第十話
食堂街と呼ばれるようになった理由について正確なことは分かりませんが、しかしそこに一歩足を踏み入れれば由来も推して知れるというものです。すれ違う生徒たちの足は皆好きな方へ向かい、それぞれの目指す場所に異なった食堂……というか飲食店が看板を掲げています。財布の味方の見知ったチェーン店に始まり、お嬢様、お坊ちゃま然とした方々が優雅に訪れる高級料亭の様な場所、果ては提灯型のライトを下げた屋台まで、様々な店が雑然……否、一応の秩序は有りますね、不思議です、ともかくも様々な店が建ち並ぶ様はまさに『街』でした。
ちなみに中等部、大学の生徒もここで食べるので、十数軒の飲食店はどこも盛況です。まぁ食堂街だけでなく、寮関連の施設は全ての学年で固まって配置され、そこを中心に三方向に中等部、高等部、大学がそれぞれに広がっている形になっているのですけどね。そして盛況ということはつまり、どこを見ても生徒が歩いている訳で。
「………………」
前を行く木下先輩を窺いながらも、中々質問が紡げずにいました。先程のことも有りますし、更に言えば警戒心を増したミリューネ様が一層ぴりぴりとしたオーラを撒き散らしているからでもあります。迷いの無い足取りでどこかを目指している様なので、恐らくは大丈夫なのでしょうが……。
食事時の食堂街ともあって歩きながらも目で看板や、料理のサンプルを追ってしまいます。鼻腔を刺激する良い匂いに、何かを炒める音、満足気に帰っていく生徒達…………お腹の虫が騒ぎそうです。正直に言えば、昼食から時間が経ち過ぎて目が回りそうです。あぁ、そう言えば言うのを忘れていましたが、昼食に関しては食堂街から幾つかの店が弁当やパンや何かを売りに校舎まで訪れるので、それを買って食べる形になります。満足したとは言えない値段優先のおにぎりを思い出し、へこんでしまいそうなお腹を必死に宥めながら歩を進めました。
チェーン店も高級料亭も通り過ぎた木下先輩の足が止まったのは、なるほど確かに人の少ない、食堂街の端の方でした。あまり主張しない控え目な看板や、先程言った小さな屋台、アルコール類を売ってる筈は無いですがバーに見える店など、賑やかだった中心部とはまた違った趣です。中等部の生徒の姿は見受けられず、高等部の上級生や、大学生の先輩のカップルが(勿論カップルばかりでは有りませんが、けれど多い気がしてなりません)小さくもお洒落な店達に足を運んでいました。
木下先輩は私達を振り返ると、その内の一軒、看板に達筆な外国語で何ぞや書いてあるお店の方を示します。まさしくバーと言った外観のそのお店はハードボイルドな物語にでも登場しそうで、食堂街の街並みからは物凄く浮いています。
「ここなら落ち着いて話せる。夕食を逃しても不味いしね、一先ず食事をしながら話そう」
振り返ったことで険しい表情になったミリューネ様に笑い掛け、木下先輩はお店の扉に手を掛けました。
と、その時。
くきゅぅうううう……
「…………じゃあ入ろうか」
そっと目を逸らしながら扉を引く木下先輩。私も何も聞こえなかったフリをして、固まった笑顔のまま、ミリューネ様に先を譲ります。頬を赤く染めたミリューネ様はしばらく何事も無かったかのように振る舞っていましたが、先輩が店内に入っていってから少しの後、すぅ、と息を吸ってぽつりと「昼ご飯食べ損ねたの」と拗ねたように呟き、色んな理由で私の頬まで赤くしてしまいました。
ともかくもミリューネ様の為に扉を開け留め、最後に静かに扉を閉めて店内に視線を転じた私は、まず思っていたよりも広い店内に驚きました。いえその、横幅はそれはまぁ見た目通りですが、奥行きが想像よりも広いこと、そして何より、これええっと……何という構造なのかは知りませんが、地面に建物が一階分埋まり、下にカウンターと客席、そして二階というか今入ってきた場所にも客席が広がっています。その、あー……まず入り口を抜けて、正面右に降りる階段、吹き抜けで一階……地下一階? ともかくもお店の横壁に付いたカウンターが見下ろせ、左には広い奥まで丸いテーブルが並んでいると言った具合です。伝わらなかったらすみません。カウンターにもう何か凄くそれっぽい人がいて、木下先輩はその人の前で待っていました。一階にも二階にも人はいて、広い店内もそれなりに埋まっているようです。
手招きをする木下先輩の元へ階段を下りて向かえば、カウンターの中に居たイケメンのバーテンダー(シェイカーは持ってませんけどね)が物静かに微笑みました。お酒の類は置いておらず、代わりにお茶やジュースがカウンター奥の棚に揃えられています。どうやら食事も取れるようで、ジャガイモの良い匂いが先程のミリューネ様のお腹の虫を思い起こさせました。
「
丁寧に拭いていたコップを置き、低く落ち着いた声の流暢な発音が流れます。けれどミリューネ様はぴくりと眉を動かすと、そのまま胡乱げにバーテンダーに言葉を返しました。
「……お店の名前は
「満月の時は
「…………そう」
何でしょうかこのやり取り。何を言っているのか分からずぽかんとしていた私に、木下先輩が口の端を上げて「Nacht neuen Mondesは新月の夜、Wälder der Nachtは夜の森、だ。ちなみにNacht eines vollen Mondesは満月の夜、といった意味だよ」と教えて下さります。何語かはよく分かりませんが、何故皆話せるのでしょうか。……あれ、もしかして灯清学園にいるということはこれが普通で、私もそれなりのスペックを持っていなくてはいけないのですかね。それは少しマズい気がします。
と言いますか、こいつ今さり気無くミリューネ様の気を引こうとしたんですか? 何が新月の夜ですか、ってことは木下先輩喋ったんですね、口が軽過ぎます!
そんな風に己を顧みろと言いたくなるようなことを心で叫んでいた私ですが、私の目付きが鋭く尖ったのを見て取ったのか、バーテンダーが今度はこちらに微笑みを向けてきました。
「心配せずとも大丈夫です、初めてお越し頂いたサービスですから」
……どうやら本気で言っているようです。何と言いますか、先程の生徒会でのドアマンさん(名前知りません)と同じ匂いを感じます、これは強敵です。
「おや? 私の時は何も無かったと記憶してるが?」
「ヘクセを紹介してあげたでしょう?」
「…………うん、ありがとう」
……木下先輩が頬を赤くして、けれど素直に頷きました!! え、何ですかその「ちょっと恥ずかしいけど、嬉しかった♡」って感じの表情は! 木下先輩にそんな顔をさせる存在がいるなんて……! ともかくも脳内シャッターを切りまくりました。
「と、ともかく! 個室を頼むよ」
「はい、こちらへどうぞ」
バーテンダーがカウンター横の戸を示しますが……そちらは厨房では無いのでしょうか。というか、カウンターの奥にまだスペースが有ると言う事は、この店は外観の横幅よりも広い可能性が有る訳ですね。慣れた様子で戸を抜けた木下先輩の後を追い、少しばかり怒りを収められた様子のミリューネ様に続いてその戸をくぐりました。
抜けた先は矢張りというか小さな厨房で、食材が丁寧に並べられた棚と横に設置された普通サイズの冷蔵庫、食器棚に調理器具に……そんな物が並ぶ中にぽつりと木の扉があります。個室と言っていましたがドアの印象からすると到底客向けの個室ではなさそうです。けれど勿論物置という印象でも無く、どちらかと言うとあのバーテンダーさんが寛ぐ為の部屋では無いかな、と言った感じの簡素な造りの扉でした。
私がぼんやりと眺めていると、木下先輩はその木の扉へ向かい……おかしいですね、どこか浮き足立っているように見えます……何だかそわそわした足取りでノブを掴むと、少しばかり声を張り上げました。
「注文を取りに来てくれよ! 私はいつものアレで忙しいから!」
「分かってますよ」
戸口から顔を出して微笑んだバーテンダーさん。いつものアレとは一体何なのでしょう……まぁ、どの道ミリューネ様に紹介するという大仕事があるので忙しいのは変わりませんが。
ノブを回して私達に目で示した木下先輩は、さっと中へ入ってしまいました。いえだから、この店はどういう構造になっているんでしょうかね。まさか魔法とか言いませんよね? 地下だからといって都合が良過ぎる気がします。大体他の建物の基礎が……あー、いえ、横にあったのは屋台でしたっけ。
私達も入ろうと扉に近付いた途端に、耳を疑う音が聞こえてきました。
「ヘクセぇぇええええええ!! 会いたかったよぉぉおおお~!!!」
「…………」
「…………」
驚きで硬直してしまい、少しだけ開いている扉をそれ以上押せません。
聞こえた声は間違いなく木下先輩です。それは間違いないのですが、その、先程も言った通り耳を疑いました。ミリューネ様と顔を見合わせて、互いに幻聴ではないかを確認し合います。見開かれた目に映った「まさか」の表情で私たちが現実を認識すると同時に、猫の鳴き声が聞こえてきて……何となくですが、予想がつきました。
「………………行きましょう」
覚悟を決めたミリューネ様のお言葉を受けてゆっくりと扉を開くと、覚悟はしていましたがそれでも目が眩む光景が広がっていました。
目算四畳半の部屋は落ち着いた、けれど先程の店内より明るい配色で構成されており、天井からの淡いライトを隅まで優しく広げます。玄関というか、靴を脱ぐ為のスペースに木下先輩のブーツが転がっており、部屋の中には高そうな絨毯が敷かれていました。そして部屋のやや奥寄りには店内のそれよりも少し大きい丸テーブルが置かれ、その手前で木下先輩が猫に頬擦りをしていました。
もう一度言いましょう、木下先輩が猫に頬擦りをしていました。
頬擦りされる方の猫もとても気持ち良さそうで、毛並み、艶ともに色香を纏う程すらっとした黒猫です。木下先輩はその小さな体のせいもあり、こうして無邪気に(というよりは変態的ですが)猫に抱き着くさまを見ていれば、ホントに小学生と言われても納得出来そうでした。
「んなあああああああああ///」
ちなみにこの声は木下先輩です。
ぶんぶんぶん、と首を振って雑念を払います。隣に立つミリューネ様の気配が少しばかり尖り、鋭利な視線が私の頬に突き刺さりました。そうです、私にはミリューネ様がいます。ああいえ、私の一方的な想いでは有りますが、けれどともかくもミリューネ様がいるんです。こんな仕組まれたみたいなギャップ萌えに引っ掛かっているようで――
「寂しかったんにゃよ? ヘクセはまた艶がよくにゃったね!」
「……ねぇ怜那、天井に面白い物でも有るのかしら?」
鼻血を警戒してとっさに顔を上げた私に、ミリューネ様の冷たい御声が掛かりました。と言いますかですね、先程木下先輩が『ここなら落ち着いて話せる』と言ったのアレ嘘ですよね! にゃあにゃあ言って全然落ち着きが無いじゃないですか!! ちなみに天井は白一色で面白味の欠片も有りません。ではなくて!
「あ、あの、木下先輩! 早くお話をしましょう!」
「えええええええ」
私の言葉に心底嫌そうにそう息を吐いた木下先輩は、黒猫にずりずりずり~、と先程よりもより執着して頬を擦った後、「や!」と子供のような声を上げて私のライフを削りにきました。黒猫まで同調するように「にゃ!」の声と共につい、と顔を逸らして、何だコイツらと毒突きたくなったのをどうにか心に納めて何とか懐柔しに掛かります。
「や、じゃないです! ヘクセちゃんも一緒で良いですから、お願いします!」
時折上を向きながら、鼻声でそう懇願し続けること数分。「もう、しょうがにゃい子にゃねー」との声と共に木下先輩が立ち上がり、黒猫を抱えたまま椅子の一つに腰掛けて、丸テーブルで再びいちゃいちゃを始めたのを確認できました。思わず拳を握ってしまいましたが、一先ず一歩前進です。
私とミリューネ様も先輩の反対側の椅子に腰掛け、ここに来て漸く、ミリューネ様に罪を告白する時間がやってきました。……これがメインだったのですが、他にも色んなことが有り過ぎて「そう言えば木下先輩にフォエラのこと喋ったな」程度の認識しか出来ませんが。
真剣な表情で木下先輩を見、背筋を伸ばしたミリューネ様は、そのまま木下先輩の言葉を待つように固まります。私も横で控えて……少しばかり縮こまって、ミリューネ様のお怒りが少しでも小さいことを祈りました。
しかし木下先輩はと言えば口を開く様子は全く無く、相も変わらず黒猫と愛を確かめ合うばかりです。
「…………」
ミリューネ様が木下先輩を非難する目で睨みつけると、先輩がすっかり緩んだ目付きで「罪は自分で告白したまえ、黒羽怜那」と口だけいつもの調子で言うものですから、ミリューネ様は一つの溜め息と共に体をこちらに向けてきました。
「だ、そうよ」
「……はい、ではお話させて頂きます」
どうしてでしょうね、木下先輩のお言葉は最もなのですが、何故か釈然としません。テーブルの向こう側でにゃんにゃんしている物ですから、とても悪事を白状する様な空気では無く、私は疲れた声でその日一日を振り返ったのでした。
***
「……じゃあ、この先輩以外にも、貴女と私の事を知ってる人がいる訳ね」
「う……はい、部長は聞いてるでしょうし、他に誰に聞かれてもおかしく無かったです」
「はぁ…………貴女には監視の目が必要なのかしらね」
疲れた様子でそう言い、それからお茶を飲むミリューネ様。テーブルに戻したティーカップの横には半分程になったフレンチトーストが置いてあり、パッと見朝食風景のそれは、ミリューネ様がバーテンダーに注文した品です。私の前にはジャーマンポテトが置いてあり、お腹の虫は騒がずとも匂いで音で攻撃された私の空腹ぶりを明かしてしまう様でした。カロリーを考えれば恐ろしい物が有りますが、けれどまぁ、一日くらい平気なので大丈夫です。きっと。そして木下先輩の前にはキャットフードが置いてあり、一粒ずつ取っては「ほらほら~」と黒猫に示したり、黒猫がいざ食べようとすると「ダメー!」と手を遠ざけたりと、何かもうイライラする様ないちゃつきぶりでした。
ミリューネ様の溜め息で小さくなった私でしたが、ミリューネ様はそんな私を見てもう一度息を吐き、「でも」と続けました。
「一応、フォエラに戻れる可能性を上げる為にやったことなのは分かったわ。後先考えないのを貴女に怒っていたんじゃ
「――ミリューネ様っ!!」
感極まってミリューネ様に抱き着きます。お叱りを受けるのではと思っていたのですが、そんなことは全く無く、「仕方が無いわね」といった様子で許して下さったミリューネ様。ああ、私は何と恵まれているのでしょう、こんなに素晴らしい方に仕えることが出来るのですから。
子供のようにしがみ付いて、「ミリューネ様ぁ~」と甘えた声でぎゅうっ……とします。木下先輩と黒猫――ヘクセとのいちゃつきを見て色々アレがああなってるんですね。そんな私の突然のハグを受けて、ミリューネ様が戸惑ったお声を出しました。
「ちょ、ちょっと、貴女の方が背が高いのだから、少しは考えて抱き着……ば、匂いを嗅ぐなッ!」
「ふべっ!?」
痛ぁっ!! 容赦の無い拳でした、ああああああううう……物凄く痛いです、ごめんなさい調子に乗ってました、でもでも、その、女の子の体って良い匂いがするのですよ! 抱き着いて匂いを嗅ぐのは良くやった手法ですね、勿論ある程度親密になった子にですけど。大抵私の方が背が高いので、真正面から抱き着いて首裏の匂いとか嗅いでました。それで『良い匂い……』とか囁いたり…………何でしょうこの変態臭、良い匂いの筈の記憶が嫌な臭いに置き換わってしまいました。
「あああ、貴女ねぇ!! 今日の事はともかく、その癖はどうにかしなさい!! だ、だだっ誰にでもそういう態度を取って、誑しが抜けてないじゃない!!」
「ぅうああああ……だ、誰にでもじゃないですよぉ…………ぅうううう……」
ミリューネ様の耳に痛いお言葉にほんの少しの訂正を入れさせて頂きながら、痛む脳天を堪えてすごすごと自分の椅子に戻ります。真っ赤な顔で自らの体を抱き抱えるミリューネ様は私を睨み付け、「嘘仰い!!」と声を上げました。
「実さんに抱かれたいって言って、オカルト研究会に行ったその日の内で親しくなった先輩にべらべら秘密を喋って!! 他にも鼻を伸ばした女の子がいるんじゃない!?」
「うっ……」
秋先輩もそうでしたし、実を言えば二限の化学教師にも少しばかり乙女心がくすぐられた覚えがあります。私が言葉に詰まれば、ミリューネ様の眉根が険しく寄りました。
「いるのね?」
「そ、それは…………はい」
小さな声で、先程よりも余程勇気がいる呟きを発します。
ミリューネ様は先程の羞恥の赤とは違い、怒りで紅潮した頬で口元を歪めました。
「ほらね、誰にでもそうじゃない。少しでも気に入ればデレデレして、色目を使って、べたべたして! 誑しはもうしないんじゃなかったのかしら!?」
「…………はい」
胸が酷く痛み、半ば掠れた返答をどうにか紡ぎます。私はミリューネ様を一番に考えてきたつもりでしたが、心惹かれる女性を見る度目の色を変えて尻尾を振って、節操無しにも程が有ります。ミリューネ様に傅いておいてあちこちに色目を送るようでは、不快に思われて当然です。
「治す気は有るのかしら? 例えあってもどうせすぐには治らないでしょうね、だから」
すっ、と息を吸ったミリューネ様は、冷たく、呼吸を落ち着かせて、拒絶の闇を瞳に宿しました。
「貴女が自分を許せるまで、私に好きだと言うのも、馴れ馴れしく触るのも、病的な献身も、全部止めなさい。貴女が自由な恋愛をするのは構わないわ、真剣な恋をするならそれでも良いでしょう、けどね」
私の瞳を真っ直ぐに見つめてきたミリューネ様は、はっきりと言い聞かせるように、硬いお言葉を紡ぎます。
「私は、誰彼構わず好きになる節操無しに、『一番好き』なんて言われたくないの」
ずきっ、と言葉が胸に刺さりました。ミリューネ様への想いが真剣でないとは決して思いません。けれど真剣な恋をしている最中に、他の誰かに鼻を伸ばし、情事を空に描いてにやつくものでしょうか。
節操無し。私自身の評価も、ミリューネ様の評価も同じです。
今までの自分を振り返れば、フォエラではミリューネ様一筋で他にくれる目など無かった私だったのに、ここへ来てからは『誑し』と呼ばれるに至るまで様々な女の子を手に掛けています。考えれば考える程自分の愚かさが身に滲みて、ミリューネ様の拒絶が頭の中で繰り返されました。
空気がどんどんと質量を増していくように感じられ、私は堪らず立ち上がっていました。ミリューネ様の冷たい視線に射抜かれ、私は胸を抉られながら、それ以上の痛みを避けようと目を逸らします。けれど、けれど。
ミリューネ様の拒絶は最もだと思います、自分の愚かさも実感しました。
けれどそれでも、私が愛しているのはミリューネ様です。
ゆっくりと目を戻し、ミリューネ様の眇められた眼に怯えながらも目を合わせました。震える声は始め空気を震わせることを拒絶しましたが、やがて、意を決して言葉を紡ぎます。
「……わ、私はっ…………今は、ミリューネ様に一番好きだと言えませんが! いつの日か絶対に、ミリューネ様にも認めて貰えるくらいにミリューネ様だけを愛します!! だ、だから……っ…………そ、その時を待ってて下さい!!!」
「っ…………」
見開かれたミリューネ様の目。私は言い終わるや否や、「失礼しました!」と頭を下げ、部屋を飛び出しました。ミリューネ様も今回は呼び止めず、木下先輩の「また明日」の言葉がのん気に後を追ってきます。
バーテンダーの前を駆け抜け、遅い時間で人も減った食堂街を走り、寮に飛び込んで。
階段を駆け上り、自室に着いてドアを乱暴に開け、後ろ手で閉めて、それから。
「ふっ………う、ぅ……………!」
それから、張り裂けそうな胸を押さえてドアに力無く背中を預け、
向けられるとは想像もしていなかった拒絶の目。
自分の愚かさと、考えていたよりもずっと不快な思いをミリューネ様にさせていたこと、そしてすぐには変われないだろう自分にどうしようもない苛立ちが沸き、そんな私のせいでお怒りになったミリューネ様に申し訳が立ちません。
紡がれた硬いお言葉。
胸の内側から何か大切な物がぽっかりと失われてしまった様で、そこに苦しさが居座り、呼吸する度に肺が震え、涙が溢れます。
どんなに強く体を縮込めても抑えられない痛みが遂に溢れだし、痛みのままに、苦しさのままに声を上げて泣きました。
静かな部屋に、一人きりの涙が滲み、咽びが響き。
けれど、この痛みをしっかりと受け入れなくてはなりません。
ほんの少しの間歯を食いしばり、私は無理矢理声を出しました。
「待っ……てて、下さっ……っくぅ……」
いつの日か、胸を張って「ミリューネ様だけを愛しています」と言えるようになります。
いつの日か、ミリューネ様に私の愛を優しく受け入れて貰えるようになります。
だから、どうか待っていてください。
「ミリューネ様……っ」
――――――
ごん、と鈍い音が響く。自分の額が木のテーブルにぶつかった音だ。
最低、最低。
「……彼女のそれは、移り気じゃなくて純粋な好意じゃないかな」
どこかのんびりした口調で呟く声が聞こえるので、顔を上げて声の主を睨んだ。
向こうはこちらを真っ直ぐに見据えていて、腕の中で撫でられている猫さえも私を静かに見据えている。
ぐっ、と言葉に詰まり、私は絞り出すように声を出した。
「分かってます」
木下先輩を睨むのも、ファレイナに怒鳴りつけたのも、どちらも筋違いなこと。私が勝手に怒って、自分の都合で攻撃しただけ。
ホントに。
「…………最低」
ごん、と再びテーブルに額を打ち付けた。
ファレイナの突然のじゃれ合いに気が高ぶって、それを誤魔化す為に怒鳴りつけて。言葉にした途端に、昨日芽を出した嫉妬がゆらりと鎌首をもたげ、ファレイナに咬み付いた。あの子が心酔するような私では到底無いのに、それでもあの子のことだからきっと、自分ばかりを悪く見て私を嫌うことは無いだろう。
本当に、何が「誰彼構わず好きになる節操無しに『一番』なんて言われたくない」だ。彼女の中で好きの度合いがあることは気付いている。中学三年間で体の触れ合いのハードルが下がったのも分かるし、だからこそ節操無しに見えることも有るという事も、良く分かってる。何より、私に拒絶されても、悲しみを堪えて「待ってて下さい」と言ってくれたあの子が、私をどれ程思ってくれているかなんて。
ただ単に、嫉妬が芽生えただけ。他の誰も思い描けないくらいに、私だけを見て欲しいだけ。
走り出す直前の泣き出しそうなファレイナの顔が頭に浮かんで、途端息が苦しくなって。
「しばらく離れていた後に再会すると、凄く嬉しくてね」
聞こえた何でもないような口調の言葉に顔を上げる。木下先輩は猫を撫でていて、その口元は緩んでいた。
「相手がまだ私を好きでいてくれると、凄くほっとするんだ」
ごろごろ、と機嫌良さ気に声を上げる黒猫の喉を掻いてやりながら、「でも」、と木下先輩は私の目を真っ直ぐに見てきた。
「こいつは凄く厄介でね、色んな奴にモテるもんだから、皆に同じ風に撫でられてるんじゃないか、誰にでも擦り寄るんじゃないかって考えて、わざと構ってやらなかったりもするんだ」
止まった手に猫は首を傾げて木下先輩を見上げ、先輩は再び猫へと視線を転じる。
「まぁでも、我慢出来なくて結局構ってやるんだけどね。要は私は、根拠の無い嫉妬をするくらいにこいつのことが大好きって訳さ」
再び動き始めた手にぐるるる、と一層気持ち良さそうな声を上げた猫。
「相手も大好きって事を知っていてくれれば、そんな嫉妬も可愛い物だけど、相手が片想いだと信じてるなら、それは拒絶だと思い込むだろうね」
そう言って口を閉じた木下先輩は、しばらく猫の耳裏を撫でてやったり、肉球をほぐしたりしてから、ようやく最後の言葉を紡ぐ。
「嫉妬をぶつける前に、愛を教えてあげなよ。素直に行かないなら、せめて態度で示してやるんだ。相手が想いに応えてくれれば、もうそんな小さなことで嫉妬すら抱かなくなるからさ」
「……ありがとうございます」
お礼を言われた木下先輩は「うん? 代金なら上級生だし無理矢理誘ったんだから、私が奢るに決まってるさ」と空とぼけたことを言った。けれど、私はファレイナが彼女を好きになった理由も十分に理解出来たし、私もまた、彼女に好意を抱いた。
情けないことに、きっと今すぐとは行かないだろう。怒鳴りつけてしまって顔を合わせ辛いことも勿論、そしてファレイナには他に本命の好きな人がいるのではという馬鹿げた怯えも、彼女の「待ってて」という言葉を待ちたい下らない欲も、私の足をしばらく引っ張るに違いない。
けれど、ファレイナが私に胸を張ってそう告げてくる前に、私が先に彼女に愛してると伝える。
何しろ、私は彼女の主なのだから。
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