第10話  第二巻 黒幕の影 俊英

 新しい年が明けた。

 例年であれば、大阪黒門市場から新鮮な魚介類を大量に仕入れ、ウイニットの社員を自宅に呼んで、盛大な新年会を催すのが慣例となっていたが、一九九八年は静かな年明けとなった。

 坂根好之と南目輝もそれぞれ帰省したため、森岡は生まれて初めて一人切りの正月を過ごしたのだが、彼が寂しく感じることはなかった。京都大本山・本妙寺新貫主の座を巡る暗闘もいよいよ佳境を迎え、ますます闘志を漲らせていたからである。

 正月の三ヶ日が過ぎ、営業を開始した幸苑に於いて神村正遠、谷川東良、森岡洋介による新年会が行われた。大阪に戻っていた坂根と南目は隣室で膳を取った。

 久々、一堂に会した三人は、森岡が霊園事業計画を報告した後、その流れで密談に入った。

 神村と谷川東良にしても、法国寺対策を森岡一人に委ねていたのではない。二人は、藤井兄弟の間を裂けないか、すなわち兄清堂に法国寺の件から手を引かせる方法はないかと思案を重ねていた。

 次期法主が確実視されている総務清堂の力が強大なのであって、清慶一人であれば、久田帝玄とは比べようもなく小さいのだ。

 むろん、首尾よく総務清堂に手を引かせたとしても、静岡の大真寺、法真寺、国真寺の大本山三ヶ寺は総務清堂の心中を慮って、清慶支持を変えないであろうが、他の貫主を正面切って次期法主に楯突く罪悪感から開放することはできる。中でも大河内法悦の気持ちを、久田帝玄に向かせ易くなることは間違いなかった。

「藤井兄弟、特に総務さんのアキレス腱が見つかると良いのですが」

「アキレス腱なあ」

 谷川東良は気の抜けたような声を出した。

「どんな些細なことでも、構いませんが」

 森岡は少し声を強め、催促するように言った。

「そう言われても、華の坊は名門やし、個人的にも何ら問題はない。第一、そうやなかったら法主に手が届く総務になんかになれるはずもない」

 あまりに素っ気なく聞こえた。その捨鉢のような言い様に酷く無気力さを感じた。これまで真剣に思案していたというのは本当だろうか、と疑念さえ抱いた森岡は憤然として声を荒げた。

「そう言ってしまえば、それで終わりでしょうが!」

 まるで人が変わったような形相に、

「森岡君、そう苛立つな。谷川上人も悪気があってのことじゃない。別に谷川上人の肩を持つわけではないが、総務清堂上人個人に限っていえば、法主に相応しい人格者なのだよ」

 神村があわてて仲裁に入った。彼にしても、これほど感情を露にした森岡を目の当たりにしたのは初めてのことだった。

――おや? なにやら印象が変わった。その、一つ殻を脱いだような……。

 これまで牧羊のように従順だった森岡が、年配者である谷川東良に対して語気を強めたことは、神村にとっても意外なことだったが、彼は好意的に捉えていた。

「申し訳ありません、先生。少し興奮してしまいました。ちょっと、中座します」

 森岡はお手洗いと称し、席を立って部屋の外に出た。彼が神村の前で言葉を荒立てることなど、大変に珍しいことだったが、これにはいくつもの伏線があった。

 第一に、このところの谷川東良の態度が不満だった。

 大本山本妙寺の件のときは、それなりに精力的に動いていた彼が、焦点が別格大本山法国寺に移ってからは、やる気のない態度を取り続けており、連絡が取れないことも多々あったのである。

 たしかに、仏教の真髄を極めることに消極的で、修行も疎かにしてきた東良は帝玄の覚えが悪かった。厳しい直言を受けたことも何度かあったという。したがって法国寺の件には気乗りがせず、関わりを持ちたくない心情も理解できなくはない。

 また、兄の東顕が直接乗り出したことも気に入らないのかもしれないが、全ては本妙寺に繋がっていることを忘れているように思えてならなかったのである。

 そしてもう一つ、彼の苛立ちを増長している要因があった。

 二十六年の長きに亘り、胸の奥底に封印していた秘事を茜に告白したことにより、憑き物が取れたように心が軽くなった森岡はある決断をしていた。

 告白の翌日、森岡は探偵の伊能剛史に極秘の来院を要請した。

 思いも寄らぬ森岡の惨状を目にして言葉を失った伊能に、私的な事で詳細は明かせないが、と前もって断りを入れ、ある人物の調査を依頼した。

 他ならぬ石飛将夫である。

 森岡は、あの夜の襲撃の犯人は石飛将夫だと確信していた。最後に彼の顔を見たのは二十六年も前の少年時代のこと、しかもマンションの入り口の薄明かりの中、その輪郭をはっきりと確認できたわけではなかったが、腹部を刺された瞬間、あの笠井の磯での惨劇が頭を過ぎっていたのである。

 森岡は病室のベッドに横たわり、夕闇に暮れ行く空を眺めながら、その後の石飛家の消息に想いを馳せてみた。

 故郷を追われた彼らが、見知らぬ土地で苦労を強いられたであろうことは容易に想像できた。将夫少年が、不可解な弟の死に疑念を抱き、灘屋の理不尽な仕打ちに恨みを抱いて生きていたとしても無理はない。

 そして現在、この世にその恨みを晴らせる相手は自分しか残っていないのである。あの凶刃は、その怨念の一撃だったと森岡は悟っていた。

 森岡は、伊能単独での調査を依頼した。伊能らの能力であれば、あの二十六年前の事件に辿り着くであろう。そうなった場合、森岡は伊能の疑念に答える覚悟をしていたが、余人には知られたくなかったのである。

 ずいぶんと昔の一件であるうえに、単独行動であったため、さすがの伊能も調査に手間取っていることは推察できたが、森岡は彼の結果報告を一日千秋の思いで待ち続けていたのだった。

 

 森岡はトイレの用を済ませても、すぐには席に戻らなかった。廊下に立ち止まって裏庭を眺めながら、暫し高ぶる気持ちが落ち着くのを待っていた。

 庭の草木は、夜になってちらつき始めた粉雪で、薄化粧の装いとなっていた。

「どうなさったのですか? 森岡さん」

 突然、背中越しに女将の村雨初枝が声を掛けてきた。

「いえ、ちょっと」

 森岡は気恥ずかしそうに目を伏せた。

「少し声を荒げていらっしゃいましたね]

「外にまで漏れていましたか……御迷惑をお掛けました」

「いえ。そのようなことは、気になさらないで下さい。たまたま通り掛かったときに、森岡さんの声が聞こえたものですから。でも、珍しいこともあるものだなあと、気に掛けていましたのよ。そしたら、こちらに向かっておられるお姿が見えたものですから、思わず声を掛けてしまいました。お邪魔でしたら、すぐに退散致します」

「邪魔だなんてとんでもない。女将と話をすると、何故か心が落ち着きますから」

「では、一言宜しいですか」

 女将の表情があらたまった。

「何でしょう」

「どういったご事情かは存じませんが、森岡さん、腹を立てたら負けですよ」

「えっ?」

「腹を立てると、相手の真意が読めなくなってしまいます。それだと、交渉事は上手く行くはずがありません。相手がわざと挑発していることだってありますしね。今の森岡さんが、それに当てはまっているとは思いませんが、でも相手の腹の内が見えなくなるという意味では同じでしょう。谷川さんに不信感を抱いていらっしゃるなら、余計に冷静にならないといけませんわ」

 なるほど、と森岡は思わず唸った。

「さすがは女将。これは一本取られました」

「こんなことを口にするのは、本来女将としては失格なのでしょうが、正直に申し上げますと、私も谷川さんはあまり好きなタイプではありませんの」

「へぇー、女将の口からそんな言葉が出るとは、思いもしなかったなあ」

 森岡は、わざとらしく言った。

「あら、私もまだぎりぎり四十代ですから、女として十分現役ですよ。男性の好き嫌いだってありますわ」

 女将もおどけて見せた。

 魅力的な笑顔が零れていた。しかも、雪割草のような凛とした芯の強さがあり、並みの男では太刀打ちできない貫禄も備えている。

「いや、そういう意味で言ったつもりではないのですが」

 森岡は頭を掻きながら、

「では参考までに、女将の好きなタイプをお伺いしたいですね」

 と訊いた。 

「そうですね、性悪のように見せ掛けて、内実は純粋な人かな。たとえば、森岡さんのようにね」

 女将はそう言って、ウインクをした。

「あははは……有難う御座います。女将のお陰で、今度もまた気持ちが晴れました」

 森岡は腹の底から笑った。こんなに愉快な気持ちになったのはいつ以来だろうと思いながら、女将のやさしい心遣いに感謝していた。

「でも冗談でなく、谷川さんには心を許さない方が良いと思いますわ。これは私の勘ですけどね」

「女将の勘なら疑う余地もありませんね。肝に銘じておきます」

 森岡はすでに真顔に戻っていた。

 三十年の長きに亘り、何百人、何千人という一流の男達を見てきた女将の人を見る目に狂いはない。まして、女将の人間として一本筋の通っている生き方にも一目置いていた森岡は、彼女の忠告ならば、素直に耳を傾けることができた。

 彼は、女将のある逸話を知っていた。

 それは、七年前のことである。幸苑から一筋東にある近畿循環器病院に、日本最大の暴力組織・神王組傘下の、とある大物組長が入院していたことがあった。ある日、その見舞いに訪れた地方の極道者達が、その帰りに食事をするため幸苑にやって来た。

 幸苑は、暴力団関係者の出入りを堅く禁止していたので、係りの者が断りを入れると、数人の下っ端が難癖を付け始めた。幸苑を良く知る地元のヤクザならそのような悪態は付かないが、事情に明るくない地方の極道者だったため粋がって見せたのだ。

 困り果てた係りの者が女将を呼んで来ると、女将はいきり立つチンピラに向かって、こう啖呵を切った。

『幸苑(うち)は、あの神王組三代目の田原大親分ですら断りを入れ、ご承知頂いた店なんですわ。とてもお宅ら田舎ヤクザごときが敷居を跨げる店やおまへんな』と。

 その場に殺気を含んだ緊張が走った。田舎ヤクザと虚仮にされ、面子を丸潰れにされたチンピラが、怒りに任せていまにも力に訴える動きを見せたのである。

 まさに一触即発。

 女将も不測の事態を覚悟したときだった。

「止めんか!」

 と、若衆を一喝する声がした。親分らしき男の声である。どうやら、女将の啖呵が聞えていたらしい。

「わしに恥を掻かすつもりか!」

 そう怒鳴り付けながら、初老の男が女将の前に歩み寄ると、

「お騒がせしました」

 と言って頭を下げた。そして、一行はおとなしく立ち去り、事なきを得たということである。極道者といえども、人の上に立つ者の中には、身の程を弁えている者もいるということである。

 森岡は、神村からその逸話を聞いたのだが、同時に女将が堺の豪商で千利休の茶の高弟だった、杵屋太郎次郎の子孫であることも聞き及んだとき、彼女の豪胆さは血筋のなせる業かと、感服したことを忘れずにいたのである。

「社長、こちらでしたか。神村先生がご心配なさっています。席に戻って下さい」

 廊下の向こうに坂根の声がした。トイレに立ったにしては、ずいぶんと遅いことを気に掛けた神村が、坂根を使い、連れ戻しに来させたのだった。

 森岡は腕時計を確認した。

「もう三十分も経ったか。女将のお陰で気も静まったことだし、そろそろ戻るとするか」

 森岡は女将に一礼すると、軽い足取りで座敷に戻って行った。


 座敷に戻ると、谷川東顕が神村の横に坐していた。

「おっ、戻って来たか。所用で遅れてくればこの始末。東良に代わって私が詫びよう」

 と、東顕がいきなり頭を下げた。

「お上人に詫びて頂くことではありません」

 森岡は恐縮して言うと、東良の横に座った。

 すると、

「森岡君、さっきは悪かった。君にすれば、金銭的な負担は全部賄っているんやから、せめて宗門内部のことぐらいは真剣に考えろ、という思いだろう」

 東良も取って付けたように詫びた。

 森岡は心の中で肯いていた。なるほど、女将の言葉に従って観てみれば、機嫌を取るように下手に出た谷川東良が滑稽にすら見えた。

 森岡は、そのような心の内を億尾にも出さず、

「いえ、そのようなことは思っていません。金など、少しも惜しくはありませんし、好きで出していることですから。ただ、藤井兄弟に関しては、私は何も知らないので、何かヒントになる材料を与えて頂かないと、私にはどうすることもできないのです。それで、少し苛立ってしまいました。大変失礼しました」

 と素直に頭を下げた。

「それでな。総務のアキレス腱だが、君が座を外している間、神村上人とも話していたのだが……」

 東顕が一つ思い当ることが有ると言った。

「藤井兄弟、というより華の坊にとって、現在最も重要な事は何か? ということだ」

「はい」

「それは、一も二もなく総務清堂の法主就任であって、清慶の法国寺貫主就任ではない」

「そうでしょうね」

「家門から法主を送り出すというのは最高の誉れだ。しかも、華の坊は滝の坊に匹敵する名門の宿坊でありながら、明治の初めに法主を輩出して以降、百二十年以上、十五代に亘って途絶えていて、滝の坊に大きく遅れを取っているのだ」

「清堂上人の法主就任は家門の悲願と言うことですね」

 そのとおり、と東顕は肯いた。

「そこでじゃ。もし清慶の法国寺貫主就任が清堂の法主就任の妨げになるとしたら、どうすると思う」

「言うまでもなく、清堂の法主就任を優先し、清慶の法国寺貫主就任を切り捨てるでしょうね」

「当然、そうなる」

 東顕は我が意を得たりと言う顔をした。

「しかし、そのような上手い手があるのですか」

「上手く行くかどうかはわからんが、やってみる価値のある手が、一つだけあるにはある」

 東顕の勿体ぶるような面に、

「いったいどのような」

 森岡は辟易した思いを押し殺して訊いた。東良といい東顕といい、廻りくどい物言いは血のなせる業のようだ。

「清堂の法主就任を妨害するんや」

「妨害? そんなことができるのですか」

 そうであれば、もっと早く言え、という苛立ちが森岡に募る。

「いや、妨害といっても、法主の選出に関して蚊帳の外に置かれているわしらは、実際には実力行使をしたくても出来へんのやが、牽制ぐらいならできんこともない」

「牽制?」

「そうや。たとえば、清慶の法国寺貫主就任反対の署名を集めるとかな」

「署名ですか」

 つい懐疑的な物言いをした森岡に、東顕が珍しくも陰鬱な面を返した。

「君には、そんなことで……と思えるかもしれんが、これには長年に亘って宗門内に横たわる深い確執が関わってくるのや」

「宗門内にそのような溝があるとは知りませんが」

 森岡の声も自然と低まった。

 東顕は、神村に話しても良いかと目で訊いた。神村は黙って肯いた。

「ある意味宗門の恥部、いや弱点といってもええことやから、あんまり口にしとうはないんやけどな」

 逡巡しながらも東顕が語った内容は、なるほど天真宗の暗部というべきものであった。


 表面上は波風一つなく一枚岩のように見える宗門内にも、その水面下では厳然として存在する、ある大きな確執があった。

 それは、鎌倉の昔から宗門の最高峰である法主は、特定の家門からしか出さないのが慣例となっていることである。

 すなわち、宗祖栄真大聖人の純粋な直弟子の家系群と、大聖人の信者として苦楽を共にし、後に出家した有力支援家の家系群の二つであり、現在の総本山を護持する四十六子院の住職しか法主に上がれる資格がないのである。

 当初こそ、法主の座は全国の僧侶が対象であったが、鎌倉の末期に四十六子院が整ってからは総本山の独占となった。

 徳川幕府に例えるなら、四十六子院は御三家、御三卿、親藩のようなもので、それ以外の大名は将軍にはなれないのと同じであった。

 戦中戦後に、衰退した宗門を復興した中興の祖である久田帝法をもってしても叶わなかったことが、明瞭にそれを物語っていた。もっとも、帝法は自ら固辞した話も伝わってはいるが……。

 これには、総本山の一種の純血思想が密接に関連していた。

 まずもって、天真宗僧侶となるための得度は、総本山の四十六子院と、全国にある四十八の大本山と本山、特別に本山格を与えられた数寺院、そして古刹、名刹と讃えられている数ヶ寺の末寺に限られていた。

 当然の如く、総本山の各子院に生まれた者が僧侶の道を歩むとなれば、自坊で得度したが、後継者以外はいずれ在野へ出される宿命に有った。

 これに対して、在野にある者が得度する場合は、総本山の子院でも全国の大本山や本山でも良かった。しかし、総本山で得度したとしても、法主はもちろん一定以上の要職に就くことも適わなかったので、これまたいずれ在野に下ることとなった。

 目安としては、神村が二十八歳のときに就いた高尾山奥の院の経理、つまりナンバー三の地位が上限であり、それ以上の総本山の要職一切は、子院群の住職及びその後継者の特権事項だったのである。

 もちろん例外もある。

 特に才能のある若い僧侶には、チャンスが無くはなかった。跡継ぎに恵まれない子院が、養子縁組や婿入りの相手を在野に求めたからである。実際、そうした中から法主に駆け上がった者もいた。

 また極稀に、万人が認めるほどの傑出した者ならば、老いてからでも法主の座に招かれることもあったが、その場合でも一旦は四十六子院の籍に入ることに変わりなく、外見上はその体裁が守られていたのである。

 しかも、法主の選出自体も四十六子院の専権事項であり、圧倒的多数の在野寺院は、自分たちの頂点である法主選びからも全くの埒外に置かれていたのである。

 過去を振り返ってみると、在野寺院はこの偏向な仕組みに対する不満を幾度も表明してきた歴史があり、その度に総本山と衝突を繰り返し、宗門の衰退を招く結果を生んできたが、慣行が改められることはなかった。

 必然的に在野僧侶が目指す最高峰は、総本山真興寺に次ぐ格式を持つ、別格大本山法国寺の貫主の座ということになった。

 もしそれが、此度清慶の手に落ちることにでもなれば、総本山の法主と法国寺の貫主という、まさに両最高峰を藤井兄弟が独占することになってしまうのだ。これには、内心不満を抱く在野寺院が少なからずいるはずである。谷川東顕はその声を集約することができれば、総務清堂に圧力を掛けられると考えた。

 かつて各仏教宗派は、ほとんどが世襲制であった。

 法主や管長といった宗派の頂点は、皇位継承権と同じように継承順位が決まっていた。

 戦後は、宗教界にも民主化の波が押し寄せ、公選を取り入れる宗派も増えて行ったが、現在でも世襲制を崩さない宗派も残っている。

 天真宗は、その中間ともいうべき体制である。

 総本山の法主、総務、宗務総長などの役職は、四十六子院に限られた公選であり、大本山と本山の貫主及び執事長は世襲ではないが、原則的に後継指名である。紛れもなく公選なのは、各地区の本山会と寺院会の両会長選挙ぐらいである。

 さて、藤井家にしてみれば、すでに片手を掛けている、一族最大の悲願である法主の座が危うくなるかもしれない事態など、あってはならないことだった。

 東顕は、次期法主という立場を逆手に取って、清堂のアキレス腱にしようと考えたのである。

 東顕が殊の外策士だったのは、総務清堂に対して恫喝にも似た牽制、いわゆるムチだけでなく、アメも用意しようとした事であろう。

 周知のことながら、法主就任に関しては多額の出費を伴う。それは、支持を取り付けるための工作資金、つまり賄賂というだけでなく、法主就任に際しては、宗門に貢献しているという、周囲が納得する実績というものを積み上げる必要があった。

 そのため、清堂は二つの事業を推し進めていた。

 一つは、総本山にある多宝塔の修改築で、もう一つはスリランカにおける布教の一環として、現地に近代的な設備の小・中学校を五ヶ所建設することだった。そのため、清堂はいくら金があっても足りるということがなかった。

 谷川東顕はそこに狙いを付けた。法国寺の件から手を引いてもらえれば、見返りにそれ相応の上納をしようというのである。

 ちなみに、神村正遠が学生時代に修行を積んだ滝の坊の開山は、十四歳で栄真大聖人の一番弟子になった栄招(えいしょう)上人である。

 滝の坊は、栄招上人が大聖人の最も近くで、且つ最も長きに亘って教示を受け、大聖人から後継者に指名されていながら、大聖人より先に逝去したため、以降初めて法主を輩出するまでに百年も掛かったという悲運の宿坊であった。

 方や、藤井兄弟の生家・華の坊を開山したのは、栄真大聖人が総本山を静岡に定め、適当な土地を探し求めていたとき、自らの所領を寄進した鎌倉幕府の御家人三浦景昌(かげまさ)である。

 景昌は鎌倉幕府の意向に逆らって寄進したため、要職を解かれてしまうという憂き目にあった。現世に無常を感じた彼は、それを機に武士を捨て、出家して栄真大聖人に弟子入りをし、後に華の坊を開山したのである。

 この二つの宿坊は、明らかに対照的な成り立ちであった。滝の坊が一番弟子という大聖人の教えを極めて純粋に受け継ぐ家門であるのに対し、華の坊は大聖人の晩年に弟子となり、直弟子としては末席でありながら、経済的支援を梃子にのし上がった、いわば成り上がりの家門であった。

 全く異なる渓流を持つ二つの家門は、古くから反目し合い、法主の輩出を巡って幾度も覇を争って来た間柄であり、ここ二百年は、当初悲運の続いた滝の坊が優勢の状態にあった。

 このような関係性から、神村は滝の坊の子孫ではないが、中原是遠の愛弟子ということで、華の坊にとっては敵、すなわち代理戦争の様相を呈していたのである。


 話を元に戻すと、問題はこの大役を誰が引き受けてくれるか、ということである。

 たとえこの戦いに勝利しても、総務清堂の法主就任には変わりはない。

 つまり、普通に考えて次期法主に楯突くことになるのだ。下手をすると、自身の、あるいは家門の将来に禍根を残すことにもなりかねない。言うなれば、火中の栗を拾うということである。

 そのような損な役目を受ける人物が、そうそう簡単に見つかるとは思えなかった。

「宗門の中から適当な人物を探すとなりますと、私は内情が全くわかりませんので、お二人にお任せするしかありません」

 そう言って、森岡が水を向けた。

 すると、東顕の話の間、一心に黙考していた神村がおもむろに口を開いた。

「ずっと考えていたのですが、弓削(ゆげ)君はどうでしょうか」

 東顕に見解を求めた。

「弓削? もしかして仙台北竜興寺(ほくりゅうこうじ)の弓削広大(こうだい)ですか」

 東顕が口を開く前に、東良が怪訝そうに中に割って入った。

「そう。彼は若いが、なかなか評判は良いよ」

「神村上人は弓削をご存知で?」

「天山修行堂で何度か顔を合わせたときに、一言、二言雑談をした程度だけど、なかなかに見所のある人物に見えたのだがね」

「弓削といえば、確か妙智会(みょうちかい)の会長をしていますな。なるほど、彼が引き受けてくれれば打ってつけですな」

 東顕は両手でテーブルを強く叩いた。

 宮城県仙台市の北竜興寺副住職・弓削広大は、三十八歳という若い僧侶である。だが、天山修行堂での荒行を五度終え、すでに大本山・本山の貫主に就く資格を有している前途有望な俊英であり、四十歳以下の青年僧侶で構成された全国組織・妙智会の会長を務めていた。

 有能なうえに野心家でもある弓削は、たとえ格上の相手であっても、若さに任せて堂々と正論を吐く熱血漢でもあった。

 彼を味方に付け、藤井兄弟の専横になりかねない事態を阻止すべく、妙智会に全国展開の活動をさせ、総務清堂に圧力を掛ける一方で、同じ弓削を使って上納の話を持ち掛ける。そうすることで、妙智会が敵にも味方にもなることを知らしめようというものだった。

「ところで、私は面識が全くありませんし、神村上人もそれほどでもないとすると、誰かを間に挟まないといけませんなあ」

 そう言って東顕が腕組みをすると、東良が思い当たったような顔をした。

「どうでしょう、気仙沼の岩城上人に仲介の労をとって貰っては。私の記憶では、岩城上人は神村上人と同級生だったはずですが」

 神村は、そうだと肯いた。

「君の言うとおり、岩城上人とは総本山の妙顕中学、妙顕高校と六年間一緒だったし、その後も親交はある。あるが……」

「何か不都合が有りますか」

「ここは一つ、私が直接連絡を入れることにしよう。総務さんに楯突こうと画策するのだから、なるべく間に人を介さない方が良い。向こうに動きが漏れたら元も子もなくなるし、岩城上人にも迷惑が掛かる」

「それでは弓削君への連絡は神村上人にお任せするとして、もし弓削君と会談することになりましたら、仙台でも大阪でもなく、中間の東京にしましょう。その方が人目に付かなくて済みます」

 と、東良が提案した。

 こうして弓削広大に白羽の矢が立った。神村から連絡をもらった弓削は面会を了承し、三日後、東京で会談することになった。

 

 翌日、森岡は夕方の役員会議に出席するため本社にやって来ていた、取締役東京支店長の中鉢博己から奇妙な話を耳にする。

 それは会議が終わり、野島と住倉それに坂根と南目を加えた六人で、久々に西中島南方の活魚料理店で夕食を共にしたときだった。

 大阪市内の北方、淀川を渡ってすぐところに開けた西中島南方は、大阪でも面白い街の筆頭候補に挙がるだろう。オフィスビルと飲食街、そして風俗店が混在しているからである。

 オフィスビルの隣に、いかにも怪しげなマンションが立って、聞けば風俗営業専用のマンションだったなどいうことが日常茶飯事なのだ。風俗店といってもソープランドではなく、デリヘルやホテトルが主流で、この西中島南方がホテトルの発祥の地という説もあるほどである。

 中鉢は三十二歳。エンジニアとしては取り立てて優れているわけではないが、堅実でコツコツと努力を重ね、一段ずつ階段を上るタイプである。また、森岡の側近の中では唯一妻帯者であった。

 何やかやと雑談に花が咲いた後だった。中鉢が思い出したように口を開いた。

「そういえば、社長。ちょっと、妙な事がありましてね」 

「妙?」

 森岡が敏感に反応した。

「気にすることもないかもしれませんが」

 中鉢はそう断りを入れてから話し始めた。 

 その日、中鉢は商談を終え、青山通りの表参道付近を地下鉄の駅へ向けて歩いていたのだという。そして駅への階段の入り口に着いたときである。

 中鉢は、

――おや?

 と思った。三十メートルほど先方に、見知った男がこちらへ向けて歩いて来ていたのである。

――宇川か?

 中鉢が声を掛けようとしたとき、その男は咄嗟に踵を返し、走り出してしまった。

「おい、宇川」

 中鉢も後を追いながら声を掛けたが、男は振り向きもせず、折しも通り掛ったタクシーに乗り込み立ち去ってしまった。

 不審に思った中鉢は、宇川と思しき男が歩いて来た道を辿ってみた。すると、二百メートル先に意外な建物があった。

 壁全面がブルーの洒落たビルである。

「そこにギャルソンの本社ビルがあったのです」

「ギャルソンなあ……せやけど、ほんまに宇川やったんか」

「ええ。一瞬ですが、間違いなく目と目が合いましたので、宇川だったと思います」

「お前に気づいて逃げたんやな」

「もう上司でもない私とは関わり合いたくなかったのかもしれませんね。ただ、ギャルソンといえば、社長の発案である寺院ネットワーク事業への出資に前向きの会社でしょう。ちょっと、気になりましてね」

「宇川は、三日ほど前に突然退職していたな。申し出は何時や」

 森岡が野島に訊いた。

「退職する日の十日前です」

「十日? 理由は何や」

「田舎の福岡に帰ると言っていましたが」

「なんでや」

「彼は長男ですし、帰って実家の造り酒屋を継ぐとのことでしたが、本当かどうかはわかりません」

「しかし、それにしても急な話やないか」

「何でも、父親が倒れたそうです。命に別状はないのですが、この際両親を安心させるために帰ると言っていました」

「それも、本当かどうかわからんな。それにしても急ぎすぎやな。仕事のけじめとか、引継ぎとかあるやろ」

「仕事のけじめはきちんと付けていました。引継ぎも問題はなかっようです」

 そう報告した野島は、

「退社の申し出は十日前ですが、計画的だったのかもしれません」 

 と最後に自身の推量を付け加えた。

 この野島の説明を受けて、住倉が口を挟んだ。

「ギャルソンは、宇川が前の会社でシステム開発を担当した会社やろ。ただ挨拶に行っただけなんじゃないか」

「阿呆。お前は中鉢の話を聞いていなかったんか」

 人前にも拘らず、森岡はあからさまに住倉を叱責した。

 一見すると恥を掻かせたようにも映るが、このような半ば冗談半分の叱責は日課のようなもので、二人の漫才の掛け合いのような会話は周囲を和ませることが多かった。

 森岡が独立したとき、行動を共にした幹部社員の中で、住倉が唯一年長だったこともあり、森岡は安心して住倉を叱責することができた。住倉も森岡の意図を良く心得たもので、黙って叱られ役を引き受けていたが、反対に森岡に対しても恐れることなく意見することもあった。

 住倉は、他の幹部社員に比べて、システムエンジニアとしての能力は低かったが、全くの善人で正直者だった。それ故、森岡はウイニットの設立以来、彼に金庫番という重職を任せ、全幅の信頼を寄せていた。

「ちゃんと聞いていましたよ、社長」

 住倉は口を尖らせた。

「それやったら、宇川は怪しいとは思わんか? 中鉢と顔を合わせて無視したというのは、何か後ろめたさがあるんと違うか」

「後ろめたさですか」

 住倉には森岡の謎賭けがわからなかった。

「もしかしたら、寺院ネットワーク絡みで何かあるのではないか、と社長はお考えなのですね?」

 言葉に詰まった住倉に代わり、坂根が満を持したように言った。

 住倉はむきになって反発した。

「たしかに、宇川は寺院ネットワークシステム・開発プロジェクトのチームリーダやったけど、この事業はコンピューターシステムができても、何にもならんのやで。お寺が関わらんとあかんのや。それも、そん所そこいらのお寺じゃあかん。坂根、お前は宇川がそないな立派なお寺と懇意にしとると言うんか」

 だが、坂根が一枚上手だった。

「常務。お言葉を返すようですが、宇川ではなく、ギャルソンの柿沢会長なら考えられなくもないでしょう」

「……」

 坂根の鋭い読みに、住倉は返す言葉がなかった。

「坂根の言うとおりや。そう考えると、宇川の突然の退職も、ギャルソンを訪問したことも、そして中鉢を無視したことも辻褄が合う」

「ちょっと待って下さい。もしそうだとして、宇川に後ろめたさがあるのなら、中鉢と出会ったとき、慌てるか、逆に何事もないように中鉢と話をするのではないでしょうか」

 納得のいかない住倉はなお食い下がった。

 うん、と森岡が肯いた。

「俺も、最初はお前と同じように思ったが、宇川の性格では、それは無理やと思い直した。宇川は小心者やで、俺の前に出ると叱られるとでも思うのか、いつもおどおどしとった。あの男に中鉢と話をして心の動揺を隠しきれるほどの度胸は無い。そうかと言って、慌てふためくと、それこそ中鉢に疑念を抱かれる。宇川には無視することが精一杯やったと思わんか」

「社長の言われるように宇川は小心者でした。ですから、そんな根性なしの宇川に、裏切りなんてできんでしょう」

「またお前はあほなことを言う。坂根が言ったことを忘れたんか? 宇川の自発的やのうて、柿沢が唆したとしたら、どうや」

「あっ、そうか」

 住倉は酷く間の抜けた声を発した。

「おそらく、社長は柿沢会長のことよりも、その先をご心配なのだと思いますよ」

「柿沢会長の先?」

「そうです。常務の言われたように、この事業には宗教法人が絡まなければ成立しません。しかも、並の寺院では立ち行きません。社長は、柿沢会長が関わっている寺院によっては、より厄介なことになると心配されているのです」

 坂根は、

『柿沢康弘は総務清堂側と繋がっているのではないか』

 という森岡の懸念を読み当てていた。

 宇川義実は昔の誼で、ギャルソンの柿沢会長には今後の身の振り方を相談しただけかもしれない。だが中鉢の話は、正式な協賛承諾の返答が引き伸ばしになっていることから、柿沢に対して不信感を抱き始めた矢先に持ち込まれたものであった。

 そこにきな臭いものを嗅ぎ取った森岡の目は、柿沢の背後に潜む影にも注がれていたのである。 

「この件は一切他言するな。取越し苦労ということもある。俺の方で調べるから、それまではこの六人だけの話ということにしとく、ええな」

 森岡は厳しく緘口を引いた。

「しかし、柿沢という男、とんだ古狸なのかもしれんな」

 そう吐き捨てた声には、ほろ苦い響きがあった。頭から組み易しと侮った己自身を叱責していたのである。

 森岡はすぐさま伊能剛史に連絡を入れ、柿沢康弘の調査依頼を追加した。

 このとき、森岡は意外と冷静であった。

 仮に自身の推測が当たっていたとしても、彼らをどうすることもできない現実があったからである。加えて、彼らは重要なことに気づいていないことも、森岡を安心させていた。

 一見したところ、藤井兄弟、スポンサー、そしてコンピューター・ネットワークシステムが揃えば、容易に事業展開が図れそうであるが、彼らは根本的な問題を解決しなければならなかった。それは、全国寺院の信用を勝ち取らなければならないということである。

 寺院ネットワークに参画するとなると、過去帖などの最重要情報はともかく、ある程度の檀家の情報を外部に漏らすことになる。

 当然、情報を扱う業者は絶大な信頼を得なければならないだろう。これは極めてハードルの高い話である。森岡には榊原壮太郎のような人物が、おいそれと柿沢の身辺にいるとは思えなかったのである。

 

 神村正遠、谷川東顕、そして森岡洋介の三人は、森岡が用意した帝都ホテルの一室で、弓削広大と会談に臨んでいた。

 弓削は高校、大学と相撲部にいたこともあって、百七十センチに満たない身長ながら、体重は百キロ近い巨漢であった。

 森岡は挨拶のときに、ほんの一瞬交わされた彼の目を注視した。

 恐ろしいもので、修行を積んだ者とそうでない者の差は、そうしたところに現れるのだろう。久田や神村ほどではないにしろ、二人には有って谷川東良には無い『目力』というものが弓削には有った。

「いやあ、弓削君。良く出向いてくれたね」

 まずもって神村が労いの言葉を掛けた。

「神村上人からいきなりの連絡なので驚きましたが、お上人がわざわざ私に会いたいとおっしゃっているのに、無下にお断りする理由もございませんのでお受けしました。しかし、谷川上人も御一緒とは驚きました。まさか、在野にその人有りと謳われたお二人に、同時に御目文字できるとは光栄の至りです」

 弓削の面相から、けっして追従ではないと森岡は思った。

 東顕の評価は森岡が思っていたよりも高いようだった。

「そう言ってもらえると、私も少しは気が楽になるよ」

 神村は口元を緩めたが、それも一瞬のことだった。

「さっそく本題に入るが、実に厚かましいというか、無理なお願いがあって、君にこうしてわざわざ東京にまで御足労願ったのだよ」

「法国寺の件ですね」

 弓削が先んじて言った。

「わかっていたかね」

「はい。この時期に神村上人ほどのお方が、然程面識のない私に、直々に連絡を下さるということは、法国寺の件しか有り得ないと推察しておりました」

「そこまで察していながら、会談を断らなかったということは、前向きであると受け取って良いのかね」

 神村は、弓削を見つめて訊いた。

 弓削の目が一閃の光彩を放った。

「結構です。ただし、私の力に余ると判断すれば、遠慮なくお断り致します。それで宜しいでしょうか」

「もちろん、君の意思を第一に尊重するよ」

 弓削は、依頼を断っても一切公言しない旨を確約し、

「お話を伺いましょう」

 と姿勢を正した。

「では、ここからは私が話そう」

 と、谷川東顕が神村に代わって話し始めた。

「まずは、君の考えを確認しておきたいのだが、清慶上人の法国寺貫主への立候補をどう思うかね」

「それは申すまでもなく、お二人と同様の気持ちです。そうでなければ、ここへはやって来ません」

「それを聞いて安心した」

 東顕は安堵の笑みを零した後、すぐに厳しい表情に戻った。

「では、本題に入ることにしよう。他でもないのだが、君に妙智会を使って、清慶上人の貫主就任反対の運動を扇動して欲しいのだ。たとえば、反対の署名活動などをしてね」

「署名活動ですか。それは簡単なことですが、その名簿をどうされるのですか。総務さんに渡すのでしょうか」

「そうだ……」

 と、東顕が言い掛けた傍から、

「いいえ、宗務総長が良いかと思います」

 森岡が口を挟んだ。

 弓削は眉根を寄せながら、

「森岡さんとおっしゃいましたね。失礼ですが、貴方はお二人とどういう御関係ですか」

 と棘のある声で訊いた。自身より年下とみられる、しかも僧侶でもない者が口を挟んだことが気に入らない様子である。

「森岡君は、大学時代に私の書生をしていたのだよ」

 神村が説明した。

「神村上人の書生を? では森岡さんも僧侶なのですか」

「いや、そうではない。宗教上の弟子ではなく、人間修養のための書生をしていただけで、今はITの会社を経営している」

「IT?」

 弓削広大は、交換した名刺を確認した。

「ウイニット……」

「小さな会社ですので、御存知ないでしょう」 

 森岡は、弓削の疑念に応えるように言った。 

「それで森岡さん。なぜ、総務さんより永井宗務総長に渡す方が良いのですか」

 弓削は不満の面を畳み込むようにして訊いた。東顕も興味深い顔を向ける。

「総務さんに握り潰されれば、折角の苦労が水の泡となります」

「総務さんが握り潰す、ですと」

「私は天真宗内の権力構造などよく知りませんが、総務さんであれば簡単なのでは

ないですか」

「たしかに総務さんの威光を以てすれば可能でしょうが……」

 そう言うと、弓削は不敵な笑みを浮かべた。

「今度は総務さんの弾劾の署名を集めてやりましょう」

 森岡は首を横に振った。

「そうすれば妙智会の面目は保たれるでしょうが、私たちには時間がありません」

「なに」

 弓削が顔を歪めた。

 なるほど、藤井清慶の貫主就任反対の署名であれば短期間で多数の署名を集めることは可能かもしれないが、事は次期法主が確実視されている総務清堂を弾劾する署名である。誰もが二の足を踏むに違いなかった。法国寺新貫主の選出会議までに有効な数の署名が集まる保証は無かった。

「たしかに妙智会の面目よりそちらの方が重要でした」

 弓削は口元に口惜しさを残しながら、それでも、

「ですが、永井宗務総長が総務に反目されますかね」

 と疑念を呈した。

「いや、間違っても正面きって反目などされないよ。何といっても、次期総務に一番近いところに居られるのだからね。わざわざ好き好んで、総務清堂上人の心証が悪くなるような馬鹿な真似はされないだろう」

 東顕が答えた。

「それなら、なぜ永井宗務総長に?」

 渡すのか、と弓削は訊いた。

「総務さんを逃がさないためだろう。森岡君」

 神村が森岡の意図を察したように訊いた。

 はい、と森岡は肯いた。

「総務さんが逃げる。どういうことでしょうか」

 弓削は巨体を揺すりながら前のめりになった。

 永井大幹(たいかん)、総本山宗務院・宗務総長、六十七歳。宗務総長という総本山においては法主、総務に次ぐ要職にあり、次の総務の候補として、先頭を走っている人物であった。

 何故、総務本人ではなく、永井宗務総長の方が効果的なのか。

 その理由は、仮に法主を名誉ある天皇、総務を行政の長である総理大臣とみなせば、宗務総長は内閣官房長官、すなわち宗門全体の実務を司る総務清堂を公的に助力する女房役の立場に当たった。

 さらに、永井は単に総本山宗務院の長という立場だけではなかった。総本山の宗務院は、同時に天真宗の宗教上の事務を統括する部門であり、全国六千ヶ寺の事務処理の報告も集約されていた。

 いわば、宗門の心臓部ともいえる最重要部門であり、その長である宗務総長は、職務上総本山だけでなく、在野寺院とも深い関係を有しているのである。実際には、全国の宗務に関しての長は総務であり、宗務総長は次席となるが、一定の権力を保持していることに変わりはない。

 そのような重責を担う永井が反目する事態にでもなれば、総務清堂にとって喉元に刃を突付けられたのも同然なのである。

 天真宗の権力構造には詳しくないと謙遜した森岡だが、この程度のことは瞬時に考えを巡らす頭脳の持ち主なのである。

「要は署名を渡して下さればそれで良いのです。総務さんは、永井宗務総長が妙智会の署名を受け取ったという事実だけでも、十分に圧力を感じると思いますが、それを自分に差し出されたら、圧力どころではなくなるでしょう」

 森岡は自信有り気に言った。

 清堂が弓削から直接署名を受け取ったならば、握り潰さないまでも、無視をして時間稼ぎをすることはできる。しかし、宗務総長が一枚噛んでいるとなると、そうもいかなくなるというわけであった。

「では、永井宗務総長が署名を受け取られるだけではなくて、総務さんに渡して頂けなければ、効力が半減するのですね」

「そういうことになりますね」

 森岡は他人事のように言った。

「いやあ、先ほど簡単だなんて言いましたが、重要な役目ですね」

「手を引きたくなったかい」

 神村が訊いた。

「とんでもありません」

 弓削はその太く短い首を左右に振った。

「その反対で、増々やる気が出てきました。不謹慎ですが、次期法主と影の法主の争いなんて前代未聞の勝負ですからね、非常に興味があったのです。それが、その一役を担うわけですから、願ったり叶ったりです」

 そこまで言うと、弓削は腕組みをし、

「ですが、宗務総長に受け取らせるだけでも難題でしょうね」

 と口元をきっと結んだ。

「そうでもない。宗務総長は、署名の数によっては受け取らざるを得なくなるよ」

「……」

「そのときになればわかるよ」

 神村は、謎めいた笑みを浮かべながら言った。

 怪訝な表情を浮かべる弓削に、東顕が念を押した。

「ところで、弓削君。本当に大丈夫なのかね。なんせ総務さんに楯突くことになるのだからね。君の将来に災いが降り掛かるとも限らないのだよ」

 東顕の懸念にも、弓削は平然としたものだった。

「そのようなことはご心配に及びません。私も天山修行堂で御前様の御指導を仰いだ者の一人として当然のことをするまでです。それに、私はまだ若いですから、十年や十五年睨まれてもどうってことないですよ」

 彼は事が不首尾に終わった場合、藤井清堂と永井大幹が法主にいる間は冷遇される覚悟をすると言った。

「では、本当に引き受けてくれるのだね」

 神村が最終確認を取った。

「是非、お仲間に入れて下さい」

「有難う」

 神村は深々と頭を下げた。

 森岡が東顕に目顔で合図をした。

「ところで、謝礼として、君個人へは三千万用意した。これは首尾、不首尾に拘わらず受け取ってくれ。他に妙智会の幹部へ渡す金と経費で五千万と見ているのだが、足りるかね」

「まず、私への謝礼は一切要りません。その代わり幹部に渡す金ですが、役員は十人ですので、一人に付き三百万をお願いします。後、経費は予測不能ですが、一千万もあれば足りると思います。できましたら、経費の残りと、あと一千万を妙智会に寄付して頂ければ有難いのですが」

 弓削は恐縮そうに言った。

 東顕の視線を受けて、森岡が軽く顎を引いた。

「それは、もちろん君の言うとおりにするが、君自身は本当に良いのかね」

 はい、と弓削は肯き、

「御恩返しをするのに、金を受け取ったのでは筋が通りません。いえ、筋というより気持ちの問題ですかね」

 と微笑んだ。

――なるほど、この森岡というIT企業の社長が神村上人のスポンサーなのか。しかし、切れる。この男、恐ろしいほど頭が切れる。

 弓削は畏怖するように森岡を見つめていた。

 こうして首尾よく弓削広大を味方につけることに成功した。久田帝玄に対する御恩という弓削の言葉に嘘はなかったが、打算が全く無かったわけではない。彼にしても絶好の機会だったのである。

 弓削もまた、天山修行堂で久田帝玄の薫陶を受けてことへの、またとない恩返しの機会となるばかりでなく、宗門の未来を担うであろう神村とも親交を持て、貸しを作ることにもなる。そのことは若い弓削にとって、将来の栄達に大きく道を拓く力になるであろう。

 弓削広大は妙智会の幹部を召集し、神村の話を伝え、満場一致の賛同を得る。若い僧侶たちは、その分純粋な正義感が残っている。藤井兄弟の専横を食い止めることに一役買うことによって、自分たちの存在感を示す絶好の機会と捉えたのだった。

 幹部たちは、それぞれの地元に戻り、藤井清慶の法国寺貫主就任に反対する署名運動を精力的に始めたのだった。

 

 弓削らの行動と前後して、伊能剛史からの調査報告により、森岡の疑念が的中していたことが証明された。柿沢康弘と宇川義美が繋がっていたばかりでなく、新たに吉永幹子という女性実業家が結託していること、そしてこの吉永こそが清堂の主要スポンサーであることを、伊能はようやく突き止めたのだった。

 柿沢は自身の個人会社を通じて、吉永の事業に資本参加していた。

 ついに、企みの全貌が浮かび上がってきた。

 森岡はこのように考えた。

 柿沢は宇川から寺院ネットワークの事業話を聞いたとき、当初は協力しようと考えたが、何かの機会にそのことを吉永幹子に話した。

 当然吉永は、その事業話の中心にいる神村は、自身が支援している藤井兄弟と敵対している人物だ、と柿沢に告げただろう。しかも、兄清堂は次期法主内定者であり、法国寺を巡る情勢自分たちが有利であることも……。

 いかに半端者とはいえ、商売人の端くれである柿沢は頭を働かせたに違いない。彼は神村より、次期法主の実弟である清慶の方が、全国の宗門寺院に影響力を持つと考えるだろう。彼でなくても、宗門の内情に明るくない者の目には、そう映るのが常識的である。

 そうであれば、全国の寺院に事業展開するに当たっては、清慶の方が時間を要せず、より短期間に先行投資を回収できると考えたとしても無理はない。

 柿沢にしてみれば、事の成り行きが決してから、態度を決めても遅くはなかったが、吉永幹子との親交も有り、戦況も有利と判断して、いち早く吉永に付くことにしたのだろう。

 そこで、寺院ネットワークの開発リーダーだった宇川を厚遇で引き抜き、システム開発を担当させようとした。そう考えれば、宇川が突然退職したことも納得できた。

 このことは、森岡に新たな闘志を呼び起こした。

 もしこの戦いに敗れるようなことがあれば、自身の発案まで略奪されるという二重の辛酸を嘗めさせられることになる。

 もちろん、寺院ネットワーク事業に限っていえば、法国寺の戦いに敗れたとしても、久田、神村、そして榊原の協力がある限り、彼らと競合しても勝利する可能性は高い。 しかし事ここに及んでは、事業の成功はもちろんのこと、意地と面子を張った戦にもなっていたのである。

 もっとも、宇川の裏切りは、森岡にとって悪いことばかりではなかった。総務清堂の命を受けた人物を洗い出す目的は、藤井兄弟の支援者を見つけ出すことにあった。しかし相手も然る者、容易に尻尾を出さなかったため、有能な伊能を以ってしても、特定できずにいたのだった。

 そういう現状からすれば、何はともあれ、吉永幹子の存在を突き止められたことは、不幸中の幸いだったとも言えたのである。








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