第六章:ピエロが笑う

 ここまで来れば、大丈夫だな。


 木立を抜け、枯れ草だらけの空き地に来て、少年は立ち止まる。


 眩しい青空の下、ビュオーと風が吹き抜ける音がする。


 どっと疲れが襲ってきて、そのままどっかり腰を下ろした。


 ペットボトルの口を開けて緑茶を流し込むと、冷え切って苦味の増した液体が胸を通り抜けて胃の辺りに溜まる。


 チョコレート、もう柔らかくなってる。

 取り出した時に、指が包装紙の上から微妙に凹む感触で分かる。

 胸に抱えて走る内に、体温で溶けてしまったらしい。


 最後の晩餐なのに、間が悪いな。


 包装紙と銀紙を剥がして齧り付くと、粘土のようにぐにゃりと折れ曲がる感触の後に、パキッと固まっている時より二割増しくらい甘ったるくなった味が広がった。


 ミルクじゃなくて、ビターにすれば良かったかもしれない。

 だが、もう、どうしようもない。


 これ以上溶けてますます食べにくくならない内に、と急き込んで、口の中に詰め込んでいくと、手の中の薄い板はあっという間に無くなってしまった。


 一度に甘過ぎるものを飲み込んだおかげで、喉の奥が痛くなる。


 ペットボトルにまだ四半分ほど残っていた緑茶を一気に飲み干すと、甘ったるさが薄められた代わりに、喉の奥が痛みを残したまま苦くなった。


 これで、最後の食事ももう終わった。

 満足したとは思わないけど、もう飲み食いするものはない。


 空になったペットボトルと丸めた銀紙を小さなナイロン袋に入れて口を結んで傍らに置き、代わりに大きい方の袋からノートとボールペン、ビニールテープとハサミを取り出す。


 いよいよ、この時が来た。

 胸の奥が締め付けられて、体中の血という血がワーッと心臓に集まってきた感じに襲われる。


 手帳大のノートを膝に載せ、ボールペンの尻をカチリと押す。


“母さん、兄ちゃん”


「兄ちゃん」の「ん」の字の最後の撥ねが随分飛んでしまった。

 膝の上だと不安定で書きにくいな。


“だまって家を出てごめんなさい”


 お母さんと兄ちゃんには言えなかったけど、本当は島を離れたくなかった。

 父さんと母さんが離婚するのは嫌だった。

 お酒を飲んで暴れる父さんを見るのは辛かったけど、そうでない時の優しい父さんを信じたかった。

 実際、倒れて片足が不自由になるまではいつも優しかったんだから。


“今まで言えなかったけど”


 島を出たあの日、父さんがこっそり見送りに来ていたのを俺は知っている。

 皆から離れて、一人杖を突いて帰っていく後姿を、遠ざかる船の上から見たんだ。

 隣に居た母さんと兄さんは固い面持ちで黙っていたけれど、俺は嬉しかった。


“ずっと四人で暮らしたかった”


 芯の太さに対して字が相対的に小さかったせいか、「暮」の字が潰れてしまった。


 いつかは父さんが立ち直って迎えに来てくれる。

 また、家族みんなで島で暮らせる。

 兄ちゃんは全寮制の高校に行き、普段は母さんと二人であのアパートで暮らしながら、俺はずっとそう信じてた。


 苗字も住む家も変わったのにそんな夢を見ていた方が子供だったのかもしれない。

 でも、それが心の支えだった。


“元の生活に戻りたかった”


 それなのに、夏休みに入る前に父さんが死んだという報せが届いた。

 もうお葬式や納骨は父さんの親族たちで済ませたから俺らは何もする必要がないと聞かされただけで、どうして亡くなったのかまでは母さんは教えてくれなかった。


“でも、もう戻れない”


 どのみち、父さんは背を向けてどこでもない場所へ去っていってしまった。

 島と俺たちを繋ぐものはもう何もない。


“先に父さんのところに行きます”


 母さんは病院の夜勤が増えて夜も俺だけで過ごすことが多くなり、茶の間で一人、夕飯を食べていると、何か、アリ地獄みたいな孤独に自分がどんどん引きずり込まれていく気がした。


“俺は弱かった”


 最初は、アパートのすぐ隣の公園で、夕飯の後、軽くバスケの練習をするつもりだった。


 実際、もっと練習する必要があった。

 バスケ部には、同じ一年でも俺より強い奴はたくさん居たから。


 あの街で暮らしていくことが確定した以上は、そこで必要とされる存在になりたかった。

 それに、兄ちゃんは奨学金をもらって良い学校に行っているのに、俺が怠けているわけにいかない。


“強くなりたかったけど”


 まだ、ギリギリ夕飯時の公園には、先客が居た。

 もし、あの時、あの人たちが別のことをしていたら、俺は今、ここにはいない。


 少年はふとノートから赤茶けた土塊の付いたバスケシューズの爪先に目を移す。


 でも、あの人たちはバスケをしていた。

 一見して、兄ちゃんと同じかそれより少し年上の人たちだと分かった。


 最初に気付いたのは、あの人だ。

 赤茶に染めて肩まで伸ばした髪に、目も鼻も口も大きい、普通にしていても笑っているかのように上向きに切れ上がった薄い唇の、どこかピエロに似た顔をしていた。

 加えて、他のメンバーが黒っぽい服なのに、一人だけ星条旗みたいな赤と白のストライプの半袖を着ているので余計にピエロっぽく見えた。


 俺が抱えているボールを見て取ると、にっこり笑った。


――一緒にやるう?


 彫り深く目の大きい顔を見ても何となくそんな感じがしたが、甘えかかるようなその話し方で、この人は純粋な日本人じゃないと知れた。


 越してきてから、俺の目にすらいわゆる「夜の商売」、その中でも多分ランクの低い職業と分かる東南アジア系の女の人を良く見掛けたが、この人の面差しや口調にはそういう女の人たちと似通ったものが見て取れる。


――やろうよ!


 俺じゃなくても、あの開けっ広げな笑顔を見て、「悪い奴だ」と思う人がどれだけいるのだろう。


“うまくやっていけると思ったけど”


 ひらがなが多いせいか、今度は妙に殴り書きっぽい筆跡に見える。


 実際、初めはあの人も他のメンバーたちも優しかったのだ。

 夜の公園で一緒にバスケをして、好きなアニメや漫画の話をして帰るだけだったし。


 メンバーの中には休憩中にタバコを吸う人もいたけれど、一番年下の俺に同じ行為を強制することはなかった。


 でも、夏休みが終わって、少し涼しくなり始めたあの日から状況は一変した。


 その日、俺はずいぶん浮かれていた。


――学校の部活でスタメンに選ばれました。


 あの人たちも喜んでくれると信じて疑わなかった。

 良かったな。

 そう言って皆で笑顔で肩を叩いてくれるところしか想定していなかった。


――一年でなれると思ってなかったから、本当に良かったです。


 何であんなにもバカみたいに舞い上がってしまったんだろう。

 というより、何故、自分にとって純粋に嬉しいことは他人も喜んでくれるとあんなにも信じて疑わなかったのだろう。

 つまんない自慢する奴なんか嫌いだと自分でも思ってたはずなのに。


 その瞬間は、決して、露骨に不愉快そうな反応をされたわけではなかった。

 ただ、皆がにこやかだったその場の空気が、全員にもそれと分かる形でわずかに冷めた。


――そうなんだ。


 あの人はいつも通りの笑って見える顔つきでぽつりと言った。

 そして、胸ポケットを急に探り出すと、タバコの箱を取り出した。


――誰か、火い、貸してえ。


 普段通りの甘ったるい口調だが、タバコを取り出す手つきに苛立ちが覗く。


――俺、ジッポ、うちに置いてきたみたいだ。


 後ろに並んで腰掛けている面子を振り返る。

 黙って差し出された小さな火でタバコの先を炙ると、あの人はゆっくりとそれを吸った。


 俺は自分の顔が強張るのを感じた。

 同時に、自分がアホみたいに全開の笑顔だったことにも気付く。


 あの人はそれまでも胸ポケットにタバコの箱は入れていたが、実際に俺の前で吸ったのは、初めてだった。


 一見すると、むしろ穏やかな調子でタバコを地面に落として踏み潰すと、あの人はさっきまでの俺を真似るかのように全開の笑顔で近づいてきた。


――どうして学校辞めたか、ユタクンには話してなかったね。


 あの人は「悠太君ゆうたくん」と本人は言っているつもりなのか、それともわざと短縮してニックネームにしたつもりなのか、いつも「ユタクン」とまるで東南アジア辺りの人みたいな呼び方で俺を呼んでいた。


 とにかく、ピエロじみた人懐っこい笑顔と甘えかかるような口調のまま、あの人は続けた。


――ピーナ、ピーナ、バカにしてパシリにしてくれたクラスの連中を、鉄パイプで殴ってさ、


 次の瞬間、腹に衝撃が走って、俺は公園の土の上にぶっ倒れた。

 じわりとだが強烈な痛みと吐き気が込み上げてくる。

 本当に鉄パイプで殴られた気がした。


――俺だけ退学になったんだよ。


 見下ろす顔は陰になってよく確かめられなかったが、その声にはぞっとするような憎しみが込められていた。


“気付いた時には、取り返しのつかない失敗をしていました”


 わずかに浮き上がった紙面にボールペンの先が食い込んで小さな穴を作る。


 それからは、坂を転がり落ちるように、俺はあの人たちから酷い扱いを受けるようになった。


“悪いことはしたくなかった”


 今度は「悪」の字だけが本来収まるべき行間から少しはみ出てしまった。


 秋口から、賽銭泥棒の手伝いは何回かした。

 実際に盗む方は他のメンバーたちで、俺は見張りをしただけだけど、加担したことに変わりはない。


“弱い自分がとても嫌でした”


 やや傾き気味に記された「弱」が、俺そのものに思える。


 何度目かの手引きの後、分け前として貰った金を後でこっそり賽銭箱に戻しているのがとうとう見つかって、酷く殴られた。


 あの人はずっと俺を疑って尾行していたのだ。


――損失は自腹だからね。


 母さんからお小遣いとしてもらった金まで巻き上げられた。

 そろそろ涼しいよりも肌寒い季節に入った時のことだ。


“そのままでいても、俺は殺される”


 これから死ぬのに、「殺」という文字を書くと、なぜ胸がざわつくのだろう。


 殴られても「それだけは嫌です」と万引きを断ると、代わりに走っているタクシーへの体当たりを十回やれと命じられた。

 お客さんを載せている車やら降ろしたばかりの車やら、とにかく思い切り突進していって、怒鳴られて。

 クリスマス近い街で、もしかするとタクシー運転手の間では「自殺志願の男子中学生がいる」と噂になっていたかもしれない。


“母さんや兄ちゃんには言いたくても言えませんでした”


 クリスマスから年明けまで、あの人がお母さんの本国に行っている間が、俺にとっては束の間の、そして最後の安らぎだった。

 もともと好きなものではあったけれど、母さんと冬休みで家に戻ってきた兄ちゃんと三人で食べたチキンやクリスマスケーキは、引っ越してから食べたどのご飯よりもおいしかった。

 食べた後に体が本当に暖まる感じがした。

 あの人たちもよく奢ってくれたけれど、どんな料理も食べた心地がしなかったし、満腹になっても寒々とした感じがいつもどこかにしていたから。

 母さんはクリスマスプレゼントに新しいフリースとセーターとジーンズをくれた。

 島のお祖母ちゃんからも兄弟二人分のお年玉が届いた。


 母さんも兄ちゃんも一緒にいる間はずっと笑顔だった。

 だからこそ、不良の仲間に入って、日々、あの人たちからの暴力に怯えているのだとは言えなかった。

 母さんは大きな病院で看護師をして、兄ちゃんは奨学金で高校に行っている。

 二人とも立派に生きているのに、どうして自分だけはこうなったんだろう。

 そう思う瞬間だけが、心に陰を落とした。


 窓の外で小雪がちらつくのを眺めながら、暖かい部屋に寝そべっていると、時計の針がいつもの倍は早く進んでいく気がした。


“正しいところに戻りたかったのに”


 俺が書くと、「正」の字がちっとも正しく見えない。


 母さんがまた仕事に出て、兄ちゃんが学校の寮に帰るのと入れ替わるようにして、あの人から電話が来た。

 学校が終わったら行きます、と答えたのに、アパートのドアから出たところで、待ち構えていたあの人たちに出くわした。


――あけましておめでとーお!


 冬だというのに陽に焼けてますます日本人に見えなくなったあの人からは、酒ともタバコとも違う、甘ったるいハーブみたいな匂いがした。


――ママの友達が都内に新しくお店出したから、これからそのお祝いに行くんだ。


 俺には関係ない。

 学校に行きたい。

 もう、ほっといてくれ。


 言いたくても出せない言葉が頭の中をぐるぐる回って、胸の奥をキリキリ刺してくる。


 肌は健康な小麦色に焼けたピエロが、まるで駆け寄ってきた小さな子に風船かキャンディを差し出す時に浮かべるような笑顔のまま、ぐいと制服の襟首を掴んだ。


――そのカッコだと、私服に捕まっちゃうから、着替えてきなよお?


 この人の本心は、顔でも、声でもなく、手に現れる。

 俺は苦しい息の下からやっと答えた。


――わ……かりま……した。


 そう言わなければ、息をさせてもらえない。

 いきなり手を放されたので、後ろの壁に激突する形で倒れこむ。

 頭を強くぶつけた時に特有のツンとした匂いに、あの人からの妙なハーブじみた香りが混ざって頭がグラグラした。


――じゃ、俺らはここで待ってるからね。


 それからは、学校に行っていない。


“全ては失敗に終わりました”


 まだ一ページ目も途中なのに、もう結論が出てしまった。


 他の人を傷付けることだけはしていないし、いつか機会を見つけてこのグループを離れよう。

 そんな風に自分に言い訳をしながら、結局のところは、あの人たちにくっついていた罰が当たったのだろう。


 昨日はいつもと違って駅前に呼び出された。

 あの人と鑑別所で一緒だったという男をグループ全員で迎えるためだ。


――こっち来んの、久し振りだよ。


 髪は赤茶に染め上げてはいるものの、能面じみた平たい顔に細い目と小さな薄い唇をして、小柄で痩せぎすな体にダブついた暗い紫色の服を着た男だった。


――ママの店に一緒に行ったのが最後だから、もう一年経つね。


 彫り深く作りの大きい目鼻立ちに明るいオレンジ色のジャケットを羽織ったあの人と並ぶと、一見、対照的なようで、その実、別々に見掛ける時よりも二人とも身に纏う空気が翳って見える。


 それはそれとして、途中までは楽だった。


 あの人は久し振りにあの男に会えて嬉しかったのか、それとも一種の見栄で鷹揚なところを見せたかったのか、ずっと笑顔だった。


 座の主役はあの人とお客様として来たあの男だったから、俺は隅っこで笑顔を作って適当に相槌を打っていれば、何も問題はなかった。


 あの人さえ笑っていれば、他の連中が手を出してくることもない。


 昼はファミレスで時間潰しして、午後はゲームセンターで遊んで、そろそろ辺りに夕闇が迫ってきた頃だ。


――飲み屋、七時で予約したんだけど、ちょっと間があるね。


 あの人は手持ち無沙汰になった風に招待客に告げると、繁華街をぶらつき始めた。

 俺たちは黙ってそれに付き合うしかない。


 正直、この時間帯の繁華街はうろつきたくない。

 学校帰りの中高生も少なくないからだ。

 すれ違いざまに学生服やジャージ姿を目にするのが嫌で、自然と俯きがちになる。


――お前、何か、具合わりいの?


 前から飛んできた声にぎくりとして顔を上げると、能面じみた平べったい顔と視線がぶつかった。


――さっきから、一人だけ、下向いてつまんなそうにしてるからさ。


 あの男はそう言うと、含み笑いする。

 どうやらずっとこちらの様子を窺っていたようだ。


 あの男と並んだあの人もこちらを振り返る。

 オレンジ色のジャケットの肩越しに広がる暗闇から、もう繁華街も終わりの地点に来ていると分かった。


 この街は繁華街を一歩出ると、ひたすら薄暗い路地に出る。

 その路地を少し行った先に公園があるから、あの時のあの人はそこを目指していたのかもしれない。

 そこならば、誰の目も気にせずにタバコが吸えるからだ。

 むろん、タバコ以外のものも。


――つまんないの?


 暗闇を背にしたあの人が笑いの消えた顔で尋ねた。

 今はまだ素面しらふだが、この目つきは危険信号だ。


――あ、いや……。


 口ごもって後ずさった俺は、次の瞬間、暗闇から新たに姿を現した人物に飛び上がった。


――どうしたって言うんだよ。


 隣のあの男が薄笑いを浮かべる一方で、あの人の顔には苛立ちが滲んでいく。


――ちょっと、クラスの担任がいるんで。


 繁華街の入り口から中の方へのんびりと歩みを進めていく白いコートに真っ黒なセミロングの人影を見やりながら、俺は仲間の誰彼の影に隠れるようにして早足で歩く。


――どこに?


 思い出した風に急に歩みを速めつつ、あの人はそれまでぶらついてきた繁華街全体に視線を走らせる。

 その顔からは苛立ちが消え、代わりに淡い恐怖めいた色が現れていた。


 そうこうする内に、俺たちは全員、繁華街の外の暗がりに出る。

 周囲が暗くなると同時に、寒さも少し増した気がした。


――あの、白いコートに髪を真っ直ぐ肩まで垂らしてる人です。


 俺は俯いて答える。

 口に出してから、今、挙げた特徴に当てはまる人が他にも何人か繁華街を歩いていて欲しい気がした。


――あれ? 若いなあ。


 仲間の誰かが感嘆した風な声を上げた。

 改めて見やると、先生は入り口近くの雑貨屋の前に立ち止まって、木や陶器で出来たカップを手に取って眺めているところだった。

 確かに教室で見掛ける時よりも表情がウキウキしているせいか、先生は「若い女性」というより、まだ俺たちより少し年上の「女の子」に見える。


――先生というより女子大生だな。


 あの男はそれが人を指し示す時の癖らしく、先生のいる方に尖った顎を突き出すと、小さな薄い唇を歪めて笑う。

 そんな風に歯を剥いた表情をすると、紫っぽい唇に対して大きい八重歯が目立った。


 あの人はというと歩調を緩めて進みながら、拍子抜けした風に年若い先生に目を注いでいる。


 一方、繁華街にいる先生は何も気付かずにスマホを耳に当てて話し出した。

 話す内容までは聴き取れないが、ウキウキした笑顔のまま、真っ直ぐな黒髪の頭を盛んに頷かせているので、余計に「女の子」めいた雰囲気になる。


――ババアですよ、あんなの。


 俺は顔の前で手を振ってから、その仕草を自分でも大げさに感じた。

 先生は去年大学を卒業したばかりだと聞いたから、多分、二十二、三歳。

 むろん、「ババア」どころか「おばさん」と思ったこともない。

 でも、先生はこの前、十八歳の誕生祝をしたあの人や同い年だというこの男よりも四、五歳年上のはずだ。

 ちょうど俺とこの人たちの間に横たわっているだけの年齢差が、先生とこの人たちの間にも存在している。


――口うるさくって、学校でも嫌われてるんです。


 話しながら苦いものが込み上げる。

 つい数日前も、先生は、わざわざ俺のスマホに電話してきてくれた。

 なぜその先生が俺からバカにされなければならないのだろう。

 だが、仕方がない。

 とにかく今は、この人たちに「つまんない女だ」「いじる価値はない」と思わせてその場を立ち去りたかった。


――公務員って、不況でも、お金持ちなんだよね。


 ふと見やると、あの人は立ち止まり、大きな目に冷え切った光を点して、白いコート姿の先生がスマホを耳に当てて笑っている姿を眺めていた。

 あれは、多分、一番新しい機種だ。

 スマホの背が遠目にも滑らかに光っている。

 俺たちはそれぞれ足を止めて同じ方に見入った。


――パブで働く子たちは、酷い目に遭うのに。


 やっと聞き取れるほどの声だったが、それは耳にする者を凍りつかせた。

 居合わせた仲間の内、あの男だけは憐れむ風に笑って振り向く。


――ちょっと我慢すれば、母国くにに家が建つんだから、まだマシだよ。


 嘆くような、羨むような口調だった。


――女だと売るもんがあるからなあ。


 顎で遠くに立つ先生を示すと、あの男はまた大きな八重歯を見せて笑った。

 先生は、「売っている女」じゃない。

 何も知らない先生は、相変わらず笑顔で話し続けている。

 頼むから、早くどっかに行ってくれ。


――リーナさん、覚えてる?


 俺には分からない人の名前が、あの人の口から零れ落ちた。

 今度もあの男だけが笑って頷く。


――おっきい人だよね。


 両手で胸の辺りで大きな弧を描く。

 話題にされている「リーナさん」はどうやら背丈ではなく胸が大きい人らしい。

 他のメンバーからもさざ波のような笑いが漏れた。

 俺も合わせて笑顔を作る。

「リーナさん」でも誰でも、このまま話題が別の方に流れていってくれればいい。


――死んだってさ。


 今度はあの人の方が寂しく笑ったが、再び全員が強張った。

 あの男だけは変わらず薄笑いじみた顔つきで目を向けている。


――俺もクリスマスにあっち行って、初めて知った。


 あの人は「別にどうでもいいことだ」といった調子で早口に続ける。


――帰国してすぐ、ハッショーしたんだって。


 ハッショー、と外国語のように耳に飛び込んできた言葉が、一瞬の間を置いて「発症」と頭の中で置き換えられる。

 俺は逢ったことがないが、年上の二人が知っていた「リーナさん」は、日本で働く内に恐ろしい病を得て亡くなったのだ。

 恐らく、この「リーナ」さんが稼いでいた本当の仕事は、パブでお酌をしたり、歌や踊りを見せたりすることではなくて……。


――そうなんだ。


 頷く男の顔からは嘲りめいた笑いは消えていたが、そうなると細い裂け目のような瞳からは怨念じみたものが代わりに色濃く浮かび上がってくる。

 皆から顔を背けるようにして、遠くに立つ先生に視線を戻すと、ぽつりと付け加えた。


――俺も、あの人は好きだったよ。


 後姿になると、男にしては細い首や華奢な骨格がいっそう目立った。

 喧嘩しても一発で相手から倒されそうな体つきだ。

 あの人は同級生たちを鉄パイプで殴って鑑別所に送られたそうだけど、この男の方は一体、何をして入ったのだろう。

 そういえば、皆で飲み食いしている間も、他の連中の話に笑って頷くだけで、自分のことは殆ど話さなかった。


 不意に、クックッと咽び泣くような声がして、暗紫色の服を纏ったか細い肩が震えた。


 お互いの罪状を知るはずのあの人はどこか乾いた目でその様子を見やる。

 異変を察した他のメンバーたちも案じた風に顔を見合わせた。

 俺よりも、本当は、この人こそ、今すぐ、どこか、人目に付かない場所に行きたいのかもしれない。

 痛ましくなって、あの男の肩に手を置こうとした瞬間、くるりとその細首が振り向いた。


――あの先生、あんな楽しそうに、誰と喋ってんのかな?


 あの男は、泣いていたのではなかった。

 吊り上った細い目の乾き切った光を見れば、こいつが今更泣くようなしおらしさなど持ち合わせていないと良く分かる。


――生徒が近くで見てんのに、ぜーんぜん気付かねえ。


 一際目立つ八重歯を剥いた顔は、哄笑そのものだった。

 クックッと低く忍び笑いする調子に声高に笑うよりも陰湿さが浮き出ている気がした。


――お前、端から忘れられてんじゃねえの?


「忘れられてんじゃねえの」の「てん」のところで、俺の顔に思い切り唾が飛んで来る。

 無意識に一歩後ずさった。

 単なる偶然なのに、わざと唾を吐きかけられた気がした。

 お前が気に入らない。

 口元は嘲り笑う格好のまま、こちらに恨みの滲んだ眼差しを向けたあの男の顔は、はっきりそう語っていた。


――一歩、学校の外に出れば、もう「先生」じゃないんだよ。


 あの人の冷め切った目は、キラキラした灯りに溢れた街角に立つ先生というより、きらめく街の灯りそのものに注がれているかに見えた。


――ほんと、税金泥棒だよな、ああいう奴らって。


 あの男の声は俺を素通りしてあの人に向けられている。

 そして、その声がまるで何でもないことを呟く風に告げた。


――ちょっと、回収するか。


 暗紫色の服を翻してあの男は走り出す。

 痩せこけた体だけあって、足は速いらしい。


 続いて、薄いオレンジのジャケットが目の前を通り過ぎた。


 え?


 呆然とする俺の視線の先で、暗紫色の服の男が先生の手からハンドバッグをもぎ取った。


――ちょっと!


 スマホから耳を放した先生が甲高い声を上げる間にも、あの男は走りながら、ハンドバッグを宙に放る。

 駆け寄ってきたあの人が受け止める。


 二人の男がこちらに向かって走ってくる。

 薄暗い中、固まって立ち尽くしている俺たちの方へ。

 人目を忍んで賽銭箱や商品棚から金品をくすねたり仲間内で殴り合いしたりはしても、無関係の人にはまだ手を出したことのない「不良」たちの方へ。


――返して!


 白いコートの女が金切り声を上げながら走ってくる。


 来ちゃ駄目だ!


 俺がそう叫ぶ前に暗紫色の服がバッと広がるように立ちはだかったかと思うと、白いコートを覆い隠すようにしてより薄暗い植え込みの陰に素早く移動した。


 薄オレンジのジャケットもゆっくりそちらに近づいていく。


――このくらいで騒ぐなよ。


 ボソボソした声音だが、あの男に押さえ込まれている先生の顔からみるみる血の気が引いていくのが遠目にも分かった。


――バッグ、返して欲しいよね?


 紙のように白い、まるで血が抜き取られて本来の肌の色だけが浮き上がったような先生の顔に、黒い影が斜めに覆い被さる。

 そして、微かに粘り気のある声で付け加えた。


――痛い目、見たい?


 尻から背中にかけて、ぞわっとする感触が走った。

 あの男は、いや、俺たちは、一体、何をしようとしている。


 と、薄いオレンジのジャケットのあの人がこちらを振り返った。

 冷め切った眼差しのまま、バッグを持たない方の手を耳の脇まで上げ、「来い」という風に指を折り曲げている。


 頭の中で、何かがプツリと切れた。


――火事だ!


 耳の中を引き裂くような叫び声が鳴り響き、視野の中でこちらに大きな目を丸く見開いたピエロの姿が大きくなる。


 その手からハンドバッグをもぎ取る。

 一瞬だけ、バスケの試合でボールを奪い取ったかのような感覚に陥った。


 体が向いたすぐ先には、やはり目を剥いて口を半ば開いた先生とあの男がいた。


――ひいけた奴がいるぞ!


 再び耳の中で叫び声が響き渡って、喉の奥がぐっと痛くなる。

 肩を思い切り押しやると、あの男はあっけなく尻餅をついた。

 やっぱり、腕力は弱いのだ。


 次いで、へたり込んでこちらを見上げている先生の手元にハンドバッグを叩き付けると、ひりつく喉の奥から乾いた声が告げた。


――せろ。


 頬を冷たいものでさっと撫でられるような感触がして、そこで自分が泣いていることに初めて気付いた。


――消えてくれ!


 白いコートの肩を両手で突き飛ばすようにして押すと、まるでバネ仕掛けの人形のように先生は飛び上がった。


 真っ白なコートの背を向けて、先生は瞬く間に走り去っていく。

 キラキラと目を刺すような灯りが無数に点った、明るい方へ。


 それまで遠巻きに眺めていた連中がワラワラと駆け寄ってきて、俺の周囲は更に薄暗くなった。


 ポンと後ろから肩に手を置かれた。

 振り向くと、あの人の顔があった。

 褐色に塗った陶器の仮面のようなその顔は、すぐ近くに立っているのに、何故か遥かに遠くに吊るされているように見えた。


 次の瞬間、左目に衝撃が走る。

 いや、目というより眼窩そのものが破壊されるような衝撃だった。

 これは、見えなくなるかも。

 俺は左目を抑えた格好のままコンクリの路面に転がりながら、不思議なほど冷静な頭で考えていた。


 普段は尻馬に乗って殴る蹴るしてくるはずの連中も、何故かその時に限って、手出しせずに周りを取り囲むだけだった。

 罵倒を浴びせ掛けるわけでもなく、押し黙ったまま。


 激痛からジクジク疼く段階にやっと治まって、涙に滲む手を外すと、あの人の蔭になった立ち姿がダブって見えた。


――……んでだよ。


 何でだよ。

 そう言われたのだと分かった。

 俺の片目に思い切り拳を喰らわせたきり、あの人は棒立ちになっている。

 二重、三重に見えたその姿が一つの像を結んでも、膝の脇で握り締めた拳はまだ震えていた。


――いつも一人だけ、いい方に行こうとする。


 元通り見えるようになった両目に、あの人を中心に並んだ皆の影が、焼き付くように黒く映った。


――ずるいんだよね、ユタクンは。


 並んで立つ仲間がいるのに、なぜ一人だけ除け者にされたように語るのだろう。


――もう、やめて下さい。


 俺は跪いて、頭を下げた。

 土下座の格好だが、もう何も恥ずかしくなかった。


――こんなこと続けてたって、俺ら全員、だめになるだけです。


 あの人だって、本当は知っているはずだ。

 というより、皆、気付いているけど互いに言わせないようにしているだけだ。

 俺には、それがもう耐えられない。


 沈黙が流れた。

 正確な時間にすれば一分にも満たないかもしれないが、酷く長く感じた。

 風はないのに、辺りの空気は淀んだまま冷え切っている。

 埃とコンクリートとタバコの煙に微かにドブ臭い匂いを含んだ空気だ。


――おい、どうすんだよ。


 最初に口を開いたのは、薄笑いして眺めていたあの男だ。

 いつの間にやら唇に咥えたタバコからは白い煙がゆっくり立ち上っていた。


――こいつ、抜けたいらしいぞ?


 棒立ちになっているあの人の顔を覗き込むようにして、タバコを持たない方の手で俺を指差す。


――皆の前で、なめた真似してくれるよなあ?


 それは、今しがた先生に向かって、「返して欲しいよね」と念を押したのと同じ声だった。

 斜めから相手の顔を覗き込む格好も一緒だ。


――お前の顔潰す奴なんて、めてやれよ。


 平べったい黄色い顔の、先尖った顎で俺を指し示す。

 それでも目を合わせないあの人やしわぶき一つ立てない他の連中に苛立ったのか、舌打ちしてタバコを投げつけると、あの男は刺すような声で付け加えた。


――俺が何のために、今日、ドス持ってきてやったと思ってんだよ。


 俺に出来るのは、土下座した体勢のまま、目の前に投げ捨てられたタバコの先から出る煙が次第に薄く弱まっていく姿を眺めることだけだった。

 最初は白い帯のように渦巻いていた煙が、段々分解されて半透明の糸のようになり、濁った空気に溶け込んで消えていく。


 不意に、あの人の立つ場所から声が転がり落ちた。


――河原に行こう。


 そのまま闇に消え入るような声だったのに、次の瞬間、それまで棒立ちになっていた連中がざっと駆け寄ってきたかと思うと、俺の両脇を掴んで立たせる。

 皆、無言だったが、俺の両腕を固く押さえ込んだ力が「絶対に逃がさない」「決して許さない」という総意を何より物語っていた。


 ビュオーと人の声に似た風の通り抜ける音がまた聞こえてくる。


 少年はたった今、書き記した手帳ごと自分のロングコートの肩を抱き締めた。


「どうして……」


 ボールペンが音もなく傍らの枯れ草の上に転がり落ちる。

 少年は両手で顔の上半分を覆った。


「死にたくない」


 手と手の隙間から涙が零れ落ち、たった今、書き記したページを濡らしていく。

 少年はしゃくり上げると、搾り出すような声で再び続けた。


「俺はまだ、死にたくないんだ」


 ビュオーとまた風の音がどこかから鳴り響いてきて、足元のナイロン袋がカサカサと乾いた音を立てる。


 枯れ草の下からも湿った土の匂いが立ち上ってきた。


 晴れ渡る空の下、昼を迎えた日差しが真上から照り付けてきたが、少年はまるで毛筋ほどの光も眼に入れまいとするかのように両手で固く目を覆い続けた。


 カサ、カサ、ガサ、ガサ。


 視野を塞いだ少年の耳に、乾いた音が次第に大きさを増して近づいてくる。


 ガサ、ガサ、ガサ、ガサ。


 それは草木が自然の風に揺らぐ音ではなく、もっと人為的な力によって鳴らされる響きを帯びていた。


 ガサ、ガサ。


「目のとこに大きな痣のある子なんですけど」


 ガサ、ガサ。


「困りますね、ちゃんと禁止の表示をしているのに」


 草木を掻き分ける音と共に人の話し声も近づいてきた。


 少年はびくりと泣き濡れた顔を上げる。


 ガサ、ガサ。


「トイレだって言ってたんですけど、全然戻ってこなくて」


 ガサ、ガサ。


「この辺りはこの前も暴走族の連中が来て危うく山火事に……」


 杖を持ったおじさんとヘルメットを被った若い警察官が枯れ草の空き地に姿を現した。


「あ、あの子、です……」


 一瞬の沈黙の後、おじさんは何か言い訳する風に杖で少年を示した。


「どうして追って来るんだ」


 冷めた苛立ちを滲ませて呟くと、少年は立ち上がる。

 足元に手帳が転がり落ちた。


「君ね、ここは立ち入り禁止なんだよ」


 立ち止まっているおじさんを背後に残して、ヘルメット姿の警官が近付いてくる。


「ほっといてくれよ、もう」


 少年は顔を背けて、空き地の奥に並んだ木立の方に歩き出す。


「話なら署で聴くよ」


 少年の左目の黒い痣を見て取った若い警官の顔に、痛ましい表情が走った。


「もう、遅いんだよ!」


 少年は差し出された手を振り払うと、奥の木立に向かって突進する。


「あっ! そっちは……」


 後ろから上がった警官の叫び声が聞こえるや否やのタイミングで、目の前から木々が一度に姿を消し、断崖から谷底までの風景が広がった。


 咄嗟に手元の木の枝を掴んだが、グシャリと潰れるような音と共にこちらの体全体が物凄い勢いで半回転する。


 次の瞬間、右手に強く枝を握り締めたまま、仰向けに宙に浮かされた感覚に囚われた。


 終わった。

 不思議なほど冷静な頭で思う。


 ゴーッと暗い川に流された時に似た音が耳の中で大きくなる。


 同時に、目を大きく見開いたおじさんと青年警官の並んだ顔とその向こうに広がる水色の空が瞬く間に遠のいていく。


 まだ、死にたくなかったのに。


 俺のやることなすこと、全部、裏目に出た挙句、こんな形で一切が終わっちゃうんだ。

 始めから仕舞いまで間抜けだよなあ。


 怖いとか悲しいというより、何だか可笑しくなった。


 まるでスローモーションのように続く一瞬の中で、少年は笑って眼を閉じた。

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