第21話 第三巻 修羅の道 交渉
故郷島根で英気を養った森岡洋介は、大阪へ戻るとさっそく神栄会の峰松重一に面会を求めた。密会場所となった大阪梅田のパリストンホテルのスイートルームには、重苦しい空気が蔓延していた。神栄会若頭の峰松は、終始険しい顔つきを崩さなかった。
森岡が蒲生と足立を伴って部屋に入って来ると、峰松はソファーから腰を上げ、深々と頭を下げた。
「森岡はん、すんません」
一緒にいた護衛役も峰松に倣った。
「いったいどうしたというのです」
森岡は驚いた目で彼らを見た。
「浜浦での失態です」
「失態?」
「暴漢に襲われたそうで……」
「そのことですか」
森岡は事情を悟ると、
「それはもう気になさらないで下さい」
と気遣った。
「そうはいきまへん。寺島の親父から境港行きを言い付かっておきながら、大変な手抜かりでした。親父には大目玉を食らいました」
「それは却って申し訳ないことでした。私としては、不審な男たちを拘束して頂いただけでも十分でしたのに……」
「いえ、念のため身辺を警護するべきでした」
峰松は歯噛みした。
「そこで相談ですが、神栄会(うち)の者を三人ほど傍に置いてもらえまへんか」
「いや、それは不味いでしょう。前にも申しましたが、お互いの関係を世間には知られたくはありません」
森岡は毅然と断った。
「せやけど……」
渋る峰松に、
「この蒲生がおりますので大丈夫です」
と、森岡は蒲生を紹介した。
「あんたはんが、窮地を救った蒲生はんでっか。足立の叔父貴から聞いておりま」
と感心したところで、峰松の眼が足立統万に移った。
「おっ、そこの若いのはたしか、その、足立のぼんやないか」
「憶えて頂いていましたか」
統万は恐縮そうに言った。
「やはり、そうか。盆に境港へ寄ったときには、ぼんはおらんかったの」
「森岡社長の許におりました」
「森岡はんの許で修行かの」
「祖父の命でこういう次第になりました」
「それは、ええこっちゃの。今も聞いとったと思うが、神王組にとって森岡はんはかけがえのないお人や。ええ人に付いたの」
峰松はにこやかに声を掛けると、
「蒲生はんと足立のぼんがいてるなら、こちらは影警護に徹しますわ」
と、有無を言わせぬ口調で宣した。
「それをもお断りはしませんが、昼間は目立たないようにお願いします」
森岡は、体よくスパイを送り込まれたと察していた。特に誰と会ったかを知られれば、大よその目的を悟られることになるだろう。だが、警護を名目にされた手前、頑なに拒むことができなかった。
峰松は黙って肯くと、
「影警護には、以前紹介しました補佐の九頭目を当てます」
「補佐? そのような幹部を、ですか」
森岡は目を剥いた。
神王組の中核組織である神栄会の若頭補佐といえば、将来を約束されたのも同然の、極道世界ではエリート中のエリートである。そのような貫目のある極道が一般人の護衛に就くことなど有り得ないことなのだ。
「こちらにも事情ってものがありますので……」
峰松は思惑有り気に言ったが、森岡はそれ以上詮索することは止め、
「ところで奴らは何者でしたか」
と話題を戻した。
「虎鉄組の者ですわ」
「しかし、虎鉄組が私を襲うとよくわかりましたね」
「森岡はん。前にも言いましたやろ、わしらがその気になれば、わからんことはないと」
峰松が胸を張った。
たしかに東京の広域指定暴力団・稲田連合が京都別格大本山・法国寺裏山の霊園開発計画を知っていたことからも、その情報網の威力を森岡も認識していた。
「なあに、森岡はんが使っている探偵が襲われましたやろ。そこからですわ」
峰松が種を明かした。
「伊能さんが襲われたことを知っておられるのですか」
森岡が眼を剥いた。
「何を驚いてはるんですか。寺島の親父が、ブックメーカー事業を森岡はんに、と思い立ったとき、徹底的に調べさせてもろうたんですわ」
峰松は事も無さげに言った。
森岡の脳裏に、いつかの、
『その気になれば、ケツの毛の数まで調べることができる』
と自慢げに言った峰松の言葉が過っていた。
「これは驚きました」
と頭を掻いた森岡だったが、眼には疑念が残っていた。
峰松は察したように、
「森岡はん。警察とは持ちつ持たれつでんがな」
と不敵に笑った。
言われてみれば、警察と暴力団には癒着の関係があった。いや、警察組織ではなく不心得な個々の警察官との癒着と、正確に言わなければならないだろう。
警察官の中には、暴力団から拳銃所持や麻薬取引の情報を得て、手柄を立てさせてもらう代わりに、警察の内部情報を漏らす不心得者がいる。
もちろん、拳銃所持や麻薬取引は『やらせ』であり、暴力団の被害は最小限に止まるように仕組まれている。
これは明らかにノルマ制度の弊害である。公務員試験合格以外の出世の道は実績を上げることだからである。また、個人だけではなく課や部、引いては署単位でのノルマがこのような暴力団との癒着や調書偽造、証拠捏造に走る警察官を産んでしまうのである。
「では警察から情報を?」
峰松は無言で肯くと、
「せやから、足立の叔父貴から東京ナンバー車の不審者が境港へ入ったという知らせを受けて、もしやと出張ったんですわ」
「それは、それは……」
森岡は頭を下げた。
「もっとも、足立家と森岡はんの生家との関係には驚きました」
森岡が故郷の浜浦へ帰省すると知った峰松は、旧知の足立万亀男に不穏な動きの情報収集を依頼をした。その際に、灘屋と足立家の交誼を知ったのだと言った。
「落とし前はどうされますか」
「金で決着を付けま。そこで相談ですが、三割貰えまへんか」
峰松は恐縮そうな顔で言った。本来であれば、この種の話は折半が応分である。だが、負い目を感じている峰松には三割でも虫が良いと思っていた。
「いえ。一円も要りません。全額峰松さんが受け取って下さい」
森岡は即答で遠慮した。
「ええんでっか」
「虎鉄組から分捕った金は使い道に困ります。影警護の費用にでも充てて下さい」
森岡は苦笑いをした。金に名前は書いてないというものの、裏社会の金である。どのような悪縁のある金かわからない。森岡はそのような筋の悪い金を表社会の活動に使う気はなかった。
「何やようわかりまへんが、おおきに」
峰松は思わず頬を綻ばせた。
「ところで」
と、峰松があらたまった。
「その件は、近々六代目に直接ご返事を致します」
森岡は峰松の言葉を封じるように告げた。
「そうでっか」
峰松はそれ以上問い質すことができなかった。ブックメーカー事業は、蜂矢六代目直々の要請なのである。
それからしばらくは、再び平穏な日々が戻った。
神村の京都大本山本妙寺の貫主就任は揺るぎないものと思われ、その恩恵で坂根好之もまた数ヶ月ぶりにゆるりとした休日を満喫しようとしていた。
新たに足立統万が加わったことで、各人の役割分担が変更された。
坂根は、極力裏社会との接触から外され、南目輝もブックメーカー事業に専念することになったため、常時森岡に従うのは蒲生亮太と足立統万の二人となった。
その日、坂根は久々に電車に乗った。
森岡の直属となり、社長車運転の役割も担っていた彼は、通勤にも車の使用を許可されていたため、電車に乗る機会から遠ざかっていた。
坂根は阪急電車千里線の北千里駅近くのマンション住んでいる。駅まで徒歩三分という利便性の高いマンションで、前職の大手広告代理店に勤めていたときから住んでいた。
夕刻に大学時代の友人と大阪梅田駅で落ち合う約束だった。梅田方面行の始発駅となる北千里駅だが、休日とあってか、行楽帰りの家族連れなどで結構な混雑となっていた。坂根は椅子には座らなかった。日頃の運動不足を解消しようと、梅田までの所要時間である五十分ほどを立っていることにしたのだ。
電車が次駅である『山田』を出発した直後だった。
若い女性が、
「先生」
と声を上げた。
近くに大学があることから、坂根は学生が教授にでも声を掛けたのだろうと思った。
「先生」
少し声が近づいていた。坂根は、自分の近くに教授がいるのだと思い、何気なく周囲に目を配った。そのとき、こちらに向かって来る女学生が目に留まった。
可憐な女性だった。
――こんな可愛い女性に声を掛けられて気が付かないとは、よほど暢気な野郎だな。
などと思いながら、坂根が外の景色を眺めていると、
女性の足音がすぐ後方で止まり、
「坂根先生」
と少し焦れたような声で呼び掛けた。
――えっ、僕?
坂根は耳を疑った。先生と呼ばれる謂れがないのだ。
坂根は奇妙な面持ちで振り返ると、その可憐な女性が凝っと見つめてきた。
だが、やはり坂根には心当たりがない。
「先生、私です。敦子です」
彼女はそう言って微笑んだ。
「敦子……えっ、敦ちゃん?」
坂根は口を半開きにしたまま彼女を見つめた。
女性は池端敦子(いけはたあつこ)といって、坂根が大学時代に講師のアルバイトをしていた塾の生徒であった。
坂根は、我が国でも有数の大学である浪速大学に通っていたが、高校時代の偏差値からいえば、最高学府である帝都大学法学部への進学も容易いことだった。だが、東京の空気感が生理的に受け付けないと拒否した。
浪速大学での成績は抜群で、首席での卒業も可能だったが、なにぶん頑固というか、意固地というか、気に入らない教授の講義は欠席を繰り返したため、その分成績が下がり首席を逃した。
それほど優秀な学生だったため、有名進学塾の講師として教壇に立っていたのである。当初は、テキストや試験問題の作成などの事務員として雇われたが、その優秀さが買われ、授業を受け持つようになったのだ。
坂根は、授業料以外の生活費は全て自分で賄っていた。家族の勧めに逆らって浪速大学へ進学した手前、親に負担を掛けることに気後れがあったのである。
坂根が受け持ったのは中学二年生の数学だった。当時、坂根は二十一歳、池端敦子が十四歳であった。
「本当に敦っちゃんなの?」
坂根は見違えるほど美しく成長した彼女に目を見張った。池端敦子は特別優秀な生徒というわけではなかったが、授業後にもよく質問をする快活な努力家だった。
「先生、どう? 大人になったでしょう」
「ああ、とても綺麗だ」
おどけて見せた敦子に、坂根は正直な気持ちを吐露した。
そんなあ、と敦子は頬を赤く染める。
「先生はどこへ行かれるのですか」
「もう先生は止めてくれないかな、現在は普通のサラリーマンだから」
「そっか。じゃあ、坂根さん、で良いですか」
「良いよ」
「それで、梅田ですか」
「うん。大学時代の友人と会う約束をしているんだ」
「君は」
「私も友人と食事をする予定です」
「デートかな」
坂根は冷やかすように訊いた。
「違います、女性の友達です。先生こそ彼女と会うんでしょう」
彼女は少し怒ったような口調になった。
「ははは……残念ながら彼女はいない。僕も野郎たちと一杯飲むことになってね」
と、坂根は頭を掻いた。
「じゃあ先生、じゃなかった、坂根さんは何時頃まで飲むのですか」
「とくに時間は決まっていないけど」
「だったら、私は二十一時には友達と別れるので、それからどこかの店に連れて行って下さい」
――彼女の快活さは相変わらずだな。
などと坂根は思いながら、
「僕は構わないけど、お家は大丈夫なの」
と確認した。
彼女は吹田市の『津雲台(つくもだい)』という住宅街に住んでいると承知していた。関西の大学生ならば両親と同居のはずである。
「電話をすれば、最終電車まで大丈夫です。いえ、坂根さんと一緒だと言えば、もっと遅くなっても問題ないと思います。そのときはタクシーで送って下さるでしょう」
もちろん、と坂根は頷く。
「電車があってもタクシーで送るよ」
「そうこなくっちゃ」
「じゃあ、電話番号を交換しておこうか」
明るい顔の敦子にそう言った坂根は、携帯電話をポケットから取り出した。
祇園の高級クラブ・菊乃は開店以来繁盛していた。
何と言っても、京都でも格式の高い天真宗・別格大本山法国寺の新貫主が祝賀パーティーに使用したほどの店である。その名はたちまちに京都中に広がり、天真宗寺院の僧侶、信者、業者を中心に、他宗の関係者も足を運ぶ人気店となっていた。
また、ママの片桐瞳は元芸者である。昔馴染みの置屋の女将や芸妓たちが菊乃を推薦したり、客と同伴したりと何かと贔屓にしてくれていた。
その日、天真宗・別格大本山法国寺貫主の久田帝玄がふらりと顔を出した。お付は若い修行僧ただ一人だった。
ママの瞳が接客中の常連に断りを入れ、帝玄の席に付いた。
「お久しぶりでございます。御前様」
瞳は恭しく頭を下げた。
「本当にのう」
と言った帝玄の顔には憂いが宿っていた。
「ずいぶんとお疲れの御様子ですが」
「法国寺の貫主というのも存外でのう」
帝玄は力のない笑を浮かべた。
さすがに天真宗において別格の冠の付く寺院である。久田帝玄ほどの大人物でも、法国寺の宗務は気疲れするのか、と瞳は推察した。
「ところで、森岡君はやって来るかの」
「洋……」
帝玄の口から出た意外な名に、瞳は口を滑らせそうになったが、
「森岡社長は久しくお顔を見せられません」
と虚しく首を横に振った。
「晋山式の祝賀会パーティーの打ち合わせに来られて以来、とんとご無沙汰です」
「彼も案外冷たいの。これだけの別嬪さんに目もくれんとはな」
「彼には、茜さんという決まった女性(ひと)がいらっしゃいますから」
「茜? ああ、鳥取で森岡君に付き従っていた美形か」
「お会いになられましたか」
「会ったというほどではないが」
帝玄は言葉を濁し、
「そうか、森岡君は来ないのか」
と呟いた。
帝玄は手にした数珠の球を一つ一つ弾きながら、暫し思案に耽っていた。
天真宗において影の法主とも敬われる彼にしては、らしからぬ気弱な表情だった。
瞳は気遣いながら声を掛けた。
「森岡社長に御用でしたら、私から連絡いたしましょうか」
「いや、それには及ばない。用というほどの用ではないのだ」
その弱々しい笑みの裏に苦悩の色が滲んでいた。
「しかし、偶然ってあるものなんだなあ」
坂根好之はどこか嬉しそうに言った。
坂根と池端敦子は、梅田のパリストンホテルのロビーで待ち合わせ、森岡の馴染みである北新地のショットバー祢玖樽(ねくたる)に繰り出していた。
「同じ千里沿線に住んでいるのですから、出会ってもおかしくないでしょう」
「といっても、電車通勤のときの僕は朝早く出社して、夜遅く帰宅していたから、学生の君とはすれ違いだったのも肯ける」
「現在はどこに勤めているのですか」
「おっと、そうだった」
坂根はポケットから名刺入れを取り出し、一枚抜いて敦子に手渡した。坂根は森岡の指示に従い、たとえ休日であっても名刺を所持していた。
「ウイニットって、あの?」
「敦ちゃん、知っているの」
「そりゃあ、私だって知っています。IT企業として有名だし、そうでなくても、今就職活動の真っ最中ですから」
「そうか、敦ちゃんは四回生か。それで、どうなの」
坂根は気遣いながら訊いた。大学生の就職状況は、氷河期と言われていた時代であった。
「それが……」
やはり、敦子の表情に暗い影が宿った。
「今は難しいからなあ」
坂根は同情の言葉を掛けるしかなかった。四回生のこの時期に内定が取れないということは絶望的だった。
「職種に希望はあるのかい」
「第一希望はマスコミ関係でしたが、そうもいっていられなくなりました」
「勤務地は?」
「どこでも良いです」
「そうなら……」
と言い掛けて坂根は言葉を切った。
「何ですか」
「敦っちゃんのお父さんは、確か大手都市銀行のエリートじゃなかったかい」
坂根は塾講師時代の記憶を辿って訊いた。
「エリートかどうかわかりませんが、富国銀行の梅田支店長をしています」
「富国の梅田支店といえば関西の最重要拠点だから、そこの支店長ならうまくいけば役員になれるじゃないかな」
「さあ、どうでしょう」
敦子は興味が無さそうに言った。
「役員はともかく、かなり顔が利くのは間違いないと思うけどなあ」
「何が言いたいのですか」
「富国の融資先に口を利いてもらったら……」
「何を言うのですか! 私、坂根さんを見損ないました」
敦子は坂根の言葉を遮って怒声を上げると、ぷいと顔を横に向けた。
「いや、済まない。敦ちゃんがあまりに落胆していたものだから、ついくだらないことを言ってしまった」
坂根は平身低頭で詫びた。中学生の頃、彼女は努力家であると同時に不正を嫌う正義感の強い少女だったことを忘れていた。
「父は父、私は私です」
顔を戻して言うと、敦子は気を静めるように二、三度大きく息を吐き、坂根の名刺を手に取った。
「でも、その若さでウイニットの課長さんだなんて、凄いなあ」
敦子の和らいだ語調に、坂根はほっと胸を撫で下ろしながら、
「ちっとも凄くなんかないよ。社長と僕の兄とが中学以来の大親友でね。その関係もあって、目を掛けて貰っているだけなんだ」
と謙遜した。
「じゃあ、森岡社長さんって、坂根さんと同郷なのですか」
「同じ村ではないけど、隣村ってところかな」
「へえ、そうなんだ」
敦子が得心したとき、後方の扉が開いた。
「いらっしゃいませ、森岡様」
というマスターの声に、カウンター席に座っていた坂根が訝しげに振り向くと、そこに森岡と茜が立っていた。
「よう、坂根。お前がこんなところにいるなんて珍しいな」
口調から推察すると、かなりご機嫌の様子である。
「社長こそ、今日はお出掛けになる予定ではなかったはずです」
「そのつもりだったが、茜が天天(てんてん)の天ぷらを食べたいと言い出してな。外食することになった」
「まあ、私のせいにして。自分が食べたかったくせに」
茜は口を尖らせて詰ると、
「あら、とても愛らしいお嬢さんとご一緒ね。どういうご関係かしら」
一転、にこやかな顔になった。
「茜、そんな無粋なことを訊くもんやない」
森岡は茜を嗜めるように言い、
「マスター、向こうのテーブルに座るわ」
と奥の方へ歩き出した。
そのとき、
「森岡社長さんですか」
敦子が大きな声で呼び止めた。森岡は、驚いたように彼女に向き直った。
「そうですが」
「私は池端敦子と言います」
彼女はぺこりと頭を下げ、
「宜しければ、ご一緒できませんか」
と物怖じもせずに誘いの言葉を掛けた。
「こちらは構わないが、そちらは迷惑じゃないのかい」
「いいえ。有名な社長さんとご一緒できるなんで願ってもないことです」
坂根も黙って肯いた。
「それじゃあ、遠慮なく一緒させてもらおうか」
と、茜を敦子の横に座らせ、自身と坂根で彼女らを挟む形を取った。むろん、彼女らの横に男性客が座れないように配慮したのである。
「さて、坂根。こうなったからには、ちゃんと彼女を紹介しろや」
森岡の命令口調に、坂根は彼女を大学時代の教え子だと紹介し、七年ぶりの再会だと付け加えた。
「まあ、そんな素敵な偶然もあるものね」
茜が感じ入ったように言うと、敦子はアルコールが入った勢いからか、不躾にも、
「この、凄くお綺麗な方は社長さんの奥様ですか」
と軽口を叩いた。
「そんなもんや」
「とってもお似合いですね」
「そう? 有難う。でもあなたたちだってお似合いよ」
「そんな……」
茜の言葉に、敦子は急にしおらしく照れた。
「む、むむ 」
と、森岡が頬を緩め、
「まあ」
茜も目を丸くしたが、肝心の坂根はきょとんとした顔つきでいる。
――いやはや、朴念仁がここにもいたか。
と、森岡は呆れつつ、
「しかし、最初の出会いが中学二年生じゃあ、まだ子供だからな。お前も驚いたやろう」
と水を向けた。
「はい。何度も声を掛けられましたが、全くわかりませんでした」
「私はすぐわかりましたよ」
敦子は怒ったように言う。
「男の方はたいして変わらないというでしょうか」
坂根が嘆息交じりに言うと、
「それだけじゃないでしょう」
茜が意味深い言葉を返した。
「どういうことですか」
「それは、敦子さんに訊いてみないと」
「敦ちゃん、どういうことなの」
「それは……」
敦子は赤らんだ顔を隠すように俯いた。
その瞬間、坂根は茜の言葉の意味を理解した。
「坂根、なかなか良いお嬢さんやないか」
「はあ、はい」
森岡の褒め言葉に、坂根は満更でもない表情で答えた。
すると、俯いていたはずの敦子が顔を上げ、いきなり、
「社長さん、私を御社で雇って下さい」
何とも大胆なことを言い出した。まさに、恐れを知らないとはこのことであろう。
「敦ちゃん、いくら何でもそれは……」
坂根はあわてて忠告し、
「社長、彼女は少し酔っています。聞き流して下さい」
と、彼女を庇った。
しかし森岡に気分を害した様子はない。
「うちに? 敦子さんは大学生なの」
「近畿女子大学です」
「名門じゃないか」
「有難うございます。でも、なかなか厳しくて」
「大変だろうな」
森岡は同情すると、
「俺らは就職の苦労なんかせんかったからな」
と大学時代を懐かしむように宙を仰ぎ見た。
「そうなんですか」
「俺は端から就職する気などなかったが、アルバイト先の社長から懇願されたし、浪速大学を実質首席卒業の坂根は引く手数多、茜はスカウトやからな」
「茜さんがスカウト?」
「茜さんは、新地の最高級クラブ・ロンドのオーナーママさんや」
「え? こんなに若いのに……」
坂根の説明に、敦子は唖然と茜を見つめた。
「さて、敦子さんの頼みとあれば、よっしゃ、と二つ返事をしたいのはやまやまだが、これでも上場前の会社やから公私混同は許されん。悪いけど、正式な手続きをして会社訪問から始めてな」
「は、はい」
敦子は肩を落とした。
「その代わり、本来は最終面接しかせんのやけど、君は特別に俺が一次面接をしてあげる」
「……」
「社長が? 本当ですか」
意味のわからない敦子に代わって、坂根が喜色の面で確認した。森岡が一次面接をするということは、入社試験の成績がそれなりであれば採用ということなのである。
「せやけど、試験が箸にも棒にも掛からないようじゃあかんで」
森岡は釘を刺した。
「彼女の大学の成績は優秀ですから、入社試験は大丈夫だと思います」
坂根が何時になく意気込んだ。冷静沈着が信条の坂根が見せた気負いに、森岡と茜は顔を見合わせ微笑を交わした。
それから数日後、森岡に神栄会会長の寺島龍司から連絡が入った。
森岡は、神王組の六代目組長・蜂矢司に直接会い、ブックメーカー事業を請け負う返事をした。その際に、石津航(わたる)と阿波野光高(みつたか)に会いたいと申し出ていたのだが、二人の所在が判明したというのである。もっとも、阿波野は神王組ナンバー四の本部長の川瀬正巳(まさみ)の庇護下にあったので、問題は石津の所在だった。
石津と阿波野は、ブックメーカーに絡んだ賭博開帳の首謀者ということで、それぞれ二年の三年の実刑判決を受け服役していた。同じような立場にいたはずの二人の刑期が違ったのは、阿波野が暴力団関係者ということで徹底的に余罪を調べ上げられ、心証を悪くしたからである。
森岡はまず阿波野光高をパリストンホテルの喫茶店に呼び出した。
阿波野は出所以来、神王組本部長の川瀬の許で再起を期していた。本来阿波野は、川瀬の主人筋に当たったが、跡目相続を川瀬に譲り、堅気の世界で生きていた。だが、悉く事業に失敗していた。
初見のときとは、両者の立場は逆転している。初対面の折の阿波野は資金提供を依頼する身とはいえ、ブックメーカーという大事業を手掛けていることもあって横柄な態度を取った。
しかし、事業に失敗し収監されたうえに、森岡がブックメーカー事業を引き継ぐことになった。しかも、蜂矢六代目の懇請によって、である。阿波野は森岡に対して頭を低くせざるを得なかった。
森岡が阿波野に会う決意をしたのは、彼をブックメーカー事業に引き入れようと思ったからではない。あくまでも石津に会うための布石に過ぎなかった。
ブックメーカー事業は、阿波野と石津の二人が興した事業である。その片方に会っておいてもう一方に会わないとなると、会ってもらえなかった方が事実を知ったらどのように感じるだろうか。しかも堅気とはいえ、阿波野はそれなりの極道者の血を引いている男なのだ。
盤石の体制を整えるためにも、どんなに些細な事であっても懸念材料は排除しておく必要があった。だからこそ、森岡は阿波野に対して仁義を通したというアリバイを作りたかったのである。
さらに、極道の血ということで言えば、阿波野は裏社会を担当していたはずである。前回のブックメーカー事業が破綻したのは、沖縄の極道組織の勇み足が原因だった。反面教師とするためにも、阿波野からその経緯を聞いておく必要があった。
「その節は大変ご迷惑をお掛けしました」
先に席に着いていた阿波野は、森岡の姿を看とめると、立ち上がって頭を下げた。
頭髪はオールバックを止め、横分けにしていた。また、スーツも一般のサラリーマンが着用するものにあらためていた。
森岡は阿波野の出資要請を断ったが、活動費として一千万円を手渡していた。森岡は足が付かないようにと現金で手渡しのだが、阿波野はその金を銀行に預けてしまったのである。その結果、警察の家宅捜査により、銀行通帳が差し押さえられ、そこから森岡の事情聴取へと進展したのだった。
その際森岡は、当時の大阪府警本部長で、現在は警察庁内閣官房審議官の要職にある平木直正の名を出し、起訴を免れていた。
「それはもう」
気にするなと、森岡は笑った。
「しかし、まさかこのような形で再会するとは思ってもいませんでした」
阿波野は意外にさばさばとした表情だった。
「同感です。私は手を引く形になりましたが、ブックメーカー事業は成功すると思っていました」
森岡は慰めの口調で言った。
その上で、森岡が退いた後の経緯を訊ねた。
森岡から出資を断られた阿波野は運良く、巨額の出資者を見つけることができた。
仲介したのは、表社会と裏社会を繋ぐ『灰色紳士』と呼ばれる人種である。彼らは表社会からドロップアウトした者や、阿波野のように父親が極道だったりするものが多い。
主に表社会の金を裏社会に引き込んだり、あるいは裏社会の金を表社会で洗浄する、マネーロンダリングの手引きなどを生業としている。また、詐欺師に材料を供給するのも彼らの得意とするところである。
阿波野に出資者を紹介したのは、街金業者に出資者を仲介する男だったという。阿波野は、川瀬からもらった金の一部を街金に提供していたことがあった。
街金に出資しているのは何も暴力団とは限らない。現金で十億円程度の資産家、いわゆる小金持ちの中には、小遣い稼ぎに出資している者が多い。バブル崩壊後、銀行金利は低下の一方を辿っている。街金は三パーセントから、場合によっては七パーセントも保証しているので、魅力的な投資先なのである。
「仲介をしてくれたのは、田鹿功夫(たじかいさお)という男です」
「何者ですか」
「資産家にベンチャー企業への投資話を持ち掛けて手数料を取っているようです」
ベンチャー企業と言えば聞こえが良いが、中には会社法人さえ設立されていない、あるいは幽霊法人を用いた詐欺の案件もある。
「その男が出資者を紹介してくれたのですね」
いいえ、と阿波野は首を左右に振った。
「彼が紹介してくれたのは鷺沼(さぎぬま)という男でした」
「その男も同類ですか」
「鷺沼は、飲み屋のツケの取り立てや地上げのようなことをしていると言っていました」
「ということは、出資者は水商売か不動産屋ですね」
いいえ、と阿波野は再び首を横に振った。
「ギャルソンというまともな企業の社長です」
「ギャルソン!」
森岡は思わず大きな声を出した。
「どうかしましたか」
「失礼しました」
森岡は気持ちを落ち着かせ、
「ギャルソンというのは大手洋菓子メーカーのはず。そのような優良企業が鷺沼なとというチンピラと付き合いがあるのかと思いまして」
と如才無く答えた。
「何でも、会長の柿沢と鷺沼は古くからの飲み友達だということでした」
「なるほど」
と相槌を打った森岡は内心で考えを巡らしていた。
彼が阿波野と会った主目的はあくまでも仁義を通すためで、事業に参画させる気はなかった。だが、彼が柿沢康弘と繋がっていたとなると、そのまま捨て置くこともできなくなった。
再起を期している阿波野にとって、柿沢は有力なスポンサーの一人であろう。そうであれば、いつ阿波野の口から自分がブックメーカー事業を引き継いだと伝わるやもしれない。
余計な邪魔が入らないためにも、適当に阿波野を取り込んでおく必要があると森岡は考えた。
「ところで、今後はどうされますか」
森岡はさりげなく訊いた。
「何も考えていません。というより、懐もすっからかんですから、動きようがないというのが正直なところです」
阿波野は卑屈な笑みを零しながら言った。
「では、私の仕事を手伝ってくれませんか」
「森岡さんの? ブックメーカーですか」
「そうとは限りませんが、とりあえず川瀬さんの許を離れてはいかがですか」
森岡は庇護という名目の裏で、実際は川瀬の監視下にあるのだと察していた。たしかに川瀬は、元親分の実子である阿波野光高に恩義はあるが、跡目相続を譲ってもらった代わりに二億円を渡し、義理は果たしている。
また、ブックメーカー事業を失敗し、神王組に多大な迷惑を掛けたことで、川瀬は先代から大目玉を食らっていた。川瀬個人の金銭的損害も多大である。川瀬は阿波野が無一文なことを知っていながら庇護しているのは、かつての主家筋の息子というだけでなく、どうにか彼を利用して損害を取り戻そうというのが本音が透けて見えていたのである。
「正兄ちゃんには借りがあるので……」
阿波野は、幼い頃から川瀬正巳を『兄ちゃん』と呼んで育って来ていた。
「いくらですか」
「一千万ほど」
この金額は、出所後の阿波野の個人的な借りである。訴訟費用やブックメーカー事業免許の更新費用など、川瀬の持ち出しは億を上回っていた。
「では一千万を上乗せして、二千万を私が肩代わりしましょう」
「森岡さんが」
阿波野は驚きの顔で森岡を見つめた。
「それと」
森岡は蒲生に命じてアタッシュケースから三百万円を取り出させ、
「私の方でホテルに部屋を取りますから、少しの間この金で遊んでいて下さい」
と、阿波野に差し出した。
「小遣いまで……」
もはや阿波野に言葉はなかった。
「その代わりと言っては何ですが、私がブックメーカー事業に関わっていることは決して他言しないで下さい」
恐縮する阿波野に、森岡は口調を強めて言った。それは依頼というより命令に近かった。
「もう一つ、くれぐれも羽目を外して警察の厄介になることが無いように」
阿波野は仮出所ではなく刑期を終えて出所していたが、それでも森岡は面倒を起こすなと釘を刺した。
「わかりました」
阿波野は緊張の面で答えた。彼は、森岡がこの事業を蜂矢六代目から直々に懇請されたことを知っていた。もし森岡の許で働くとなれば、言わば彼の言葉は蜂矢の意志でもあるということなのである。
続いて森岡は石津航に会った。
彼の場合は、ブックメーカー事業に参画させようという明確な目的があった。
何と言っても石津は、世界最大のブックメーカー・ウイリアム・ゴールド社の日本担当だった男である。事ブックメーカーに関して、最も詳しい日本人であろう。今後の事業展開に当たっては最重要人物であった。
加えて、森岡には石津に訊ねたいことがあった。
コンピューターシステムの行方である。およそ五年前にブックメーカー事業を展開したとき、当然のことながらコンピューターシステムを構築しているはずである。
英国のブックメーカー協会の内規には、五年間実質的な営業がないと認めた場合は免許を剥奪すると明記されていた。期限まで一年半しか猶予がなかった。膨大なソフトウェアーを一から製作するには時間が足りなかったのである。
石津航は森岡と同い年の三十六歳で、やや小柄で酷く痩せている。顔色も悪く、病人のような虚ろな目をしていた。刑務所暮らしが余程身に堪えたのだろうと森岡は想像したが、その石津の口から思わぬ難題が飛び出した。
石津は、ウィリアム・ゴールド社から損害賠償を請求され、最悪の場合は命を取られるかもしれないというのである。
その理由は、石津がウイリアム・ゴールド社からコンピューターシステムの一部を窃取したからだという。柿沢をはじめとして、投資家から総額八億円という出資金を得た石津ではあったが、決して潤沢ということではなかった。そこでコンピューターシステム開発費用を節約するため、ウイリアム・ゴールド社からシステム仕様書を盗み出したのである。
石津は、まだウイリアム・ゴールド社に籍を置いていたときから、いずれのときにか役立つものと狙いを付けていた。しかし、さすがにソフトウェアーそのものをダビングすることはできなかったため、システム仕様書とプログラム仕様書をUSBにコピーしたのだという。
なるほど、よくよく考えてみれば、僅か一年ほどでコンピューターシステムが完成するとは思えなかった。たとえ英語版であっても、システム仕様書とプログラム仕様書さえあれば、マンパワーの増強で解決できる。
システム仕様書やプログラム仕様書とは、建築における設計図のようなものであり、とくにシステム仕様書に瑕疵があれば、システム全体が立ち行かなくなる。
刑期を終えた石津はウイリアム・ゴールド社に拘束されていた。社内調査によって、石津がコンピューターシステムの書類を窃取した事実を突き止めた会社が、石津の身柄を英国本社に移していたのである。
事情聴取により犯罪を認めた石津に対して損害賠償を求めたが、むろん石津は無一文である。そこで、ウイリアム・ゴールド社は神王組に賠償を求めたが、暴力団はそのような無駄金を支払うようなことはしない。
英国ブックメーカー協会の会長も務めるウイリアム・ゴールド社会長のトム・ウイリアムは、実質上神王組が所有する免許の剥奪を考えたが、日本進出に野心のある彼は、神王組との対立を避けるため思い止まっていた。
当面、石津の身柄を押さえておき、日本においてブックメーカー事象が再開されたとき、損害を回収しようと方針転換していたのである。
「いくらですか」
森岡は端的に訊いた。
「五億です」
「それは無茶な要求ですね」
森岡は呆れたように言った。
この手のコンピューターソフトウェアー開発費用は、おおよそ十億円ぐらいだと推察できた。ソフトウェアーそのものであればともかく、システム関係の設計書の窃取で半額の要求は法外といえた。
「森岡さん、何とか助けて下さい」
石津は涙を流さんばかりに懇願した。その必死の形相から、真に身の危険を感じていることが窺い知れた。
今でこそ、ブックメーカー業界はクリーンなイメージで通っているが、元はマフィアの賭博行為である。日本で言えば、暴力団のノミ行為を合法化したものに過ぎないのだ。
合法化されて三十年が経過し、さすがに現在の社員の中にマフィアは存在しないが、経営者の中には元マフィアの首領だった者もいる。いざとなれば人を殺害することなど意に介さないかもしれないのだ。
「何とかしては差し上げたいのはやまやまですが、五億はどうも……」
森岡が言葉を濁すと、
「交渉して頂けませんか」
「交渉? 私に英国へ行けと」
「いえ。日本に、いやこの場に相手はいます」
「えっ、ここに」
森岡は辺りを見回した。すると、気配の違う四人の外国人が喫茶しているテーブルがあった。
「あの四人ですか」
「そうです」
森岡から石津航の所在確認を求められた神栄会の寺島龍司は、川瀬正巳の許に身を寄せていた阿波野から、彼が英国のウイリアム・ゴールド社に拘束されていることを知った。
寺島は免許更新手続きを委託している弁護士を通じ、石津を帰国させて欲しい旨を伝えるが、返事はNOであった。そこで、石津を帰国させるのは、ブックメーカー再開のためであると告げると、事業主を訊いてきた。
寺島は、極秘を条件に森岡洋介なるITベンチャー企業の社長だと告白した。ウイリアム・ゴールド社は、森岡の素性を調べ上げ、交渉相手に足る人物と評価し、交渉人を同伴したうえで石津の日本帰国を認めたのである。四人も同伴したのは、石津の監視役も含んでのことである。
「では、場所を移しましょうか」
森岡は石津に自身の意思を伝えさせると、足立統万にホテルの会議室を抑えるよう指示した。
会議室には、神栄会の護衛の中から九頭目も参加した。
ウイリアム・ゴールド社の四人のうち、一名は女性だった。交渉は英語で行われた。当然のことながら石津は英語が堪能である。森岡も日常会話程度は話せるが、重要な交渉時に齟齬が生じないよう日本語で話し、石津が通訳することとした。
名刺交換した後、森岡がいきなり本題に入った。
「五億円は高過ぎる。せいぜい一億円が妥当でしょう」
森岡は端的に言った。彼は腹芸をしない性質なのである。
「それでは話にならないわ」
意外にも応じたのは女性だった。名前をリンダという二十代後半のように見える。眼鏡を掛けているが、目元が涼しく、長い金髪を靡かせた相当な美人である。
森岡はさりげなく彼女から受け取った名刺を確認した。
――リンダ・ウイリアム……彼女は会長の娘なのかもしれない。
森岡は、彼女がこの若さで交渉責任者である理由をそう推測した。
「そちらの開発費用は十億円程度のはず。その半額を要求するとはこちらこそ話にならない」
森岡は言葉とは裏腹に笑みを浮かべて言った。
「良く調べているわね。さすがはIT企業の経営者だけのことはあるわ」
「ほう。そちらも私のことは丸裸にしているようですね」
お互いに笑みを交換したが、転瞬、
「では、三億円まで下げるわ。これ以上は一円たりとも下げないから」
リンダは強い口調で言った。厳しい顔つきが彼女をいっそう美しく見せたが、外国人にそのような冗談を言えば、セクシャルハラスメントとになる。
「二億円なら用意しましょう」
「だから、三億円は譲れないと言っているでしょう」
彼女は言葉を荒げた。
「じゃあ、残念ながら交渉決裂ですね」
森岡は極めて冷静に言った。
彼女はふっ、と不敵な笑みを浮かべた。
「それで良いのかしら」
「どういう意味でしょうか」
「免許の更新ができなくなるわよ」
ウイリアム・ゴールド社のトム・ウイリアム会長は、英国ブックメーカー協会の会長でもある。彼の匙加減でどうにでもなるということである。
「それは、恫喝ですか」
「どのように受け取ってもらっても結構よ」
リンダの笑みは勝ち誇ったものに変わった。
「どうぞ、ご自由に」
森岡の意外な言葉に、リンダと男性のうちアルフレッドという男性が反応した。
石津がそのまま英訳して良いのか、と戸惑っていたのにも拘わらずである。
「どうやら、日本語が通じるようですね」
森岡がリンダとアルフレッドを交互に見た。
「わかりましたか」
リンダが日本語で答えた。さすがは、世界最大のブックメーカーである。ウイリアム・ゴールド社には日本語の堪能なスタッフを抱えているということなのだろう。
「貴方、免許の更新ができないと、英国ではもちろんのこと、賭博を禁止している日本では事業展開は不可能でしょう」
リンダは、難題を突き付けた。
だが、森岡には余裕があった。
「他の方法を考えます」
「他に? どのような」
「買収です」
「買収……」
リンダの美形が苦渋に歪んだ。
英国のブックメーカー協会は二百社で運営されているが、全ての会社が独立資本というわけではなかった。実に半数近く会社は、大手の資本傘下にある子会社なのである。現に最大手のウイリアム・ゴールド社は、七社を傘下に収めているが、その中には赤字の会社もあった。
森岡は経営に苦しむ会社を買収しようというのである。免許の移動はないので協会の承認は安易であった。
「さすがだわね」
リンダは眼鏡を外し、コーヒーを一口飲んだ。眼鏡を掛けたときの知的な印象も魅力的だが、外すと一層美貌が際立った。
「仕方がないわね、二億円で良いわ」
森岡はその言葉を待っていたかのように、
「どうでしょう。他に一億円出しますから、貴社のソフトの一部を使用させてもらえませんか」
と間髪入れずに要求した。
「どういうことかしら」
「オッズ計算のソフトをコピーさせて頂きたいのです」
ブックメーカー事業のコンピューターシステムの『肝』はオッズ計算である。このソフトウェアにバグ(虫のこと。転じてコンピュータプログラムの製造の誤りや欠陥を表す)があれば致命的となる。
とはいえウイリアム・ゴールド社にすれば、オッズ計算は門外不出にするような類いのソフトウェアーではなかった。およそ、ブックメーカーにおいて最重要なのは、最初のオッズを確定することである。日本でオッズといえば競馬、競輪、競艇であるが、これらの場合は賭け金から必要経費、俗にいうてら銭を差し引いた金額を応分に配分する計算で良い。
だが、たとえばブックメーカーが日本のプロ野球の優勝チームを賭けの対象にする場合、前もって基本の配当オッズを決めてから売り出すことがある。巨人=二倍、中日=四倍、阪神=六倍……という風にである。後は、通常のオッズ計算となるのだが、この前もってのオッズを決める担当者の役割と責任は大きい。賭けの対象となった事柄に詳しいものでなければ見当違いのオッズを決めてしまうことになるからである。
そういう意味からでも、日本担当だった石津は貴重な人材なのだ。
さて、他のソフトウェア、たとえば顧客管理は日本独自であり、ベッティングシステムは時代の流れにそぐわないという欠陥があった。つまり、六年前は電話投票が主だったが、三年前からインターネットが急速に広まりつつあったので、森岡はこれをメインに考えていたのである。
ハードウェアーにしても、以前のような大型汎用機、オフィスコンピューター、パーソナルコンピュータ―という概念から、サーバーシステムという概念に移行しつつあった。
リンダはアルフレッドと二言三言会話を交わすと、
「良いでしょう」
リンダは立ち上がって握手を求めてきた。森岡は彼女の細く美しい手を握ると、
「では、明日この場所で契約しましょう。現金はその直後に振り込みます」
「それで結構です」
アルフレッドも握手を求めながら言った。
「森岡さん、貴方も英国に来るの」
リンダが請うような眼差しを向けた。
「もちろんです」
「じゃあ、そのとき再会できるかしら」
森岡は優しい笑みを浮かべた。
「貴女さえ良ければ、私には断る理由がありませんよ」
リンダは森岡に歩み寄ると、ハグをしながら両頬にキスをした。
森岡の脳髄にまで彼女の色香が沁み渡る。
「楽しみにしているわ」
と囁いた彼女の白い頬もまた赤く染まっていた。
野島真一と坂根好之は名古屋の『中部技研』というソフトウェア会社に、社長の橋爪を訪ねた。
ウイリアム・ゴールド社と話を付けた森岡だったが、石津はもう一つ問題を抱えていた。六年前に開発したソフトウェアが開発会社に差し押さえられていたのである。
石津が手にした事業資金八億円のうち、ハードウェアに五億円を掛けたので、ソフトウェアー開発には三億円しか残っていなかった。当然、足りるはずがない。開発費用は少なくとも六億円が見積られていた。
通常、開発期間が長期に亘る場合は分割して決済される。三分割であれば、開発の進捗に合わせて、三分の一、三分の一、そして完成時に残りの三分の一である。
ところが、資金にゆとりのなかった石津は、着手金として一億円、中間金として二億円支払う代わりに、残りの三億円を完成時から半年の猶予を願い出た。
半年経てば黒字が出ることを当てにしてのことだったのだが、その半年後、警察当局の捜査のメスが入ってしまい、黒字どころか活動閉鎖ということになってしまった。よって、開発会社は残りの三億円の形にソフトウェアを差し押さえたということなのである。
石津の手元には、彼がウイリアム・ゴールド社から盗み出したシステム及びプログラム仕様書の日本語版があったので、時間さえあればウイニットで開発することも可能だったが、残り時間は約一年しかなく、試行期間の短い、俗にいう『ぶっつけ本番』となる可能性が大きかった。
森岡は自ら交渉に乗り出すつもりだったが、中部技研のここ数年の決算報告書を精査しているうち考えが変わった。
中部技研は七十名程度の、ソフトウェアー会社としては中の下といった規模の会社である。一般的に、通常商品の製造販売会社の一社員当たりの売り上げは、人件費の三倍程度が収支の分岐点と言われている。仮に一人の社員の給与と賞与の合計が五百万円だとすると、一人当たりの売り上げは一千五百万円が必要となる。一万人規模の会社であれば、売り上げは一千五百億円である。
もちろん、商品の種類によって数字は前後するが、いずれにせよソフトウェア会社というのは、これらに比べれば遥かに必要経費が少ない。なにしろ、人件費と家賃以外の主な経費といえば、コンピューター稼働の電気代とデバッグ(プログラムの精査)に掛かる紙代ぐらいのものなのである。
したがって、人件費の百六十パーセントの売り上げがあれば収支はトントンとなる。中部技研は七十名程度の会社であるから、一人当たりの人件費が四百万円だとすると四億五千万円が売上目標となる。ブックメーカーのソフトウェア製作代としての六億円は魅力的であったに違いない。しかし、同時に三億円の未払いは資金繰りに頭を悩ますことになった。
中部技研の決算書から恒常的な資金難を見抜いた森岡は、自身に代わって野島にある使命を与えていた。
名刺交換をした橋爪はおやっ、という顔をした。
「森岡社長さんではないのですか」
橋爪は、野島の名刺をテーブルに放るように置いた。
橋爪は四十歳半ばといったところだろうか、長身のがっしりとした体形で、脂ぎった面をしている。
「森岡は所用がございまして、今回は私が担当することになりました」
野島は謙ったが、本来は野島でも役不足である。
野島は、社員三百五十名を超え、上場を控えるウイニットのナンバー二である。社員七十名程度の資金繰りに窮する会社の社長とは釣り合いは取れない。ウイニットからすれば平取締役で十分だったが、森岡には野島と坂根に交渉経験を積ませる目算があったのである。
石津は、中部技研の役員に高校時代の同級生がいたことでシステム開発を依頼し、中部技研側は、役員の知人でしかも着手金を支払うということで、請け負ったということらしい。
野島は単刀直入に、ソフトウェアー一切を一億円で買い取りたいと申し出た。
だが、橋爪は強気だった。
「一億では話になりませんな。最低でも三億は譲れません」
「では、この話は無かったことに」
野島はあっさりと言って席を立った。驚いたのは橋爪と坂根である。
「ちょっと……」
と言ったきり、橋爪は言葉が出ない。坂根はあわてて席を立った。
「こちらもただで三億を出す気はありません。失礼」
野島は坂根に目配せをして部屋から出ようとした。
「お待ち下さい。ただで、とはどういう意味でしょうか」
一転して、橋爪が下手に出た。
「失礼ながら、御社は恒常的な資金難に陥っておられますね」
野島は席に戻った。
「そ、それは……」
橋爪は動揺を隠し切れなかった。
「調べたのですね」
「駆け引きは嫌いなので単刀直入に申しあげます。ウイニット(うち)の傘下に入りませんか」
「……」
橋爪は渋い面をしたまま押し黙った。
野島もしばらく相手の出方を窺っていたが、やがて、
「発行株数の四十九パーセントを二億で買い取らせて下さい」
と具体的な条件を提示した。
「四十九?」
中部技研の資本金は五千万円。一株五万円で一千株発行している。形式上、複数名の株主が必要だが、大抵は親族などに割り当てているため、ほぼ百パーセントが事業主の手元にあると言って良い。
四十九パーセントということは、経営権は奪取しないという意味であった。
「橋爪さんが社長のままで結構です」
「本当ですか」
橋爪の顔が明るくなった。
「もちろんです。私どもから一名を役員に加えて頂ければ、資金の提供と要望があれば仕事も委託します」
「それはもう、ありがたいことです」
橋爪は一も二もなく同意した。
実は、役員一名を送り込むというのが味噌なのである。味一番での須之内は、最後は破綻したというものの、途中までは役員の懐柔に成功し、あと一歩というところまで創業者である福地正勝を追い詰めていた。
ましてや、資金に窮している会社の役員連中を取り込むことなど簡単な事であった。橋爪に対する忠誠心など、将来性豊かなウイニットの魅力の前では無きに等しいものである。
過半数の株を所有している橋爪が株主総会で否決すれは、中部技研社員にウイニットへのと転職を勧めるなどの方法に転ずれば良いことなのである。
「案外、簡単でしたね」
帰りの車中で坂根が言った。野島への賛辞が含まれていた。
「当たり前や。全て森岡社長の指示通りに従ったのやからな」
「では、途中で席を立ったのも社長の指示だったのですか」
「社長は、橋爪の性格まで読んでおられた。凄い人やで、まったく。俺は生まれ持った頭脳でも、エンジニアとしてのスキルでも社長に劣っているとは思わんが、人の心を読む洞察力と未来を見通す眼力では足元にも及ばん」
「そうですね。まるで、タイムスリップをして確認して来たかのように、見通されますね」
坂根も同意した。
「なあ、坂根。俺らはとんでもない人物と出会ったのかも知れんな」
「専務、今頃気づいたんですか。私はとっくの昔からそう思っていましたよ」
神妙な口調の野島に、坂根はすまし顔を向けた。
「お前も言うようになったなあ」
野島は嬉しそうに笑った。
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