第62話
低い子供部屋の天井。
見慣れた天井板の薄いシミに、足を下ろすとみしりと音を奏でる床板。
僕はベッドに腰を落ち着けたまま、いつのまにか手狭になった小さな僕の部屋を焦点も合わせずに眺める。
あるいは階段を下りてガイウスへの朝の挨拶もそこそこに、ぼんやりと食事を摂る。
もしくはそのままニックの書斎に直行し、部屋の主に無断で本を開いては文字を読むでもなく目で追っていく。
そしてそれにも飽きるとイルマの剣を持ちだして、家の裏手で漫然と振るう。
もちろん、服は着たままだ。
このひと月近くというもの、僕はそんなふうに途方に暮れていた。
今のこの国で僕にできることは少なくないだろう。
でも、僕に許されたことは葉っぱから零れる夜露ほどもなかった。
いや、
事実、誰も僕になにかをすることを禁止してはいない。
アンリオスだって僕になにかを禁じてはいなかった。
そのアンリオスとの最期の別れから、もうひと月が経とうとしている。
なのに僕はまだどこか置いてきぼりにされたような気分のままだ。
アリオヴィスタスが斃れて、アンリオスが眠った日からふた月を迎えようとしている。
その間、僕は大半を家の中で過ごし、まったく王宮の城壁を越えなかった。
理由は簡単。ひと月を昏睡して過ごし、残りの時間は迷っていたから。
アークリーと彼の家のこと。
コルネリアと彼女の父親のこと。
なによりもアンリオスの遺した課題への答えが出ない。
彼の声があれからずっと僕の頭の中で巡っているんだ。
将来への不安と共に。
『なあ、親愛なる我が宿、オルレイウス。お前さん、いつまで寝ているつもりだい?』
不満げな《
僕は足許から聞こえる不平を空へと受け流してイルマの剣を振りかぶる。
一振りごとに思い描いたフォームからどんどん遠のいていくのがわかる。
続けている間にも剣の重さに体がぶれる。
膝が軋んで、脚が萎える。
手が痺れて握りが汗で滑りだす。
『起きているとでも言うつもりか、オル? そいつは違うだろう? お前さん、ただまぶたを開けているだけだ。なにも見ちゃいない。なんにも聞いちゃあいない』
影の中の《蛇》は情緒不安定だ。
しばらくはすこぶる機嫌が良かったのに、かと思えば最近は愚痴っぽい。
僕の腕が支えきれずに剣を地面へと突き立てる。
振り下ろした勢いと金属の重量に負けてしまっていた。
『これはなんていう遊びなんだい、オル? いやさ、遊びならまあいい。かく言う《蛇》も昔は獲物で遊んだもんだ。そりゃあもう散々に』
地面に落ちた影が剣の刃を避けるようにうねって見える。
『遊びは余裕と余力の
《蛇》の呆れたとでもいうような素っ頓狂な声。
『余裕と余力を食い潰してばっかりじゃないか? そういうのをなんて呼ぶか知ってるか、オル?』
影の中に間借りしている分際で説教臭いことを言う。
『この情けない境遇は、ほぼお前さんのせいだがねっ! ……いいか? 無駄と言うんだ、オルレイウス。お前さんがやってることは無駄って言うんだよ! くだらない意地を張ってないで裸になるんだ、オル! やりたいようにやればいい!』
《蛇》の発言のおかげでなけなしの力まで霧散してしまう。
脚が勝手に腰を地面へと投げ出す。
《蛇》の性別は知らないが、その発言はセクシャル・ハラスメントでしかない。
この影の中にいるというだけのよくわからない存在の《蛇》には、僕の悩みがわからないんだ。
『ああ、わからない。だが、大家の駄弁ぐらい店子だって聞いてやらなくもないさ』
なんだ、その喩えは。まあいいけど。
……たとえば、僕が順調に成長して領地経営に参加することになるとしよう。
きっと大変なことは多いだろうけど、ニックは頼りになる。いろいろ教えてくれるだろう。
経営に関する諸事はニックに付いて回って憶えるとして、手が回りそうにないことや、わからないことはガイウスやアークリー、コルネリアを頼ればいい。
だけど、そのアークリーが先日ウォード伯の従士長に就任してしまい、コルネリアの父親のガルバ候は彼女の嫁ぎ先を探している。
僕の将来設計は既に狂い出しているんだ。
さらに未来の僕の領地、アガルディ侯爵領は城下町の北に位置していて、《ギレヌミア人》の活動領域と接している。
《ザントクリフ王国》の北方防衛拠点という位置づけになる。おそらくはマルクス伯父もそのつもりのはずだ。
ニックはこの地域の気候が変化していると言っていた。
僕が産まれてから十一年ほど。その間にも少しずつだけど冬が長くなっているように思う。
そのうちここよりも北の地域では穀物の生育に影響が出るようになるだろうし、もう出ているかもしれない。
であれば今回のように《ギレヌミア人》と非友好的な接触をする可能性は低くない。
じゃあ、僕はそのときに剣を取って戦うのだろうか?
『戦えばいいだろう』
《蛇》の言うことはとりあえず無視だ。
前世には国家の三要素という概念があった。
領域と、国民と、主権。
この国においてそれらが同じように国家に必要なものとして認識されているかというと微妙だと思う。
領域の境界は曖昧。
国民に愛国心と呼べるほどの意識はないように思える。というより彼らにとって国家は、両親やこの世界での職業と同じで選べるものではないみたいだ。
だけど一方で主権に関してはおそろしく強い効力が付与されている。
この国の主権者は言うまでもなくマルクス・レックス・ザントクリフ・ユニウス・レイアその人。
今回もマルクス伯父の言葉で国民は戦うことを強いられ、そして少なくない人々が亡くなった。
じゃあ、マルクス伯父が悪者かといえばそういうわけではないと僕は思う。
むしろ伯父の治世は善政と言っていいんじゃないだろうか。
今回の戦闘によって《ザントクリフ王国》が滅びれば多くの問題が起こっただろう。
その際のレイア家の処遇は見なかったことにしたとしても、だ。
政体が変化すれば、当然のように上を下への大騒ぎになる。
閣僚なんかの人員の選定から、貴族階級への待遇の変化。
税制、補償制度など保険福祉関係制度の変更に、領土および領地境界の策定、対外政策、為替制御などなど。
そして、なによりも単純で重大な問題は数千人にものぼる《ギレヌミア人》という無産民が増えるということ。
もちろん《ギレヌミア人》だってある程度は自給自足しているだろうけど、アリオヴィスタスの目的が《グリア地域》の統一にあった以上、彼らは戦闘へ繰り出したはず。
その彼らの兵糧を支えるのはこの国の役目になったはずだ。
戦死者遺族への補償だってアリオヴィスタスが行ったかはわからない。
……僕の考えはアリオヴィスタスに対してフェアじゃない。
レイア家の血を引くひとりである僕が考えている以上、それは仕方ない。
まあ、問題はそこでもない。
ほんとうの問題は、主権者の重要性ということ。対外勢力に力で対抗しうるということは、主権を持っていることの証明でそれを使えるということの証明にもなる。
そして、それを振るうことができなければ僕らを含めたすべての国民がなんらかの影響を被る。おもに悪い面で。
将来、北から《ギレヌミア人》が侵入してくる確率は低くないと思う。
そこで僕が剣を握らなくて誰かが死んでしまうのだとしたら、僕はきっと剣を握るだろう。
全裸で。
『それでいいじゃないかっ?』
だけど、そうしてどうする?
相手を殺すのだろうか?
『殺せばいい』
《蛇》が言うように単純な問題じゃない。
僕はアリオヴィスタスの姿を見た。
彼が犠牲者だとは思わない。かといって、彼が正しかったとも僕には思えない。
彼は飲み下したんだ。自分の目的のためにすべてを飲み下した。
黒も白も。
ただ一つだけ、彼の父親とアンリオスが共有した灰色。彼が飲み下せなかったそれを否定するために。
もしかすると、アリオヴィスタスがそれを飲み込めなかったのは、彼自身のが産まれ持った矜持によるものだったのかもしれない。
そうして吐き出した彼の言葉は何色に染まっていたのか?
僕にはそれが血の色に染まって見えた。
だけど、きっとアリオヴィスタスの瞳には違った色に見えていたんだろう。
『感傷か? 同情か? 止せよ、オル。それこそ無駄だ! ありゃ小物だ! お前さんより下等だっていうことはわかりきっていた。なのに、それでも挑んだ。だからお前さんに負けたのさ。それだけじゃないか? 狩った獲物の影を大きくしてもなんにもなりゃしない。あれには分不相応だったのさ』
たぶん、違うと思う。
アリオヴィスタスは自分の目的に対してだけは正直だった。ただ、彼は挑戦しただけだ。
そして、彼に対して僕も正直だった。
同時に、僕は思う。
僕にはアリオヴィスタスのような生き方はできない。自分の目的のためにすべてを犠牲にして、なお邁進するようなことはできない。
『おいおい、オルレイウス? お前さん、なにを考えている? どうしてできないことがあるものかっ?! お前は
その気にはならない。
それが正しいとはとても思えないから。
『じゃあ、なにか? あの変わり者の《デモニアクス》みたいに回りくどく生きようとでもいうのかい?』
わからない。
僕にはどうも《デモニアクス》が正しかったとも思えないんだ。
終戦の英雄、《デモニアクス》。
長い戦争を終わらせることができた彼は、やはり英雄なんだろう。
だけど、彼はアンリオスやマルクス伯父や、そしてアリオヴィスタスとはどこかが違う。
《デモニアクス》は英雄なのだろうけど、どこか偽善的に思える。
戦うことを決断しておきながら、仲間に敵を殺させておきながら自分の手だけキレイにしておこうなんて。
アンリオスもマルクス伯父も、アリオヴィスタスだって……
…………ニックはどうだろうか。
今回の戦闘で、ニックが誰かの命を奪うところを僕は見ていない。
その気になればニックならば、相手が《ギレヌミア人》ほど強くても、いくらでも
だけどニックはそうしなかった。
たとえば、命を奪うよりも傷病者を多く作りだしたほうが戦局を有利に進められるとか。
もしくは、少数を殺害する《魔法》よりも大多数を阻害する《魔法》に《魔力》を割いた結果だったとか。
それとも、防衛戦争という性質から味方を守ることに主眼を置いていたからだったとか。
あるいは、首領であるアリオヴィスタスさえ仕留められればよかったから、そうする必要がなかったとか。
でも、ニックが
――ではニックを偽善者だと僕は考えるだろうか。
「――いや」
違う。
だけど、僕にはなにが違うのかわかっても、どう違うのかがわからない。
すべての種族のために戦争を求めて、灰色を飲み込んだアンリオス。
アンリオスを師と仰ぎながら、自らが王となることを欲したウァレス。
アンリオスを見逃した《デモニアクス》。
《ギレヌミア人》を殺さなかったニック。
この国を護るために戦陣に立ったマルクス伯父と、そのマルクス伯父への勝利を願ったネシア・セビ。
そして、僕とアリオヴィスタス。
そう。アリオヴィスタスが言ったように、でもそれとは異なった面で実は僕らはよく似ていた。
それぞれの共同体における社会的な地位。設えられたように恵まれた環境と、それに育まれた《技能》。
おそらくは周囲とは違う出生。
父親への反発も。
『そんなこたあ些細なことだ、オル。お前のほうが上等に産まれついた。それだけだ。似ている? ちゃんちゃらおかしいね! あれにはできなくても、お前さんにはできるのさ。できることをやらない理由なんて《
いつもの嘲るような、だけどどこか苛立つような《蛇》の声。
『あれよりもお前は、より多く、より特別なものを与えられていた。それだけのことだろう』
《蛇》の言うことは正しいようでいて、どことなく正しくない。
特別ということが特殊という意味なら、誰しもが特別だ。
そして、それがより多大な影響力をまとった、という意味なら、僕はアリオヴィスタスに劣っていた。
だって僕が率いることができたのは百五十人ほどのケットを初めとしたアークリーの友人たち。
一方のアリオヴィスタスは数千の《ギレヌミア人》を実力で従える王だった。
彼の威容は子どもの僕には無いものに満ちていて、その点で彼は僕を間違いなく凌駕していた。
僕ひとりがいくら《
『くだらない! そんなもの!』
そう。
たぶんこの世界では、夢想だにされないこと。《福音》よりも、場合によっては優越する能力があるかもしれない、なんて。
アリオヴィスタスも言っていたぐらいだ。
自分に与えられたものは神々の啓示だ、って。
あの言葉がどこまで本気だったのかは今となってはわからないけど、それがこの世界では最もわかり易い説明なんだ。
秀でた能力や容姿を神々の加護に帰することが、わかり易くて一番説得力がある。
『……なあ、オル? お前さん、なにを怖がっているんだ』
僕が怖がっている?
…………ああ、そうだ。僕は怖がってる。
灰色にまみれてしまうことが怖いんだ。一度飲み込んでしまえば取り返しがつかないような気がして。
理不尽や不条理をそのままにして飲み下せば、僕のなにかが揺らいでしまうような。
また、同じことを繰り返しそうで。
『なんだ、そりゃ?』
二度と取り戻せない昔の話。《蛇》にはたぶん関係ない話さ。
だけど、今度は幸運にもチャンスが与えられている。
目を逸らさずに考えるというチャンスが。
そして、迷惑だけれども強力な能力と、それを使うかどうかという選択肢も。
『《蛇》に言わせりゃ、お前さんは剥がれかけた皮を無理に被り直そうとしているように見えるがね!』
……だから、なんだ。その喩えは。
「それにしても、春も近いはずなのに冷える……」
ニックは忙しいのか家にいないことが多いし、ガイウスも僕にこの国の詳しい現状は教えてくれない。
そんな僕にいろいろと教えてくれるのは僕が快復する前から時々顔を出しているアウルスだ。
彼のもたらす情報は開拓村のことが多いし、なんだか変な偏りがある気がするから当てにしてない。
アークリーとコルネリアは姿を見せない。
彼と彼女の真意が僕にはわからない。
それも僕の怖がっていることのひとつだ。
会いに行くべきかとも思うけれど、アウルスがそれを止める。
曰く、「臣下の元に主人が赴くなど、威厳に関わります。なにより、どちらもオルレイウスどのに救われた身でありながら……」うんぬん。
僕としても全裸を衆目に晒してしまったし、あんまり出歩きたくはないのだけれど。
わかっているんだ。それを言い訳にしていることも。
もしもふたりが自ら望んでそうしているなら、僕に止める権利はないのかもしれない。
そして、どうしたわけかアウルスも最近は姿を見せない。
姿を見せないといえば……イルマはそろそろ帰って来ないのだろうか。
〓〓〓
〈――ルエルヴァ共和新歴百十年、ザントクリフ王国歴千四百六十七年、ヘカティアの月、二十七夜
オルレイウスが《義侠の神》によって快復した夜からもうすぐひと月。
西の採掘場とアガルディ侯爵領、そして主要貴族の邸宅を訪問するようになってから十夜ほど。
オルレイウスの予後に問題はないが、彼の周囲の状況は芳しくない。
アークリー・ウォード・アドミニウス・ガステールとコルネリア・ガルバ・ケレブルーム・ネーヴス。
オルのふたりの若い友人たちは公の場に暫く姿を見せていない。
彼らは共に先日の戦争で名を上げ過ぎた。
実質的に部隊を指揮し、アリオヴィスタスに挑んだコルネリア・ガルバ・ケレブルーム・ネーヴスへの貴族間における評価は非常に高い。
彼女はアリオヴィスタスの野望を阻んだ最大の功労者のひとりと言えるだろう。
その事実が彼女の父、ガルバ候プブリウス・マールキオ・ガルバ・ケレブルーム・ネーヴスの野望を助長している。
書状でガルバ候からコルネリアをオルの正妻にしたいという申し入れがあったのはオルが快復する前だった。
私はそれに対し、「当家のオルレイウスは未だ十一歳に過ぎない。結婚はまだ早い」というだけの返書を認めた。
その後もたびたび同じような内容の書状が届き、私も同じ内容を返信し続けた。
あまりのしつこさに辟易した私は、マルクス王が許さないだろう、と書き送った。
こう言えば、さしものガルバ候もマルクスとクラウディアに譲るだろうと思ったのだ。
オルとクラウディアの婚約関係はマルクスの頭の中以外では基本的に事実無根のものだ。
多くの貴族がそれを黙認しているふしはあるが。
だが、ガルバ候の本気は私の考えていた以上だった。
ありえないことに彼はマルクスへ直訴したのだ。
コルネリアをオルの婚約者として認めるように、と。
イルマの影に肝を冷やしているマルクスは激怒した。
オルレイウスの正妻はマルクスの末娘、クラウディアである、と。
以前のような安定した《ザントクリフ王国》の状況であればガルバ候も譲っただろう。
しかしながら今回の彼は一歩として譲らなかった。
戦争からまだふた月、国情は完全に安定しているとは言い難い。また、ガルバ候は国外に娘たちを嫁がせていて対外的な影響力もある。
ガルバ候は主張した、「娘、コルネリアへの報奨が与えられていない。……《グリア諸王国連合》に訴えても構わないのだ」と。
なにせ自分の命がかかっていると思っているのだ、マルクスも折れるわけがない。
ガルバ候はコルネリアに、より高値をつける買い手を探し始めた。
既に国内の貴族子弟が彼女に結婚を申し込みにガルバ候領地に押しかけている。
美々しいドレスに身を包み、求婚者たちを罵倒する彼女の様子は求婚した若者たちによって伝えられている。
中には、彼女に罵倒されるために何度も足を運ぶ者もいるという。
だがガルバ候の野望は国内に留まらない。《グリア地域》に向けてガルバ候はアリオヴィスタスとの戦争と娘の活躍を喧伝しているらしいのだ。
雪が融ければ、さらに多くの求婚者がこの国に押し寄せることになるだろう。
渦中のコルネリアは彼女の父によって軟禁され続けている。
そして、アークリー・ウォード・アドミニウス・ガステール。
コルネリアとは異なり、彼は貴族において、というよりも国民から広く慕われている。
「裏切った父を庇って倒れた孝子」
「友のために命を捨てて立ち向かった勇者」
「別け隔てない慈愛を持った若者」
泥まみれのケットの報告によれば、彼を褒めそやすそんな言葉が街には溢れているらしい。
だが、アークリーの現状はコルネリアよりもなお悪い。
新しくウォード伯となったアークリーの長兄は戦後、アークリーの容態が安定しないと言って彼への論功行賞を辞退した。
以来、アークリー・ウォード・アドミニウス・ガステールの姿を見たという者はいない。
しかしながら、私の治癒の申し出をすらも新しい伯爵は断った。「愚弟のためにこれ以上は申し訳ない」と。
そして、先日。
アークリーが姿を見せないままに彼のウォード伯領・従士長就任が彼の兄の口から発表された。
以来、ウォード伯領の領民の流出が已み、逆に戻る者すら出ていることは無関係ではないだろう。
そして、アガルディ侯爵領からウォード伯領へと移っている者も少しずつ増加している。
アガルディ侯爵領に流入していた民の中にはアークリーを慕っていた者も少なくない。
アークリー・ウォード・アドミニウス・ガステールがオルレイウスと親しいということは広く知られている。
なにせ、オルが外出する時には必ずといっていいほど彼が付いていたのだ。
多くの国民が当然、アークリーがアガルディ侯爵領に来るものと考えていたが、彼らの期待に反してアークリーはウォード伯領に残った。
だが。
オルの話によれば、彼とアークリーは主従の契約を交わしていたそうだ。
果たしてアークリーという青年はその誓いを簡単に破るような人物だったろうか。
それに、容体の悪化などあるわけがないのだ。
私の《祈り》は完全に成功していた。
予後不良? ありえない!
見え透いている。
新しいウォード伯は、弟を、いや弟の名望を手放したくないだけなのだ。
アークリー・ウォード・アドミニウス・ガステールの国民からの信望はマルクスを凌ぐかもしれない。
彼の虚像とでも言うべきものが出来上がっている。
……オルには頼れる仲間が必要だ。
泥まみれのケットが収集している街の噂には、オルのものもある。
それは必ずしも好意的なものではないし、それ以前の問題がある。
オルレイウスに対する噂は好意的なものにしろ、そうでないにしろ次のように締めくくられるという。
「……それにしても、なんで裸だったのかね?」
貴族間においては、もっと根深い問題がある。
オルが転生者であるということがある程度認知されているからだ。
結果、よくわからないものには蓋の要領でオルについて語る者は少ない。
それでも、時折耳にするのだ。
「……やはり、全裸だった理由は前世の記憶になんらかの……」
そんな声を。
私は貴族たちの邸宅を訪問し、《幻惑魔法》によって彼らの関心をオルレイウスから離している。
記憶を消すことは難しいが、この程度の
しかしながら、国民すべてに《魔法》をかけていくわけにはいかない。
だからこそオルには国民や周囲から信望を集めて、彼自身が心から頼れる仲間が必要なのだ。
今、オルレイウスが頼りにできるのはアガルディ侯爵領に居るアウルス・レント・マヌス・ネイウスだけだろう。
そして、そのアウルスと彼の周囲の者たちの言動も、以前と比較してなにか奇妙だ。
その原因を追及している余裕も今の私にはない。
泥まみれのケットたちを動かしてはいるが、アークリーたちの状況を打開するにはもう少し時間が要る。
それまではオルにもなにも言うべきではないだろう。
イルマに似て、オルレイウスはわりと無茶をする。
残念ながらマルクスは当てにはできない。
最近の彼は、会えばすぐにオルとクラウディアの婚約を認めろとしか言わないのだ。
そんなことをオルの意志に反して認めようとすれば、私がイルマに殴られる。
彼女は息子のロマンスを望んでいるのだ。
私とイルマが出遭っ……出逢ったように、オルにも恋をして欲しいと考えている。
それに、オルレイウスが快復した今、マルクスの不安は的外れと言うべきだろう。
余計なことで私の心労を増やさないで欲しいものだ。
私がいつものように忙しく過ごしていた昼、そのマルクスが採掘場にいた私を訪ねて来た。
しかも多数の近衛兵を引き連れてだ。
彼自身も戦争以来、久しぶりに見る甲冑姿で、私はとうとう北の森に留まっていた《ギレヌミア人》の残党、ネシア・セビが動いたのかと危惧を抱いた。
だが予想に反してマルクスはつい先夜、《モリーナ王国》の早馬からイルマの戦線離脱が報じられたのだと語った。
マルクスから聴いた話では、宮宰が《モリーナ王国》に到着する二十夜も前にイルマは独りで姿を消していたようだ。
現在、《グリア諸王国連合》北方主幹国である《レルミー王国》を中心に、イルマの行動に対して《ザントクリフ王国》を
しかしながら、それに関してマルクスは気もそぞろに語るのみで、どうもほかに気になることがあるらしかった。
戦時にも見なかった青い顔色でマルクスは語った。
「なぜイルマが姿を消したのかはわかっていない!」
しかしながら、彼には心当たりがあるらしい。
「――イルマは新年の一夜目に姿を消したのだっ!!」
マルクスはわなわなと震えながらそう絶叫したのだ〉
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