第19話 死の帳、黄金の靄
だけれどもちろん、退化したヘカントケイルの一匹ごときを屠ったところで、何かが変わるわけではなかった。
そして、その時は突然やってきた。
どこからか、かがり火の煙とも火矢の燃えさしとも違う、濁った白い煙が……ゆっくりと、音もなく、あたしたちを包もうとしていた。
いや、それは煙ではない。霧、あるいはもっと湿った灰色の雲でできた、天幕のようなものだった。
「おかしいわね」
「そうだね」
立ちこめている霧はますます濃くなるばかりで、空も景色もたちまちに覆い隠され、もはや天を見上げても、オリュンポスの山頂どころか、アポロンの乗る太陽の馬車の姿すら見えなかった。
その霧は、流動的でありながら、同時に板のような強固な実体も持っていた。あたしは剣でその重苦しい煙幕を切り裂いてやろうとしたが、さまざまな神々が祝福の力を与えてくれたこの黄金の剣ですら、それを破ることはできなかった。
あたしは、剣が威力を発しなかったことより、その手応えの方がおぞましかった。この感触は、まるで分厚い皮膚、いや、何かの巨大な生き物の内臓の壁に刃物を入れたときのようだ。
「確かにおかしい」
弟がおうむ返しに答えるのとほぼ同時に、その霧の向こうから、一人、また一人と、次々に敵兵が現れた。分厚い膜から無理矢理押し出されるかのようだった。
その出現の仕方もまた、あたしの遠い記憶、馬の皮膚の内側に住み着いた寄生虫のことを呼び覚ました。やけにつやつやと肥え太った、黒い蛆虫どものこと。
養父アロセウス、いや、あたしのおとうさまが、ウマバエの一種に寄生された仔馬の手当をしているのを横で見ていたのだ。父は両手で馬の皮膚のこぶを押し、蛆虫が呼吸するための小さな穴からそいつらを素手で引きずり出した……それも、何匹も何匹も、数えきれないくらいの数を。
父は傍らに用意していた甕に蛆虫を投げ入れていき、最後の一匹まで取り出し終わる頃には、同胞の体を足がかりにして甕の縁から逃げ出そうとするやつがいるくらいに寄生は進んでいた。おとうさまがその甕にぐらぐら煮えた熱湯を注いで蛆虫を根絶やしにするまでを、あたしは確かにこの目で見ていた。
ああ、どうしてあたしは、こんな大切な場面で昔の思い出などに囚われているのだろう。
だが、どんなに冷静であろうとしても、現れた兵士たちの姿があたしの心を離さなかった。あの寄生虫にそっくりだったのだ。血の気の全くない顔、張りのない皮膚、空虚な穴のような眼窩、居心地のいい場所から急に外界に押し出され……いや、引きずり出されて戸惑っているのか、動きがどこかぎくしゃくしているのも同じだ。
ただし、その数は二万を軽く越えていだろう。
たとえこんな霧を作ることができたとしても、これほどの数の伏兵を忍ばせることなど、オリュンポスの麓では不可能だ。
「これって魔法なの?」
あたしの問いに、弟は淡々と答えた。
「まあ、魔法みたいなもんだよ。これは、『死者の帳』という呪いだ」
最初に気付いたのがアレスだったのは、彼の付き合っている連中から察するに当然だった。
「この霧の分厚い壁は、死してなお、肉体を捨ててまで、この世に留まることを選んだものたちが、冥府とこの世の間に作り出した防衛線だ。そこにいる間は、この世のどこにでも動けるし、何もかもを聞くことができる。それほどの恨みやこの世への執着を残したものは、こうやって踏みとどまる」
弟が静かな声で状況を語っている間に、あたしの傍らにいたアルテミスが思わず息を飲むのが聞こえた。
「ひっ……」
「どうしたの、アルテミス」
「アクタイオンよ、あれ……」
その名にはあたしも聞き覚えがあった。アルテミスが森の泉で水遊びを楽しんでいるのを垣間見て、すっかり彼女に夢中になってしまった若い猟師だったはずだ。一瞬にして情欲に火がついた青年は、相手の身分も知らずにしつこく迫り、ついには不埒にも力ずくでねじ伏せようとしたとか。
咄嗟に相手を立派な牡鹿へと変えたアルテミスの機転は見事なものだった。
猟師という仕事柄、獣にしろ女にしろ、常に「狩る側」だった男を、「狩られる側」へ変身させることで、アクタイオンは己の傲慢と愚かさを知っただろう。アルテミスは水浴の姿のまま弓矢を持ち、一撃でその立派な牡鹿を仕留めてみせたとか。
その見事な鹿の赤肉は、あたしたち一族も相伴に預かった。確かにそこまで虚仮にされては、たとえ相手が女神であろうと、復讐を遂げたいと思っても無理はない。アクタイオンとかいう若者は、忘却の川の水を飲むより、冥府との階段を再び上がってくることを選んだのだ。
ミマスという、正統なティタンの末裔ならば、その程度のこと……若い猟師に永遠の命という餌を吊るして、女神への正統な復讐を説得し決断させるのは、おそらく容易かっただろう。
「不死者が殺せる剣か。確かによくぞ作り上げたものだ。だが、もはや死んでいるものは殺せまいぞ、オリュンポスの飼い犬どもめ」
重厚な声が霧の向こうから響き、続いて、ついに『彼』が姿を現した。
「貴様らを崇めている人間など、所詮この程度の虫けらだ。永遠の命を与えてやると言いさえすれば、容易く魂を売る。忠誠も信仰も持たぬ。こんなものに拝まれて嬉しいか、アテナよ」
彼……ミマスだ。
純血のティタン、新しい時代の王を標榜する男が、巨大だが俊敏な六本足と四枚の翼を持つ、深紅に光り輝く龍にまたがり、威風堂々と言い放つ。
かつて遠乗りのときにこの目で見たときより、ずっと威厳があるような気がした。
一度見たら忘れられない容貌をしている。今までみたどんな熊よりも大きな体、美しいあごひげと端正な顔立ち。高い額と通った鼻筋、こちらを睥睨する鋭い眼光、いかにもティタンらしい優雅さと粗野さを兼ね備えた振る舞い……
「もしかしたら、若い頃のゼウスはあんたに似ていたのではないかしら、ミマス。お顔が見られて嬉しいわ、あたし、この何年もずっと、あんたを倒すことだけを考えてきたのですもの」
「それは光栄なことだ」
ミマスは臆することなく、穏やかにすら聞こえる声で答礼した。
たいした男だわ、確かに。
図体がでかいだけのバカじゃないわ。それに、いつも見慣れている老いぼれやポンコツどもとは違うわよ。
と、そのようなことを、あたしは弟に目配せしようとしたが。
「ははは、さすがだ」
アレスはむしろ愉快そうに笑った。
「死者の軍勢か」
しかし、他の誰よりも、そう、あたしよりも、アレスは冷静そのものだった。
弟はもしかしたら、その死者の群れの中に、自分が猪を使って無惨に食い殺させた恋敵の姿を認めていたのかもしれない。
「はん、舐められたもんだな」
弟は挑発的な苦笑を交えて吐き捨てると、愛馬からひらりと下りて、やおら死者の群れの方へと駆け出した。
「なにい!?」
仮にも神の位を冠したものが、たかが人間の死者風情に白兵戦を挑もうとは、さすがのミマスも予想外だったのだろう。
しかし、敵将の表情はすぐに、驚愕からあきらめへと変わった。
「おあいにく様。うちの弟は冥府の王様と仲良しなの」
あたしはそれを、わざと自分の手柄のように吹聴した。
「見ての通りよ。死者だろうが、何度でも殺せる。アレスの剣は……いいえ、アレスはね」
「なるほどな」
そう頷くミマスの眼下で、アレスがまさに軍神の軍神たらんところを存分に見せつけていた。
「ぐはぁっ……」
「ごぼぉ……」
既に死んでいるものは二度死なぬはず、そんな死者の猛者たちが、次々にアレスのオリハルコンの剣によって首を落とされ、袈裟がけに心臓ごとかりそめの肉体をまっ二つにされ、魂の核とでも言うべき心の結晶を粉々にされていく。後に残るのは意味をなさない断末魔のうめきだけだ。
こうなってしまうと、さすがに死者も二度目の死を受け入れるしかなくなる……再びこの世に生まれ変わることも、冥府での平穏な暮らしも、このものたちにはありえない。
だが、魂の最後の破片を潰されたものは幸福だ。いや、死ねぬというのはなんと不幸なことだろう。
アレスに胴切りにされた死者は、腹と腰が泣き別れになった揚句、その衝撃に狂気の悲鳴を上げながら、互いの体の半分を探して、死体の山の中を這いずり回っていた。腕を落とされたものは、自分の腕を口にくわえて、残った手でなおも武器を振るおうとしていた。
そのものたちの姿は、恐ろしいと同時に哀れだった。それでも、どこかにどうしようもない気持ち悪さ、受け入れがたい不快感が残る。そう、子供の頃の記憶、あの黒い蛆虫、煮え湯を注がれた甕から逃げようと、ぴょんと空中に踊りだしたあげく土間の床に落ちて、自らの重さで潰れた虫のことを、あたしはまだ頭のどこかで考えていた。
そのとき……
あたしが物思いに取り憑かれそうになっているのに気付いていたのか、それとも単に味方の兵士たちの戦意を燃えたぎらせるためか、アレスがやおら自らの剣を高々と差し上げて叫んだ。
「ものども、わが愛する姉上アテナに従う兵士たちよ、よく見ろ。これは冥府の王ハデス様と女王ペルセポネ様の血によって祝福された剣だ。死者でも斃せる。おまえたちの使っている武器も同じだ、おまえたちは俺と同じように、ああして死者の魂の核を壊す力を得ているのだ」
恐怖と混乱で崩れかけた自陣の周囲を駆け抜け、アレスは次々と死者を切り裂き塵へと変えながら言った。そのたびごとに、あたしたちの兵士たちの口からは賛嘆の声が盛れた。興奮のあまり歓声を上げるものすらいたほどだ。
あちらこちらで、呼び起こされた死者と我が軍との局地戦が起きたが、アレスはまさに雷光の速さで問題の起きている場所へと突っ込み、敵を処分して、こちらとしての最低限の被害だけで収めた。
「さすがは『軍神』じゃ。御見事、御見事」
ミマスの、皮肉と諧謔で覆った声の端に、本物の驚きが含まれている。
だが、それも当たり前のことだ。突然の魔法と死者の出現のために、恐慌に陥り自壊しかけていた軍勢を、アレスは数分で立て直したのだから。
さらにアレスは……なんて頼もしい弟なんだろう……抹殺しつくした死者の塵をひとつかみ手にしながら、堂々と言った。
「だが、このハデスの祝福の剣で斬られるものは幸福だと思え、そのものどもはただ塵に返るだけだ」
その言葉は、くすんだ色の塵とともに風に乗り、死者の群れやヘカントケイル、ティタンの末裔のバケモノどもの上を流れて、敵の本首、すなわちミマスの耳にも届いたことだろう。
一瞬、弟はその消え行く塵の行く末へと目をやってから、やおら『軍神』の顔に戻り、高らかに宣言した。
「冥府の王ハデスの軍旗を立てよ!」
その命令に、無意識のように素早く反応したのは、意外なことにアルテミスだった。
彼女は軍旗を保持する兵卒たち、いわゆる『旗持ち』のところへと駆けていき、アレスの命令を最速で伝えた。
「畏まりました」
旗持ちの役は、もはや白兵戦では役に立たなくなったような老人か、あるいは高等市民の次男や三男が志願することが多い。どちらにしても食い詰め者だ。主君の旗を守るという、ささやかな名誉のために命を捨てる覚悟のある者ばかりだ。
その中の一人が、馬車に積まれたさまざまな旗の中から、巨大なシャコガイの貝殻をひとつ、そのたいそうな重さに歯を食いしばりながらもひきずることなく捧げ持ってきた。
アルテミスは無言で彼に向かって頷いてから、白珊瑚の錠前で閉じられている貝殻に黄金の鍵を差し入れた。
そして。
「おおおーーーーっ」
「なんと……!」
「こりゃまたすげえな」
見た者の口からバラバラに飛び出す賛嘆の畏怖のため息を、あたしは当然のように眺めた。
「戦の女神、軍神、冥府の王の旗が揃い踏みとは、いい眺めだわね」
オリュンポスを支える柱として奉られているあたしたちの旗は、どれをとっても豪華そのものだった。
たとえば、皆殺しで有名なアレスの軍旗には、赤鉄鉱の支柱に、血の色を思わせる石榴石の飾り、ふきすさぶ風にはためくのは彼の紋章である、連ねられた武器をトネリコの枝で囲み、その頂点に猪の牙が描かれている、毛布ほども大きな旗だ。その上には、『雷より速い』とうヘーラーの賛辞をもとにした、稲妻を思わせる金糸と銀糸を折り合わせた吹き流しがたなびいている。
そしてあたしの旗は、言うまでもなく黄金でできている織物で、交差した槍で支えられているのは黄金の兜、その上で翼を広げているフクロウを描いたものだ。その周囲にはオリーブの冠の図柄。フクロウの知恵とオリーブの豊かさ、すなわち平和とは、戦争という犠牲の上に成り立っているのだという自戒も込められている。だが、何しろその下絵を考えてくれたのがアラクネねえさまなものだから、どうしても美しくて、優美なのは致し方ない。
「冥府の王、ハデス様の御旗である。死者も生者も、礼拝せよ!」
アルテミスはそう勝ち誇ったように言いながら、旗持ちの兵士に、冥王ハデスの旗と、軍神アレスの旗とを、あたしの旗の両隣に並べて立てさせた。
ハデスの旗は、山羊革の上に本物の宝石がモザイクのように縫い付けられ、敷き詰められたものだった。漆黒の革の上に、細かな黄金の粒が隙間なく無数に配され、その輝きを背景にし、鶏冠石の赤や瑠璃の青、硫黄の黄色に囲まれて、光の塊のような拳ほどもある金剛石が、冥府の王の象徴である冠をそのまま再現していた。
風がない時にも絶え間なくはためいているのは、その皮を剥がれた山羊の魂がまだそこに生き続けていて、これほどの鉱物でさぞや重いであろう旗を浮き上がらせ、最高に美しく、最高の威厳をもって敵に対峙できるよう、その精魂と力を振り絞っているせいだ。
そして、そのかかげられた旗竿のてっぺんには、滅多なことでは冥府を出ることすらない秘宝の中の秘宝、すなわち農業の女神デーメーテルが己の娘の里帰りと引き換えに差しだした『豊穣の角』が、これ見よがしに飾り付けられていた。それ自体一見したところただの水牛の角のようなのに、その空洞になった内側からは、青や緑の蛍光色がうすらぼんやりと明滅している。
これこそ、天空のない冥府においてハデスが愛妻のために用意した、地中での夜空だ。星々のごとく輝くウジやイモムシのようなものが、巨大な角の内側にみっしりと詰まって、蠢き、じわじわとざわめいていた。
然様。ハデスの旗は生きているのだ。
さすが、冥府の王は百戦錬磨の強者だ。こんなものを見せられては、普通の人間はただ気を失うだけだろう。だが、それが味方の神としての登場ならば、非力な人間の兵士たちは奮い立ち、敵として示されたのならばティタンの血を引くものならば震え上がる。
すべてが計算ずく、いや、計画どおりだ。
あたしはハデスの旗を、剣の切っ先で指し標しながら、堂々と言い放った。
「見るがよい。この旗に歯向かうものは、冥府に戻ることは永久に叶わぬ。未来永劫、この世を彷徨い歩く幽鬼となって、凍えながら泣きながら、冥府の安らぎを羨むことになるわ。その覚悟のあるものだけ、このアテナにかかってくるがいい! その勇気だけは認めてやる!」
すぐに、敵にも動揺が広がった。
まだ逃げ出すものこそいないが、目が泳ぎ、顔色が変わっているものが大勢いる。うろたえや怯えは、実際のところ手間はかかるが、一度蔓延が始まったら止めようのない疫病のようなものだ。
もっと分かりやすいのは、獣に似た形や、もっと恐ろしい姿……すなわち異形に生まれついてしまったものたちだった。
あたしは彼ら彼女らに向けて呼びかける。
「ハデス様はティタンよ。お前たちのあるじと同じにね。怪物どもも、よく聞くがいい。お前たちはこの世におればバケモノ、怪物と恐れられ、忌み嫌われるだけだわ。だが、よく考えてご覧。そのように仕向けたのは誰か、お前たちのあるじミマスではないの!」
ざわつきはじめた異形のものたちに絶妙な呼吸で畳み掛けたのは、やはりあたしの弟だった。
「おぬしらも冥府に下るがいい。冥府でハデスの祝福を受けよ。さすれば、おぬしらは立派な守護者として扱われる」
アレスは先ほどまでとは別人のような、静かで穏やかな声音で訴えかけはじめた。
その声に魅了されたのか、異形のものたちは、どこが顔かも分からぬほど変形した頭にかろうじてくっついている目を見合わせ、凍り付いたように動かぬまま、耳があるものは、その耳を傾けているようだった。
戦場だったはずの場所から、血なまぐささが、ごくわずかずつ消えていく。
それに比例するように、アレスの言葉には次第に熱がこもり、穏やかだった声は煽動の演説へと変わっていた。
「ミマスが何を約束してくれたかは知らぬ、だが、まだ王の座を勝ち得てもいない男の言葉などしょせんは口約束に過ぎぬ。さあ、今こそティタンの、そして神々の王ゼウスの同胞としての誇りを蘇らせるのだ。おぬしらを腹中に幽閉したのはガイアであってゼウスではない。そして、ミマスは最初のティタンたち、すなわちガイアやウラノスの子ですらないのに、血統だけを頼りにしておぬしらを捨て駒に使っている」
弟は、彼特有の、どこかここではない遠くを見ているような仕草で、周囲を覆った呪術の壁を見遣り、悲しげに首を振った。
「何者がこの壁を作ったのかは知らぬ。だが、見事なものだ。しかし、使い道を間違えている。お仕えすべきあるじを見失っている。俺は、それが我がことのように辛い」
と、彼は、やおら懐へと、空いている左手を差し入れた。
「おお……」
「まあ……」
「キィエエエエアアオオゥウウウ」
敵味方を問わず、アレスの手元に集中していたものの口からは、驚愕と賛嘆の入り交じった、悲鳴かため息がそれぞれに漏れた。
アレスが、その長い人差し指から無造作にぶら下げていたのは、『冥府の門の鍵』そのものだった。地下の奥深くから汲み出してきた溶岩を、忘却の川レーテーの水で冷やして作られたという、その漆黒に輝く鍵は、誰が見ても明らかに真物だった。何より、その鍵の頭に施された石榴の彫刻には、すべて本物の石榴石がびっしりと嵌め込まれて、冥府の王妃ペルセポネーが口にしたものの力を象徴している。
「俺はこれを、冥王ハデス様から直々に手渡された。おぬしらに見せてやるようにとな。よく見るがいい、触れたいものは触れてもよい」
弟は冥府の鍵を敵兵たる死者や異形たちの方へと差しだした。ほとんど無防備な仕草で。
「これはいつも、冥府の門の番犬、あの勇猛なケルベロスの首輪にかけられているものだ。おぬしら、ケルベロスを見よ。あのように尊敬を受けたいとは思わぬのか。思い返せ、あの不幸なオルトロスやパイアのことを。おぬしらと同じ血を持ちながら、英雄に首を取られたけだものとして蔑まれ続けたいのか。おぬしらは、神と人の間に生まれた子、あのヘラクレスによって斃れた同胞を忘れたのか」
アレスの演説は、はじめはいつものように静かに始まり、次第に熱をおびていく。それはやがて、絶頂を迎え、情熱と信念に満ちた言葉の連続へと昇華していく。
聞いているものの心に響く、いや、魂の最後の破片しか持たないものの琴線をすら揺らす、それは主張ではなく、激しい音楽のようだ。姉のあたしのひいき目を差し引いても、見事なものだった。
アレスはついに、一段と声を張り上げて問う。
「ティタンによって作られたおぬしらともあろうものが、ティタンの誇りを捨てたのか! 魂までバケモノに成り下がったのか!」
弟の声は、数千という異形の怪物たち、数万という死者の群れの、ひとりひとりに向けて、本当に相手の目を見て語りかけているかのようにすら聞こえた。
それまで、あたしたちをただの食い物かむしけらくらいにしか思っていなかったはずの敵兵たち、あの巨大で偉大なティタンの哀れな末裔たちが、戦をしている現状をすら忘れたように、ただじっと弟のことを……いや、軍神アレスを見て、凍り付いたようにその場に立ち尽くしていた。
そのとき、乾いた西風が砂塵とともに吹き抜け、バタバタとすさまじい音を立てて、あたしたちの軍旗を後ろから支えるように広げた。
「この輝く旗のもとに戻れ。ティタンならばティタンらしく、自らの誇りに誠実に進め」
と、弟が示したのは、冥王と軍神の旗を両脇に、自らの旗を背にして立った、このあたし、アテナの姿だった。
再び西風が、今度はいくらか穏やかにあたしたちの頭上を流れた。
「ティタンの誇りをもつものは礼拝せよ。我が姉、戦の女神アテナである」
その風が運んできたのは、ただの砂ではなく、きらきらと輝く黄金の粉だった。
あたしには、それが本物の黄金ではなくて、黄金そっくりに見える他の石……なんていったっけ、後でヘパイストスに聞いておかなきゃ。どうせ聞いてもすぐに忘れてしまうだろうけど。とにかく、そういう安物の、ただ美しいだけの代物だと分かっていたけれど、その演出は最高だった。
「おおお……」
「ははあーっ」
「オオーッ! オーッ! アオオオオオオオ!」
「なんという、これは、なんという……」
「ギャアオオオオオオウ」
敵味方から、四方八方から叫びや嘆息や感涙や畏怖や、ありとあらゆる感情が声になって溢れかえった。
「アテナおねえさま、なんとお美しい……」
じっさい、あたしのすぐそばにいたアルテミスまでが、うっとりとあたしを仰ぎ見て、無意識に両手を組む祈りの姿勢すら取ったのだから。
敵が『死者の帳』という恐ろしくもおぞましい伏兵の壁であたしを囲もうとしたのだから。あたしは逆にやり返してやっただけだ。あたしは黄金に光り輝きながらゼウスの頭から生まれてきた女神だ。あたしの周囲は、いま、黄金色のきらめきで満たされている。戦争の女神アテナが何であるか、いかなるものであるかを、敵にも味方にも知らしめるには最高の演出だった。
「いい仕事だわ、アレス」
あたしがこっそり耳打ちすると、弟は先ほどまでとは別人のように屈託のない笑顔を返した。
「あれは、『西風の神』ゼピュロス様の手助けがあったから。お礼はそちらにどうぞ、ねえさま。でも、金の霞の中で輝くねえさま、すごく綺麗だったよ」
「あんたもかっこよかったわよ」
「勝ったね」
アレスはこともなげに言い放った。
言われてふと見ると、前線に立っていた異形の怪物たち、腕の多すぎるヘカントケイルや手足のない竜、サイクロプスの末裔でありながらその大切な一つ目をすら失い、ただの盾持ちに落ちぶれていた巨人、けむくじゃらのなんだか分からない生き物、その他そして無数のティタンの血を引くものと、この世に強い思いを残してしまったせいでレーテーの忘却の水を飲むことができなかった死者たちの群れが、あたしの前に跪いていた。
「我ら皆、女神アテナに帰依致します」
かろうじて口のきけるらしい「目のない巨人」が進み出てきて、巨大すぎる体をぎくしゃくと不便そうに折り曲げ、あたしのために服従と礼拝の姿勢を取った。
「これで敵兵はどれだけ減ったかな? 三分の一? 五分の一?」
弟が心から楽しげに笑う。
「あとは狐狩りだ。ねえさまは先に戻っていいよ」
「いいえ。ミマスを連れてくるように、ゼウスから申し渡されたのはあたしだから」
「そうだったね。じゃ、そっちは任せる」
アレスはいつもの笑みを浮かべて頷くと、弩部隊の待機している方陣へとさっと馬首を巡らせて駆け去っていった。
本当に、雷より速いわ。
弟は存分に働いてくれた。あたしの兵士たちも、ヘパイストスの作り上げた武器も、立派に役目を果たしてくれた。
今度は、あたし。
アテナの番だ。
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