第三十三話 夜襲

 夜の海に浮かぶ黒々とした巨大な鋼鉄の塊から、数基の探照灯の眩い光線が島や海面に向けて四方八方に投射されている。フィールカたちが標的にした魔導船はあれから位置を変えず、バレス島近くの東の沖合に停泊したままだ。


 島の海岸のすぐ傍にある森の茂みの陰にひっそりと身を潜めながら、シエルは虎視眈々と奇襲の機会を窺っていた。


「予想通りかなり待ち構えてるわね……」


 目の前に広がる大きな海岸には、ざっと百人はいるであろう皇国兵たちがそれぞれ軍刀や小銃を携えて整然と待機していた。やはり向こうも、こちらが魔導船を狙ってくることはすでに想定済みのようだ。


 ——そろそろ二人も準備ができた頃かしら……。


 多分今頃、フィールカとレオンもここから少し離れた海岸にて魔導船に乗り込む準備を整えて待機しているはずだ。後はこちらの奇襲の合図とともに、速やかに作戦を実行してくれることだろう。


 今は二人を信じ、シエルは早速作戦行動に移る。


 一方、海岸で長々と待たされていた皇国兵たちはさすがに痺れを切らしたのか、不満を洩らす兵士たちが続出し始める。


 兵の一人が、退屈そうに隣の仲間に訊いた。


「しっかしよう、本当にこんなところで待機していて奴らは現れるのか?」


「ああ。グラウス上官が言うには、こちらの魔導船を必ず狙ってくるに違いないらしい」


 それを聞いた彼は、気だるげな口調で呟く。


「あーあ、さすがにこれだけ待たされると退屈過ぎて死にそうだぜ」


「まあ、そう言うな。それにもしそんなことが上官の耳に入ったら、また酷く怒られて長たらしい説教を聞かされるぞ」


 二人がたらたらと無駄愚痴をこぼしていた時だった。


「——それじゃあ、私があなたたちの遊び相手になってあげるわ」


 突然、どこからともなく声が聞こえてくる。


 その瞬間、森から上空に向かって、夜鳥の如く一つの影が勢いよく飛び出す。月明かりに照らされて現れた影の正体は、赤髪の少女だ。


 ふわりと宙に浮き上がった少女は、かねて両手に溜めていた風属性の魔力を風弾に変えると、海岸に群がる皇国兵たちを狙って次々と放つ。


「うわああああああっ!!」


 そこかしこから悲鳴や絶叫が上がり、爆発とともに浜辺の砂を激しく噴き上げる。突然の奇襲に対し、皇国兵たちは狼狽ろうばい状態でただ逃げ回ることしかできず、冷静さを失ってしまう。


「い、いたぞ! あそこだ!!」


 ようやく兵の一人が気づいたように、森の上空に浮かぶ少女に小銃を向ける。


 シエルはあざけるような口調で、奴らを見下しながら言う。


「たった三人を捕まえるだけなのに、ずいぶんと手厚く歓迎してくれるのね」


 秩序なく入り乱れる皇国兵たちに、少女はさらに追い撃ちをかけようとする。


「う、うろたえるな、相手は一人だ! 全員、銃を構えろッ!!」


 さすがは皇国兵と言ったところか、一人が立ち直ると他の兵士たちも息を吹き返したように続々と体勢を立て直してくる。彼らは全員銃を構えると、兵の一人の「撃てッ!!」の合図とともに一斉に少女に向かって発砲する。


 すると、シエルはおもむろに右手だけを正面にかざす。


「無駄よ」


 冷たく一言呟いた瞬間、どの銃弾も彼女に当たる寸前で不可視の障壁に阻まれたか思うと、ぱらぱらと虚しく地上に落ちていく。


 弾丸が全く効かない相手に、眼下の皇国兵たちはまるで化け物を見るかのような目で宙に浮かぶ少女を見る。


 しかし、シエルにとってそんなくだらない注目は幼い頃から経験してきたことで、とうの昔に慣れている。


「あなたたちに直接的な恨みはないけど——」


 すると少女は、底冷えするような声で続けて問うた。


「皇国軍に入った以上、殺される覚悟はできてるんでしょうね?」


 直後、彼女の両手から再び暴風の砲弾が勢いよく放たれていた。


                ∞


 ——始まった!!


 皇国兵たちが集まっている砂浜から少し離れた南の海岸で爆発音を聞いたフィールカとレオンは、早速行動に移る。魔導船まで泳ぎ切るために下着だけの格好で待機していた二人は頷きを交わすと同時に、真夜中の黒い海に颯爽と飛び込む。


 その瞬間、痺れるような冷たさが全身を襲う。いくら冬が終わったとは言え、季節はまだ春に入ったばかりなのだ。しかも時間帯は、水温が昼間に比べて極端に低くなる夜間。二人は空気を求めるように海面から顔を出すと、今にも凍えそうになりながらどうにか辛抱し、遠く離れた魔導船のほうを見据える。


 船までの距離はおよそ二百ルメール(メートル)。比較的に穏やかなこの海ならば、二年間厳しい訓練を積んできた二人にとってはもはや川で水遊びをするようなものだ。月が淡く照らす青白い海を、フィールカとレオンはひたすら力強く泳いでいく。


 難なく魔導船の後方まで辿り着くと、二人は垂直に切り立つ鉄板の壁を見上げる。高さは七ルメールほどあり、船尾に見張りがいないことを確認する。ゆらゆらと浮き沈みする波間で、フィールカは右手を掲げて《記憶保管術式メモリーストレージ》を唱えると、手の中から白煙とともに縄の束を出現させる。先ほど市街の民家から予めくすねておいた、鉤爪付きのロープだ。


 それをASアタック・センスと遠心力でぐるぐる振り回すと、頭上に思いきり投げつけて船縁ふなべりの裏側に引っかける。充分に体重を掛けてロープがしっかり固定されたことを確認し、フィールカから先によじ登っていく。


 幸い何事もなく甲板まで登り切ると、船縁から身を乗り出して両腕で円を作り、青年のOKサインが出たところでレオンも登り始める。フィールカに引き上げられて金髪の青年もすぐに甲板に上がり、二人はどうにか魔導船に潜入することに成功する。


 皇国兵が周囲にいないことを改めて確認すると、二人は再び記憶管理術式で自分の軍服とタオルをそれぞれ出現させる。身体に付いている余分な水滴をできる限り手で払い落としてから、さっとタオルで拭いて素早く軍服に着替える。


 船上を吹き抜ける夜風に晒され、二人は自分の身体を抱きながらぶるぶる震える。


「ううっ……さすがに海から出た直後は冷えるぜ……」


「……とりあえず今は我慢するんだ。それよりも早く船内への入口を探そう」


 一応シエルに寒さ軽減の補助魔法バフをかけてもらっているが、それでも寒いものは寒い!


 二人は《武装解放術式リベレイト・オーダー》で各々の武器を出現させると、周囲に警戒しながら船上を探索する。甲板に乱雑に置かれた樽や木箱などの物陰に身を潜めながら、フィールカは船首に繋がる通路にこっそりと顔を覗かせる。


「おい、誰かいたか?」


「しっ! ……見張りが一人いる」


 隣からレオンもひょっと顔を出すと、ハッチの脇で如何にも眠そうにあくびをしている歩哨ほしょうが見えた。


「どうやら、あそこから中に入れるみたいだな」


 二人は素早く首を引っ込めると、互いに顔を見合わせて作戦を立てる。


「それで、あの見張りはどうするんだ?」


「俺に良い考えがあるんだ」


 まるで子どもが悪戯を思いついたときのような顔で、フィールカはニヤリと笑う。ズボンのポケットをまさぐり、中から取り出したのは一枚の金貨だ。


 それを見たレオンは、すっかり呆れた様子で言った。


「おいおい……まさかそれで丸め込むつもりか?」


「ちがうちがう。まあ見てなって」


 フィールカは歩哨がこちらを向いていないことを確認すると、奴の足下にさっと金貨を転がす。


 ちゃりんちゃりん、という軽い金属音に気づいた男は訝しげな顔でしゃがみ、それを拾い上げる。


「……ん? 金貨じゃねぇか。へへへ、ラッキー……——ぶへっ!?」


 フィールカに背後から剣の柄頭つかがしらで頭を殴られた男は、間抜けな声を上げてその場にどさりと倒れた。


 男の手から虚しくこぼれ落ちた金貨を拾いながら、レオンは唖然とした様子で肩をすくめる。


「まったく呆れたもんだぜ……。天下の皇国軍の兵士様が、こんな端た金に目が眩むなんてよ」


 それに対し、ハッチを開けながらフィールカも同感だと言うように頷く。


「まあ人間の欲ってのは、案外そんなもんだろうな。——おっ、ここから下におりられそうだ」


 二人は気絶している男を余っていたロープで念のため縛り、タオルで口を塞いだ後、船内に運んで通路の隅に隠しておく。ざっと見たところ、船内を巡回している兵士はいないようだ。今のうちに狭い通路を進み、暗闇の中で足を踏み外さないよう慎重にタラップを降りていく。だんだん下に行くに連れて、鉄や油などの強烈な臭いが漂ってくる。


 四角に切り取ったような一条ひとすじの光が通路の奥からようやく見えてくると、うっすら照明の点いた広い空間に出る。そこには、一艇の緊急脱出用の黒い小型潜水艇が威容な雰囲気を醸し出しながら、静かに格納されていた。


 レオンはじっくりと潜水艇を観察し、低く唸る。


「うーん……こりゃ多分《魔導艇》だな……。皇国軍の奴ら、こんなものまで隠し持ってたのか」


「これならどうにかリースベルまで還れそうだな。あとは上に戻って、《想像接続術式イマジン・コネクト》でシエルを呼ぼう」


 二人は一度船倉を出て甲板に戻ると、船縁の内側に隠れて待機する。フィールカは想像接続術式を素早く詠唱し、シエルに直接連絡を取ろうとする。


「…………」


 しかし、どれだけ呼びかけても脳内に返事はない。


 今もずっと激しい爆発音が断続的に島から届いてきており、まず彼女が死んだということはなさそうだ。おそらく島に残存していた皇国兵たちとまだ交戦中で、連絡を取るひまもないのだろう。とりあえず今は、シエルからの連絡をじっと待つことにする。これから彼女と上手く合流した後、そのまま先ほどの魔導艇に乗り込み、バレス島を脱出する。この調子で行けば、どうにか無事にここから出られそうだ。


 だが——


 ——おかしい……。


 フィールカは内心で少しずつ焦り始めていた。どれだけ待っても、シエルから一向に連絡が来ないのだ。それどころか、島から飛んでくる爆発音もまったくむ気配を見せない。いくらなんでも、これは明らかにおかしい。


 ——私には、まだやるべきことが残ってるもの。


 不意に、数分前に高台の山中で作戦会議をしたときの少女の顔と言葉が鮮明に蘇る。


 その瞬間、青年の身体に電撃が走ったように直感的に悟る。そう、あれはまるで何か覚悟を決めたような、だけどどこか寂しげな表情だった。今だからこそ解る。自分は始めから、とんでもない思い違いをしていた。


 彼女が密かに実行しようとしていること、それは——


「あいつ、まさか……!」


「どうしたんだ?」


 怪訝けげんそうに首を傾げるレオンを尻目に、フィールカは手の中から先ほど使用した鉤爪付きのロープを出現させる。それを勢いよく振り回し、頭上にある鉄柵にしっかり引っ掛けると、何も言わずに一人で登り始める。


「お、おいフィールカ、一体なに考えてんだよ!? シエルちゃんが来るまでの間、俺たちは船内に隠れて待機の手筈てはずだろ!?」


「あいつはもう来ない!!」


 必死にロープをよじ登りながら、断言するように叫ぶ。


「あいつは最初から、ここに来るつもりなんて更々なかったんだ……! 最終的に俺たちだけを逃がして、あいつは……皇国軍の奴らを道連れに、あの島で心中するつもりなんだ!!」


「なっ……」


 突き付けられたその真実に、レオンは思わず絶句する。


 そして同時に、シエルと自分自身の両方に対して、決して許せない怒りが込み上げてくる。自分たちに何も言わず一人で全部背負い込むなんて、そんなのただの独りよがりじゃないか。こんな……こんな結末を選ぶなんて、これではあんまりだ。


 金髪の青年が夢中で思考していた意識を引き戻すように、頭上から切羽詰まった声が降ってくる。


「俺がどうにかしてあの馬鹿を呼び戻してくるから、レオンはいつでも潜水艇を出航できるように準備を頼む!」


「あっ、おい、フィールカ!?」


 いつの間にか柵を越えて上甲板にいた青年は勝手にそう言い残し、上のほうに消えていく。敵兵に出くわすのもいとわず、一息にタラップを駆け上がる。目指すはこの船でもっとも高い場所——《最上艦橋》だ。そこから叫ぶことができれば、恐らく少女の耳に声が届くだろう。


 ——待ってろよ……!


 脳裏でそう呟き、ひたすら赤錆びた階段を上っていく。早鐘のように心臓を激しく打ちながら最上艦橋に繋がる階段までやって来ると、そこからは腹這いになり、一段一段慎重に進む。すぐに階段がなくなったところでひょいと顔を出し、艦橋を覗き込む。


 そこには、二人の兵士が背を向けて歩哨に立っていた。どちらも島の方角に監視の目を光らせて熱心に任務に当たっており、こちらの存在にまだ気づいていない。


 フィールカはごくりと唾を呑み込み、左腰の剣を静かに抜くと、タイミングを見計らって勢いよく甲板に躍り出る。


「なっ……貴様どこから——」


 その姿を見た兵たちが度肝を抜かれたような顔でようやく気づくが、彼らが抜刀するよりも速く、青年は右手の剣を閃かせていた。


 紫電二閃。剣の切っ先がきらりと月光を反射し、左右に二本の青い線を描くと、兵たちは腹を抱えてその場に倒れ込む。


「ううっ……」


 鋭い痛みで動けないまま、兵たちは呻き声を洩らす。


「…………」


 フィールカは、決して致命傷にならない程度で彼らを浅く斬っていた。急いで仲間に治療してもらえば、とりあえず大事には至らないだろう。無論、皇国軍は自身の最大の敵であり何よりも憎い存在だが、青年としては、無闇に人を殺すような真似はできる限りしたくないのもまた事実だった。


 艦橋の先端に駆け寄り、鉄柵から大きく身を乗り出すと、フィールカは島に向かって喉が張り裂けんばかりの声で絶叫した。


「シエル————ッ!!」


                ∞


 フィールカたちが少女の意図に気づく、およそ数分前——。


「はぁ……はぁ……」


 たった一人で皇国兵たちの相手をしていたシエルは、体力的にも精神的にもすでに限界を迎えつつあった。深夜の暗い海を背にして、およそ五ルメールほどの高さで今にも墜ちそうな身体を懸命に滞空させながら、眼下に広がる光景を茫然と見つめている。


 ——これ……全部私がやったの……?


 それは、見るも無惨に荒れ果てた海岸の姿だった。


 白い砂浜は地雷で吹き飛んだかのような大きな穴がそこかしこにできており、海岸沿いの木々は嵐が過ぎ去った後のようにほとんど根元から薙ぎ倒されている。ぐちゃぐちゃに潰れた死体が地面を埋め尽くし、たっぷりと血を吸い込んだ黒い砂浜は、見る影もなく数分前の美しい姿を完全に消していた。


 きっと無意識のうちに自分は眼前の敵だけを葬るべく、狂いに狂った人形のように暴走していたに違いない。すでに全滅したのだろうか、視線を巡らせるが皇国兵たちの姿はどこにも見当たらない。


 緊張の糸が切れたように、シエルはホッと息をついたときだった。


「……っ!」


 不意に、どこからともなく飛んできた銃弾が頬を擦め、横髪がちぎれ落ちる。ツー、と傷口から血が流れ、細い首をゆっくりと伝う。


 すると、森の木々の陰からぞろぞろと皇国兵たちが姿を現し、一斉にこちらに小銃を向ける。


 ——性懲りもなく次から次へと……!


 一体どこまで自分を挑発すれば気が済むのか、煮え滾るような怒りに全身を震わせながら、シエルは眼下に両手を向けてさっと掌をかざす。


「いいわッ!! そんなに死にたいなら、望み通り叶えてやるわよッ!!」


 黄緑色の魔力が再び少女を包み込むと、両手から次々と風弾を放つ。


 海岸の砂が間欠泉のように吹き飛び、あちらこちらから阿鼻叫喚の嵐が巻き起こる。容赦ない怒涛の攻撃に、皇国兵たちは反撃すらできず呆気なく死んでいく。濃い砂煙がようやく晴れたときには、海岸に新たな深い傷が刻まれていた。


 ——やったの……?


 シエルは思わず胸中で呟く。


 だがその期待に反して、皇国軍は素直に応えてくれなかった。どれだけ減らしてもまるで蛆虫うじむしが湧いてくるように、皇国兵たちが木々の隙間から続々と姿を現す。


「や、奴も同じ人間だッ!! 魔力が底を突けば、我々に必ず勝機はあるッ!!」


 茂みの暗闇の中から、兵長であろう男が必死に兵たちを鼓舞する。


 息も絶え絶えになりながら、すでに意識が朦朧とする中、シエルはかすれた声で呟く。


 ——みんな……私もう、充分がんばったよね……?


 それは半ば、自分自身に向けたものだった。そしてもう半分は、フィールカとレオン、そして今まで死んでいった全ての人たちに向けたものでもあった。


「……ん? 急に奴の攻撃がんだ?」


 不審に思いながらも、その隙に乗じて兵長は他の兵たちに迅速に指示を出す。それに従い、皇国兵たちが一斉に木々の陰から飛び出してくる。


「総員、構えッ!!」


 少女を遠巻きにするようにぐるりと取り囲み、彼らは小銃を構える。


 だが、シエルはもう何ら抵抗することなく、あたかも十字架を想起させる形で両手を左右に広げると、観念したように眼をつむる。


 ——ごめんね、二人とも……。


 裏切ってしまった青年たちの顔をまぶたの裏に浮かべながら、今度こそ別れ言葉を告げる。


「撃てッ!!」


 兵長の掛け声とともに、皇国兵たちの銃の引き金がゆっくりと絞られていく——。


「シエル————ッ!!」


 少女はハッと顔を上げる。最初は何かの幻聴かと思ったが、繰り返し聞こえてくるその叫び声は海上の湿った空気を伝い、確かに耳の奥底の鼓膜を揺らしている。これには、皇国兵たちも狼狽したように攻撃を中止する。


「な、なんだ、この馬鹿でかい声は!?」


 フィールカたちが潜入した魔導船の船首に出ていたグラウスが、忙しなく首を巡らせて動揺したように声を上げる。


 最上艦橋に一人出ていた青年は、ありったけの声で再び叫んだ。


「お前はそれでいいのか————ッ!!」


「フィールカ……?」


 かすかに届いてくる耳馴染みのある響きは、間違いなく彼のものだ。


「俺たちは————ッ!! お前だけを独り残して、勝手に逃げ還るつもりはないぞ————ッ!! お前がここで死ぬつもりなら、俺たちも最期まで一緒だ————ッ!!」


 決して揺るぎない意思で、フィールカは尚も叫び続ける。


「い、いました! あそこです!!」


 甲板にいた兵士の一人がようやく気づき、頭上の最上艦橋を指差す。鉄柵から大きく身を乗り出した青年の姿を見て、グラウスは苛つきを隠そうともせずに歯を軋ませる。


「あの小鼠め……いつの間に船内に入り込んだ……!? ——おい、さっさと奴を捕まえろッ!!」


 破裂しそうなほどに青筋を立てながら、他の兵士たちにすぐさま指示を飛ばす。


 青年の無茶苦茶な行動に、シエルは理解に苦しむように激しく首を振った。


「どうして……どうして私なんかに構うのよ!! 私を置いて早くここから逃げてよ!!」


 すると、その悲痛な叫びが不思議と伝わったかのように、すぐに返事が戻ってくる。


「俺はお前に訊いてるんだ————ッ!! 生きたいのか、生きたくないのか————ッ!!」


「私は……」


 生死を分けるその選択に、シエルは咄嗟に答えることができない。


 あの山中での作戦会議のときに、もう二度と戻らないと自分は覚悟を決めたはずだ。二人との別れも、魔女への復讐も、全部ちゃんと割り切っていたはずなのに。


 それなのに、ここに来てまだ生きたいと思っている自分が心のどこかにいる。


 ようやくこの呪縛のような苦しみから解放されると思っていたのに、心はからからに渇いた砂漠のようにまた生を欲している。ただ会いたい、もう一度二人に会いたい。孤独感にさいなまれた心は、そう正直に自分に訴えかけていた。


「生きたいなら俺たちと来い!! 必ず皆で還るって約束しただろう!!」


 そうだ。もう何も迷うことなんてない。


 それに対し、すでにシエルの答えは出ていた。


「うん……」


 素直に頷いていると自然と身体も翻しており、シエルは魔導船に向かって飛び出していた。全身が弾丸のように鋭く風を切り、たちまち船体が大きくなってくる。


 最上艦橋——そこに一人立つ、フィールカの姿が見えてくる。もう一度彼を目にすることができた喜びを強く噛み締めながら、ひたすらまっすぐに飛び続ける。


「あっ……!」


 不意に、今頃になって滞空魔法エアライドの効果が切れてしまい、無情にも身体が自由落下を始める。


 ——まずい、このままじゃ……!


「——俺の胸に飛び込んで来い!!」


 その声に思わず下を向くと、いつの間にか青年が両手を広げており、そのままシエルは重力に身を任せる。


 ちょうど落下地点に勢いよく突っ込んできた少女を、フィールカはしっかりと受け止める。ふわりと懐かしい匂いが鼻に香り、柔らかい感触が肌を伝わる。シエルの身体はほとんど冷えており、心身ともにすっかり衰弱し切っていた。


「……大丈夫か?」


「平気、って言いたいところだけど、さすがにちょっと疲れちゃったかも……」


「もう少しの辛抱だ。ここの船倉に魔導艇があったから、急いでそこまで向かおう」


 再会の余韻に浸る暇もなく、ひとまず二人はこの場から離れようとする。


 しかし、すぐに下から皇国兵たちが艦橋に駆けつけてくると、唯一の退路である階段を完全に封鎖してしまう。こちらに向けて、奴らは一斉に小銃を構える。さらにその人垣を割り、グラウスが先頭に躍り出てくる。


「これだけ好き放題に暴れておきながら、今さら生きて還れると思うなッ!!」


 物凄い剣幕で、左腰の鞘から軍刀を引き抜く。だが、フィールカも臆することなく前に歩み出ると、右手の剣をすっと後ろに引いて構える。


「……グラウス、お前はあまりに人をもてあそび過ぎた」


 凄まじい怒気を含んだ、静かな声で呟く。しかし、先に力強く地を蹴っていたのはグラウスだった。


「死ねぇぇぇええええええ————ッ!!」


 怨念のような絶叫とともに、両手で勢いよく刀を振り下ろしてくる。


 殺された皆の仇。そう意識した途端、青年の剣がASの無色の光をほのかに帯び始める。その刹那には、フィールカも大きく一歩右足を前に踏み込んでいた。


「うおおおおおおおおおお————ッ!!」


 左下段から右上段に向かって、美しい半月を描くように片手で素早く斬り払う。


 死んでいった全ての仲間たちの想いをASに込めた剣は、グラウスの軍刀の刀身を半ばからへし折ると、そのまま奴の首ごと勢いよく斬り飛ばす。血の尾を引きながら、生首は湿った音を立てて甲板上に虚しく転がる。


 なぜ……だ……? とその顔には、到底理解できないような表情が醜く刻まれていた。


 唐突の指揮官の死に今度こそ皇国兵たちは瓦解するかと思われたが、一瞬の動揺の後、すぐに武器を構えて立ち直ってくる。


「くそっ……!」


 万事休すか。いくらフィールカでも、これだけの大人数を相手にするのはさすがに不可能だ。シエルの魔法に頼りたいところだが、疲弊した今の状態でもう一度彼女に魔力を使わせれば今度こそ死んでしまうだろう。


 絶体絶命の状況に、フィールカはせめて少女だけでも護ろうとしたときだった。


 不意に、下のほうから激しい発砲音が聞こえてくる。すると、艦橋を囲む鉄柵の外側にロープ付きの鉤爪が引っかかる。


「二人とも、こっちだ!!」


 いつの間にか下甲板にいたレオンに呼ばれ、フィールカとシエルは互いに頷き合うと、少女から順に片手で鉄柵を飛び越える。しっかりとロープを掴み、両手両足を使って素早く懸垂下降する。レオンがアサルトライフルで掩護射撃してくれている間に二人は甲板に降り立つと、先ほどのハッチがある場所まで急いで移動する。


 フィールカとシエルを先に船内に入れ、レオンは周囲の甲板に銃を発砲しながら、下に集まってきた皇国兵たちを牽制する。


「テメェらには散々世話になったな!! その礼に俺からの土産だ——しっかり受け取りやがれ!!」


 すると、どこからともなく取り出した手榴弾の安全ピンを噛みながら力強く引き抜き、皇国兵たちに向かってそれを転がす。彼らは慌ててその場から離れると、青年も混乱に乗じて船内に入り、速やかにハッチを閉める。


 次の瞬間、手榴弾が炸裂すると同時に、強烈な光とけたたましい音が皇国兵たちの眼と耳を襲う。いざという時に最後まで取っておいた、反乱軍支給の閃光手榴弾スタングレネードだ。たちまち外から悲鳴や絶叫が洩れ始め、これで当分奴らも動くことはできないだろう。


 今のうちに三人は暗いタラップを駆け下り、先ほど魔導艇が格納されていた船倉に入る。


「フィールカ、そこのレバーを下げてくれ! シエルちゃんはこっちだ!」


 レオンに素早く指示され、二人はそれに従う。


 フィールカは船倉の鉄壁に駆け寄ると、そこに取り付けられた赤いレバーを下ろす。すると、目の前の巨大なゲートが重々しい音を響かせながら左右に開放され、視界全体に漆黒の海が姿を現す。


 レオンはひとまず先にシエルを連れてタラップを上がり、魔導艇の天井のハッチから中に乗り込む。疲労困憊の彼女を艇付席に座らせてから、青年も操縦席に腰掛ける。フィールカも遅れて艇内に滑り込んでくると、入口のハッチを閉めてレオンに早速訊いた。


「ど、どうにかなりそうか!?」


「ああ、さっき確認したから問題ねぇ!」


 初めてとは思えないほどの手際の良さで、レオンは目の前の精密機器を操作していく。どうやら機械の知識に関しては、人並み以上に自信があるらしい。


 青年は両手で操縦桿を力強く握ると、肩越しに声を上げた。


「着水するぞ! 二人とも、しっかり掴まってろよ!」


「うわっ!?」


「きゃっ!?」


 突然艇内が深く沈み込んだように、激しい揺れが身体を襲う。直後、正面にあった円形のガラス窓の下半分が一気に水に浸かり、船底から荒いうねりが伝わってくる。魔力エンジンが大きく唸りを上げ、ゲートから魔導艇がゆっくりと発進する。


 甲板に残っていた皇国兵たちは、彼らが逃げ去っていく光景を茫然とただ眺めていることしかできなかった。そのままフィールカたち三人を乗せた魔導艇は、真夜中の海に静かに溶け込んでいったのだった。


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