ではこいつ、いやこの方は極道者? それも最高幹部……いったい何者なのですか」
神王組の徽章の意味を知っていた持田は目を白黒させたが、それも当然であろう。堅気がプラチナバッジを所有しているはずもないし、峰松と兄弟盃、それも五分となれば、その若さで相当な貫目ということになる。
「森岡はんは歴とした堅気さんや。だがな、持田。この人はそこいらの極道者より恐ろしい人や。わしは極道世界には、六代目と親父以外に怖い者はおらんし、まして堅気の世界などにはおるはずもなかったが、この森岡はんだけは、金輪際敵に回しとうない」
「峰松さんが」
持田は絶句した。峰松重一の名は、神王組切っての武闘派極道として通っているのである。
「持田さん。菊池からはいくらもらえますの」
森岡が涼やかな顔で声を掛けた。
「えっ」
「菊池から頼まれたのでしょう。いくらですか」
「いや、その……」
逡巡する持田に、
「正直に言いや」
と、峰松も語気を強めた。
「六、六千万です」
持田は絞り出すような声を出した。
「一割ですか。その口銭、私が払いますよ。それと、お二人の治療代もね」
「はあ?」
持田は呆気に取られた。言わば、泥棒に追い銭を渡すようなものである。
だが森岡は、
「持田さんも、手ぶらじゃ組に帰れないでしょう」
森岡は持田の面子を立てると言った。
唖然としている持田に、
「持田、森岡はんとはこういうお人や。だから怖いんや。まあ、森岡はんの言われるとおり、お前もてぶらじゃあ、下の者に示しが付かんやろ。遠慮なく貰っておけ」
と、峰松が声を掛けたものである。
「首尾良く行きましたか」
執事の案内で応接室に入ってきた持田の姿を見て、菊池が立ち上がった。
「話は纏まりました」
持田は何食わぬ顔で答えた。
「それは、ご苦労……」
と言い掛けて、後方に目をやった菊池の顔が鈍く歪んだ。
「なぜ、お前が……」
「こら、菊池。悪さも大概にせにゃ、ほんまに地獄を見せるで」
ぬっーと姿を現した森岡が、ずいぶんと伝法な声を浴びせた。事態を察した菊池の面は、見る見るうちに蒼白になった。
「てめえの考えていることぐらい、お見通しなんや」
森岡は畳み掛けるように言った。
「菊池さん。この方は、神栄会若頭の峰松さんですわ。といっても、ようわからんと思いますけど、神栄会は坂口組(うち)のような田舎のヤクザとは違い、神王組の本家本流なんですわ」
持田が説明した。
「峰松さんの親分、つまり神栄会会長の寺島さんは、先日神王組六代目の若頭になりはったんや。天真宗でいえば、総本山の総務さんの役割やな。もうわかるやろ。天真宗に照らし合わせれば、この峰松さんは宗務院の宗務総長と同じ立場のお人や」
森岡は噛み砕くように言った。だが、これは彼の方便である。
たしかに寺島は、天真宗における総務の立場に近いが、峰松は宗務院の宗務総長の立場とは言えない。仮に寺島が七代目になっても、峰松がその若頭に就くためには、相当に高いハードルを越えなければならないからである。
しかし、菊池にそのような序列がわかるはずもなく、また峰松や持田は天真宗の仕組みを知る由もない。両方を熟知している森岡ならではのはったりだった。
菊池は、わなわなと腰から崩れ落ちた。
それでも、立ち去ろうとした森岡の背に、気力を振り絞って棄て台詞を浴びせた。
「このままで済むと思うなよ」
だが森岡は単なる、
『負け犬の遠吠え』
と然して気にはしなかった。
さて、言うまでもないことだが、峰松が持田に言った『森岡との兄弟盃云々……』というのは彼の願望に過ぎない。
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