第18話 第三巻 修羅の道 首領
中国自動車道の上月(こうづき)パーキングエリアで休憩をした後、車は西に向かって再発進した。数十分で米子自動車道へと移り、中国山地越えとなる。
「今一つは、懸念というより差し迫った難題や」
森岡の厳しい語調に三人は身を引き締めた。
これもまた一週間ほど時間が遡る。
坂根好之と南目輝にとって、その夜の酒は酷く不味いものだったに違いない。
夕方、蒲生亮太を含め社長室に呼ばれた三人は、
森岡から、
『今夜は拠無い所用があるので定時前に帰宅する。その後は自由にしろ』
と言い渡されたのである。
森岡が一人きりで外出することは滅多にない。あの忌まわしい凶刃に遭った以降は一度もなかった。当然三人は帯同を求めたが、森岡は有無を言わせぬ形相で首を横に振った。
素直に引き下がるわけにはいかない三人は、森岡を尾行することにした。陰ながら護衛しようと試みたのだが、見事にまかれてしまった。森岡の想定内だったのだ。
義兄弟も同然の自分たちにさえ、固く秘匿したい用件というのに見当が付かない坂根と南目は、不満と不安に苛まれていたのだった。
「あら、扉を開けておいて帰っちゃうなんて、ずいぶんとつれないですわね」
三人の背中越しに茜の声が届いた。
――し、しまった……。
目を合わせた坂根と南目は、その表情にお互いの胸中を察した。もしや、森岡はロンドに顔を出しているかもしれない、と期待を胸に足を運んだ三人だったが、黒服から不在を告げられたため、そのまま踵を返そうとした矢先だったのである。
「いえ、飲みに来たのではないのです」
坂根があわてて弁解したが、却って茜の疑念を生んだ。
「どういうことですの? 洋介さんが一緒でないことと関係があるのかしら」
茜の、いや女性の勘はすべからく鋭い。
――やはり、余計な心配を掛けてしまう。
坂根は後悔したが、すでに遅かった。
「もしかしたら、社長がいらっしゃるのでは、と思ったものですから」
と観念したように言った。
「やはり臭うわね。中に入って詳しく話してもらえるかしら」
「いや、しかし……」
渋る坂根に、
「御代は良いから、入ってちょうだい」
茜は命令口調で言った。森岡と将来を約束した彼女にそうまで言われると、三人は断ることができない。
「まさか、浮気?」
三人から事情を聞いた茜は浮かぬ表情になった。森岡を信じているが、そこは惚れた弱みである。
「それは……」
南目には適当な言葉が浮かばなかった。彼もまた同じ思いを抱いていたからである。
「社長はそのような人ではありません」
坂根がきっぱりと否定したが、
「せやけど、兄貴はもてるからな。その証拠に京都の……」
と、南目がうっかり口を滑らしてしまった。
「輝さん、それは……」
坂根が揉み消そうとしたが、茜は聞き漏らさなかった。
「京都?」
「いや、なんでもないです」
「南目さん、誤魔化してもだめよ。京都って、どういうことですの」
「そ、それは坂根の方が……」
茜の詰問に、堪らず坂根に救いの目を向ける。
縋られた坂根は覚悟を決めた面構えで、
「京都の女性とは何でもありません。輝さんが誤解しているだけです」
と前もって強く否定し、自分が知る限りの経緯を話した。むろん、片桐瞳が森岡の最初の女性だったらしいことは伏せた。
「正直に話してくれてありがとう。私は洋介さんを疑っているわけじゃないのよ。でも、女性に優し過ぎるから、間違いがなければ良いけど……」
茜は、森岡の態度にロンドのホステスでさえ、自分に気があるのではないか、と勘違いしたことを知っていた。
「社長が優しいのは女性だけではありません」
坂根が弁護した。
「そういやあ、兄貴は野島専務のために、極道者に手切れ金を渡したらしいな」
「まあ」
茜は開いた口を手で隠し、南目を見つめた。
「専務の惚れた女性が極道者に言い寄られていたらしく、社長が間に入ったのです」
野島に随伴して、真弓が勤めるクラブ檸檬へも顔を出していた坂根が説明した。
「あの人は自分のことを差し置いても、他人のために奔り回る人だから」
茜はつれない言葉を吐いたが、その表情は満更でもなかった。
「蒲生君は何か心当たりがないか」
南目が訊いた。蒲生亮太は年下で、しかもウイニットでは新参だが、呼び捨てにできない存在感があった。
「お二人でさえ察しが付かないのに、昨日今日の付き合いの私に社長の行動が理解できるはずがありません」
蒲生は、首を左右に振ってもっともらしい理屈を述べた。
「元警察官の経験に照らし合わせても無理ですか」
坂根も一歳年下の蒲生に言葉を選んで訊いた。蒲生は元SPだったが、警察官には違いない。そこで、失踪者あるいは真犯人の行動分析を期待したのである。
「どんな些細なことで良いですのよ」
茜の声にも期待が籠っている。
「では、私の勘で宜しければ……」
と、蒲生は断りを入れた。
「社長と知り合ってまだ時間は短いですが、まず女性ではないでしょう」
その力強い言葉に、茜がほっとした笑みを浮かべた。
「おそらく、全く異次元の人物と会っておられるのではないでしょうか」
「異次元?」
三人が声を揃えた。
「異次元というのは大袈裟かもしれませんが、例えば政治家であれば大臣クラス、財界人であれば経団連の役員クラス、警察官僚であれば警視監クラス……」
蒲生は一旦言葉を切ると、
「そうですね。宗教人あれば、伝統ある大宗派の法主、管長クラスの人物と面会されていらっしゃるのではないでしょうか」
と所見を述べた。
「なるほど、一理ありますね」
坂根が得心したのに対し、
「なんで、俺らが遠ざけられんねん」
南目は不満を漏らした。
「私たちがいてもどうにもならない。いや場合によっては、むしろ私たちの今後に害があるかもしれない、という社長の配慮だということです」
坂根が噛み砕いて説明した。
「せやけどな」
なおも納得のいかない南目に向かって、
「それだけ、皆様は大切に想われている証拠ですよ」
と、茜が優しい声で説いた。
その頃、当の森岡洋介は神戸灘洋上にいた。
蒲生亮太が推量した異次元の人物、神王組六代目組長・蜂矢司との密会のため、彼の待つクルーザーへと向かっていたのである。
この密会は蜂矢が望んだものであった。
裏社会の首領の要請を断れる人間がこの国に何人いるであろうか。少なくとも蜂矢と同程度の貫禄が無ければ適わない相談であろう。
では、この国にそのような人物が何人居るかといえば、残念ながら覚束ないのが現状である。
時代を明治から太平洋戦争前まで遡れば、政界をはじめ各界にはいわゆる国士(こくし)と呼ばれる人物が数多いた。各界の指導層は、その多くを元武士またはその血筋が占めていたため、国家国民のために身命を投げ打って尽くそうという気概のある人物に事欠かなかったのである。
それが太平洋戦争後の民主教育によって『個』が重視されるようになり、『公』に対する奉仕という概念が薄れてしまった。
むろん、個人を重視すること自体は間違っていない。しかし、同時にそれは公に対する義務と責任を伴うものでなければならないのだが、戦争への過度の反省から、国家や社会という公に対するアレルギーが災いし、その点が未発達になった。
これもまた、絶対神を持たない民族の弱点が露呈したものと言えよう。一神教であれば、個を重要視しながらも、公共への慈善という神の教えに従うのであろうが……。
ともかく、森岡が蜂矢の要請を断れるはずもなかった。というより、そもそも誘いを断る特段の理由が見当たらなかった。
森岡の哲学は明瞭である。
総務藤井清堂との面会を助言した茜もそうだが、社会のあらゆる分野、階層において、その頂点に立つということは、それ自体がその人間の有能さを表していると考えていた。極道社会もその例外ではない。むしろ、社会に従順な羊の群れではなく、一線を画す狼どもを束ねる力量は尋常でないと考えるべきであろう。
もちろん、森岡は極道社会を是としているわけではないが、そうかといって頭から絶対否定をしているのでもない。反社会団体というレッテルは、今の社会でのことであって、未来永劫存続する価値観とは言い切れないからだ。
現代社会では殺人は悪だが、戦国時代におけるそれは、善とは言わないまでも、人を殺せば殺すほど出世するという、言うなれば是である。戦国時代まで遡らなくとも、僅か半世紀と少し前の社会でさえ、いかにして敵を倒すかが最上の命題だった時代である。もちろん大量の殺戮を想定したうえでのことである。
そう考えれば、百年後はともかく、五百年後、一千年後の未来において現代の価値観や民主主義といった社会の理念、構造がそのまま残っている保証などどこにもないのだ。
しかも戦後しばらくの間は、国家権力が暴力団を自警団として活用していた事実がある。活用は言い過ぎでも、見て見ぬ振りをしていたことは間違いない。それを、復興を遂げるにつれてあからさまに排斥したのは身勝手と言わざるを得ない。
重ねて言うが、森岡は暴力団自体を是としているわけではない。過去の経緯がどうであろうと、現代社会に生きる彼もまた法令順守は当然の義務だからである。
だが一個の人間としては、四万人もの極道の頂点に立つ男に興味が湧かずにはおれないのである。言わば種類は違えど、神村正遠や久田帝玄に通ずる人間力に惹かれたと言っても良い。
日本裏社会の首領との密会に、三人を同道させるわけにはいかなかった。坂根と南目に関しては、二人を裏社会に巻き込みたくないという想いの発露であり、蒲生に関しては、そもそも神王組の本丸相手に護衛など全く無意味だという考えからである。
道案内をしたのは神栄会若頭の峰松重一だった。
「森岡はんのお陰で、寺島の親父が本家の若頭になることができました。おおきに」
峰松は両手を膝に置いて腰を折り、深々と頭を下げた。
日本最大の暴力組織、神戸神王組は先頃代替わりをし、六代目の若頭に神栄会会長の寺島龍司が就任した。それに伴い、本家若頭補佐の一人に昇進した峰松の貫目も応分に上がっていた。
この、寺島の若頭就任の裏に森岡の金銭的助力があったことは、森岡当人と寺島、峰松そして六代目の蜂矢の四人しか知らない事実であった。
釣り人の装いをした森岡は、同様の峰松が神戸港に用意した漁船から、淡路島付近に停泊してしたクルーザーに乗り込んだ。全長約三十七メートル、全幅約九メートル、二階建てでベッドルームやサロンなど兼ね備えた大型モーターヨットである。
価格は十億円。蜂矢が神栄会からの上納金で買い求めたものだ。大変な豪華船ではあるが、バブル崩壊でずいぶんと買い求め易くなっていた。
余談だが、所有者登録は堅気の別人である。
静かな夜だった。
沖合十数キロにも拘わらず、瀬戸内の海はどこまでも波穏やかで、日本海の荒波しか知らない森岡は、まるで湖上にいるような錯覚を覚えるほどであった。
夜空は眼に痛いほど澄み渡っていて、大阪の薄幕の張った天空とは違い、数多の星が煌きあっていた。明かりはその星々の瞬きとサーチライトのみという闇の中、空の高さと海の深さを量りあぐねる森岡の耳には、人の道を外れつつある彼を咎めるかのようなスクリュー音だけが届いていた。
峰松の案内で、デッキから一階のサロンに足を踏み入れた途端、森岡は思わず身震いした。ソファーの中央に座っていた小柄で中肉の男に、久田帝玄に会ったときと同じ威圧感を感じたのである。
サングラスを掛けているため、両眼を窺い知ることはできないが、風貌も紳士然としていて、むしろ優男のようにさえ映る。しかし、男の手前に座っている旧知の寺島龍司と共に、奥には見知らぬ二人の男が同席していたが、この優男こそ神王組六代目組長の蜂矢司だと森岡は確信した。
「六代目、森岡さんをお連れしました」
峰松が緊張の声で言った。
「ご苦労さんやったな。まあ、こっち来て座りや」
やはり、優男が答えた。
蜂矢は三代目姉の時子(ときこ)、つまり伝説の大親分田原政道の妻に溺愛された。蜂矢は十三歳のとき、田原の許にやって来たという。むろん堅気である。少年を堅気というのも妙な話だが、極道修行が目的ではないということである。
幹部候補生としての本家での修行は、早くても二十歳過ぎ、遅ければ三十歳手前が通例である。経緯が不明のまま、中学生になったばかりの少年を田原が手元に置いたことで、組内には隠し子ではないかという噂が広まったほどであった。
田原の死後、四代目は若頭が継いだが、五代目相続のとき、時子が強力に蜂矢を推したため、ますます実子説の信憑性が増した。
結局、時期尚早との周囲の諫言を時子が聞き入れたため、五代目には他の者が就いたが、このときの彼女の肩入れぶりが蜂矢の六代目を確定させたと言っても過言ではなかった。
「さあ、こちらへどうぞ」
奥に控えていた若衆のうちの一人が森岡に近づき案内した。森岡が座ったのは蜂矢の真向かいの席だった。
「とりあえず一杯いこう。ビールでええか」
蜂矢は自ら缶ビールを手に取って酌をした。
「恐れ入ります」
森岡は、グラスに注がれたビールを一気に飲み干した。
「ご返杯致します。何を飲んでいらっしゃいますか」
「わしはブランデーを飲んどるが、ビールをもらおうか」
蜂矢はそう言ってグラスを差し出した。そして、蜂矢もまたグラスを一気に飲み干した。
「そないな格好をさせてすまなんだの」
サングラスを外した蜂矢の目尻に皺が寄っていた。口元も緩んでいるが、さすがに両眼は鋭い。極道者には馴れているはずの森岡も身体が竦む思いである。
「いいえ」
「北新地のクラブを貸し切っても良かったんやが、若頭が人の目が無い方がええ、と言うもんでの」
「私もこちらの方が良かったと思います」
「ほうか、なら良かった。何というても、この船の半分はあんたに買うてもろたようなもんやからな。のう、若頭」
「はい。その通りです」
寺島は畏まって答えた。
「組長さん、いや六代目……何とお呼びしたら良いのか」
森岡は困惑気味に訊ねた。
「何でもええがな」
蜂矢は鷹揚に笑った。その両眼から威圧は消えている。
「そういうわけには……」
「なら、親父(おやじ)でええわ」
「えっ!」
一同が一斉に怪訝な視線を蜂矢に向けた。いくらなんでもそれは、と言った驚きも含まれている。
それもそのはずで、極道世界において『親父』と呼べるのは、正式な盃を貰った子分にしか認められていない。いや、神王組には直系若中、つまり蜂矢から直接盃を貰った直参と呼ばれる子分が百十七人いるが、その多くはたとえ直系といえども、気安く親父と呼べる雰囲気はなく、若頭補佐や支部長などの側近までしか口にできなかった。大半は『組長』又は『六代目』と呼んでいたのである。それを、全くの堅気でしかも初対面の森岡に許したのだ。
一同が目を剥いたのも当然だったが、森岡がそのような実情を知るはずもない。
「では、親父さん。岳父の件では大変お世話になりました」
彼は言われるがまま、そう言って頭を下げた。
「いや、こっちこそすまんかったの。沖の知らんかったこととはいえ、あほなことを仕出かしよって。まあ、水に流してくれ」
蜂矢も詫びると、缶ビールを手に取り、森岡のグラスに注いだ。
一神会による味一番株式会社社長・福地正勝の拉致監禁という蛮行は表沙汰にはならなかった。蜂矢が一神会会長の沖恒夫に因果を含め、福地自身も会社の体面を考慮し、警察へ刑事告訴しなかったからである。
「しかし、若頭から聞いてはいたが、なるほど肝の据わった男やな。わしらの前でも顔色一つ変えんとは……」
「とんでもないです。このような状況で平然としていられるわけがありません。心臓が飛び出るくらい緊張しています」
「そうは見えんがの。わしの酌を受けて手が震えんのは、幹部の数人だけやで。生粋の武闘派極道の峰松でさえ、コチコチや。のう、重(しげ)」
「は、はい」
森岡の後方に控えていた峰松は恐縮して答えた。
「峰松さんにとって親父さんは、雲の上の人だからでしょう」
「まあ一理あるけど、あんたには何かありそうやな」
「取り立てて、そのようなことは……」
「いや、何かあるな。隠すなやな」
蜂矢が少し語気を強めただけで、森岡は心臓を鷲掴みされたような圧迫感を受けた。
「敢えて申しますと、私が一度死んだ身だからでしょうか」
「ほう。なんや曰くがありそうやな」
ようやく蜂矢の目が笑った。このとき、彼にはある思惑があって品定めしていたことなど森岡が知る由もない。
「お耳を汚すことになりますが」
「気にせんでええ」
森岡は物心が付いたときから、今日までの出来事を詳らかにした。その途中、『母小夜子』の失踪を語ったとき、蜂矢がほろ苦いような懐かしむよな複雑な表情を見せたのだが、それに気づいたのは寺島龍司だけだった。
「なるほどのう。十二歳のとき、海に身を投げたか」
「自暴自棄になっていました」
「それに、やっと身籠った奥さんをのう。辛かったやろうな」
蜂矢は心の底から労わるような声で言った。
「喜びが大きかった分、悲しみは倍化しました」
「あんたも辛酸を舐めて来たということやな」
蜂矢は得心がいったように呟いた。
寺島もその他の極道たちも皆、視線を落としていた。森岡の身の上話に共感しているのである。極道世界に身を投じる者は、大なり小なり似たような過去を持っている。経済ヤクザといわれる者の中には、平凡な家庭に育った者もいなくはないが、それは極稀なケースなのだ。
だからこそ『水は血より濃し』と、盃事を最重要視しているのである。
暫し沈黙していた蜂矢が思わぬ言葉を口にした。
「実はのう、わしもあんたと同じ年の頃、死のうと思ったことがある」
「な、なんですと」
森岡だけでなく、一同が蜂矢を見た。彼らにしても初めて聞く話だった。
「親に限って言えば、あんたはまだましやで」
そう言った蜂矢が寂しげな顔になった。
「わしは捨て子での、二親の顔すら知らん」
神王組の六代目といえども、人の子ということであろうか。父母への愛惜の情が滲み出ていた。そして、蜂矢のこの言葉によって、彼の田原政道実子説は否定された。
蜂矢司は神戸のとある施設の玄関先に捨てられていた。
名前だけを書いたメモ用紙と共に、である。物心が付いた頃にその事実を知った蜂矢は、己の運命を呪い、憤慨し、悲嘆にも暮れ、再々施設からの脱走を試みた。だが、所詮行く場所などありはしない。夕方には、うな垂れながら施設に戻るしかなかった。
蜂矢はまた、凄まじいいじめにも遭った。
社会的弱者が集う施設であれば身を寄せ合うのが普通で、いじめなど存在するはずがないと思われるかもしれないが、実はそうでもない。人間とは悲しい生き物で、弱者であればあるほど、さらに弱い立場の存在を認めずにはおれないのである。
捨て子というレッテルは、蜂矢をより辛い立場に追い込んだ。ただ、そうはいっても、いじめの問題は本人次第という側面が大きいのも事実ではある。
さて、十二歳のときである。
蜂矢は、いつものように施設を飛び出て、神戸港の海を眺めていた。すると、後方に止まった車から声が掛かった。
「坊主、海の水は冷たいぞ」
振り返ると、大きな車の後部のウインドを開け、中から中年の男性が笑顔を覗かせていた。
「海なんかに飛び込まんわい」
蜂矢は虚勢を張った。心中を見抜かれていたのである。
「ずいぶん威勢がいいのう。どこの坊主じゃ」
「どこでもええやろ。あんたには関係ないことや」
「それが、あるんやな。ここはわしの縄張りやから、勝手に死なれても困る」
「せやから、死なんと言うてるやろ」
「そうか。せやったら、こっち来て車の中に乗れ。家まで送ったる」
「家なんか無いわい」
「家が無いってどういうことや」
「俺は捨て子や」
蜂矢は吐き捨てるように言った。
「そうか、捨て子か。ということは施設やな」
「ああ」
「園長さんも心配してるやろから、送って行ったろ」
それでも男は笑っていた。
最後まで優しい笑顔を絶やさなかったこの男こそ、日本最大の暴力組織で、全国制覇を成し遂げた神王組の三代目組長・田原政道であった。
これがきっかけとなり、田原は度々施設を訪れ、世間話をするうち負けん気が強く正義感のある蜂矢が気に入った。そして、彼が中学入学と同時に、堅気の知人に依頼して、書類上の養子縁組を交わしてもらったのだった。
だが、この事実は田原夫婦と蜂矢本人しか知らない密事であった。養子縁組は蜂矢を施設から引き取るための方便であり、蜂矢が成人すれば養子縁組を解消させるつもりだったからである。
田原に蜂矢を極道世界に引き込む意思など毛頭なく、大学へも行かせてから堅気の世界に送り出すつもりだった。したがって戸籍とは別に、呼称は蜂矢の姓のままにしておいたのだった。
蜂矢が成人すると、予定通りに養子縁組は解消させたが、その後彼が極道世界に生きる決心をしたため、田原夫婦はあらためて蜂矢の薫陶に努めたのである。
蜂矢の話を聞いていた森岡は、正直な心情を吐露した。
「敦盛の『人生五十年、下天のうちを比ぶれば……』ではありませんが、現代でもせいぜい八十年です。一度死んだ身の私も三十六歳になりました。これまで好き勝手に生きて来ましたから、仮に今この場で殺されても、悔いはありません」
「あんたはそれでええかもしれんが、周囲の者を悲しませることになるで」
「今お話しましたとおり、祖父母、父母はすでに他界し、兄弟はいません。妻とも死別し、子供もいません。恋人や目を掛けた部下は数人いますが、彼らには申し訳ないと思いつつも、生へのしがらみにはなりません」
蜂矢は凝っと森岡を見つめていたが、
「どうやら、張ったりやないようやな。のう、若頭」
と息を吐いた。
「以前、神栄会(うち)で談判したときなどは、さすがの峰松も形無しでした」
「ははは……百戦錬磨の鬼軍曹も手玉に取られたか」
蜂矢は楽しそうに笑った。寺島をはじめ、幹部たちはこのように愉快げな蜂矢を見たことがなかった。
「森岡はんが、神村上人の弟子ということで納得がいったのです」
「そうらしいのう。神村上人なあ……お上人は元気でおられるかの」
蜂矢が懐かしげに訊いた。
「はい。親父さんは先生をご存知なのですか」
「知っとるというほどではないが、二、三度三代目のお供で酒を飲んだことがある」
「そうでしたか」
「ともかく、三代目は神村上人にぞっこんでの。何かと理由をこしらえて会いに行っておられたものや」
蜂矢が懐かしそうに語った。
「先生といえば、五億の返金、有難うございました」
森岡はテーブルに両手を付いて頭を下げた。
「なんの。金刃の叔父貴が世話になったということは、三代目からよう聞かされておったんでの。本来なら十億全部返さにゃなんのやが」
蜂矢が頭を掻いて決まりが悪そうにした。
「とんでもないです。五億は受けって頂かなければ、こちらが恐縮します」
森岡の偽ざる気持ちだった。彼は、極道者に借りを作る怖さを知っている。それは、六代目だろうとチンピラであろうと変わりはない。
「あんたにそう言ってもらえると、わしも気が楽になる」
苦笑いをしながらそう言った後、一転蜂矢が真顔になった。
「よし、腹が決まった。若頭の言うとおり、『B・K』を森岡はんに頼むとするか」
「それは、親父……」
蜂矢の隣にいた二人が同時に声を上げた。舎弟頭の沢尻と本部長の川瀬である。彼らは神王組のナンバー三とナンバー四であった。
「なんぼなんでも、あの大事業を素人に頼むんでっか」
「あほう! お前が下手を打ったからこうなったんやないか!」
不満顔を覗かせた川瀬に、すかさず蜂矢が怒声を浴びせた。
親分の一喝に、瞬時にしてその場が凍り付いた。さすがに、四万人の極道者の頂点に立つ男の貫禄は半端ではない。
「実はのう、森岡はん。あんたに会いたかったのには、もう一つ理由があっての。それで、密会場所をこの船にしたんや」
だが森岡に対しては、どこまでも穏やかな表情なのである。
「あんたに一つ大事な相談があるんや。若頭、説明せい」
――相談? やはり、そうか。
森岡は心の中で呟いた。
峰松を通じて申し出があったときから、天下の神王組六代目が堅気の自分に会いたいというからには何かある、と予見はしていた。まして、五億円を返金したうえでの相談というからには、かなりの難題だろうと想像できた。
「森岡はんは、『ブックメーカー』というのを知ってはりますか」
「ブックメーカー? 確か博打の胴元では……」
森岡は曖昧に言い、詳細は不確かな素振りをした。というのも、彼の脳裡にはある苦い思い出が甦っていたのである。
ブックメーカーとは賭博の胴元のことで、有名なのは英国政府公認のそれである。
一九六十年まで、英国のブックメーカーは裏社会、つまりマフィア組織が運営していた。当時、不況に苦しんでいた英国政府は、過去の所業を免罪するという条件で、それらの地下経済活動を合法化して実態の把握に努め、併せて税収難の打開策としたのである。日本でいえば、暴力団の『ノミ行為』を合法化したようなものである。
とにかく自国、他国の競馬やサッカーをはじめとして、バスケット、ハンドボール等々のリーグ戦だけでなく、オリンピックやサッカーのワールドカップ、各競技の世界大会を賭けの対象としていた。日本でいえば、大相撲や野球などもその対象に含まれていた。
また、スポーツに限らず、有名スポーツ選手や俳優といった著名人の生まれて来る子供の性別や、英国皇太子がその年に結婚するかどうかまで、つまり世間の興味を惹いていると判断すれば、ありとあらゆることが賭けの対象となっていた。
こうした営業方針の結果、ブックメーカー各社は順調に売上げ伸ばし、世界最大のブックメーカーである『ウイリアム・ゴールド社』の年間売り上げは三兆円、利益は五千億円という巨大企業に成長した。
この時代の日本企業等に照らせば、売上はJRA(日本中央競馬会)、利益はソニークラスと同程度の規模という超優良会社である。十数年前、世界的ホテルグループの『トリトンホテル』を一兆円で買収したのもウイリアム・ゴールド社であった。
日本において、ブックメーカーの存在が一般的に知られるようになったのは、一九九〇年頃からであるが、当時はインターネットが普及しておらず、専ら海外の大きなスポーツイベントのニュースを報道する際の、刺身のつま的に紹介された。
一九九〇年代の中頃からのインターネットの急速な普及と共に、その認知度は高くなり、単なるニュースから実践の対象へと移り変わった。
肝心の法令に関してであるが、警察当局の見解は、ブックメーカー事業はサーバーが国外にある限り、賭博開帳図利には当たらず、日本からのインターネットによるベッティング(賭け)行為も、非合法ではあるが、実効性のある取り締まりがきないとのことである。いわば、グレーゾーンになっているのが実情なのだ。
本来、英国でのブックメーカーのライセンス発行は二百社と限定されていた。それ以上の乱立は、お互いの利益を損ねると業界が談合したのである。
したがって、新規の参入は二百社に欠員が出た場合のみとし、有資格者も英国国籍を有する経営責任者に限るとしていた。
しかし十年前、市場を全世界に求める強化方針を打ち出し、十社に限り他国籍の者も認めると変更した。その流れに乗って七年前、日本人が始めてライセンスを取得したのである。
その日本人は、ウイリアム・ゴールド社の日本市場担当だった石津という三十代の男だったのだが、現実問題として、彼が日本で事業展開するには二つの難題があった。
一つは多額の資金確保である。
日本人を客とすれば、法規制を逃れるため、海外にホストを置くコンピューターシステムの整備が不可欠で、その初期投資には十数億円掛かると試算されていた。
また、胴元になる場合の、払い戻しの資金も必要であった。なぜなら、入金は安全性を考えカード決済にせざるを得ず、一方で現金の払い戻しとなると、流動資金にタイムラグが生じるからである。石津は、それだけの資金を持ち合わせていなかった。
もう一つは、暴力団との関係である。
言うまでもなく、ブックメーカー事業は、ともすれば暴力団のしのぎを犯すことになるため、彼らの了解を得なければ命の保証がない。しかも、事業性からいって特定の組組織がどうこうという問題ではなく、いずれの暴力団組織であっても上層部の了解が必須であった。
そういう点では、石津は大変に運が良かったといえた。
石津の片腕として、ブックメーカーのライセンス取得に奔走した男の知人に、阿波野という暴力団と縁の深い者がいたのである。
阿波野は、神王組三代目の田原から盃を貰った直参組長の実子であった。父親が亡くなったとき、まだ高校生だった彼は極道の道に進むかどうか悩み抜いた末、跡目を若頭に譲った。実は、その譲られた若頭というのが、現在本部長の要職にある河瀬なのである。
元の主家筋に当る阿波野の相談を受けた河瀬は、その旨を神王組五代目に上申した。五代目はこの申し出を受けた。
賭博に限っていえば、彼らの最大のしのぎは、競馬や競輪、競艇などのノミ行為である。競馬であれば、てら銭を十五パーセントにして、JRAの二十五パーセントと差を付け、一定の客を確保している。
それでも、昨今は電話投票が拡大し、ジリ貧の一途を辿っている始末だった。加えて、いずれインターネットが活用されれば、客数は激減すると想像された。五代目は新しいしのぎの手段の一つとして、ブックメーカーを活用しようと決断したのである。
だが二年後、この事業は頓挫する。
目先の金に目が暗んだ沖縄の末端組織が、本部の指示を無視して直接客にベッティングさせてしまい賭博開帳図利の嫌疑で、警察当局の捜査を受けてしまったのである。結局、全国の組織が芋づる式に摘発され、押収総額は四十五億円という当時の史上最高額に上った。
実はこの捜査の過程で、森岡も神奈川県警の家宅捜査を受けていた。押収された銀行通帳の一刷に、最初のページの二行目、つまり口座開設後のイの一番に一千万円入金の記載があったのだが、阿波野はその出所が森岡であると自供してしまったのである。
捜査当局は、森岡こそ事業の首謀者の一人、影の黒幕だと狙いを付けたのだった。
森岡が一千万円を融通したのは奇妙な縁からだった。
六年前、森岡がウイニットを設立して間もない頃である。ある見知った男から連絡が入った。
男の名は杉浦と言い、森岡が菱芝電気でコンピューターシステムを構築した最後の顧客の担当者の一人だった。ウイニットを設立する二年前のことである。
大阪に本社のある大手空調機メーカーで、森岡は全国七ヶ所の工場にもシステムの説明をして回っていた。
杉浦は兵庫県朝来市にある工場の電算室係長だった。朝来市は人口が四万人に満たない小さな街だったが、創業者の出身地だったため、地元に対する貢献の意味で工場を建設していたのである。
さて、コンピューターシステムの説明後、杉浦が一席設けたいと申し出た。森岡は好意を受け、一泊することにした。係長である杉浦に潤沢な接待費があるはずもなく、彼が身銭を切っての誘いだと推察したからである。
小料理屋で腹を満たした後、返礼として森岡がカラオケスナックへ誘った。酒好きの杉浦は二つ返事で同意した。
杉浦は余程気分が良かったのか、そのスナックで初対面にも拘らず森岡に鬱積した心情を吐露した。初対面であっても、相手の懐に上手く入り込むのが森岡の真骨頂の一つなのである。榊原や福地は、このあたりの人徳にも惚れ込んていたのかもしれない。
杉浦の話によると、彼は遠縁ということで社長から目を掛けられ、昨年までは本社の経理課長という出世コースいたのだという。しかし、好事魔多し、というべきか杉浦に災難が降り掛かった。
酒好きの彼は、夜な夜なネオン街に出没していたのだが、そこで暴力団関係者の女性に手を出してしまい、慰謝料として二千万円を要求されるというトラブルを起こしてしまったのである。
自業自得といえばそれまでであるが、男は会社にまで押し掛けて来てしまったため、報告を受けた社長の逆鱗に触れ、朝来工場に左遷されてしまったのである。慰謝料は、先祖代々の山林を売却し用立てたのだという。
さて、奇縁はここからである。
それから二年後、暴力団関係者の男は、再び杉浦の前に姿を現した。杉浦は困惑したが、男の用件は二年前の女性の件ではなく、ある事業資金の調達に協力して欲しいというものだった。慰謝料の捻出に山林を売り捌いたことで、男は杉浦を資産家の息子だと勘違いしたのである。
だが、杉浦家には山林も田畑も残ってはいなかった。杉浦は事情を説明して申し出を断ったが、当てが外れた男は勤め先の社長に紹介するよう無理難題を言い出したのである。杉浦が社長の遠縁だということまで調べ上げたうえでのことだったのだが、当の杉浦にとっては首が飛びかねない要求だった。
窮地に追い込まれた杉浦の脳裡に、ふと森岡の姿が浮かんだ。耳にした噂によれば、IT企業を設立し、日の出の勢いだという。そこで、森岡に泣き付いたという経緯なのである。
森岡は義理人情に厚い男である。事情を知ってしまった以上、無下に断ることができなくなった彼は、とりあえず男と会ってみることにしたのだが、その暴力団関係者というのが、河瀬に跡目を譲った阿波野だったのである。
跡目を河瀬に譲った見返りとして、二億円を手にしていた阿波野は、街金業者に出資したり、ショットバーや宅配ピザ屋などの事業に出資したりしたが、いずれも失敗し大半を使い切ってしまっていた。
そのような折、阿波野の生い立ちを知る灰色紳士から、石津を紹介されたのだった。起死回生の好機と捉えた阿波野は、あらゆる知人に声を掛けて、資金の調達に奔走していたのである。
大阪梅田のパリストンホテルにやって来た阿波野は、さほど大柄ではなかったが恰幅が良く、髪をオールバックに固めていた。
「いくらですか」
と金額を問うた森岡に、阿波野は、
「できれば大きい方を一本」
と、親指を立てた。
意味がわからず戸惑いを見せた森岡に、阿波野は親指が億、人差し指が百万を表し、大きい方というのはそれぞれ十億と千万を指すのだと説明した。
只ならぬ雰囲気と独特の金銭表現に、素性を問うた森岡に対して、彼は正直に身の上を正直に話した。
阿波野が暴力団と関わりがあると知った森岡は、むしろ安堵した。何しろ、暴力団のしのぎを犯すブックメーカー事業に手を出せば、下手をすると、いやたとえ上手くやったとしても、命はいくらあっても足りたものではない。
その点、阿波野が神王組と話を付けてくれるのであれば、自身は警察当局と交渉すれば良い、と森岡は思ったのである。そこで三友物産の日原淳史を通じ、当時大阪府警本部長だった平木直正に会い、腹蔵の無い意見を求めた。これが平木との交誼のきっかけであった。
だが、平木の見解は、
『法令適用に関しては、法務省も精査中であることから、しばらく自重せよ』
というものだったため、森岡は阿波野に断りを入れたのだが、その際後腐れの無いようにと、活動資金として一千万円を融通したのである。
この手切れ金にしては少々高額過ぎる裏には、その後の成り行きに含みを持たせるという森岡の下心があった。
いずれにせよ、森岡としては阿波野個人にくれてやったものであり、足が付かないようにと現金で渡したのだが、阿波野は事業資金の一部に算入してしまったのだった。
森岡に断られた阿波野は、その後首尾よく東京の実業家から五億円の現金融資を受けることに成功し、一旦は事業化に成功したのだが、末端組織の不手際によって司直の手に落ちたのだった。
この実業家というのが、ギャルソンの柿沢康弘であった。つまり、森岡との因縁は、すでにこのときから始まっていたということになる。
事件発覚から一月後、森岡は国営放送のニュースで阿波野らが逮捕されたことを知り、その一週間後、神奈川県警・青葉台署の刑事三人が令状を持参し、家宅捜査にやって来た。さらに、一ヵ月後、同署に於いて事情聴取を受けたのである。
事情聴取の過程で、森岡は平木直正の名を口にした。森岡としては、洗いざらい正直に話したに過ぎなかったが、思わぬ警察庁最高幹部の名に、取調官は蒼白となった。犯人扱いも同然の、それまでの高飛車な態度が一変し、丁寧な口調になった。
「大阪府警の平木本部長に間違いありませんね」
取調官の半信半疑の念押しに、森岡は平木の名刺を取り出して見せた。
「確認して貰っても良いですよ」
森岡は余裕の笑みを浮かべて言ったが、内心では確認されたら拙いと思っていた。平木との関係は嘘ではないが、今後の交誼に差し障りとなる懸念があった。
暫し森岡の面を凝視していた取調官は、
「ちょっと、失礼します」
と言って、取調室から出て行った。
数分後、取調室に戻って来た取調官は、上司と思われる男性を伴っていた。
「いやあ、大変失礼しました」
複雑な笑みを浮かべながら、男が差し出した名刺には『捜査一課長』の肩書きが記されていた。警察機構における課長というのは、一般企業のそれとはずいぶんと重みが異なる。神奈川県警の一所轄署の課長といえども、強大な権力を保持し、同時に重大な責任を負っている。
捜査一課長は、もう一度森岡から聴取を行ったが、終始物腰の柔らかい態度で接した。そして最後に、調書から『平木』の名を削除したい旨を申し出た。
森岡に否はなかった。言外に、森岡に対する聴取を終了し、不起訴処分とすることを仄めかしていたからである。
「森岡はん、そのブックメーカーやが、どうやろ、あんたが仕切ってくれんかの」
「はあ?」
森岡は、脳天から空気が洩れるような声を出した。鋭敏な頭脳を持つ森岡にしても受け止め切れなかったのである。
「い、いま何とおっしゃいましたか」
「ブックメーカー事業を任せたい、と言ったんや」
「御冗談は止して下さい」
今度は悲鳴のような声を上げた。難題は覚悟していたが、想像の範囲を超えていた。
「冗談や無いで。あんたと会ってみて腹を決めた」
勝手に腹を決められても困る、と森岡は思わず口にしそうになったが、辛うじて留まった。
蜂矢は真顔で見つめている。極道者が真剣な顔つきをすると、大抵は凄んだような強面になるのだが、このときの蜂矢の表情は、至極真摯なものに森岡の目には映った。
「私などに務まるはずがありません」
森岡は慎重に言葉を選んだ。
ブックメーカー事業に関わることは、これまでの峰松重一との関係とは根本的に意味合いが異なる。峰松とは仕事を依頼し、その対価を支払う都度関係である。仕事が介在しなければ会う必要もなく、時間を置けば関係を清算することも可能である。
しかし、蜂矢の依頼を受けることは、永続的な緊密関係が持続されることを意味しているのだ。
「あんたには極道者顔負けの度胸がある。仁義も弁えとるし、神村上人を通じてわしらの世界とも因縁がある。しかも、都合のええことにITのプロや。この事業を任せられるのは、あんたしかおらん」
蜂矢にとっては背水の決断だった。
阿波野が神王組直系の組長の実子ということで、全国数十ヶ所の事務所に警察の捜査が入り、幹部クラスまでが検挙されてしまった。
それから三年と数ヶ月が経ち、ほとぼりが冷めているとはいえ、二度と同じ過ちは許されない。事業の再開に当っては、責任者は全くの堅気であることが最低条件で、欲をいえば社会的信用のある人物が望まれたのである。
神王組が直接差配に乗り出さない真の理由は、警察の目ではない。そうであれば、阿波野が話を持ち込んだとき、先代は彼に任せることなく、川瀬に実権を握らせていたであろう。警察の目から逃れる術は無くもないのだ。
神王組にとって最大の障害は、どの組が担当するかということである。
ブックメーカーは巨大な利益を生む事業である。仮に神栄会が受け持ったとすれば、神王組における神栄会の発言力は益々絶大なものになる。それも半永久的に、である。
それでは他の組の反発は必死となり、引いては神王組崩壊の引き金ともなりかねない。急拡大した代償というべきか、神王組は寄り合い所帯という側面が否めないのだ。
幸運なことに、IT技術の発達によりベッティングした客のパソコンのIPアドレスから、縄張りの組が特定できるようになった。その恩恵で事業者を外部に委託し、上納金を神王組全体に利益配分することが可能になった。
蜂矢の言ではないが、森岡ほどの適任者はそうそういないだろう。
「あんたの好きなようにしてええ」
蜂矢はそう言って缶ビールを手にした。
森岡は、一瞬グラスを手に取ることを躊躇った。頭の片隅に、この話の流れで蜂矢の酌を受ければ、了承したと受け止められないか、との懸念が奔ったのである。
「考えてみてはくれへんかのう」
森岡の心中を察した蜂矢は、語気を弱めた。
「はあ……」
酌を受けた森岡は、生返事をしながらすばやく頭を働かせた。
六年前、森岡が阿波野と会ったのも、心の片隅にブックメーカー事業に興味があったからである。興味というより色気といった方が正確であろう。手切れ金としては多額の一千万円を払ったのが、それを如実に証明している。
なにせ合法であれば、巨大賭博の胴元に成れるかもしれないのである。わかり易くいえば、競馬、競輪、競艇といった国内の公営ギャンブルの主催者、あるいはアメリカのラスベガスや香港、マカオなどのカジノホテルの利権獲得に匹敵するのだ。いや、やり方次第ではそれ以上かもしれない。
しかも、日本裏社会の首領である神王組六代目直々の要請である。この時点で、最大の懸念である身の安全は保証されている。
もちろん、日本の裏社会には神王組以外にも、稲田連合をはじめとして多数の暴力団が存在しているが、面と向かって神王組と事を構えるとは考え難いのだ。
これだけの魅惑的な話を前にして、触手が伸びないといえば嘘であろう。
「私の好きなようにして良い、というのは本当ですか」
「おお」
と、蜂矢は肯いた。
「売上の五パーセントを上納してさえくれたら、後はあんたに一切を任せ、口出しはせん」
――五パーセントか……。
森岡にとっては悪い条件ではなかった。一見、利益の有無に拘らず売上の五パーセントの上納は厳しい条件のように映るが、そうではない。
賭博の胴元には二種類の形態がある。
一つは、所謂『てら銭』を取る形式で、日本の公営ギャンブルは全てこの形式である。掛け金から一定額を差し引いた残額を払い戻しに充当するため、胴元には必ず利益が残ることになる。
もう一つは、胴元自ら掛けを引き受ける形式である。この場合は初期段階でハンデが付くことが多い。
例えば、大相撲で横綱誰某が優勝するかしないかという賭けがあったとしよう。てら銭形式だと、掛け金に応じて、払い戻し率が随時変動するが、これをどちらになっても、ハンデを含めた払い戻し率を一定にするため、胴元自らが支持率の低い方に掛けて調整するのである。
仮に、横綱誰某が『優勝する』方の掛け金が圧倒的に多かったとしよう。胴元は、一定の配当率に調整するため、大金を『優勝しない』方に掛けることになるので、もし横綱誰某が優勝すれば胴元は大損し、優勝できなければ大利を得ることになる。
それこそ一か八かの大博打であり、胴元には損失を補填できるだけの体力が必要となる。八百長の多くは、こうした掛け方式を資金力に乏無い胴元が仕切った場合によく起こる。
ともかく前者の方法ならば、上納の五パーセントに必要経費と利益を乗せた数字をてら銭にすれば、薄利ではあるが確実に利益は上がることになる。
「親父さん。ただいまのお言葉は、この先代替わりしても保証して頂けますか」
森岡は恐る恐る訊いた。堅気が、神王組の頂点に立つ男を問い質すなど無謀極まりないことだった。
だが、蜂矢は機嫌を損ねるどころか、
「未来のことを百パーセント保証することはできん。せやけど、何事も無ければわしの跡目はこの寺島が継ぐ。仁義に厚いこの男が、あんたを裏切ることはないやろ。そして寺島は、自分の眼鏡に適った男に後を継がせるだろう。あんたにはそれを信じてもらうしかない」
とむしろ誠実な言葉を返した。大抵の者がそうするように、言葉巧みに丸め込もうともせず、保証はできないと正直に言ったのである。森岡は、その物言いに信頼感を抱いた。
森岡が腹を括って口を開く。
「親父さん、阿波野さんと石津さんはどうなっていますか」
「なに?」
「なぜ二人の名を?」
蜂矢と寺島が同時に驚きの声を上げた。さしもの二人も、森岡の奇しき因縁まで推し量ることはできない。
「実は、あの事件では私も少々痛い目に遭いました」
「どういうことや」
蜂矢は興味深げな顔を突き出した。
「私も阿波野さんから資金提供の依頼を受けていたのです」
森岡は、阿波野と知り合った経緯を掻い摘んで話した。
「なら、あんたも捕まったかんかいな」
「いえ。その頃私は独立したばかりでしたので、手元に余裕がありませんでした。そこで、活動資金として僅かばかりの金を渡して終わりにしたのです」
森岡は偽りを話した。彼はその頃、すでに二十数億円の資産を手中にしていた。しかし、警察庁最高幹部である平木の助言を受けて断ったとは言えない。
「じゃが、そこから足が付いたということやな」
蜂矢は察したように言った。
「ご賢察のとおりです。家宅捜索と事情聴取を受けましたが、金額が小さかったので免罪になりました」
これも当然のことながら、事情聴取の過程で平木の名を明かし、不起訴になったことも秘匿した。
「なるほど、そういうことなら、ますますわしらと因縁があることになるの」
と言った蜂矢の口調ががらりと変わった。
「そういうことや川瀬。これでも文句があるか」
「も、文句など、とんでもありません」
川瀬は蒼白の面で首を何度も左右に振った。
極道社会は親分が絶対の世界である。黒いものでも親分が白と言えば、白になる世界である。川瀬は否と言える立場になかった。
何とも皮肉なことだが、厳格な階級社会という点で言えば、宗教界と双璧なのがこの極道組織であろう。
「二人共、すでに出所しています。何か二人に用がありますか」
寺島が訊いた。
「いえ、何となく気になったまでです」
森岡は如才なく誤魔化した。
彼は、ブックメーカー事業を手掛けるのであれば、とくに石津の協力は不可欠と考えていた。事業のノウハウにもっとも精通しているのは石津である。ただ、この場で明言してしまうと、承諾したと誤解される恐れがあった。
「少し考える時間を頂けませんか」
「もちろんや。無理を言うてるのはこっちやからな。一つ前向きに頼むわ」
蜂矢が軽く頭を下げると、
「森岡はん。急かすようですが、時間があまり無いんで、なるべく早う返事を下さい」
その横で、寺島も頭を下げた。さらに沢尻と川瀬、後方に控えていた峰松らもそれに倣った。
「わ、わかりました」
森岡は、押し切られる形でそう言った。神王組のトップ連中が挙って頭を下げることなど尋常ではないのである。
寺島龍司が急かせた裏には、もう一つ頭痛の種を抱えていたからである。
阿波野が取得した英国のライセンスは、毎年更新手続きが必要だった。その際の更新料は、本部長の河瀬が肩代わりし権利を継続保有していたが、業界で組織するブックメーカー協会には、五年間営業実態が無ければライセンスを剥奪するという内規があった。警察の摘発により、営業を中断してからすでに三年半が経っていた。彼らには時間も無かったのである。
「そこでや。森岡はん、これはわしからのプレゼントや」
蜂矢は護衛の若衆に持って来させた品物を森岡に差し出した。外観から察したところ、宝石か時計の入れ物のようだった。
「いえ。お気遣いなく」
高級品だと察した森岡は、丁重に断ろうとしたが、
「五億の礼と、今夜の出会いの記念やから、取っといてや」
と品物をさらに森岡の方に突き出すようにした。有無を言わせぬ体だった。
「では、遠慮なく」
「さっきの保証の話しやないが、お守り代わりにはなるやろ」
蜂矢の謎めいた笑みが気になった森岡は、
「この場で開けてみて良いですか」
と訊いた。
「ええで」
ゆっくりと上蓋を開けた森岡は中身を確認して驚愕した。なんと、神王組の代紋である桐の徽章だったのである。それもただの徽章ではない。プラチナ製である。
「おお!」
驚いたのは森岡だけではなかった。舎弟頭の沢尻、本部長の河瀬、そして森岡の後方にいた峰松までもが思わず溜息を漏らした。
それも無理からぬことだった。
神王組では、貫目によって徽章の素材を分けていた。最上級はプラチナ製で、組長本人、若頭、若頭補佐、舎弟頭、本部長、舎弟頭補佐など、二十数名の最高幹部に付与された。
次級は金製で、直系組長や最高幹部を有する組の若頭が該当した。峰松も金バッジである。
中堅の組員は銀製、それ以外の正規の組員が銅製だった。
つまり形式上、森岡は神王組最高幹部の仲間入りをしたことになるのだ。このときの森岡はそのような区別があることなど理解してはいない。ただ、神王組の徽章に戸惑っただけだった。
騒然とした中で寺島龍司だけが冷静だった。
彼の心には、蜂矢が森岡に『親父』と呼ばせたとき、そのあまりの特例待遇に、ある疑念が芽生えていた。その疑念は、森岡の告白に対する蜂矢の反応によって増幅し、蜂矢が己の出生の秘密まで吐露したことで限界点に達した。
そして、決定打がこのプラチナの徽章授与である。
――もしかしたら、森岡はんと親父は……。
寺島の疑念は確信へと変わりつつあった。
「親父さん、いくらなんでもこれは遠慮します」
森岡は上蓋を閉じて、ゆっくりと小箱を蜂矢の方に滑らした。
「勘違いするなや。これは、ブックメーカー事業とは関係ない。あんたが断っても、渡すつもりやったんや」
「しかし……」
「今後もあんたには世話になることもあるやろ」
蜂矢はそう言って小箱を手に取り、もう一度森岡に差し出した。蜂矢にそうまでされては、これ以上断るわけにはいかなかった。
「よし、難しい話はこれで終りや。女たちを呼べ」
蜂矢の一声で扉が開かれ、隣の部屋に待機していた十数名の美女がサロンに入って来た。その後はカラオケパーティーとなり、森岡も何曲か歌ったが、心から楽しむことなどできるはずもなかった。
車は米子自動車道を降り、鳥取県米子の市街地を抜けて産業道路に入った。
右手に、ちょうど島根半島を支える支柱、あるいは喉に突きつけられた短刀のような弓ヶ浜の松並が数キロに亘って続き、後方にはその弓ヶ浜から島根半島、そして日本海を俯瞰するように大山(だいせん)が鎮座している。『伯耆(ほうき)富士』の異名の持つ名峰である。
大国主命による国造りの際、能登半島の一部を綱で引っ張って来て出来たのが島根半島で、その折りの綱が弓ヶ浜、綱を括り付けた杭が大山という壮大な神話の残る土地柄である。
森岡は話し終えると、ふっと一つ息を吐いた。
「大事な相談がある」
その普段の彼らしからぬ物言いに三人は再び緊張した。
「俺はこれから修羅の道を歩むことになる」
「修羅?」
茜が訊いた。
「人間道から外れるということや」
仏教では、迷いのあるものが輪廻するという六つの世『六道(ろくどう、りくどう)』というのがある。すなわち、天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄である。
森岡は、もはや人の道を踏み外したことを悟っていた。
「これまでも大概やったが、これから先は本格的に落ちる」
「決心されたのですか」
森岡の心中を察した坂根が訊いた。
うむ、と森岡は肯き、蜂矢からの要請を受諾する決意を固めたことを告げた。
森岡は、蜂矢司から面会の要請があったときからこの事態を覚悟していた。思えば、霊園地買収に絡む神栄会との関わりが発端となり、峰松重一に福地正勝の救出を依頼したことが転落を決定付けたのかもしれなかった。
「人生は一度切りや。金や権力なんぞに興味はないが、どこまでやれるか挑戦してみたくなった」
これは森岡の偽ざる気持ちだった。これまで彼は、神村一途に生きて来た。神村の夢を我が夢とし、師の宿願の手助けをすることが、この世での己の使命だと得心していた。
だが、彼も人の子である。金、人材、社会的地位など、手にしたものが多くなればなるほど、それらを駆使し、別の形で自身の能力を試してみたいという欲望が芽生えていたのである。
「賛成です」
坂根が興奮の声を上げた。
「せやけど、極道社会と抜き差しならないようになってしまう。それでも、俺に着いて来てくれるか」
「何を言ってるんや」
南目が怒ったように言い、
「無論です」
坂根がきっぱりと言った。森岡が茜に視線をやると、彼女は黙って肯いた。
「茜、すまん。お前の心情を知っていながら、こういう仕儀になってしまった」
森岡は頭を下げて詫びた。
広島の的屋の親分だった茜の実父は、神王組との抗争に破れ、服役中に死去していた。いわば、神王組は父の敵である。ただ茜は、愛人を囲うなど何かにつけて母を粗略に扱う父を憎んでもいた。
「もう、何とも思っていないわ。洋介さんと出会って、恨みの澱はきれいさっぱり流したもの」
茜は優しい笑みを湛えて言った。
茜の表情に安堵した森岡は、
「三人ともおおきに、ほんまに礼を言うで」
ともう一度頭を下げた。
「せやけどな、十五年だけや。十五年でブックメーカー事業を軌道に乗せたら、全てを神王組に譲るつもりや」
「十五年? せっかく苦労して積み上げたものを譲るんか。神王組は美味しいとこ取りやんか」
南目が怒ったように言った。
「あほ。十五年以上もやったら、修羅どころか地獄にまで落ちることになる」
そう森岡が諭したが、
「人間界から転落したんなら、修羅でも地獄でも同じやろ」
と、南目は尚も不満顔で食い下がった。
「輝、修羅界と地獄界では丸っきり違うんや。修羅やったら、次の魂は人間界に戻れるかもしれんが、地獄やったら、何度も輪廻を繰り返さにゃならん。お前の身勝手でその後の魂が苦労する」
「はあ?」
南目はわけがわからなかったが、なぜか反論する気が失せてしまった。
仏教の教義を持ち出して煙に巻いた森岡だったが、実際は二つの懸念を抱いていた。
その一つは、十五年後といえば、神王組は寺島龍司から代替わりの時期に差し掛かっているはずである。首尾よく峰松重一が跡目を継げば問題ないが、そうでなければ、自身の立場は一気に流動的になる。身の危険さえ感ずるであろう。
もう一つは、恩師神村に関して森岡が抱く大いなる野望の足枷となる懸念があった。
「そこでだ。お前たちには一足先に今後の方針を教えておく」
森岡は語気を強めた。
「ウイニットが上場したら、俺は社長の椅子を野島に譲る」
「兄貴はブックメーカーに全力投球するんやな」
「それは違う。最初の五年は俺が先頭に立つが、その後の十年は南目、お前がやれ」
「俺が?」
南目は目を丸くし、
「兄貴、俺に社長なんか無理やで、兄貴がやらんのなら好之がいるやろ」
と気後れした声で言った。
「坂根には野島の後のウイニットを任せる。ええな、坂根」
「はい」
坂根は落ち着いた声で答えた。
一年以上も前、初めて榊原荘太郎と会った日の帰途で、森岡から発破を掛けられていた。
「じゃあ、兄貴は何をするねん」
南目は焦れたように訊いた。
「榊原商店ですね」
坂根が断ずるように言った。これもまたその帰途で、森岡から胸中を聞いていたのである。
「それもあるが、ちょっと事情が変わった」
森岡は、榊原商店に味一番が加わった持ち株会社構想を説明した。
「味一番やて? となると、売上が一兆円近い企業群やないか」
単純に、その事業規模に驚嘆した南目に対し、
「加えて、ブックメーカー事業ですか」
と、坂根は不安げな顔つきなった。森岡の身が持たないと案じたのである。
「心配するな、坂根。味一番は大会社やからな、日原さんに助力をお願いした」
と、森岡は裏事情を明かし、その懸念を払拭した。
「いつか三友物産の本社へ出向かれたのはその件だったのですね」
坂根も得心した顔をする。
「だがな、ますます忙しくなることには変わりはない。今後お前らにはいっそう頑張ってもらわにゃならん」
「しかし、俺がブックメーカー事業会社の責任者ってか」
南目はなおも逡巡した。
「輝、お前にはぴったりの仕事や思うで。俺が基本のレールを敷いてやる。お前はそれを延長して行くんや」
森岡は命令口調で言った。
森岡が、ブックメーカー事業の件を打ち明けた理由には、南目の高校時代の暴走族仲間を当てにしていたこともあった。この事業を推進すれば、要所で極道者との交渉に当らなければならない。
むろん、蜂矢六代目のお墨付きであるから、彼らから危害を加えられる恐れなど全く無い。だが、極道者と聞いただけで、急所が縮み上がるような軟弱者では務まらない。そこで、かつての暴走族仲間で南目の眼鏡に適った者数人を彼の手下としてリクルートしようというのである。
森岡の目に戸惑いを見せる茜が映った。
「茜、奈津実は全く関係ない。味一番を引き受けたんは、あくまでも福地の義父との縁を大事にしたかったからや。それに、俺が愛した最初の女性が奈津実であることは変わらん事実や」
森岡は、そう言って茜の手を取ると、凝っと見詰め、
「今、俺の心にはお前しかいない」
と握った手に力を込めた。
茜は黙って頭を垂れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます