ギークガールは居酒屋で推理する

折口詠人(おりぐちえいと)

序章 出会い(The girl meets a boy.)

s/第1話/000/g;

 山下谷中やましたやなかが、芝生の上に倒れているスーツ姿を見つけても、歩みを止めなかったのは、彼が薄情だからではない。


 理由は二つ。


 一つは、単純に急いでいたから。


 突然かかってきた電話で、さも軽い調子で頼まれたといっても、友人のために代返の一つや二つやってみせられなければ、大学生がすたるというものだ。


 そしてもう一つは、ありがちな光景だったから。


 厳しい就職戦線と並行して、取得不足気味な単位を獲得するために講義へ出席する。一年目の谷中にはまだ関係ないことだが、よくあることらしい。


 され——つまりは、キミは我が社には不要です、と真綿にくるんだお断りをされ——自分を否定された気持ちを抱えつつも眠気に耐えて講義へ出席、徐々に卒業には近づいているが……就職先が決まらないのに、果たして自分に未来はあるのだろうか。


 そんな想いに打ちひしがれるのか、大学のキャンパスで寝込んでいるリクルートスーツの先輩達は、これまでにも山ほど見てきた。

 谷中からすれば、静かでエアコンも稼働している図書館や学食ではなく、芝生の上なのが少し珍しい、という程度でしかない。


 だが。


「く、苦しー……」


 そんな風に、呻かれてしまったら。


「……大丈夫ですか?」


 一度は通り過ぎかけたとしても、引き返して声を掛けざるを得ないだろう。

 他の誰かならいざ知らず、谷中はそういう男だった。


 谷中は、近づきながら、緑の芝生の上に寝っ転がっている人物を観察する。

 上下は濃紺……いや、黒のスーツ。ネクタイは外していて、白い喉元が覗いている。

 胸の上には、銀色のノートパソコンを右手で大事そうに抱えていた。


 一方で、左の掌が両目の上にかぶせられている。眩しい日光を遮っているようだ。両の手ともに、白い手袋をしているのが少し奇妙だ。手が荒れやすい体質なのかも知れない。


「あー……体調でも悪いんですか」


 少し気後れして、立って見下ろしたまま呼びかける。

 すると。

 むくり、と。

 前置きなしに、スーツ姿が上体を起こした。ふわりと揺れた髪にくっついていたのか、抜けた芝が数本、風に舞う。


 ……まるでホストか何かみたいに、長い髪だなあ。


 と、思ったところで。

 谷中は、自分が一つ考え違いをしていたことに気がついた。


「ん? キミはだーれ?」


 高く通った声。

 頬まで届く髪。

 何よりも、その容姿。


「……えっと……」


 続く言葉が口から出てこなくて、黙り込む。

 問いかけの声を発したまま、首を傾げているの前で、谷中は沈黙することしかできなかった。そう――まだ谷中が、その名も知らぬ人物、水南水面みずみなみみなもは、極上の女の子だった。


 長い睫毛がぱちぱち。

 黒い髪が風に揺れてさらさら。

 白い肌が五月の陽光を弾いてつるつる。

 柔らかい——きっとそうに違いない——桜色のくちびるが、ゆっくりと形を変えていく。


「だから、キミは誰なの、ってボクは聞いてるんだよ?」


 大きな瞳に見つめられて、谷中はようやく我に返った。


「あ、俺、俺は山下谷中、って言うん、だけど……」


 だが、答えを返す谷中を無視して、水面はかき抱いていたノートパソコンを開く。手慣れているのだろう、手がきびきびと動く。


「ふうん。で、何?」


 水面は視線をパソコンから離さない。

 そんな彼女に、喉に絡まる声を苦労して押し出す。 


「あ、いや……大丈夫なのかと思って……」


 水面は顔の位置を変えず、目の動きだけで谷中を見る。


「変わった人だね、キミは」

「そうかな?」


 水面の指摘に、谷中は首を傾げる。そのような自覚はなかった。


「お人好しともいうかなー」


 言われて、ふと思い出して携帯電話の時刻表示を見るが、完全に講義が始まってしまっている時間だった。


 今さら急いでも間に合うわけがない。


「しまったなぁ……今度、飯でもおごってやるとするか」

「どーしたの?」

「代返を頼まれてたんだよ」

「ああ、出席確認で人の代わりに返事するやつねー。いけないなあ」


 言葉とは裏腹に、とがめる表情ではなかった。

 ふんふん、と鼻歌交じりにパソコンを操作している。


「持ちつ持たれつだろ、こういうのって」

「なら、ご飯おごってあげたりしなくても、別にいーと思うけど」


 確かに一理ある、と谷中は思った。


「けれど、これで確定だね?」

「は?」

「キミは間違いなく、お人好しだよ」


 断定口調と流し目が谷中に向けられた。


「——そんなキミに、ボクがお礼としてご飯おごってあげるよ」

「は?」


 続く言葉に、谷中は目を白黒させた。


「ボクを心配してくれたことへのお返しだよ。キミが友達にご飯をおごってあげる分、ボクがキミにご飯をおごってあげるってわけ。どぅ、ゆぅ、あんだすたんりかいしましたか?」


 二人の間を暖かな風が流れていく。

 しばらくして、谷中は頷いた。頷きを見た水面が、にんまりと笑う。

 これが、この後に起きる事件を解決する二人組、谷中と水面の出会いだった――。

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