第55話



――あ、また、死んだ。



 僕はまどろみに囚われる。

 また、あの《裸神》の巨大な裸体を眺めさせられ、その上で男根自慢でもされることになるのだろうか?



……同時に考えたことは、僕がなにをどこで間違えたのかということ。


 《大気魔法》での火焔の制御は不完全に終わると思う。

 降水は期待できると思うけれど、それですぐにあの火柱が消えてなくなるとも思えない。

 《人馬ケンタウルス》たちの安全は確保されないままだ。下手をすれば僕が作り出してしまった火柱が多くの人や《人馬》たちを棲み家ごと焼く。


 しかも、そうなれば動ける《人馬》たちは仲間の救出に力を尽くすだろう。

 それで、アンリオスただ独りがあの滅茶苦茶な戦場に踊り込んで、アリオヴィスタスを討とうとするんだ。


 アンリオスが成功する可能性は高くない。彼の相手が《ギレヌミア人》だけだとは限らないからだ。

 狂奔する民兵たちはすでに一度、《人馬》に攻撃している。コルネリアの叱咤激励は、彼らの士気を高めたけど冷静さをも奪っている。

 アンリオスの行動を彼らが阻害するということは十分にあり得るように思えた。



――いったい、どこで間違えたんだろう?


 さっき、アンリオスと《人馬》たちに大言壮語を吐いたときだろうか。

 戦場に背を向けてこの櫓に登ることを決断したときだろうか。

 アウルスの手を振り切って全裸になることを、断念したときだろうか。


 コルネリアに武派貴族たちに道を開くように説得を頼んだときからだろうか。

 アウルスの忠言に耳を貸さずに無謀にも寄せ集めのケットの仲間たちを率いて出発したときからだろうか。

 いや、それ以前にアークリーにウォード伯への報告を頼んだときからだろうか。


 無警戒にもウォード伯を信用してしまったときからだろうか。

 クラウディアを避けるあまり、ルキウスと自分から話す機会を作らなかったからだろうか。

 ニックに隠し事をすることを決めたときからだろうか。



 僕はずっと慎重に行動してきたはずなのに。

 イルマとの間の秘密もニックにずっと隠せていたし、ニックに禁じられていた、僕自身の秘密を誰かに吹聴するようなミスも犯してこなかった。

 たった一度、アークリーに対して打ち明けてしまった以外には。


 でも、あれは間違いだったろうか?


 だって、アークリーのおかげで僕はコルネリアやアウルスをより深く知ることができたんだ。

 そうでなければ、僕はコルネリアのちょっとアレな野望も、アウルスの変人じみた忠誠心も、アークリーの親子関係も知ることがなかった。

 カッシウスに誘き出されたときも、僕ひとりだけだったらもう少し手こずったと思う。

 なにより、彼らは僕の未来の臣下候補で、貴重な同年代の友人だ。


 あれを誤りと言うことは僕にはできない。


――なら、正しいことってなんだ?


 僕は愚かにも、また目指すべきものを見失いつつある。



『わからず屋のオルレイウス。《ピュート》がいいことを教えてやろう』


 《蛇》が嘲るようにそう言った。


『事実は既知、おおって然るは理知、能う可きは未知。そこから、種々の血と群れとお前さんが、機知によって選び取る』


 それは、どこかで聴いた話だった。

 そうだ、いつか見た書籍に書いてあった、四柱の《知識神》の話。


 既知を蒐める《義侠の神》。理知を以って予知する《陽の神》。未知を悦ぶ《夜の女神》。

 そして、機知を尊ぶ《純潔の神》。


『そうさ、オル。機知には利鈍、未知には利害、理知には理非、そして、既知には始終がある。そいつらはぜんぶ、絡み合ってほどけない。そいつらはぜーんぶ、種々の血と群れと、お前さんが与えるものさ』


 なにを言ってるんだろう、《蛇》は。

 いや、言いたいことはわかるけれど、その話は結局のところなにも規定していないに等しい。

 じゃあ、正しさってなんだ?


『そんなもんは、この《蛇》様の知ったことじゃない』


 偉そうなことを言っても役に立たない。ほんとうに《蛇》は口だけだ。

 《蛇》が不機嫌そうに存在しないはずの喉を鳴らした気がした。



…………遠くで、なにかが見えた気がした。

 見えたというのはおかしいかもしれない。僕のまぶたは閉じられているはずなのだから。

 僕はなぜかもわからないまま慄いた。あれに、これ以上、接近させてはいけない。


 次の瞬間。

 僕は、体に無音の声が満ち満ちていく感覚を覚えた。


 嫌悪すべき感覚。全身の肌が風に撫でられている。なんだか恥ずかしくなる感覚。

 音の渦が耳を打つ。


「なして、服ば脱がしなすったぁ?!」

「口を閉じて、この身に任せろ! もう、これしか方法は無いのだ!」


――ちょっとだけ、最悪な気分。僕は思わず顔を両手で覆った。


「――オルレイウスどのっ! ご無事ですか?!」


 アウルスの威勢のいい声。


「……どの程度、気を失ってましたか……」

「ほんのひと時にございます! この身の肩にお倒れになったので、すぐにこちらへ仰向けに、御召し物を剥ぎ取りました!」


 なんだ、その報告。――いや、違う。

 僕は跳び起きる。そして、櫓の手すりに跳びついた。


 火柱は健在だった。でも、様子がおかしい。

 どれだけ気絶していたかはわからないけど、僕の《魔法》はとっくに尽きていてもおかしくなかった。

 なのに、目の前で新たな風が森の梢を嘗めて吹き上がる。


 巨大な竜巻が遥か上空の厚い雲へとつながっている。


 僕の試みた《大気魔法》よりもよほど強力なその《魔法》。

 《人馬とニコラウスの壁》の先、東へと目を走らせる。見えた。街道の上。

 手首を合わせて、火柱を凝視するニックの姿。その表情がちょっと泣きそうに見えるのは、限界が近いから?


 ニックの横にはマルクス伯父がいる。街道での捕虜交換はどうなったんだ?

 街道の大部分は梢に阻まれて見えない。ニックはこちらに《魔力》を使用するほど余裕があるということなのか?


 次第に火柱の勢いが衰えていく。火柱の根元の木々が焼き尽くされつつあるのか?

 そのとき、さらに竜巻が勢いを増した。ニックが《大気魔法》を追加したんだ。


 イルマとアンリオスの言葉を思い出す。

 天才、そして、馬鹿げた《魔力》、という言葉。

 いったい、僕の何倍の?


「アンリオスっ! ……ニックが……アンリオスはっ?!」


 下を見ると、そこにはもうアンリオスの姿が無かった。残された《人馬》たちも火柱を見上げていたけど、僕の声にアンリオスの不在に気がついたようだった。

 僕が倒れたことで、失敗だと断じられた? それにしても、行動が早すぎるだろう!


 東を見る。いない。その先では、マルクス伯父が首を返して前を見ていた。

 厚い曇り空に拡散される陽光。しかし、それを透過して太陽はなおその位置を中天に示している。

 マルクス伯父の視線の先には、おそらく《ギレヌミア人》の本隊がいる。


 すぐに西へと目を転じる。見つけた。駆けるアンリオスの姿。

 彼の向かう先、《人馬とニコラウスの壁》一枚を隔てて展開されているはずの乱戦は、ほぼ停止していた。

 ほとんど全員が火柱へと目を奪われている中で、コルネリアとアリオヴィスタスだけが互いに互いを認識していた。


 アリオヴィスタスが馬ごと跳躍する。巨剣が宙を流れて、ふたりの民兵の頭を叩き潰す。

 コルネリアが剣を構えた。迎え撃つつもり。巨躯のアリオヴィスタスと小柄なコルネリアの距離が近づいていく。

 戦場が叫喚を取り戻す。


「オルレイウスどの! とにかく御召し物を……」


 そう言った背後のアウルスを振り返り、彼の腰から剣を引き抜く。

 そして、そのまま僕は櫓から飛び降りた。


「――オルレイウスどのっ!」

「少し借ります」


 イルマの剣を置いてきたことが悔やまれた。

 くだらない全裸への忌避感。僕はそれを風で洗い落としながら、降下していく。


 落下している間にも、状況は変化していた。

 吹き荒ぶ風音のなかで、僕の耳がアンリオスの足音とコルネリアの雄叫びとアリオヴィスタスの大笑を聴いた。

 十数メートルほど下、《人馬とニコラウスの壁》の上に着地。


 そのまま僕はごつごつとした壁の上を西へと駆け出した。

 戦域までは百メートルも無い。今の僕の脚なら数秒ほど?

 だけど、コルネリアの眼前にはアリオヴィスタスがいて、アンリオスはすでに壁を駆け上がっていた。


 アンリオスの考えは奇襲――


 でも、火柱が作りだした風鳴りの中の微妙な静寂。

 アンリオスの蹄の音を捉えたとでもいうように、アリオヴィスタスの目が壁へと奔る。

 その口元が笑みにゆがんでいた。


「アンリオ――」


「槍を構えよ! 《戦士》たち!!」


 僕の声を遮るようにアリオヴィスタスの声が猛った。それに従って、剣を持ち替え、あるいは捨てて《ギレヌミア人》が動いた。

 次の瞬間、アンリオスが壁の頂上へと姿を現す。

 アリオヴィスタスの巨剣が流れて、それを防ごうと突き出された槍剣を弾く。大きな金属音と共に馬上のコルネリアが巨剣に弾き飛ばされる。


 巨剣の先端はそのまま弓を引き絞るアンリオスを向いていた。


「放てっ!!」


 僕は悟った。

 なぜ、ウォード伯を狙った《ギレヌミア人》の投げ槍が数本に過ぎなかったのか。

 どうして、これほど迅速に《ギレヌミア人》たちが号令に対応できたのか。


 この瞬間を、アリオヴィスタスは予測していたのだ、と。


「アリオヴィス――」


 跳躍しながら弓を構えていたアンリオスへ。

 数十の槍が吸い込まれていく。


 突き刺さる。彼の体の正面に。横に。脚に。腕に。突き立つ。彼の体のあちこちに。

 そのうちの一本が、彼の半身になった体の胸を貫いていた。


「――タスっ!!」


 投げ槍に討たれて、人の体を串刺しにされて、馬の体にそれを生やして。

 壁の北側へ、アリオヴィスタスの反対側へと落ちるアンリオスは、なお、矢を放った。


 それは、鋭くアリオヴィスタスへと奔ったけれど、その肩に突き立つにとどまり。

 矢を受けてよろめくアリオヴィスタスは壁の向こう側へと消えるアンリオスを眺めて大きく頬をゆがめた。


「同胞!! ――次は、《グリア人》どもを」


 そう巨剣を空へと突き上げながら吼えるアリオヴィスタス目指して加速する。風音が唸りを上げる。

 視界には、壁の向こう側へと消えるアンリオス。落馬して兵に抱えられるコルネリア。

 そして、そのコルネリアを庇うために剣を突き出して負傷した兵たちの絶望的な顔があった。


『待っ――』


 《蛇》の声。僕は冷え冷えと流れ去る景色のうちに考える。

 待つ? なにを待つ? 誰かが死ぬのを? それともアリオヴィスタスの寿命を?

 運命がこの男に復讐するのを? 宿命がこの男に絶望をもたらすのを? 神々の偏愛を期待して? 義憤の裁きを? 脚の遅い《諸王国連合》が《ギレヌミア人》と対決するその時を?


 それとも、命を奪われた魂の救済を? 永遠に訪れない眼前の男の改心を? 生死不明のコルネリアの声を聴く時を?

――転生の果てに、アンリオスとまた出逢う瞬間を?


 ひとつだけ言えることがあるとすれば、僕にはそれらを待てるほどの忍耐はない――


「んっ!!」


 壁を蹴る。足下には血に染まった槍の林と、落胆が広がっていく民兵たちの顔。前方に見下ろすのは騎馬の《ギレヌミア人》たち。

 でも、目標はその先頭のひとりだけ。

 剣を振り上げて勝ち誇るアリオヴィスタスに向かって。


 力みながらも、イルマの教えに僕の肉体は忠実だった。

 跳び込み、右から左――アリオヴィスタスの左肩から右わき腹へと抜ける袈裟斬り。

 アリオヴィスタスの反応は遅かった。彼が僕へと目を注いだときには、すでに僕は巨剣の間合いの内側へ跳んでいた。


 驚きの表情を浮かべながらも巨剣を左肩の上へ動かして、僕の一撃を防ごうとするアリオヴィスタスの柄を握った指。

 僕は手首を返して軌道を変え、その終わりの二本ほどを斬り飛ばす。


「――っ!!」


 アリオヴィスタスは僕の動きに対応し、巨剣を頭上で大きく旋回させて、左へと流れた僕の剣を追って絡めようとする。

 ぎゃりぎょりと、鉄と鉄が火花を放つ。高速で打ち鳴らされる。巨剣の動きに引きずられる。

 旋回して風を起こす巨剣が僕の手にした剣を絡めながら、逆袈裟に僕の体を横断しようとする。


 剣を捨て、体を縮めて、それを避ける。


「な――」


 なにが、「な――」だ。

 上へ飛び去るアウルスの剣。肩と頭を翳める太い巨剣。それには目もくれずにアリオヴィスタスの体、巨剣の内側、腕の間合いに跳び込む。

 

 剣を絡められた反作用。それを利用して腰を切る。右から左へ。左肩甲骨を外れるほどに引いてたわめる。

 アリオヴィスタスの長い金髪が僕の鼻をくすぐるほどの距離。生臭い血の臭い。短い腕を畳み、左肘を奔らせた。

 同時に、アリオヴィスタスは巨大な左拳を僕の脇腹へと沈める。


 肘に硬い顎の感触。

 腹筋がたわみ、肋骨がいくつか折れる音が体内に響く。

 脚を伸ばしてアリオヴィスタスの肩を蹴る。


 息が止まる。呼吸。吸うんじゃない。吐け。

 傷んだのは、右の六七八本目の肋骨のあたり。縦に回転する視界。馬上で体を揺らすアリオヴィスタス。空と梢。《人馬とニコラウスの壁》と槍の林。それらが順々に映る。

 体を、背骨を捻って槍を蹴り飛ばし、蹴り折る。そのまま壁に着地。右脇が鈍い痛みを吐き出した。

 

 だけど、それがどうした。

 壁の傾斜を転がって、人混みに紛れ込む。

 アリオヴィスタスは焦点の合っていない瞳で僕の影を追う。


 大したものだと思う。顎を砕いて、首を捻じ切るつもりで、肘で撃ち抜いたのに。


「……あぁっ! そうだ! 俺は――余は、果たしたと思うたが。貴様もおったな……子供っ!」


 アリオヴィスタスは左手に巨剣を持ち替えると、笑顔を浮かべながら吼えた。

 体勢を低くして人々と騎馬の足許を駆け抜ける。駆けながら《ギレヌミア人》の捨てた剣を拾った。わずかに浮かして、重さと重心から長さを測る。


「なんだ? なにが起こってる?!」

「足元になにか!」

「――坊ちゃんかっ?!」


 割と近くでケットの声が聴こえた。

 耳を澄ます。どよめき、悲鳴、うめき、絶命間際の荒い息。馬の鼻息。《人馬とニコラウスの壁》の向こう側の音が飛び込んでくる。

 進行方向にいるそれらの動きを予測する。速度をできるだけ落とさずに駆ける。


 地面の近くは臭いで溢れかえっていた。


 血だ。鉄の匂い。汗と、吐き気をもよおす生臭い臭気。嘔吐物の粘膜を焼く臭い、臓器とそこからこぼれる糞尿のアンモニア臭。

 森の湿った腐植土の柔らかい匂い。融けかけた雪の雨のような匂い。戦場と死臭と嗅ぎ慣れた森の匂い。


 それでも、目だけは人や馬の陰から、アリオヴィスタスだけに、やつの一挙一動に据えていた。


「――仇討ちのつもりかっ?! ……間違っている! 敵はやつらだっ!!」


 そう叫ぶアリオヴィスタスを中心に右へ右へ。《人馬とニコラウスの壁》から離れるように。


 《ギレヌミア人》の騎馬の腹の下をくぐり抜け、馬たちを驚かす。


「余は――いや、俺は、超えた。たった今、超えたのだ。父が踏み越えられなかった一線を。数百年の時を」


 酔い痴れたような、朦朧とした口調でアリオヴィスタスは語っていた。

 だけど、その目は揺らぎながらも僕の影を追っている。


「やつは強かった。力も智慧も心も。《夜の女神》の創造物のうちで、やつほど熱心に創られたものはおらんのだろう。……だが、いらんのだ! あれは、《竜種ドラコーン》と同じだっ! 英雄に狩られる宿命の――」

「――おい、語ってるなよ」


 僕は呟きながら、アリオヴィスタスへと向かった。

 騎馬のひしめき合う地上で、一本、真っ直ぐに走れる道が開く。加速した。

 読む。一振り、二振り、三振り。それに対する相手の反応。最善手へと僕の脳は導かれる。


 馬たちの細い脚の林を縫って駆けるのは、もうやめだ。正面には垂れさがる巨剣の先端とアリオヴィスタスの視線。

 そのふたつが、僕を捉えて持ち上がる。


「愚か者めっ! 貴様も強者として産まれついたならば、六つ肢などに加担するな!」

「――知ったことじゃない」


 巨剣の直前で小さく跳躍。

 地面に垂直に立てられた刃を足の裏で踏む。


 アリオヴィスタスの目が驚愕に開く。

 わかってるだろう? お前がどれだけの人をこの場で斬ったか。

 血と脂で鈍り、骨を斬った刃毀れだ。お前の腕力と剣の重さも、対象との距離がゼロなら十全には発揮されない。


 アリオヴィスタスの持つ巨剣が、僕の軽い体重を載せて、わずかに沈む。

 やつが手首を返す前に、僕は剣を蹴った。両手で握った剣を、やつの首へと奔らせる。


『おい、だから、神ば――』


 神罰? それも、もう、知ったことじゃない。


「んんっ!!」


 直前まで添えていた左手を離す。伸びる肩甲骨、右腕。横薙ぎ――

 乗騎のたてがみを斬って、アリオヴィスタスの首へと向かうそれは、やつの右耳と頭髪を斬っただけ。

 首を大きく傾けながら、アリオヴィスタスの口元に笑みが浮かんでいた。


「おぉっ!」


 宙に浮かんだ僕の脚を掬う巨剣。脚を縮めてその刃を避けて、その腹を蹴って、アリオヴィスタスから離れる。

 離れ際、腰を切る。腰椎、胸椎を捻る。やつの頸動脈目指して、長剣を伸ばす。

 金属音。視界の隅に火花。巨剣の柄が引きつけられて、立てられていた。それが切っ先を受け止める。ぎちりとした、硬い感触。


「――ひぃっ!」


 跳躍方向にいた《ギレヌミア人》の悲鳴。彼を、勢いそのままに馬から蹴り飛ばした。

 そのまま馬の背に足をつけると、怯えて四肢を踏み鳴らす彼のたてがみを浚う。


「……大人しくしてください……」


 僕が蹴り飛ばした《ギレヌミア人》が後ろの数人を巻き込んで落馬するなか、馬が首を振って、その動きを小さくした。

 背筋と両脚を伸ばして、馬の背中に立ちながらアリオヴィスタスを視界に収める。

 ぐっと脚に力を込めたとき。アリオヴィスタスが吼えた。


「――見るがいい! 貴様の周りの者どもの顔を! 終わっているのだっ!!」


 周り。その言葉。


 好戦的なはずの《ギレヌミア人》が怯えているのがわかった。

 それだけではない。僕に注がれる奇異の視線。民兵も、《ギレヌミア人》も、そして、ケットたちからも。

 だけど、聞こえる息遣い。


「ケット! コルネリアを西へ、ニックの許へっ! 早くっ!! アウーがこちらへ向かってます!! ……負傷者は後ろへ下がって! 残った者は彼らに手を! 《ギレヌミア人》は動きません!!」

「あ、あいよっ!!」


 僕がアリオヴィスタスを見据えたまま出した命令に、ケットの威勢のいい叫び声があがった。


「……必要……ないっ! ぼくには……構うな、《泥まみれ》! ……オルレイウス、くん、の援護を……っ!」


 コルネリアの息も絶え絶えな声。そして、《人馬とニコラウスの壁》の向こう側で鳴る、蹄の音。それらの事実が、僕の頭を少し冷やす。

 《ギレヌミア人》がざわめきをあげている。


「……《獣人セリアントロープ》ではない」

「《魔族デモニア》? いや……」

「やはり、神々の現身――」


「間違うなっ! そこの子供は人族だっ!!」


 言い交す《ギレヌミア人》を、アリオヴィスタスが一喝した。

 そして、改めて不敵な笑みを浮かべて、僕を巨剣で指す。


「聴けっ! 《グリア人》どもっ!! ……俺こそは、アリオヴィスタス・レックス・ギレヌミア・ハールデスっ!! 貴様らが畏怖する《ギレヌミア人》の王よ!」


 民兵たちがアリオヴィスタスの声に耳を傾けている。


 僕にもようやくアリオヴィスタスの言葉の意味がわかった。

 ここでの戦闘が終息を迎えているのだということが。


 僕が出現させた火柱は戦闘行為を中断させて双方の集中力を切った。

 加えて、コルネリアの脱落。アンリオスの撃墜と、僕の乱入。


 民兵たちは混乱し、戦闘意欲を減衰させていた。同時に傷の痛みと、心身の疲れが今の彼らを襲っている。

 重そうに垂れ下がる槍を握った腕。今にも手からこぼれ落ちそうな武器。

 萎える寸前の脚の震え。


 それが、僕の耳に届けられる静かな息遣いに如実に現れていた。


 まだ呼吸がしっかりしている一団が民兵たちの中と周囲にいたけど、全体に比べて少数だ。

 たぶん、まだ気持ちが挫けていないのは、ケットと仲間たち。


 民兵たちの気持ちはすでにしぼんでいた。

 そんな彼らの耳に、アリオヴィスタスの、《グリア語》の言葉が入り込んでいく。

 僕らと同じような流暢な《グリア語》が。


「とくと聴くがいいっ! ――俺の体には、お前たちと同じ《グリア人》の血が流れているっ!!」


 アリオヴィスタスは自嘲するように、そう言った。


――空から、黒ずんだ滴が落ちて来た。

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