第16話 第三巻 修羅の道 転落
一九九八年七月中旬、久田帝玄の別格大本山・法国寺晋山式は滞りなく執り行われ、残るは二ヶ月後の、大本山本妙寺の新貫主選出を待つばかりとなった。神村は支持者に対して、根回しを兼ねた挨拶回りを行うなど、周到な準備に余念がなかった。
そのような折である。
平穏な日々に風穴を開ける、急転直下の展開が森岡を巻き込んだ。
その日の早朝、森岡を一人の中年女性が訪ねて来た。社長室に通された女性は切迫した様子でいきなり森岡に泣き付いた。
「洋介さん、父を助けて下さい」
必死の形相で縋った女性の名は須之内早苗(さなえ)。福地正勝の次女であり、須之内高邦の妻であった。
「お義姉さん、いったい何があったというのですか」
「須之内が、夫が、父を拉致監禁したようなのです」
早苗は唇を震わせながら呻いた。
「何ですって!」
森岡も思わず驚愕の声を上げた。
「証拠は、拉致監禁したという証拠はあるのですか」
早苗は黙ったまま首を左右に振った。
「ですが、姉によると昨晩から父の所在が不明で、連絡も取れないということですし、高邦とも音信不通なのです」
福地正勝は長姉夫婦と同居していた。
「……」
森岡は無言のまま早苗を見つめた。森岡の、二人とも良い大人なのだから、という顔つきに早苗も気づいた。
「父も夫も几帳面な性格で、夜遅くなるときは必ず連絡がありました。それが無断外泊なんて考えられないのです。それに……」
そこで早苗は口籠った。
「お義姉さんには、何か思い当る節があるのですね」
森岡は優しい声でその先を催促した。
はい、と肯いてから早苗は重い口を開いた。
彼女の話によれば、須之内高邦は味一番株式会社臨時取締役会で、義父である福地正勝の、代表取締役解任の緊急動議を提案したのだという。須之内は前もって過半数の役員に根回しを済ませており、正勝の解任は必須だと思われていた。
福地自身も予想済みであった。
食品業界大手の味一番株式会社は非上場会社である。したがって、創業者である福地正勝が大半の株式を直接及び間接的に所有しており、株主総会で否決すれば復権は可能だが、それでは社内に対立と混迷が深まるばかりである。福地は、一旦は身を引いても、いずれ森岡の力を借りて態勢の建て直しを図る腹積もりでいたらしい。
ところが、蓋を開けてみて驚いた。須之内の緊急動議に賛同した役員が一人もいなかったというのである。
当の須之内には何が起こったのかわからなかった。福地は誰一人として役員の懐柔をしていなかったが、この機を捉えて須之内の専務取締役解任動議を逆提案した。
その結果、動議はすんなりと可決された。
この決定に逆上した須之内が、暴力団風の男たちを雇って、福地正勝を監禁するという暴挙に出たのではないかというのである。
「暴力団風?」
「最近、須之内の周囲に眼つきの悪い連中がうろついていたのです」
「須之内さんの目的は何ですか」
「会社の実権を父から奪いたいのだろうと思います」
早苗は、今にも泣き崩れそうになるのを必死で堪えている。
「私が馬鹿でした。夫の口車に乗って父に引退を強要するなんて」
早苗は後悔を口にした後、
「ただ私は、父の身体を心配し、隠居して余生をのんびりと過ごしてもらいたかっただけなのです。洋介さん、これは本心です」
と切実な目で訴えた。
「お気持ちは良くわかります。それで、警察には連絡しましたか」
「それはできません」
「なぜですか。最悪の場合、お義父さんの命に関わるかもしれないのですよ」
「……」
「須之内さんを庇っていらっしゃるのですね」
「……はい」
早苗は力なく肯いた。
森岡は、この期に及んでも夫を気遣うとは、まさに「女の性(さが)』だなと嘆息した。
「どこか心当たりの場所はありませんか。そうですね、たとえば須之内さんが所有する別荘とか」
森岡は、もし暴力団の拉致監禁だとすれば、案外灯台下暗しではないかと考えた。その方が手っ取り早いし、事が露見したとき、組関係の建物より抗弁も可能になる。
「北海道と軽井沢に別荘がありますが、違うようです」
「では、暴力団風の男たちについて、他に何か情報はありませんか」
「それらしい風体の男たちと一緒にいるところを、何度か見掛けたくらいです」
首を左右に振りながら答えた早苗が、何やら思い付いたように森岡を見据えた。
「そういえば、聞き慣れない名前を耳にしたことがあります」
「どのような」
「高邦が、電話で『いっしんかい』とか何とか、口にしていたような気がします」
「いっしんかい……」
森岡は首を捻った。聞いたことのない名称であった。
「何かの親睦団体かもしれませんし、雲を掴むような話ですね」
と難しい顔をした森岡に、
「父は、日頃から口を開くと洋介さんの話しばかりをしていました。このようなことになってしまい、頼れるのは洋介さんしかいません」
早苗は必死の形相で懇願した。
「もう一度、確認します。警察へは届けないのですね」
「これは姉妹も同意しています」
わかりました、と森岡は肯いた。
「とりあえず、お義姉さんの意に沿って私なりに動いてみますが、結果は保証できませんよ」
「覚悟しています」
「探索調査の途中でお義父さんの命が危ういと判断したら、迷わず警察の力に頼りますが、それで良いですね」
「宜しく、宜しくお願いします……」
森岡の手を取った早苗は、力尽きたように泣き崩れた。
このとき、森岡は自身の責任も感じていた。情に絆されてしまい、福地正勝の懇請を受け入れ、味一番の株式取得を受諾してしまった。それが須之内高邦の焦りを生み、非道のきっかけになった、あるいは拍車を掛けたと推察できたからである。
同時に、暗澹たる気持ちにもなっていた。須之内がまさか義父である正勝の命までは奪わないだろうと思っていたが、暴力団が絡んでいるとなると、一筋縄では行かないことが明白である。
苦渋の末、森岡は神栄会の若頭・峰松重一を頼ることにした。
神栄会との関わりを今以上に深めることは、森岡自身も実に危うい行為だと重々承知していた。世間からウイニットは暴力団と一蓮托生の企業だと認定されかねないからだ。
だがしかし、須之内の背後に暴力団員と思しき男たちが蠢いているとなれば、峰松ほど心強い者はいないというのも事実である。早苗の希望もあって、当面警察を当てにできないとなれば、残る手立ては『毒には毒を以って制す』ことしか他に手立てが思い付かなかった。
森岡は、この場に蒲生亮太一人を伴っていた。
いずれ何某かの事業を任せるつもりでいる坂根好之と南目輝は、可能な限り裏社会から遠ざけて置きたいとの思惑がある一方、この先も護衛役として命を預けることになる蒲生には己の生きている世界を全て晒すつもりだった。
蒲生にしてみれば、事前に伊能剛史から情報を得ていたとはいえ、経済界から宗教界、果ては暴力団までと、その幅広い人脈に驚愕したが、森岡の人物、器量と相まって新しい世界に生きる覚悟を固めていた。
帝都ホテル大阪のスイートルームにおいて、森岡は一連の事情を峰松に説明した。
開口一番、峰松が耳寄りなことを口にした。
「たしかに、神王組(うち)の傘下に『一神会』という組はあるがな」
「本当ですか」
森岡は目を大きく見開いた。期待はしていたが、まさかこうも早く当たりが付くとは思ってもいなかった。
「おう。それで、森岡はんはその福地社長とやらを監禁をしているのが、その一神会だと睨んでいるのでっか」
「いえ、それは断定できません」
森岡は首を横に振った。
「義姉も電話の会話中に出た言葉に過ぎないと言っていますから……ただ、義姉は須之内が暴力団風の男と接触しているのを目撃していますし、『いっしんかい』という言葉から、今言われた一神会の可能性は低くないと思います」
森岡は一呼吸間を置いてから、峰松を覗き込むようにした。
「それとなく探って貰えませんか」
「うーん」
峰松が困惑の体で考え込んでしまった。
「何か不都合でもありますか」
「たいていの組とは談判できるが、一神会はちと厄介な組でな」
「厄介?」
森岡は、峰松の煮え切らない態度を初めて見た。
「実はな」
峰松は腹を括ったように口を開いた。
五代目が年内中の勇退の意向を発表した神王組では、六代目には現若頭で、神戸竜神(りゅうじん)組、蜂矢司(はちやつかさ)組長の襲名が内定していたが、その若頭の座を巡って、大阪神栄会会長の寺島龍司と、京都一神会会長の沖恒雄(おきつねお)との間で激しい綱引きが行われていた。
神栄会は、万人が認める神王組随一の武闘派組織であり、組の悲願である全国制覇の先陣を切って来た本流中の本流、徳川幕府で言えば譜代である。
一方、一神会は後発組、つまり外様でありながら、経済面で神王組を支えてきた、いわゆる経済ヤクザである。
一神会は、一昔前のバブル時代には地上げや土地の転売で巨万の利益を得、数年前から始まったITバブルでは、新興市場の上場基準や株主監査が甘いと見るや、IT関連企業を設立、上場させて創業者利得を得るなど、思うがまま巨利を手にしていた。
そうして得た潤沢な資金は、株式や商品取引相場、貸しビルや金融業などで運用され、さらなる利益を生み出していた。この経済力を背景に、神王組内で発言力を増している新興勢力だった。
暴力団対策法の施行以来、暴力団のいわゆる『しのぎ(経済活動)』は窮屈になり、経済的に追い込まれて行く組が続出する中、そうした資金量にものを言わす組に光が当たり始めていた。
また、全国制覇を成し遂げたことで、皮肉にも目立った対立抗争が無くなったため、今や武闘派というだけでは、その存在価値が薄まりつつあった。
まさに、時代は武闘派から経済ヤクザ組織への転換期にあった。
ともかく、神王組六代目の若頭の座を巡って対立している一神会に口を挟む行為は、内部抗争の火種になりかねないのである。
「そういう事情がありましたか。それでは、いかに峰松さんといえども、迂闊に手が出せませんね」
森岡は落胆の色を露わにした。
だが、反して峰松の両眼が鋭く光った。
「いや。森岡はんの協力次第では、なんとか出来んこともない」
峰松にとって、親分である寺島龍司が六代目の若頭の座に就くことは、己の栄達への因(よすが)となる。六代目若頭の地位は、七代目の筆頭候補ということであり、首尾よく親分の寺島が七代目を襲名すれば、峰松はその若頭の有力候補の一人に浮上することになるのだ。
「私は何を」
すれば良いのか、と訊いた。
「金やな」
峰松は単刀直入に答えた。
「何しろ、神栄会(うち)は金にはは無頓着やったから、一神会にはとうてい太刀打ち出来ん。そこでや、森岡はんがなんぼか融通してくれはったら、大いに助かる」
この場合の無頓着というのは、同業の他組織に比べてという意味である。極道者はすべからく金銭感覚は鋭い。したがって、一般人の能天気ということではない。
「しかし、バブル時代に儲けたとなれば、一神会の資金力は相当なものでしょう。数百億、いや数千億じゃないですか」
たぶんな、と峰松は認めた。
「せやけど、全額国内にあるわけやない。むしろ、当局の監視の目がうるさかったから、ほとんどは海外に置いているはずや。となると、一度にそないな大金は、国内に持ち込めん。それに、一神会に真っ向から金で張り合うつもりなど、努々思ってはおらん。せやけど、丸腰というのもいかにも具合が悪い」
森岡は峰松の意図が読めた。
「金額によっては、戦える目途が付くということですか」
「まあ、そういうことやな」
「いくらですか」
峰松は親指を立てた。
「大きいのを二本と言いたいところやが、神栄会(うち)もあらゆる手段を講じて金を集めとるから、といっても恥ずかしながら、たった一本しか都合が付かんがな……そこで、何とか一本融通してもらえたら助かるんやがな」
彼らの世界では人差し指が百万、親指が億を表し、大きい方と言えば、それぞれ一千万と十億を指すことになる。大抵の経済活動はこの二本で事足り、その他は直接口にした。
森岡は、過去にある事業計画を巡って、極道絡みの男と接触した経験からこれを承知していた。
「十億ですか」
森岡は腕組みをして目を瞑った。
「いや、十億全部をくれとは言わん。七億は借りということにしてくれんかの」
手間賃は三億円だと言った。
森岡は返事をせず、瞑目を継続した。
「森岡はんでも無理でっか」
様子を窺っていた峰松が焦れたように声を掛けた。
このとき、森岡が熟考していたのは金額の多寡ではなかった。峰松に頼み事をするとなれば、見返りとして多額の金銭を要求されることは覚悟していた。
彼も三億円までなら自身が現金を用立て、痕跡が残らないようにするつもりだった。だが、総額十億円ともなれば、おいそれと右から左へ動かせる額ではない。森岡は如何にして証拠を残さずに用立てることができるかを思案していたのである。さらに言えば、七億円も返らないことを前提にしていた。
森岡は、ゆっくりと目を開けた。
「良いでしょう。十二億、用意しましょう」
「十、二?」
「はい。しかし条件があります」
「うん、うん。何でも聞きまっせ」
峰松の声に張りが戻った。
「まず、年間三億ずつの四年間に分割します」
「分割のう」
「峰松さんのところで、どこからか十億借りられませんか」
「神王組内で借りられんこともないが、利息が高いけんの」
と言い掛けて、峰松が気づいた。
「あっ、二億は利息やな」
「はい」
「よっしゃ。それは何とかしよう」
「次に、峰松さんには言い難いですが、私と神栄会の繋がりが世間の知るところになっては困ります」
「そりゃあ、そうや」
峰松も納得顔で肯いた。
「噂の類は構いませんが、証拠を残したくはありません」
「もちろんやな」
「そのためには、金の動きには細心の注意を払う必要があります」
「なんか良い智恵はありまっか。こっちは、なんでも森岡はんの言う通りにしまっせ」
「宗教法人を利用しましょう」
峰松の顔が曇った。
「宗教法人なあ。良い手やが、わしとこは持っておりまへんのや。すぐに買ういうても、昨今は厳しいでっしゃろ」
宗務に関する収入が基本的に無税の宗教法人は、一昔前までは暴力団の格好の的となっていた。休眠法人も多く、一般の末寺であっても二、三億で売買されていた。そこには暴力団の資金が多く流入していたのは周知の事実である。
京都の、とある有名な庵は、敷地が二百坪ほどにも拘らず、十五億円という値段で売りに出されていたが、すぐに買い手が付いた。寺院というよりお茶室が有名な庵だったが、京都に本拠を置く暴力団の傘下企業が落札したのである。それだけ、宗教法人は旨みがあったのだが、当局の監視が厳しくなり、迂闊に手を出せなくなっていた。
「それは心配要りません。友人が所有している宗教法人を利用します。毎年三億の寄進をし、そこを経由して神栄会へ廻しましょう」
「宗教法人まで用意してくれはるでっか……おおきに」
峰松は相好を崩して頭を下げた。
「詳細は友人を交えて詰めるとして、この条件で一神会と話が付けられますか」
「その十億と合わせて二十億を蜂矢組長に上納するよう、寺島の親父に進言するわい」
峰松は胸を張った。
「六代目に裁定を仰ぐのですね」
「そういうことでんな」
峰松は肯くと、一転してばつの悪そうな仕草をした。
「それでや。今さら言い難いのやが、正直に言うとの、実は一神会の動向はある程度掴んどるんや」
「義父の監禁をすでにご存知だったのですか」
森岡は驚きの目で訊いた。
「人物の特定までは出来へんかったが、どこぞの会社のお偉いさんを監禁していることは耳にしとった。せやから、森岡はんの話で繋がったということや」
「では、最初に話されなかったのは、私から金を引き出すための駆け引きですか」
森岡の語調が強まった。
「いや、すまん。あんたには、もう駆け引きはせんつもりやったが、今回だけは背に腹は代えられんかったんや」
峰松が面目なさそうに詫びた。
「いえ、峰松さんを責めるつもりはありません。それより義父の無事解放をお願いします」
よし、と峰松は両手で両膝を打った。
「話が決まれば、腹を括って交渉するわ。なあに、今どき堅気を監禁なんてやらかしおって、沖会長が知ってのことか、それとも須之内とかいう男からの金を目当てに、下の者が独断でやらかしたことかはわからんが、こっちが弱みを握ったことには違いはない。警察沙汰になろうがなるまいが、一神会の失点やな」
金の算段が付いたからか、峰松は余裕の笑みを見せた。
神王組は日本最大の暴力団であり、約二千五百名の構成員を擁する神栄会は、神王組の中でも一、二を争う看板組織である。そのナンバー二である若頭ともなると、ただ腕っ節が強いだけではないということなのだろう。
峰松は六代目神王組の若頭の座を巡って、一神会との鬩ぎ合いになると踏んだ頃より、一神会の内部に内通者を飼っていたのである。一神会は経済ヤクザだったため、血の結束を誓う武闘派より組に対する忠誠心は薄い。そのあたりに付け込んだ峰松の老練な仕掛けだった。
その後、峰松は内通者からの新たな情報を元に、若衆を総動員して一神会の更なる動向を探らせ、彼らが福地正勝を滋賀県大津の街、琵琶湖の畔の廃屋ホテルに監禁していることを突き止めた。
バブル時代に着工したが、施工半ばにバブルが弾けて建築主が破産しため、外装は済んだものの、内装が半ばのまま野晒しになっているものだった。深夜になると、頻繁に物音がしたため、付近の住民は幽霊ホテルと恐れ、近付く者もなく監禁場所としては打って付けであった。
峰松から連絡を受けた森岡は、かつて義姉だった福地三姉妹に会って、警察沙汰にならないためには十二億円が必要だと説明した。三人が相談した結果、責任の重い当事者の早苗が六億円、長女と三女が三億円ずつ捻出することになり、それぞれ持ち株を売却することで話が纏まった。
三姉妹は、それぞれ味一番株式会社の株を、発行株式総数の五パーセントに当たる五百万株ずつ所有しており、時価に換算すれば二十五億円相当の価値があった。
もっとも、三姉妹とも現金資産を持ち合わせており、結局のところ株式の売却は早苗の五十万株のみであった。
森岡は榊原壮太郎に事情を説明し、株の引き受けを願った。味一番は業績も良く、もし上場すれば、株価は最低でも三倍になることが予想された。つまり、榊原は労せずして五億円以上の利益を得ることになる。
とはいえ、榊原にとっては五億円程度、いや金銭的な利益など一切眼中に無い。後継である森岡の願いとあれば、どのようなことでも協力する気構えなのだ。
舞台となる宗教法人は、高校時代の友人である斐川角雲栄の自坊に目を付けた。後日、雲栄とは手数料として二パーセントを布施する旨の約定で話を付けた。年間六百万円の実入りであり、雲栄にとっても悪い話ではなかった。
話は密談直後に戻る。
会談を終えると、森岡と蒲生が先に部屋を出た。
エレベーターホールに待機していた坂根と南目の両名と合流し、高層階から一階のロビーに降り、オープン喫茶店の前を通り掛ったときだった。
南目が、
「あっ」
と小さな声を上げ、その場に立ち竦んでしまった。彼の目は、喫茶店のあるテーブルに釘付けとなっていた。
「知り合いか」
森岡が訊いた。彼もまた、南目の視線の先を凝視していた。
「ちょっと」
と気のない返事が返ってきた。
「揉めているようですね」
坂根も心配げな表情で口を挟み、蒲生は鋭い眼つきで事態の把握に努めていた。皆が見つめていたテーブルには、母娘らしい女性二人と明らかに堅気とは思えない三人の男が同席していた。その様子から、母娘は男たちに責め立てられているようであった。
「輝、知り合いか」
森岡がもう一度訊いた。
「ああ。大学時代の……」
南目は心ここに在らず、といった顔つきである。
「彼女らは母娘か」
「え? あ、うん」
「名前は?」
「前杉さんというんや。娘は美由紀、母親の方は確か、恭子だったかな」
南目の声は愛惜の響きを帯びていた。
「そうか」
森岡は、そう言うや否やツカツカと彼女らのテーブルに近づいて行った。
「あ、兄貴」
思わぬ森岡の行動に、南目は瞬時身を硬直させたが、あわてて後を追った。
「前杉さん、何かお困りですか」
「は、はい?」
突然、見知らぬ男に声を掛けられ、前杉母娘は困惑の表情になった。
「なんじゃ、お前は」
三人の中では、一番若い男が凄んだ。話を中断され、気分を害したようだ。
「前杉さんの古い知人です。偶然、前を通り掛り、何年ぶりかに姿を拝見したもので、懐かしさのあまり声を掛けてしまいました。話の腰を折ったのであれば謝ります」
森岡が頭を下げたとき、前杉母娘の目に南目の姿が映った。
「南目さん!」
母娘は同時に声を上げた。南目は、彼女らを安心させるかのように無言で肯いた。
「前杉さん。何かお困りでしたら、お力になりますが」
森岡はいかにも親身な口調で言った。
「お前が力になるやと? 何者や」
二人の、兄貴分らしき男が訊いた。
「これは失礼しました。私は森岡と申します」
「森岡はんとやら、あんた、この人らの力になると言うたが、借金の肩代わりをしてくれるんでっか」
「揉め事は借金でしたか。金で済むのであれば、いくらでも肩代わりしますが」
「兄貴、いや社長。それは……」
「お前は黙っていろ」
小声だったが、南目の言葉を封じるには十分な威圧があった。
「ほう。金額も聞かんとか? 奇特なことでんな」
「いくらですか」
「八千万やで」
兄貴分の男は、嘲笑するように言った。
「なあんだ、八千万ですか。貴方の言い方ですと、てっきり一桁上かと思いました」
森岡が笑顔を向けた。
「なんやと!」
若い男がいきり立った。兄貴分が小馬鹿にされたと思ったのである。
緊迫した空気に包まれたときだった。
「森岡はん、どないかしはりましたか」
と後方から声が掛かった。世間の目を避けるため、時間をずらして部屋を出た峰松重一が、森岡の姿を看とめ様子を伺っていたのである。
「こ、これは神栄会の若頭」
三人の男は、飛び上るように椅子から立ち上がると、
「若頭はこの森岡という人とお知り合いで」
と兄貴分の男が緊張の声で訊いた。
「知り合いも何もあらへんがな」
峰松はそう言いながら彼に近づくと、耳元で何やら囁いた。
「ひぇー」
三人の男は一斉に悲鳴を上げた。
「森岡はん、こいつらは誠神会の枝の、そのまた傘下の金融屋ですわ」
峰松があらためて紹介すると、三人は米搗き飛蝗のように何度も頭を下げた。誠神会も神王組の直系ではあるが、神栄会とは比べようもなく弱小組織なのである。その傘下の、そのまた枝となれば、峰松とは取締役と係長程度の差があった。
「峰松さん。先ほどの件、宜しくお願いします」
森岡が丁重に頭を下げ、暗に退席を促した。
「そうでんな。あまり長居をすると、差し障りが有りまんな」
意図を察した峰松も素直に応じた。
「南目、お前は向こうのテーブルで前杉さんの相手をしていろ。坂根もや」
峰松が去ると、森岡はそう命じて前杉母娘を遠ざけた。裏交渉を聞かせないためで、この場も残ったのは蒲生一人だった。
当の前杉母娘は、降って沸いた急展開に、泡を食った顔つきである。
「さて、では本題に入りましょうか」
森岡は穏やかな口調で言った。
「本当に森岡様が肩代わりをして下さるので」
兄貴分の言葉があらたまった。
「もちろんです。ただし、借金の明細を教えて下さいますか」
森岡に催促されて、兄貴分は借用書を差し出した。
「ほう。十一(といち)とは法外ですね」
森岡はつい苦笑いをした。だが、三人の目にはそれが不気味に映った。何しろ、峰松から『五分の兄弟分だ』と耳打ちされていたのである。
『十一』とは利息が十日に一割、つまり年利に換算すると、三百六十%になる。言うまでもなく非合法である。
「森岡様が肩代わりして下さるのであれば、減額します。その代わりと言ってはなんですが、一括支払いをお願いできませんか」
兄貴分の男は、ずいぶんと下手に出た。
「現金で耳を揃えます。どのくらい勉強して頂けますか」
「利息の率を半分というので、どうでしょう」
「結構です。計算し直すと、残りはいくらになりますか」
「二千六百万ほどです」
兄貴分の男は、気まずそうに目線を落とした。
八千万円が二千六百万円とは、たいそうな値引きのように映るが、元々がそれだけ法外なのである。
前杉美由紀がいかに美形であっても、三十歳を超えたと思われる彼女の身体では、二千六百万円すら回収には時間が掛かる。それが重々わかっている彼らとしては、開き直った前杉恭子が警察や弁護士に相談する前に、美由紀を風俗店に売り捌き、何某かの金額を手にして手仕舞いにしようと考えていたのである。
恫喝しながら搾るだけ搾り取り、頃合いを見てさらに何某かの現金を掴んで撤収する。極道者というのは、実に相手の精神状態を見極めることに長けている人種なのである。おそらく、彼らはすでに元金は回収しているはずである。となれば、二千六百万円は法外も法外なボーナスということになる。
「では、切の良い三千万を明日持参します」
森岡は平然と言った。半分でも、年利は百八十%であり、非合法に変わりはなかったが、この手の手合いに合法の利息を要求するのも面倒な交渉であった。
「へっ? 四百万も色を付けて下さるので」
兄貴分は一瞬戸惑い、
「持参などとんでもない。こちらが出向きます」
と恐縮そうに言った。
「いや、私どもはこれでも一応堅気ですのでね。会社への来訪はご遠慮願います」
言葉は丁寧だったが、表情は有無を言わせぬものだった。
「わかりました。では、明日お待ちしております」
三人は腰を折って深々と頭を下げ、立ち去った。
何のことはない。借金した元金は、僅か一千万円だった。それが三年の間に膨れ上がっていたのだ。ただ、計算し易くするためか、複利ではなく単利だった。
「いったい、どうしたというのです」
南目が前杉母娘に訊いた。
「あの男、勝部に騙されたのです。南目君」
恭子は無念さを露にした。
「勝部? いったいどういうことですか」
恭子の口から出た因縁の名に、南目の心は千々に乱れた。
経王寺での同居生活で、森岡に感化された南目は、一念発起して大学検定試験に合格し、関西私立大学の雄・立志社大学に合格した。
立志社に入学した南目は、経王寺を出て大学前のマンションに住み移った。二DK、風呂、トイレ付きで、当時の相場で月額七万円の家賃であった。願った以上の更生を喜んだ父昌義が、毎月二十万円の仕送りをしたのである。
六畳間が二間あり一人住まいには十分な広さだったが、四回生のとき、そこにある居候が転がり込んで来た。
その男、勝部雅春(まさはる)はある事情があって親に勘当されたため、金銭的な援助が当てにできず、大学で同級生の南目輝に縋り付いてきたのである。
南目は、おそらく二、三ヶ月のことだろうと思い、仕方なく居候を認めた。
ところがである。アルバイトはしていたようだが、勝部の貧困は極まりなく、二人で行動するときは全て南目の持ち出しとなった。
喫茶店、ゲームセンター、ボーリング、食事等々、とにかく勝部は南目に集った。
ある日その勝部が、
「南目。裏の喫茶店で、もの凄く可愛い女性を見つけた。お前も一緒に行かないか」
と仰々しく話し掛けた。
勝部は、俳優並の男前で女性にもてた。その彼が興奮気味に言うのだから相当な美貌の持ち主なのだろう、と南目は思った。
だが、コーヒーや食事代を浮かせようとする勝部の魂胆も透けて見えたので、何かと理由を付けて断っていた。しかし、あまりのしつこさにとうとう根負けし、一度だけ付き合うことにした。
その喫茶店『エトワール』は、大学本通りから一本北の筋の、住宅が建ち並んだどん突きにあった。南目の住んでいるマンションからすぐ裏手に位置するのだが、なにせ住宅街である。とても喫茶店があるとは思えない場所であった。
――こんな辺鄙なところに喫茶店が?
南目は訝しく思った。
だが、勝部の話によると、大変に流行っている店らしい。およそ客商売が成り立つはずのない場所で人気を博しているということは、とりもなおさず勝部が興奮気味に言った、
『もの凄く可愛い女性』
というのも、まんざら大袈裟でもないことの証明であろう。
南目も少なからず興味が湧いた。
また彼女は両親にとても大切に育てられた、いわゆる箱入り娘らしく客商売を手伝っているのにも拘らず、擦れたところが全く無いという言葉も頭の片隅に残っていた。
「いらっしゃいませ」
店の扉を開けると、カウンターの中にいたママと思しき女性と傍らにいた若い女性が声を掛けた。可愛いらしい女性だったが、南目はこの娘ではないと直感した。
コーヒーを注文したときだった。
ツカツカ、という足音がしたかと思うと、カウンターの奥の扉が開いて、若い女性が入って来た。転瞬、一閃の涼風が吹き抜けたような、店内照明のルックスが上がったような、辺りが実にさわやかで華やかな雰囲気に包まれた。
あっ、と南目は思わず息を呑んだ。
――これは、男は参るなあ。
率直な感想だった。
瞳は潤みを帯びた光を湛え、鼻は高からず低からず形が整い、唇は少し厚めでルージュが映える。額が広く、細やかでさらりとした黒髪が肩の先まで靡いていた。
大阪梅田辺りを歩いていると、必ず声を掛けられるという。ナンパではない。芸能事務所のスカウトなのだそうである。東京の新宿や渋谷、原宿ならわかるが、大阪でも素人をスカウティングするのだろうか、と抱いた疑念は氷解した。
勝部が、躍起になって口説こうとしているのも理解できたし、彼女がいっこうに靡かないため、アルバイトの女性と自分を含めて、グループ交際から始め、そのうちに活路を見出そうと画策していることも察せられた。
それほど、彼女は魅力的な女性だった。
さて、二週間後のことである。
勝部が真顔で南目に相談を持ち掛けた。
当時、立志社大学の正門を出てすぐの右手に、閉鎖された食堂があった。歴史は古く、おそらくかつては学生相手の安価な食堂として繁盛していたのだろう。
ところが、大学側が自前の学生食堂の設備を拡充したため、徐々に需要が減ったのだろうか、とうとう不渡り手形を出し、倒産したらしい。
五十坪の敷地は二分割され売りに出された。いや正確にいえば、債権者である関西庶民信用組合が、事前に得意先に打診し、買い手はすでに決まっていた。
『その土地が何とかならないか』
というのが、勝部が持ち掛けた相談だった。彼の知人がそこに喫茶店を出したいというのである。なるほど、経営者としてみれば、喉から手が出るほど欲しい一等地ではあった。
しかし勝部の話では、すでに仮契約まで済んでいるとのことで、手の打ちようが無いのは明らかであった。
『仮契約をした人より、多額の預金をすれば何とかなるかもしれんな』
南目は精一杯の気休めを言った。
金融会社の特性として、関西庶民信用組合が打診したのは、自社の上得意先であることは間違いなく、そうであれば、その得意先を上回る預金をすれば、可能性があるかもしれないと思ったのである。
しかし、仮契約した者がどの程度の得意先なのかわからないし、仮契約を引っくり返すには、その何倍の預金をすれば良いのかもわからない。当然、勝部の知人の資産を知るはずも無く、そもそもそのようなことが可能なのかどうかさえもわからないという、ないない尽くしの、全く当てにならない提言であった。
それから数日が経った。
南目は年中行事の手伝いで、久々に神村の許を訪れた。法会が済んだ後、外で飲食となったのだが、手伝いの慰労ということで南目も相伴に預かることになった。
このとき、藪中(やぶなか)という五十代の男性が同伴していた。神村との会話から銀行員だとわかった南目は、勝部の話を相談してみた。すると、一般的事例として匿名で相談した南目に、実名を明かして欲しいと薮中が要望した。そこで、後日当事者である勝部を紹介した。
「えっ! 藪中専務さんを紹介してくれたのは南目君だったの」
母親の恭子は、酷く驚いた様子で訊いた。
「ということは、勝部の知人というのは前杉さんだったのですか」
南目も愕然として開いた口が塞がらない。
勝部に藪中を紹介した南目だったが、それ以上の深入りを避けるため、相談中は席を外していた。為に、詳細を把握していなかったのである。
一方、前杉母娘にとって表通りへの進出は悲願だった。路地裏の辺鄙な場所でさえ、それなりに繁盛しているのだから、表通りに店を構えられれば、と皮算用するのは人の欲として理解できる。
「勝部から相談を受けまして、藪中さんを彼に紹介したのです」
「まさか、そんな。勝部は自分の知り合いだと自慢していたのよ」
恭子は憤慨した。
藪中の尽力により、前杉母娘の念願は適った。彼が関西庶民信用組合に直接出向き、支店長と話を付けたのである。というのも、後日わかったことだが、関西庶民信用組合は、藪中が専務の要職にある大手都市銀行・日和銀行の孫会社だったのである。
南目が、かつて神村の自坊に寄宿していた学生だと知った藪中が、神村との関係を慮って尽力したというのが真相であった。
「ああー、なんと愚かだったのでしょう。そうとも知らず、私は大切な美由紀をあんな男と一緒にさせたなんて……」
「えっ? 美由紀さんは勝部と結婚したのですか」
南目は、何とも言えぬ声を出した。
「念願が適って有頂天になり、目が塞がっていたのね。あんなクズ男を過大評価してしまい、つい美由紀との交際を認めてしまったの」
恭子は歯軋りして悔しがった。
「その勝部に騙されたというのは、どういうことですか」
南目が話を戻した。
美由紀がやるせない表情で口を開いた。
「結婚した途端、彼が豹変したの」
「豹変?」
「それまで優しかった彼が、結婚した途端、暴力的になったの。会社も勝手に辞めてしまい、定職には就こうとはせず、私たちの収入を当てにし出したの」
涙声の美由紀に、南目は切なさで胸が塞がった。
「いえ、ヒモでも大人しいヒモなら良かったのですが、そのうち競馬、競輪、競艇、パチンコといった博打に手を出し、挙句に借金までしてしまったのです」
恭子が吐き捨てるように言葉を加えた。
「その果てがあの金融屋ですか。それで、勝部は今どうしているのですか」
「わかりません」
「わからない?」
「三年前、借金を残して行方を暗ましたのです」
「なんと、無責任な!」
南目は怒りを露にした。
「店の土地、建物を当てにして東京に逃げたようです」
「あのやろう、やはりいい加減な男だったか」
詰るように言った南目が、恭子の言葉尻に気づいた。
「店を当てにして? もしや、あの喫茶店は……」
「うう」
美由紀は両手で顔を覆った。
「借金の形に取られました」
恭子が口の端を歪めて言った。
喫茶店は、病死した夫の生命保険金を元手にしたものだっただけに思い入れもひとしおだったのだろう。
勝部が姿を暗ました後、彼女らが取り立てに遭い、店の売上から少しずつ返済していた。だが、なにせ法外な利息である。元金一千万円の利息は、三年で一億円を超えてしまった。とうとう立ち行かなくなり、土地と店舗を売却し、その一部を返済に充てたばかりだったのである。しかも、残金精算のため、美由紀を風俗店で働かせようとまでしていた、という経緯だった。
恭子が警察や弁護士に相談しなかったのは、ひとえに報復を恐れたからで、特に美由紀への災禍を心配しての自重だったと付け加えた。
「なんということを……」
南目は、母娘を襲った災難に悲壮な声を上げた。
「今日、南目さんにお会いしてなければ、美由紀はとんでもないことになっていました。地獄で仏、とはまさにこのことです」
恭子は手を合わせ、南目を拝むようにした。
「ママ。救いの神は俺なんかじゃなくて、兄貴、いや社長だよ」
南目は、ちょうど談判を終え、席に着こうとしていた森岡を見て諭した。
「ああ、そうでした。社長さんは、森岡さんとおっしゃいましたか」
「あらためまして、森岡洋介です」
森岡は軽く会釈し、
「私が肩代わりするということで話が付きましたので、どうぞご安心下さい」
と笑みを向けた。
「うう……」
両手で顔を覆った恭子に対し、美由紀は何やら思い当ったようで、
「森岡洋介さんって、もしかしたら、ウイニットというIT会社を経営する森岡さんですか」
と驚きの目で訊いた。
「良くご存知ですね」
「何かの雑誌に掲載されていました」
美由紀が種を明かした。
たしかに、この頃の森岡はIT企業を経営する時代の寵児としてマスコミから注目され始めていた。
「今、南目さんは社長さんを兄貴と呼んでいらしたようですけど……」
恭子が探るような目をした。
「ママ。学生の頃、不良だった俺を改心させてくれた恩人がいると言ったことがあったでしょう。それが、この森岡社長なのです」
「じゃあ、現在は森岡さんの下で働いているのね」
「そうです。命を懸けています」
南目が真顔で言い切った。
「そうだとしても、何の縁もゆかりも無い私たちが、ご好意に甘えて宜しいのでしょうか。返済する当てなどないのですよ」
恭子は恐る恐る訊ねた。そうはいうものの、森岡以外に頼りとする者はいなかった。
「ご懸念なく。輝は私の義弟も同然の男です。その義弟の想い入れのある知人の難儀を知って、手を差し伸べないわけには参りません」
森岡は柔和な笑みを浮かべて言った。
「それに返済して頂く方法は考えています」
「はい?」
恭子は首を傾げた。
「坂根、ウイニット(うち)のビルの一階の店舗はどうなってる」
不思議顔の恭子を他所に、森岡が訊いた。
「まだ、買い手は付いていないようです。うちが取得すればレストランですから、少し手を入れるだけで使用できると思います」
森岡の意図を察した坂根が答えた。
「よし、坂根。早急に奥埜清喜さんに連絡を取ってくれ」
奥埜というのは、元はJR新大阪駅界隈の豪農で、東海道新幹線の開通に伴う土地売却によって、一躍不動産及び金融資産家となった地元の名士である。ウイニットの本社が入っているビルも奥埜家の所有だった。
祖父徳太郎とは、大阪梅田で彼と茜がチンピラに絡まれていたところに出くわしたことで知り合い、孫の清喜自身とは西中島のスナックで出会い、意気投合していた。
森岡はコーヒーを一口飲んだ。
「失礼ですが、今仕事はどうされています」
「仕事どころか、住むところさえ困っています」
恭子は気恥ずかしそうに俯いた。
「では、ウイニット(うち)で働きませんか。社宅も用意しましょう」
「……」
前杉母娘は突然の申し出に声もない。
「あのレストランを喫茶店に衣替えするんやな、兄貴」
「そうや、そうすれば借金の取りっぱぐれがないやろ」
森岡が茶目っ気に言うと、
「兄貴はえぐいからなあ」
と、南目も笑顔で応じた。
前杉母娘の目には、その冗談を言い合う様子が、まるで実の兄弟のように映っていた。
「前杉さん、ウイニット(うち)のビルの一階に閉店したレストランがあります。うちが権利を買い取って、喫茶店を始めようと思います。そこで、営業を前杉さんにお願いしようと思うのですが、いかがでしょう」
「いかがもなにも、私たちにとって願っても無いお話です」
「売上高に応じた歩合給も考慮します。そして、いつかその気になられたら権利をお譲りしても良いですよ」
「えっ、まさかそのような……まるで夢のようです」
感極まった恭子は誰憚ることなく嗚咽した。
「喫茶店は福利厚生の一環です。担当は総務課長の輝ですので、よくよく相談して下さい」
森岡が南目に視線を送ると、
「二人だったら大丈夫。それにうちの社員がよう使うから繁盛間違いなしや」
と大袈裟な仕種で太鼓判を押した。
「まあ、南目さんは昔とちっとも変わっていないのね」
美由紀は眩しそうに南目を見つめた。その瞳の輝きに、森岡は新しい恋の産声を聞いた気がした。
その日、梅田の高級料亭・幸苑に於いて、福地正勝による森岡と榊原への御礼の席が設けられた。神王組の六代目が内定している蜂矢司の出馬よって、福地正勝は無事に身柄を解き放たれた。
寺島龍司から相談を受けた蜂矢司は武闘派である神栄会の、二十億円もの臨時上納を訝り、金の出所を問い質した。寺島は正直にそのうちの十億円が森岡の智恵によるものだと打ち明け、併せて森岡の師である神村正遠と、神王組三代目の田原組長並びに彼の舎弟だった金刃正造との因縁も説明した。
寺島の話を聞き終えた蜂矢は、半金の五億円を森岡に返金するよう命じた。金刃は蜂矢にとっても叔父貴に当たったため、遅まきながら神村の温情に義理を返そうとしたのである。
「此度、御両者には大変お世話になりました」
正勝は畏まって頭を下げた。
「堅苦しいことはよして下さい」
榊原が笑顔で言うと、
「お義父さん、もうそのようなことは……」
と、森岡も恐縮した。
「しかし、苦肉の策とはいえ、勝手な振る舞いでお義父さんに七億円もの損害を与えてしまいました」
森岡は低姿勢で詫びた。最終的に三姉妹が負担することになった七億円は、福地自身が調達する旨を聞いていたのである。
「何を言う。命さえどうなるかわからない状況だったのだ。それに、もし警察沙汰にでもなれば、娘婿による暴力団を使っての義父の拉致監禁など、マスコミの格好の餌食になるのは必定。そうなれば、我が社の信用は失墜し、損害は如何ほどになったか知れやしない。それを未然に防いでくれたのだ。感謝こそすれ、君が詫びることなど何もない」
と、福地が断じた。
「そう言って頂いて、肩の荷が降りました」
「しかし、須之内という男、とんだ食わせ者でしたな」
「私の見る目が無かったのです。早苗も目が覚めたようで、離婚する腹を決めたようです」
榊原の慰めの口調に、福地はがっくりと肩を落とし、
「手切れ金として三千万をくれてやりました」
と忌々しげに言った。
福地は会社の体面を考え、須之内を告訴しなかった。そのうえ、当面の生活が成り立つようにと手切れ金を渡したのだという。
「ただ、須之内は自分の判断というより、誰かの指示を受けていたようでした」
「と、おっしゃいますと?」
「監禁中に何度か電話で連絡を取っておったが、時折『R』がどうのこうのと言っておった」
「R、ですか」
森岡の声が上ずった。
「何か心当たりがあるのか」
「あると言えばあるのですが、私が耳にしたRと同一かどうか」
わからない、と森岡はその面を不審の色に染めて言った。
「ところで、須之内の要求はなんだったのですか」
「私と味一番研究所の持ち株のうち、全体の半数に当たる五千万株余を譲れということだった」
「評価額からすれば、二百五十億以上じゃないですか。須之内はそれほどの資産家ですか」
「とんでもない。あいつは平凡な一般家庭に育ったはずだ。それが、上手いこと早苗に言い寄ったのだ」
福地は忌々しげに吐き棄てた。
「では、その金はどこから」
「わからんが、それがRじゃないのかな」
「うーん」
森岡は首を傾げて唸ると、
「ともかく、今回の一件で娘夫婦らにも森岡君の力量が認識できただろうから、今後は何の遠慮もなく我が社への介入ができるようになった」
と、福地が言ったものだから、
「介入とは……福地さん、まさか洋介に味一番の経営への参画を求めていらっしゃるのではないでしょうね」
堪らず榊原が牽制した。
「本音を言えば、洋介君に会社を継いで欲しいのはやまやまですが、先約である榊原さんの手前、無理は承知しております」
福地は寂しそうに言った。
二人のやり取りを聞いていた森岡が居住まいを正した。
「お二人にご相談があるのですが」
「なんや、あらたまって」
「どうしたんや」
榊原と福地が同時に森岡を注視した。
「口幅ったい言い方で恐縮ですが、私にとって神村先生が恩師であれば、年齢は別として榊原さんは実の祖父、福地さんは実の父とも思っている大切な方々です。お二人には、私のような若輩者に目を掛けて頂き、またご厚情を賜り、身に余る光栄と感謝に耐えません。過日は、榊原さんから榊原商店の行く末を託され、福地さんからは味一番の経営の一翼を担うようご依頼を受けてもおります」
「……」
二人は無言で肯いた。
「そこで私案ですが、私のウイニットと榊原商店、そして味一番の三社の持ち株会社を設立して、三人がその会社の役員に就任するというのはいかがでしょうか」
「うっ」
「なにっ」
二人は思わず見合った。
「なるほど、そのような方法があったか、それならば、いずれわしとこも福地さんとこも、洋介が経営するということやな」
はい、と森岡は肯いた。
「ただ、現在味一番が年商八千億円、純利益が三百五十億円、榊原商店が同三百億円と十五億円、ウイニットが同百八十億円と十三億円というように、味一番が年商、利益共に他の二社の数十倍の規模ですので、持ち株比率は調整しなければなりませんが……」
「なんの持ち株比率など問題ではない。前にも言ったとおり、私の持ち株は全部洋介君に譲るつもりでおるから、懸念には及ばん」
福地が声高に言った。
福地正勝は、元来が学者であり研究者である。金銭的な欲望など微塵もない。彼の発明した調味料『味一番』関連の特許権は、味一番研究所が所有しており、販売権を味一番株式会社に貸与している。
したがって、調味料味一番の売上の三パーセントがロイヤリティとして味一番研究所に入る仕組みとなっていた。
昨年度の調味料味一番関連の売上は約二千億円、つまり約六十億円が味一番研究所の収入となった。福地は、障害者の息子と娘夫婦たちへの相続はそれで十分だと考えていたのである。
もっとも、味一番研究所が味一番株式会社の五十パーセントの株式を所有しており、その味一番研究所の九十五パーセントを福地正勝が所有しているのだから、実質的には福地が味一番を所有していることに変わりはない。
だが、福地正勝亡き後の状況を考察すれば、味一番研究所の株主は、彼の家族に分散されることが濃厚であり、二十パーセントという筆頭且つ大株主となる森岡の発言権が強大なものになることは間違いない。
「そうやで。わしとこも、わしら夫婦の持ち分はもちろん、娘たちの持ち株の大半も譲るつもりでおるから全く問題ない」
と、榊原も賛同した。
二人がこうまで森岡洋介を信用し、また引き立てるのは、稀代の高僧で人格者の神村正遠の薫陶を受けているからというだけではない。森岡であれば必ずや自分たちの孫を、立派な後継者に育ててくれるという確信もあったからである。
「では、この件は私が法律に則って素案を立て、その都度お二人とご相談するということで、宜しいでしょうか」
森岡が念を押した。
「おお。それならば、今後は頻繁に洋介君と酒が飲めるということだな。雨降って地固まるの例えではないが、七億は洋介君が後を継いでくれるための肥やしと考えれば、少しも惜しくないわい」
福地がにやりと笑うと、
「福地さん。洋介にバトンを渡すまで、お互いもうひと頑張りですな」
榊原も張り切って見せた。
森岡は五年後を睨み、自らは持ち株会社の代表に座り、ウイニットは野島に、榊原商店は正直で律儀な住倉に任せ、所帯の大きい味一番は意中の人物に数年間経営を委託する腹積もりを固めていたのである。
こうして衝撃を齎した須之内高邦による福地正勝監禁事件は、森岡に新たな事業構想を発案させる素因となったのだった。
ただ、森岡の心には暗雲も生じていた。
須之内高邦と筧克至の間に『R』という共通の隠語が存在する。
もし、須之内と筧がRなるものを介在して繋がっていれば、彼らは個々に敵対しているのではなく、Rなるものの意思により共謀しているとも考えられ、霊園の買収地の情報は偶然ではなく、必然的に漏れたものだと考えざるを得なくなる。
しかも、そのRなるものは巨額の資金を調達できるらしいこと、仮に警察沙汰になったとしても、須之内のみをトカゲの尻尾として切り捨て、事を収束させる政治力も有しているらしいこと、つまり想像以上に巨大な組織、または個人だと推測されるのである。
いずれにせよ、Rなるものの正体が掴めない以上、敵視される理由もまた見当が付かなかった。このことが森岡の苛立ちをいっそう増幅させていた。
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