s/第3話/002/g;

「谷中くーん」


 しなだれかかる水面の息が熱い。

 この時期は、日がすっかり落ちてしまっても、そんなに冷え込むことはない。かといって、酔っ払った女の子を放り出していけるはずもなかった。


「谷中くーん、なんだよー、しけた顔しちゃってー」


 預けられた体重は軽い。そもそも、頭一つ分とまではいかないが、水面の方が谷中よりずいぶんと小柄だ。だから、余裕で支えられるはずだった。


 だが、それが、温かく柔らかで良い匂いがするとなると話は別になる。

 煙草本来の匂いは不快だと思っていたが、バニラのフレーバーに、水面の使っている整髪料なのか、微かな花のような香り。アルコールで火照った身体から、ごく僅かに立ち上る汗の匂いも混じっているのだろう、鼻を通して脳に直接作用するようだった。


 それだけでも純情回路リミッターがやばいというのに、身体をすり寄せてくる。


「やー、でも、谷中くんはいーね」

「な、何が?」


 唐突に言われて、慌てて返事をする。


「ボクはねー、駄目なんだよね、がつがつした男の子って」


 見透かされたのかと、どぎまぎする谷中に、水面は言葉を継いだ。


「キミがそういうタイプじゃなくて本当によかったよ。……楽しかったなあ」

「えっと」


 何のことだ、と言おうとして気づいた。


 ——だいたい俺、その手のことに、あまり興味ないんで。


 まさか。信じた?


「友達になろーね」

「あ……ああ」


 頷き、硬い表情を浮かべて歩く。

 入り組んだ道は細く、車は通っていない。地下へ誘ういかがわしげな看板は、壊れかけている。そこを、水面と肩を並べて歩きながら、谷中は高校の頃を思い出した。

 受験に成功したのだから、後悔する必要はないのだろうが、あまり楽しい記憶はない。修学旅行も学園祭も体育祭も、何もかも全てが平凡で、ただ漫然と高校生活を送っていたように思う。女子と付き合ったこともなかった。

 谷中の思うところによれば、それは自分の性格が原因だった。

 いざ、というときに一歩退いてしまうような。


「水面の家も、大学の近くにあるんだ?」

「んぅ。下宿してるからねー」


 酔っている水面は、答えの前に変な声を上げた。


「キミは、どの辺?」

「俺も近くに部屋借りてるよ。大学挟んで反対側だけど」


 足取りのおぼつかない水面がふらついたので、手を貸した。

「そうかー……谷中くんも一人暮らしかぁ。寂しくなったりしない?」

「いや、別に……」


 今度は格好付けではなくて本心だ。まだ引っ越してきて間がないこともあって、初めての一人暮らしを楽しんでいるところだった。

 そのことを話すと、水面は少し寂しそうに笑った。


「それはいーね。ボクはもうずっと一人だからなー」

「ずっと? 高校のときも?」


 どこか遠い私立にでも通っていたのだろうか、と思って聞いた谷中は、続く水面の言葉に目を丸くした。


「ボクは天涯孤独みたいなものなんだ」

「みたいな?」

「そーだよ。詳細はまだヒミツ」


 水面はくすくすと笑いながら、谷中から離れた。歩いてきた道を逸れ、街灯の直下の、もっとも明るいところまで歩いて、振り返る。

 すっと背中を伸ばして、胸の前で軽く手を浮かせた姿勢になると、右のつま先だけでくるくるとその場で二回転した。旋回している間、足の先から頭のてっぺんまで、細い芯を通しているかのように身体がぶれない。


「うぅ」


 ところが、静止した直後、水面はふらりと大きく揺れる。


「視界が回る~」


 言いながら、街灯のポールに手をついて身体を支えた。

 見ていた谷中が近づく。


「なんだそりゃ」

「ピルエットの二回転だよー」


 まだ目が回っているのか、左手で頭を支えるようにしてから、ポールから右手を離す。


「酔っ払いが目を回すと吐くぞ」

「ボクは酔っ払ってなんかないもんねー」


 説得力のない台詞だった。


「はいはい、そろそろ行くぞ」

「んー、この辺でいーよ。もう近いからね」


 ようやく敬語抜きが板についてきた谷中だったが、こういう風に断られてしまうと自分の意志を押し通せるまでには至っていない。水面の大きな瞳に見つめられて、不承不承頷いた。


「そうか……大丈夫なのか?」

「大丈夫だいじょーぶ」


 あまり安心できる答えではなかった。


「また遊びにいこーね」

「ああ……そうだな」


 いつの間にか、そういうことになっているらしい。

 谷中が苦笑すると、水面は変な顔をした。


 しばらくお互いの顔を見ていたが、水面は手をあげると、谷中にくるりと背を向け、歩き始めた。立ち去る水面の姿が、角を曲がって消えるまで見送りながら、なぜ自分はここまで彼女を心配しているのだろう、とぼんやりと考えていた。


 振り向き、自分の部屋に向かって歩き始めてからも、その想いは付いて回る。

 そして、点滅を始めていた青の信号灯で止まったとき。


 ——どうやら、彼女に少し惹かれているみたいだ、と谷中は結論した。

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