第11話 遺跡の下に潜む地底湖

 多神教の神殿遺跡には、地下空間に地底湖が隠されていた――。


 その事実を知らなかったマカベウスは、痛む顎を押さえながら周囲に広がる水面を眺めつつ、茫然とするしかなかった。


「地底湖、か……。ハハハ、嘘だろ……?」


 わが身の不運を嘆いたマカベウスは、思わず乾いた笑いを地下空間に響かせながら、ぽっかりと開いた天井から見える青空を仰ぎ見た。

 つい先ほどまで仰いでいた青空も、行く手を阻む灌木林も、すぐそこに見える。しかし今、それはとてつもなく遠く、離れた場所にあるように感じるのだった。


 マカベウスは以前から、ここに神殿遺跡があることを文献資料で知っており、新たに解読した魔術の実験もここで何度か行ってきたが、どの文献にも、地底湖に言及したものはなかった。彼がここを知らないのも当然である。


 天井に開いた大穴から降り注ぐ日射しは、砂塵をはらみながら湖水を照らし、まるで光のカーテンが垂れ下がっているかのように、泥で濁った水面をキラキラと輝かせている。


 その光に透かして周囲を見回すと、切石を積み上げて造られた列柱が湖面から何本も突き出し、それらが天井まで伸びているのが遠望できた。

 さらに目をこらすと、地底湖の壁面は人工的な石組みになっており、簡易的な護岸を施してあるのが見える。


 それは地上にある大理石の列柱や建物跡とは明らかに違う、異なった文明的特徴を示す石組みであった。

 切石の積み方にはある程度の規則性がみられるものの、石材の形状や大きさに差異がある。精緻な多神教徒の神殿跡にはなかった、技術の未熟さが見て取れた。


 おそらくこの地下空間は、神殿遺跡よりもずっと前の時代に造られたものなのだろう。

 そう考えれば、列柱の様式の違いや技術の未熟さにも説明がつく。


 多神教徒は何らかの方法でこの地の聖性を察知し、神殿の適地に選んだのだろうと思われる。しかし彼らがその当時、地底湖の存在まで把握していたかどうかまで定かではない。


「でもまあ、こんなときに不謹慎だが……。ここは何というか、興味深い場所だな……」


 思わずそう呟いたマカベウスは、この地底湖を、神殿遺跡などより以前から存在した古代都市の、貯水槽だったのではないかと考えた。異なる様式の列柱や人工的な壁面など、そう推測するだけの証拠は十分ある。


 エヴァストの街は数百年前、対岸の大陸を睨む軍事拠点として「新たに」造られたと伝えられてきたが、はるか昔に消え去った古代の都市が、ここで誰にも知られずに眠っていたのかもしれない。

 魔術研究者である一方、神秘的なものにも造詣が深いマカベウスのオカルト趣味が、むっくりと頭をもたげてくる。思わずニヤついてしまうほどに。


 やや興奮ぎみになったマカベウスは、そんなことをしても無駄だと知りつつも、先ほどから背を向け、座り込んで水面を見つめているテミスに話題を振ってみた。


「おいテミス、こっちを見てみろよ。あの列柱の重厚さ、美しさ、そして儚さといったらもう――」


 恍惚とした表情で胸に手を当て、列柱の美の何たるかを語るマカベウス。

 それに対し、振り向いたテミスから返ってきたのは――。


「――もにゅ? あに言っれんの、おいひゃん? はあく食べあいと、あらしがもらっひゃうお?」


 まるでネズミのように、食べ物を口いっぱいに頬張るテミスの満足げな表情と、頬張って話すせいでよく聞き取れない言葉だった。

 これにはさすがのマカベウスも、半眼になってうめくしかなかった。


「…………あのな。お前にはこの古代遺跡を彩る、神秘的な美というものが――」


「ごっくん。ねぇ、美とか神秘とか、後でいいからさぁ、早く食べちゃおうよぉ。せっかくのお弁当が悪くなっちゃうよー?」


 幸せそうな顔で弁当を味わうテミスが、にこにこ顔でもうひとつの弁当を差し出してくる。

 その表情から察するに、先ほどのわだかまりはすっかり解消されたようだ。それを感じたマカベウスは、心から安堵した。


 受け取った弁当はやや潰れているが、中身は無事らしい。極度の空腹とパンの香りに勝てなくなったマカベウスは、渋々顔で弁当の包みを開いた。


 簡素な紙で包まれた弁当だが、この当時、木材から作られる紙は羊皮紙以上に高価なものだった。

 マカベウスは几帳面にそれを折り畳むと、こっそり懐にしまい込みつつ呟いた。


「いつものメニューだが……。今日に限っては妙にうまそうに見えるぜ」


 屋台で売られていた弁当は、主食であるパンが二個と、副食である鶏肉の揚げ物、ジャガイモの揚げ物などをセットにしたもの。

 それらが紙製の容器に詰め込まれており、パンと副食はきちんと仕切りで分けられている。ずっと白衣の内ポケットに入れていたせいか、パンが少し潰れていた。


 それでもしっかりと酵母を使い、ふっくらと焼き上げられたパンからは、芳醇なバターの香りがそれとなく漂い、否応なしに食欲をそそる。


 そして乾燥させたパン粉をまぶし、少量の油で揚げられた鶏肉は、中までしっかりと火が通っており、噛むと肉汁があふれ出す。

 野菜とワイン、そして肉汁を煮詰めて作られるソースとの相性も、まさに完璧。庶民の料理としては、間違いなく絶品の部類に入る逸品だ。


 しかしながら聖堂に勤務するかたわら、これを週に何度も口にしているマカベウスとしては、別の感想を持たざるを得ないのだった。


「くそ、あの屋台のオヤジめ。巡礼の期間だからって、俺にまでいつもの倍の値段で売りつけることはないだろうに……」


 貴重な紙に包んで売られていたのは、外部から来た巡礼者の気を引くためだったようだ。


 パンを口に含み、いつもの癖でワインに手を伸ばそうとしたものの、今はないことに若干の落胆を感じつつ、添えられたジャガイモを目にしたマカベウスは、思わず苦笑した。

 彼の弁当に入れられたジャガイモにだけ、なぜか二本、木のフォークが刺さっていたからである。テミスと一緒であることを目にした店主が、余計な気を回したらしい。


 ――おいおい、俺とテミスは親子ほど歳が離れているってのに。そんな風に見えたのか?


 二本のフォークを手にしたマカベウスは、そんなことを思いながらテミスの方に視線を移した。

 父親と娘……。そんな関係に一抹の懐かしさと悔恨とを噛みしめた、その矢先――。


「おいひゃん! ら、らいひぇんらよぉ!」


「――うおわッ?」


 口に食べ物を頬張ったまま、いきなり飛び込んできたテミスが、焦った様子で何ごとか叫んだ。

 そして驚いて飛び退いたマカベウスの反応など気にすることなく、一方的に何ごとかをまくし立てる。


「ひずが! ひずがふめはいのっ! ひまがひぶんへるみらいらのっ!」


 食べ物を口いっぱいに詰め込んでいるので、当然、何を言っているのか全然わからない。マカベウスはため息をつきながら、テミスの肩に手を置いてゆっくりと諭した。


「落ち着け。そして口の中のものを飲み込んでからもう一度話せ、いいな? それじゃ何を言いたいのか、全然伝わらない。詠唱を基礎とする魔導師として、基本だぞ?」


 魔導師の基礎という言葉で諭されたテミスは、目を見開きながらもマカベウスの言葉に従い、素直にうなずいた。


「う、うん……。ごっくん」


「よーし、落ち着いたか? 何があったのか、よくわかるように話すんだぞ」


 テミスの両肩に置かれたマカベウスの手。真剣そのものの表情で、じっとテミスの目を見つめてくる、マカベウスの端整なマスク、そして甘い吐息が近づいてくる。

 これらの痛撃を同時に食らったテミスの顔が、瞬間的に耳まで真っ赤になった。


 ――はううっ! 近いっ、顔が近いよおじちゃん!


 それでも、思いは言葉にしなければならない。テミスは真っ赤になり、両手の指を悶々と絡ませながらも、必死に自分の思いをマカベウスに伝えた。


「あ、あの、ね……。み、水、が……」


「水? 水がどうかしたのか――」


 マカベウスがそう言って首をかしげた、ちょうどその時――。

 二人が立っている場所の地盤が、不気味な崩落音とともにガクッと沈下した。


「う……うおおっ?」


「――うにゃあッ?」


 不意を突かれたマカベウスとテミスは、悲鳴を上げながらバランスを崩したものの、とっさに互いの身を支え合い、水中への転落だけは辛うじて回避することができた。


 二人は比較的大きな、岩石の上に立っていたらしい。基盤となる瓦礫は崩壊したが、岩石はまだ何とか、水面上にとどまっている。


 しかしその周辺では、信じられない光景が次から次へと発生していた。


 静かだった地底湖の水が突如として波立ったかと思うと、怒濤のようになって、島のようになっていた水面上の部分を次々と飲み込み、崩しはじめたのだ。


 静かな音を立てながらも、少しずつ崩れ、水中へと没し続けてきた円錐状の島。

 そして今、人間という新たな堆積物のせいで円錐形を維持できなくなった瓦礫の島は、ついに耐えきれず轟音とともに沈みつつあった。


 水面が波立つようになったのは、長い間に天井から降ってきた瓦礫によって形成されたこの島が、新たな瓦礫の重さに耐えきれず、より平坦な地形へと変化しようと崩壊をはじめたために、おびただしい量の土砂を水面下に押し出し、水中の地形が刻々と変化しているせいだった。


 辛うじて残ったわずかな陸地の上で、マカベウスとテミスはいつしか抱き合っていた。


「お、おじちゃあん……どうしよう。あたし、川で溺れてから泳げないの……」


 青い顔でマカベウスにしがみつき、迫りくる水面を見ながら弱気なことを言い出すテミス。川で溺れた経験のためか、彼女は間近で水を見るのがトラウマらしい。

 そうでなくてもこの地底湖の水は、氷のような冷たさ。たとえ泳げたとしても、水に入った途端に心臓が止まってしまうかもしれない。


「くそっ。こんな時だってのに、俺に魔力さえ残っていれば……」


 波立つ水面を睨みつけたマカベウスは、唇を噛んで、魔力を使い果たしてしまった自分の軽率さを悔やんだ。しかし、もはや後の祭りである。


 だが、まだ活路はある――。マカベウスはまだ諦めていなかった。


 なぜならば、一緒にいるテミスも魔力を有する魔術能力者スキエンティア・マギカ。それが一縷の希望となって、彼を支えていた。

 生き延びるためには、イチかバチかの賭けに勝たなければならないが……。


 ――だが、ここは火の精霊が足りない。そんな状況でやったら、あいつが出てくるかもしれないが……この際、四の五の言っていられるか!


 徐々に沈んでいく岩石の上に座り込み、崩れゆく島を眺めていたマカベウスの中で、ようやくひとつの決意が固まった。


 この場を切り抜けるためには、魔術が持つ超自然的な力が必要だ。それは疑いがない。


 冥界に存在する魔力を利用する呪術魔法が、ここでの最適な選択肢だ。ところが地底に落下した際にどこかへ落としたのか、呪術魔法の魔導書をテミスが持っていないことに、マカベウスはすでに気がついていた。


 呪術魔法の魔導書がこの場になく、さらに神聖魔法を他人に伝授することを禁じられているマカベウスが、この場でテミスに伝えられるのは精霊魔法しかない。しかし、テミスはまだ精霊との契約を結んでいない状態だ。


 それにテミスが有している、呪術魔法への適性は捨てがたい。さらに、彼女が持つ呪術魔法への情熱もある。だがこの際、生きることを優先しなければならなかった。


「――おい、テミス」


「う……うぇえ?」


 重々しい口調でマカベウスが呼びかけると、テミスが変な声で返事をした。水への恐怖のせいか、とっくに涙目になっている。

 そんなテミスの両肩を掴んだマカベウスは、彼女への申し訳なさに顔をゆがめながらも、力強く言った。


「呪術魔法を練習しに来たお前に、申し訳ないとは思うが……。ここでお前に、精霊との契約をしてもらう」


「精霊と、契約……? あたしが……?」


 思いがけないマカベウスの申し出に理由が見いだせず、ぽかんとするテミス。

 しかし、今は説明している時間がない。マカベウスは大きくうなずいてから言った。


「ああ。俺たちが生きてここを出るには――もうそれしかない」

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