第17話 開戦

 太陽神アポロンが、東の空から黄金の馬車に乗って天へと駆け上がり、曙のおだやかなきらめきは消え失せ、代わりに世界は清々しい朝の光に包まれた。

 なんてきれいな空気だろう。

 どこから吹いてくる風も、それを司る神々によって朝一番に祝福されている。本来なら、それを肺いっぱいに吸い込み、アポロンの光を見るだけで一日晴れ晴れとした気持ちで過ごせるはずだったが。

 残念ながら、あたしたちはそんなに簡単にはいかないようだ。

 あたしと弟のアレスは、一段高い場所に急ごしらえでしつらえられた座所から、自陣にずらりと並ぶ八千人の人間の軍隊を、いや、あたしたちの兵士を見下ろしていた。

 アレスは、彼には珍しく、贅沢な衣装と甲冑を来ていた。赤鉄鉱の鎧兜に黒い絹のマントは、恐らくアフロディーテの入れ知恵だろう。確かに、大将格はそれなりに見栄えがよくなくてはならない。

「角笛を吹け、閧の声をあげろ! 今こそ我らが勝利する時だ!」

 アレスが馬上から高らかに叫ぶ。

 それに応えて、兵士たちが角笛を吹きならし、戦に向かう叫びをあげた。死への恐怖を踏み越えるために、英雄ですらないただの人間、簡単に死んでしまう無名の彼らにできるのは、自らを鼓舞することだけだった。

「うおおおおおーーーーっ!」

「軍神アレスに忠誠を! 戦の女神アテナに栄光を!」

「来るならこい、相手になるぞ!」

 勇ましい声が、あたしたちの軍勢から矢継ぎ早に聞こえてくる。

 それだけであたしは心強かった。あたしと弟が鍛えに鍛えた兵士たち、それが寿命ある人間であろうと、戦うために必要な強い意思の力を植え付け育て上げた、あたしたちの軍隊。

 だが、次の瞬間。

 あたしたちの兵士は静まり返った。

 ゴオオオオン……ガアアアアアン……ゴオオオオオオン……ゴゴン!

 澄んだ空気に響き渡るのは、ミマス率いるティタンの末裔たちが打ち鳴らす、巨大な……人間の身長よりもはるかに大きな銅鑼の音だった。

 それは乾いた風とともに、ビリビリとあたしたちの体を揺さぶった。激しく打ち寄せる音の波に、兵士たちが動揺しているのが分かった。

 それに続いたのは、大地をも揺るがす咆哮。

「ウォオオオオオオーーーーーーッ!」

 人間の大きさをはるかに超えた体から発せられる雄叫びは、まるで地鳴りのようだった。

 そして、あたしたちの兵士の目に、無数の人間たちの心の中に、恐怖の色がはっきりと浮かぶ。

「バケモノだ……」

「ひいいいいっ」

「……なんなんだ、これ」

 人間たち、すなわちあたしたちのかわいい兵隊は、口々に呟きながら、泥人形のようにその場に立ち尽くしていた。いや、恐怖が体の自由を奪ったのだ。

「ウォオオオオオーーーッ! ギャアオオオオオオオゥ!」

 最前線に躍り出て咆哮したのは、いくつもの腕を持ち、醜くおぞましい姿に黄金の顔料で戦化粧を施した、全裸のヘカントケイルどもだったのだ。ざっと見て百人はいただろう。

 彼らは見た目はただ巨大な人間のようだったが、ただ手の数が違う。八本から二十本近い腕を持つものもいた。そのそれぞれの手に、剣や斧、棍棒を振りかざしている。

 そしてその傍らには、ティタンの血を濃く引きながら、神に列せられるどころか、ただのバケモノとしてしか生れられなかった、ヘカントケイルのの眷属の怪獣たちがよだれを滴して唸っている。

 あるじの叫びに呼応して、ヘカントケイルどもが連れている、それら異形のケダモノたちも、ありったけの閧の声を振り絞って大地を震撼させた。

「ウオオオオーン! ウォオ、ウォオ、ウォオ、オオーオオ!」

「おおおおお、うおおおおお、おおおおお!」

「シャーッ、シャーッ、シャーッ」

 複数の頭や何本もの尾を持つイヌのような何か、鳥の頭と爬虫類の尾を持ち二本足で立つ奇怪ないきもの、あるいはもっとよく知られたテュポンの末裔である巨大な龍や翼のある蛇の類、それから、もはや形容しがたき、ただの腐った肉を丸めただけのようなバケモノ。

 それらが一斉に吠え哮る様は、ここがオリュンポスの麓であることすら忘れさせられそうだった。

「まるで地獄の門が開いたみたいだわね」

 これにはさすがのあたしも、いささか怯んだほどだ。

 しかし、アレスは違った。

「皆の者、恐れるな、怯むな、取り乱すな!」

 弟は、よく通る声を張り上げ、力強く訴えた。隣にいるあたしのことなど忘れたかのように。

「よいか、あれはああいう生き物だ。ただそれだけのことだ。猪や象と変わらぬ。進め、前進!」

 と、命じた方と思うと、その声に引き寄せられたのか、八本腕にして毛むくじゃらの怪物が、巨大な体でアレスへと向かって突進してきた。

 そのとき、弟の口元に浮かんでいた笑みの、何と凄まじかったことか。

「一番功、頂戴する!」

 高らかに言うなり、アレスは一瞬にして剣を抜き払い、女神ヘーラーの名付けたごとく電光よりの素早さで、敵の首を斬り飛ばした。

 きっと彼は、鐙だけに体重を任せて、馬上にゆったりと腰を据えていたのだろう。だからこそできた芸当だ。どこも緊張させていなかったから、瞬時にして敵の急所にだけ全力を集中できた。

 すなわち、アレスがそう仕向けたのだ。わざと大きな音を出して反応した相手を殺す。最初からそのつもりでなければ、こううまくはいかなかっただろう。

 不死であるティタンの血を引く毛むくじゃらの怪物は、落とされた首から、噴水のように流れ出す血とともに呪詛の文句を垂れ流していた。

「愚かなる軍神アレスに災いあれ、傲慢極まる女神アテナには不幸の極みが訪れよ。オリュンポスが滅びたとき、ゼウスは己の過ちに気付くであろう……その暁には……」

 言いおえるよりも速く、その毛むくじゃらのへカントケイルの首を無造作に拾い上げて、敵味方にもよく見えるよう高く掲げたのは、アレスの長子・フォボスだった。

「そんな夜明けは来ない」

 まだ少年の姿をした『恐怖』の神が、父に一礼してから、それ以上そのしゃれこうべが何一つ話せないよう、脳天からまっ二つに割った。口から喉まで、見事な切り口だった。

「おお……」

 それを見たあたしたちの兵隊は、恐怖のあまり気が狂れて笑い出したり泣き出したりしたもの以外は、何とかその場に留まることができたようだ。形だけは。

 しかし、彼らの歯の根がガタガタ震えて音を立てていることくらいは、あたしのたいしてよくない耳でも分かる。

「ちょっと無理そうだなこりゃ。完全にびびっちゃってるよ、ぼくらの兵隊」

「そりゃそうでしょ、生のバケモノなんて見たら誰だって怖いわ」

「ねえさまも?」

「あたしは特別よ」

 からかい混じりのアレスの言葉に応じつつ、あたしは内心では、生まれて初めて、これほどの恐怖を感じていた。

 後ろ髪の生え際から背筋にかけて、冷たい汗が流れている。きっと顔色は青ざめ、額にはびっしりと汗の粒が光っていただろう。黄金の兜と仮面が表情を隠してくれていことに感謝すらした。手綱を握る手には、震えを抑えようと、自然と力がこもった。

 だけど、あたしはちゃんと分かっている。

 この『恐怖』を自分のものにしなくては。この『畏れ』を理解し、我が身に染み込ませて、使いこなせるようにならなくては。

 この戦に大切なのはそれよ。恐怖を制した者が勝利する。

 あたしの頭の中で、あたしではない誰かがそう言ったような気がしたが、今はそんなことはどうでもよかった。

 あたしは弟が投げ捨てた怪物の頭を愛馬に踏みつぶさせながらアレスに近寄り、できるかぎりいつもどおりを装って笑って見せた。

「いいわ、アレス。ここは、あたしとあんたで先頭に立ちましょ」

「そりゃ奇策も奇策だね、大将はここです、ここを狙って下さいって? だけど、ねえさまらしいや」

 あたしの提案に、意外にも戦上手で容赦ないことで知られる弟は、あっさりと乗った。実に楽しそうに、あの子供のように愛くるしい笑みを浮かべながら。

「そっちが純血種のティタンの成れの果てなら、こっちはオリュンポスの神様のあいのこってわけか。なら、いい勝負だよ。いっちょやってやろうぜ」

 そう言い放つアレスは、本当に楽しそうだった。

 あたしの中の、別の『恐怖』がゆっくりと、しかし確かに燃え上がる。熾火のように深いところで、あのかわいい弟がこんなに変わってしまったことを思い知っただけかもしれないが。

 そんなあたしの気持ちを察しているはずなのに、アレスは何のためらいも慈悲もなく命じた。

「フォボス、その首から目玉を抜いて、アフロディーテに……おかあさまに届くように手配しろ。ヘカントケイルの目は、煎じて飲むと疲れ目によいそうな。ヘパイストス殿の助けになろう」

「はい」

 まだほんの子供しか見えないフォボスは、言われるままに眼窩ごとナイフで怪物の目玉を取り出し、革袋に収めると、足の速さが自慢の伝令を目ざとく見つけて、それを母に届けるように託した。

 それを見届けると、アレスはまさに声を弾ませて笑ったものだ。

「いいぞ、たったこれだけなはずがない、それじゃああんまりつまらない。さあ、本番だよ、ねえさま」

 アレスは両の瞳を、まるで血に餓えた星のように輝かせて、オリュンポスへと押し寄せてくる大群を見下ろした。

 その手には、不死者をも殺せる武器が握られている。

「不死のものどもが死ぬザマを、高みの見物するがいいさ。ゼウスもヘーラーも、明日は我が身」

「待って、アレス!」

 あたしが止めようとした瞬間にはもう、弟の馬は駆け出していた。

 虹色に輝くオリハルコンの剣、真っ赤な赤鉄鉱の甲冑、そしてたなびく軍神の旗。

 彼が次々と、自らよりはるかに巨大なティタンの末裔を殺していくのを、あたしはただ見ていた。

 あんまり楽しそうで。

 あんまり生き生きとしていて。

 こんなアレスの顔を見るのは、あの懐かしい故郷の村を出てから、初めてだったかもしれない。

 ただ、あの頃は……弟の顔は、返り血に染まってはいなかったけれど。

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