卒業アルバム

あの日、ねえさんは何も言わずに、僕の前から姿を消してしまった。


ねえさんが、今だけ、と言った通り、朝が来たらまた、 元通りになってしまったんだ。


恋人でも友達でもない。


迎えに行きたくても、名前も歳も、住んでいる所も知らない。


たった一晩そばにいて、一度体を重ねたくらいでは、結局、何も変わらない。


ねえさんの事は、何も知らないまま。


競馬場で会うだけの、ただの顔見知りだ。


少しわかった事と言えば、ねえさんの両親が亡くなった事と、血の繋がりのない父親がひどい男だったというくらい。



だけど、こんな事を少し知ったからと言って、僕に何ができるだろう?




結局どうする事もできないまま、何事もなかったかのように1日が過ぎていく。


仕事中に余計な事を考える余裕もないほど忙しかったので、おかしなミスをしなくて済んだ。



金曜日の昼休み、僕は先輩と一緒にいつもの定食屋に足を運んだ。


ぼんやりしながら食事をする僕を、先輩は怪訝な顔で見ている。


「おまえ、今日の晩ヒマか?」


そう言えば、最近は定時に仕事を終われる日が少なくて、あまりジムに行っていない。


今日は定時で帰れそうだし、久しぶりにジムに行って汗を流そうかな。


「特に予定はないですよ。最近忙しくて行けなかったから、今日はジムに行こうかなって思ってるくらいです。」


「よう続くな。」


「せめて少しでも男らしくなりたいんで。」


僕が真顔でそう言ったのが、先輩にはおかしかったみたいだ。


声をあげて笑っている。


「生まれ持った物が違いすぎて、こういう気持ち、先輩にはわからないでしょうね。」


「はあ?何言うてんねん。俺は俺やし、おまえはおまえでええやんけ。みんながみんな、おんなじやったら気持ち悪いわ。」


確かに、見た目も中身も僕と同じの人がたくさんいるのを想像すると、吐き気がする。


だけど、例えば先輩と同じだったら?


そう考えて、僕は思わずため息をついた。


「……同じでもいいです、背の高いイケメンになれるなら。」


「アホか。おまえ、最近なんかおかしいぞ?」


「そうですか…。」


いつも通りのはずの毎日なのに、ねえさんが黙って姿を消したあの日から、僕の心はなんとも言いがたい不快感に覆われている。


そう、ちょうどねえさんが言っていた、胸に穴が空きそうで気持ち悪くて…そんな感じだ。


「で、ヒマだったら悪いですか?」


思わず無愛想にそう言うと、先輩は眉をしかめながらお茶を飲み込んだ。


「なんや感じ悪いな、悪いなんて言うてへんやろ。ヒマやったら久しぶりに一緒に飲みに行かんかなーと思ただけやんけ。」


「すみません、感じ悪くて。でも、合コンとかキャバクラとかならお断りします。」


おかずの最後の一口を食べ終わった僕は、箸を揃えて手をあわせた。


「アホか!俺かてそんなとこばっかり行ってへんちゅうねん!」


「そうなんですか?僕はてっきり、先輩はそう言う女の人のいる所でしか飲まないんだと思ってました。」


「ちゃうわ!おまえ、顔に似合わず毒吐くようになってきたな…。」


「すみません。根が正直なもんで。」


先輩はばつが悪そうな顔をして頭を掻いた。


「…まあええわ。たまには男同士、二人でゆっくり飲もうや。それやったらええやろ?」


「そうですね。それならお供します。」


「そうや、今日うち来いや。オトンからもろたうまい酒があるんや。」


仕事の後、先輩に連れられて、先輩が一人暮らしをしている部屋にお邪魔した。


確かに一人暮らしなんだろうけど、なんとなく女の人のいる匂いがする。


それも不特定多数と言った感じで、いろんな物が甘い香りを放っている。


「先輩、一人暮らしなんですよね?」


「そうや。なんかおかしいか?」


「いえ…。あちこちから、いろんな女の人の匂いがするなと思って。」


「おまえは犬か!どんだけ鼻が利くねん!!」


ああ、そうか。


確かに僕は、匂いには人一倍敏感だ。


だからねえさんに初めて会った日も、ねえさんの香りにドキドキしていた。


ねえさんが僕の部屋に泊まった日も、いつものねえさんの香りではなくて、僕と同じシャンプーの香りにドキドキしたけれど。


あれは香りにと言うか、ねえさんが僕の部屋で僕と同じシャンプーを使った事に対してドキドキしていたのかも知れない。


「まあ座れや。用意するわ。」


「手伝います。」


買ってきたつまみや総菜をテーブルに並べ、とりあえずよく冷えた缶ビールで乾杯した。


渇いた喉を、冷たいビールが炭酸の泡を弾かせながら流れ込んでいく。


勢いよくビールを煽る僕を、先輩は不思議そうに見ている。


「おまえ、なんか感じ変わったな。」


「そうですか?」


「ああ、なんて言うか…前はもっと女の子みたいにチビチビ飲んでたやろ。えらい飲めるようになったんやな。」


それはもしかしたら、いつも競馬帰りに、ねえさんとおじさんと一緒にビールを飲んでいるせいかも知れない。


以前はグラスに2杯も飲めば真っ赤になっていたのに、ねえさんと焼肉屋に行った時なんて、生ビールをジョッキで3杯も飲んだ。


あの日、ねえさんと一緒に飲んだビールは美味しかった。


「休みの日にね…飲むんですよ、ビール。」


「そうなんか。それで慣れたんやな。」


「多分…。」



一緒にいなくても、僕の頭の中は、ねえさんの事ばかりだ。


ねえさんは今、どこで何をしているだろう?


日曜日、ねえさんは競馬場に来るだろうか?


もしかしたら、もう会えないかも知れない。


あんなふうに僕の心と体に、確かにそこにいた痕だけを残して消えてしまうなんて。


もう会えなかったら、僕のこの気持ちはどうすればいいんだろう?



「なんや…最近なんかあったんか?」


先輩はさきいかを噛み締めながら僕に尋ねた。


「仕事の合間も、なんやボーッとしとるやろ?気になってたんや。」


驚いた。


先輩は僕の事、ちゃんと見てたんだ。


「僕、ボーッとしてますか?」


「なんちゅうか…どこ見とんねん!ってツッコミ入れたなるような感じや。目の焦点が合(お)うとらん。」


「そうですかねぇ…。」


ねえさんとの事を話したって、どうにかなるわけじゃない。


ただ、先輩の目から見てもわかるくらい、僕は落ち込んでいるってだけだ。



「なんや?女にフラれたんか?」


変に鋭いな、先輩は。


「フラれた…ってわけじゃないです。」


何がなんだか、僕にもさっぱりわからない。


あの夜、ねえさんがなぜ僕にあんな事を言ったのか。


なぜ、僕と一夜限りの関係を持ったのか。


「僕にもね、何がなんだか、さっぱりわからないんですよ。」


「なんのこっちゃ…。おまえがわからんのやったら、俺にもわからんわ。」


呆れたように先輩が呟いた。


「…ですよね。」


僕はやりきれない気持ちを、ビールと一緒に喉の奥に流し込んだ。



ねえさん本人に確かめなければ、ねえさんの気持ちはわからない。


だけどもし問い詰めたところで、うまくかわされてしまうのかもしれない。


確実に言えるのは、今だけ、と言ったと言う事は、ねえさんが僕と一緒にいる未来を求めてはいないと言う事だけだ。


僕の事なんか好きでもないのに、ねえさんはあの夜、今だけ、と言って僕を求めた。


それが無性に悲しくて、虚しい。


なんで僕はあの時、ねえさんを欲しいと思う気持ちを抑えきれなかったんだろう。


体だけ重ねたって、心がそこにないと虚しいだけだと、後になって気付いた。


僕だけがどれだけ想っても、どんなに優しく抱きしめても、ねえさんの心は僕のものにはならないのに。




それから僕と先輩は、先輩が父親からもらったと言う、なかなか手に入らないと有名な日本酒を飲みながら、他愛ない話をした。


先輩は彼女はいないと言うけれど、話を聞いていると、それは特定の彼女がいないと言うだけで、かなりの頻度でいろんな女の人がこの部屋を訪れているようだ。


やっぱりモテる男は違う。


僕なんかこの歳になって、この間ようやく初めて……いや、考えるのはやめておこう。


また虚しくなりそうだ。


「先輩はいいですね。女の子にフラれた事なんてないでしょう?」


「アホか、腐るほどあるっちゅうねん!」


「ホントですか?」


「おう、相手から付き合おうて言われて付き合っても、なんかわからんけど絶対最後は俺がフラれるねん。なんでやろ?」


「さぁ…。」


なんだ、フラれるって意味が違うじゃないか。


「先輩って昔からそんなにモテたんですか?」


「まぁ、確かに子供の頃からモテたな。バレンタインとか、チョコばっかりアホほどもろて、しばらくチョコ見るのもイヤやて、小学生の頃から毎年言うてたもんなあ。」


やっぱりイケメンは子供の頃からイケメンだ。


僕なんかバレンタインにチョコをもらったのなんて、母親と祖母と、近所のおばちゃんくらいだ。


やっぱり、モテる先輩が羨ましい。


「なんで世の中、こんなに不公平なんですかねぇ…。」


「ん?なんや?」


「だってね…先輩はイケメンだから、特定の彼女を作る気はないのに、いくらでも女の人が群がって来るじゃないですか。だけど僕なんかね…本気でめちゃくちゃ好きな人でさえ、僕を本気で好きになってはくれないんですよ。」


自分で言っておきながら無性に虚しくなって、僕はグラスに残っていた日本酒をグイッと一気に飲み干した。


「なんや、おまえ…。片想いか?」


「そうですよ!悪いですか!」


僕はかなり酔っているんだろう。


頭の中ではどこか冷静なのに、言葉とか態度が自分でコントロールできない。


先輩も少し驚いているみたいだ。


「たち悪いな、絡み酒かい!」


「すみませんね、どうしようもない後輩で。」


「しゃあないのう…。可愛い後輩やからな、今日だけは多目に見たるわ。」


先輩は僕の頭をグシャグシャと撫でた。


「先輩は男にも優しいんですねぇ。そりゃモテるよ…。この際だから、先輩と付き合おうかな…。」


「それだけは勘弁してくれ…。なんぼおまえが可愛くても、俺は男には興味ないぞ。」


「冗談ですよ…。僕だって男には興味ないですからね…。」


グラグラと不安定に揺れる視界の片隅に、本棚を見つけた。


なぜだかやけに気にかかる。


前にもこんな事、あったかな?


僕はフラフラと四つん這いになって、その本棚の前に移動した。


「どないした?なんか気になる本でもあるんか?」


「ええーっと…いや…なんとなく…。」


その本棚の片隅に、どこかで見たような茶色い背表紙のアルバムを見つけた。


それを勝手に手に取ってみる。


「なんや、それか?中学の卒業アルバムや。」


「卒業アルバム…?」


表紙をめくると、先輩が通っていたであろう中学校の校舎や、教師たちの集合写真。


もう一枚めくると、今度は3年生のクラス写真がそこにあった。


「懐かしいなあ。もう何年になるやろ?」


「先輩は何組だったんですか?」


「3年の時は…確か3組やったな。」


「3組…。先輩の中学時代って、どんな感じでした?」


もう一枚ページをめくる。


3年3組、先輩のクラスだ。


「俺の中学時代なぁ…。3年の時はかなりまともやったな。」


「3年の時はまとも?じゃあ2年までは?」


「ヤンチャしとったからなあ。頭は金髪でな、制服も改造やったわな。」


「いわゆるそれは、ヤンキーと言うやつですか?」


「まあ、そんなとこやな。」


集合写真の端の方に、斜に構えた少年の姿を見つけた。


間違いない、これ、先輩だ。


「3年になって、急に変わったんですか?」


「いやー…3年の時の担任がめっちゃええやつでな。最初はうるさいと思てたんやけど、だんだん言う事聞かなあかんような気がしてきて。気が付いたらまともに学校通って授業受けてたわ。勉強でわからんとこあったら、わかるまで根気よく付き合ってくれたし、そのおかげで私学やけどなんとか高校に入れた。」


「へぇ…ものすごくいい先生ですね。」


集合写真の前列真ん中に、担任教師の姿を見つけた。


歳の頃は30歳前後といったところか。


こざっぱりした風貌の、どこにでもいそうな感じの先生だ。


一緒に並んでいる生徒たちと比べてみると、背はまあまあ高い方。


めちゃくちゃ美形とまではいかないけれど、割と整った端正な顔立ちをしている。


「ん…?あれ…?」


誰かに似ているような?


よく似た先生でもいたかな?


「どないした?」


「いえ…。担任の先生が、誰かに似ているような気がして。」


「担任な…。結構男前やろ?」


「そうですね。」


先輩がそんなふうに言うところを見ると、先生を教師としてだけではなく、大人の男としても尊敬する存在だったのだろう。


「先輩の学校は男子の制服、学ランだったんですね。カッコいいなあ…。僕の学校はブレザーだったんで、憧れてたんですよね。」


先輩のクラスメイトたちを順番に見ていく。


僕みたいな小柄な生徒もいたようだ。


「ん…?」


女子の生徒の中に、やたらと大人びた美人を見つけた。


とても中学生とは思えない色気が漂っている。


「今度はなんや?」


僕はまじまじと、その女子生徒の顔を見た。


つまらなさそうな、憂いを帯びた表情。


少し茶色い長い髪と、涼しげな切れ長の目に、スタイルの良いスラリとした体。


「あー、こいつか。」


先輩は横からアルバムを覗き込んだ。


「こいつ、俺のヤンチャしてた時の仲間でな。小学校の時から一緒に遊んでたやつや。大人っぽくて美人やろ?」


「…ですね。」


「ケンカもめちゃめちゃ強うてな。そやけど優しくて面倒見はええねん。そんなんやから、みんなからねえさんって呼ばれとった。」


「…ねえさん…?」


やっぱりそうだ。


間違いない。


先輩、ねえさんと友達だったのか!!


「ん?なんや、気になるんか?」


「先輩は…その、ねえさんとは仲が良かったんですよね?」


「ああ、付き合い長かったからな。」


「どんな人でした?」


見ず知らずのはずのねえさんに興味を持った僕を、不思議に思ったのだろう。


先輩は少し首をかしげた後、ゆっくりと話し出した。


「こいつな…可哀想なやつやねん。」




その夜、僕は先輩の部屋に泊めてもらった。


先輩は布団に入って間もなく、軽い寝息をたて始めた。


僕は用意してもらった布団に横になり、眠れなくて寝返りを打つ。



“こいつな…可哀想なやつやねん。”



先輩がしてくれた“ねえさん”の話は、僕に大きなショックを与えた。



先輩の話によると、中学時代のねえさんは、向かうところ敵無しのヤンキーだったらしい。


先輩や他のヤンキー仲間とつるんでは、他校の不良たちとしょっちゅうケンカをしていたそうだ。


中学3年の時、例の先生が担任になり、熱心に声を掛けてくる先生に心を動かされ、先輩もねえさんも変わったんだそうだ。


それまでは学校に行ってもまともに授業を受けていなかったのに、服装や髪型の乱れを正し、真面目に授業を受けるようになったらしい。


担任の先生のおかげで、先輩は将来の事を考えるようになり、高校を受験した。


ねえさんは家庭の事情で進学を希望しなかったけれど、中学校からの推薦で就職できるよう、授業で習う以外の社会の動きなども真面目に勉強した甲斐あって、手堅い地元の中小企業に就職できたそうだ。


だけど無事に中学を卒業して間もなく、担任の先生とねえさんは、駆け落ち同然で姿を消したらしい。


「こいつな、小5の時、急にオカンが病気で死んでから、オトンに虐待されとったんや。オトンはオカンの再婚相手で、酒飲みで働きもせんとギャンブルに狂って、借金ばっかり作ってな…。」



先輩から聞いた話は、僕がねえさんから聞いた父親の話と同じだった。


でも、違ったのはその後だった。


「こいつ、中学出て就職先で真面目に働き始めたんやけど、このオトンがまた莫大な借金こさえて来よってな。アホやから、ヤクザがやってるヤミ金に手ぇ出したんや。そんで、借金の肩代わりさせられそうになって…。」


そのヤクザな借金取りは、稼ぎのない父親よりも若くて美人な娘に稼がせようと、ねえさんを風俗に連れて行こうとしたらしい。


もちろんまだ中学を卒業したばかりだから、裏で提携している風俗店で、年齢をごまかして働かせようとしていたようだ。


その隙をついて逃げ出したねえさんは、藁にもすがる思いで、中学3年の時の担任の先生の元へ逃げ込んだ。


ハッキリとした約束はしていなかったけれど、ねえさんと担任の先生は、在学中からお互いに想いを寄せ合っていて、人知れず秘かに交際をしていたそうだ。


そしてある日、先生はねえさんを連れて、二人を知る人のいない遠い場所へ逃げた。


父親と借金取りに来たヤクザたちが、必死になって近辺を探していたと先輩は言っていた。


父親からの暴力や借金の事、先生と付き合っている事など、ねえさんから相談を受けていた先輩は、誰に何を聞かれても知らないとシラを切り、とにかく二人が無事に逃げ延びてくれる事を願っていたそうだ。


だけどそんな願いも虚しく、数ヶ月後、二人は連れ戻された。


事故に遇い、二人とも大怪我を負っていたそうだ。


その事故はきっと、二人を連れ戻すためにヤクザが仕組んだものだろうと先輩は言っていた。


当然の如く二人は引き離され、先生は教師と言う職も、社会的な信用も失った。


ねえさんは頭を強く打ってしばらく意識が戻らず、一時は命も危ぶまれたらしい。


やっと意識を取り戻し、怪我もすっかり回復したねえさんは、なんとか無事に退院した。


その時の入院費などは、亡くなった母親の妹が面倒を見てくれたそうだ。


ねえさんが退院してしばらく経った頃、先輩は心配になってねえさんに会いに行ったらしい。


「でもな…あいつ、事故で頭打ったせいか知らんけど、いろんな事忘れてたんや。」


いわゆる、記憶喪失と言うやつだ。


それも、すべてを忘れるのではなく、部分的に記憶を失っていたらしい。


「俺の事は覚えてたんやけど、なんで事故に遭ったんかとか、事故の前はどこで誰と何してたとか、なんにも覚えてへんねん。って言うか…先生の事だけ、全部忘れてしまってたんや。」


何かで聞いた事がある。


部分的な記憶喪失と言うのは、精神的に強いショックを受けた時に起こりやすいと。


自分の名前や過去の記憶があるのに、あるひとつの事についての記憶だけが、すっぽりと穴が空いたように抜け落ちてしまう。


頭を強く打ったのなら、記憶のすべてを失っていてもおかしくはなかったのに、何がきっかけでそうなったのかはわからない。


ひとつだけわかるのは、ねえさんを守るためにすべてを捨てて一緒に逃げたはずの先生を、ねえさんが忘れてしまったと言う事だけ。


悲し過ぎる恋の結末。


ねえさんが言っていた、何かを忘れている気がする、と言う言葉が、やけに鮮明に思い出された。


二人の話をした後に、先輩はボソリと呟いた。


「そう言えば…なんとなくやけど、先生に似てるわ、おまえ。」


僕は薄暗い部屋の中で、嗚咽を噛み殺して、ただ涙を流していた。


きっとねえさんは、無意識のうちに、僕に先生の面影を求めていたんだ。


僕自身を好きになってくれたわけじゃない。


忘れ去ってしまった記憶の片隅で、かつて愛した先生の面影を、ねえさんは今も求めている。


夢に見ても思い出せない、壊れてしまった恋の亡骸を胸に抱いて。




先輩の家に泊まった翌日、僕はまぶたを腫らして自宅に戻った。


思いがけずねえさんの過去を知ってしまった。


僕にはどうする事もできない、重い過去だ。


ねえさん自身が思い出す事のできない過去を、僕の口から話す事はできない。


幼馴染みの先輩でさえ、ねえさんには何も話せなかったと言っていた。


それはきっと、ねえさんにとって、思い出すにはつらすぎる記憶だから。


失ってしまった大切な人の記憶は、ねえさんを今も苦しめている。


父親が死んでから、覚えていない夢に苛まれて泣いていると、ねえさんは言っていた。


ねえさんを苦しめた父親がこの世を去った事がきっかけで、ねえさんの中の遠い記憶が動き出したのかも知れない。





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