第85話 天文23年夏 3
「御所様」
織田加賀守信長は、精力の有り余っているような若者だったはずなのだが、すっかり憔悴しきっている。
「わし1人では到底、今の二条軍は支えきれませぬ」
「あ」
良之は言われて、信長にのしかかった仕事量について思いが至った。
「加賀殿。申し訳ありませんでした」
飛騨、越中、能登、加賀の他、南越後、東越中、信濃、甲斐が増えている。
従来の倍以上の所領が増え、さらに従来の5万近い兵に加え、新領地での雇用兵は6万人の規模になっていると聞く。
そうした兵の訓練、M-16や81ミリ迫撃砲兵団の訓練、警察組織への人員配備に加え、各領地での道普請、橋普請、治水、整地、干拓事業、寄生虫対策などなど。
すでに信長は可能な限り大物、小者を地元の尾張からリクルートしてなんとかトップダウン式に業務を割り振っているものの、到底こなしきれない状況に陥っている。
「加賀殿。武田大膳大夫殿を甲斐、長尾不識庵殿を越後、木曽中務大輔殿を信濃の担当にして、加賀殿には加賀と能登に集中できるように致しましょう」
「軍団制ですな?」
「そうです。越中も隠岐大蔵殿に権限移譲しましょう。飛騨も江馬飛騨守に」
「……それは助かります」
「大変でしょうが、ひとつきほど今挙げた首長たちをあなたの許に派遣させますので、最低限必要な知識を伝授して下さい」
再び信長は青くなった。
仕事が増えているではないか。
「土木工事についてはあなたの手から離して、佐々や生駒たちに専任させて下さい。それでだいぶあなたも楽になるでしょう。今の日の本に、彼らにものを教えられるような人材はあなた以外にあり得ません」
「……畏まりました」
「あなたの補佐に、能登法橋殿もお付けします」
斉藤能登法橋道三は今まで以上に信長を溺愛しているらしい。老獪な彼が居れば、長尾や武田と言った人格的に癖のある人物たちが相手でも、なんとか上手くこなしてくれるだろう。
早速全人材に書簡を飛ばし、富山御所へと参集させた。
ちなみに、信濃国司を命じた小笠原信濃守は、名誉職として一旦受けた後、再び隠居して二条家の礼式教授に戻った。
あくまで自身は敗軍の将だと身を律したのである。
代わって、良之は木曽中務義康を信濃守に任じた。
木曽家は信濃では比較的評判のよい一族であり、武田や江馬、美濃の遠山などともわだかまりがない事を買ってのことだった。
繰り返しになるが、越後、信濃、甲斐における職業軍人の雇用は6万人を超えている。
軍紀教育、戦闘訓練、銃歩兵、迫撃砲兵の選抜、そして治水や治安維持、道路敷設といった土木実務への投入は全くうまくいっていない。
まずは国主クラスの武田晴信、長尾不識庵などを教育し、徐々にかれらの血縁や臣下の教育を行った上で、領国単位の軍団制に移行させねば、信長が過労死しそうである。
そんな中。
東美濃の遠山、そして西美濃の斉藤治部大輔義龍が富山御所にやってきた。
目的は言うまでも無い。
美濃全土も、甲斐や越後と同じく、二条家に臣従を望んだのである。
斉藤義龍に同道した遠山七家の代表は遠山左衛門尉景前。岩村城主である。
「認めましょう」
良之は即座に応じた。
すでに半年以上も水面下で折衝をしてきた事でもあり、その後の美濃の統治などについては話が早くまとまっている。
斉藤義龍を美濃国司、遠山を国司代。つまり美濃守と美濃介に任じる。
そして、またしても織田加賀守信長の仕事が増えていくのである。
天文通宝の生産量を増加させ、日産24万枚に到達しているものの、現状全く通貨が足りない状況になっている。
良之はついに、金貨と銀貨の生産に乗り出すことにした。
金貨は1枚一両。37.5グラムである。
銀貨は1枚一匁、3.75グラム。50匁で一両とする。
また、この時点で良之は度量衡のうち、升の公定化を決定した。
升というのは、各地方で全く大きさが異なっている。
すでに二条領では税は物納から通貨換算によって行われている。加えて分銅が完全に共通規格化されていることもあって、升の統一に不満が起きたり、まして一揆が起きるというような状況は存在しなかった。
また、二条領にものを売りたいと思えば二条に合わせた度量衡を採用せざるを得ないため、周辺諸国の商人はこぞって二条家の度量衡を導入することになる。
二条升は瞬く間に普及をした。
良之は、自身の記憶通り、一合を180cc、一升を1.8リットルと規定した。
銅銭の生産ラインの運営が順調に推移した効果もあり、造幣所に新設した金貨・銀貨の生産ラインは安定した生産が開始された。
どちらも最大生産量は一分あたり500枚。
銅銭のプレス工場と同一技術を用いているため、能力も同じになる。
銅銭20枚で銀貨1枚のレートとなるため、銀貨の投入は、二条領の拡大と人件費圧力にてきめんな効果を発揮した。
金貨、銀貨共に二条の信用を背景にしているため、あっという間に日本全土に受け入れられた。
通貨の流通量が増大し、その通貨で買える商品の開発を徹底して行っていることで世の中の雰囲気が明らかに変わっていることも良之は気づいている。
良之が頭を抱えるほど悩んでいるのは、まずこの時代の人口の少なさであり、次いで生産性の非効率だった。
かなり多額の対価を支払っているにもかかわらず、九州の大友家からの石炭は全く増加していない。
石炭の安定供給が得られないために高炉建設は頓挫している。
二条領においても、専業兵士化によって農作物の生産量は低下を起こしている。
この時代には1200万人ほどしか日本全土に生活していない。
つまり、農業生産高を上げようと思えば、大規模農場化を推し進める以外になく、そのためには農業の自動化が必要になるだろう。
二条領になって、子供の間引きや年寄りの放棄などといった人命軽視の動きは影を潜めている。
それはとりもなおさず、食わしていけているからである。
だが、食料品を明やインドからの輸入に頼ることには潜在的なリスクもある。
現在はまだ手を付けられないが、数年内には、トラクターや耕耘機、田植機、コンバインといった農業機具を開発し、あわせてトラックやダンプ、それに鉄道といったロジスティックスを確立せねばならないだろう。
越後、信濃、甲斐などから大工を多数越中の造船所に回したことで、以前命じていたカティサーク号の設計図による技術検証モデルが完成したのは、天文23年8月下旬のことだった。
良之は早速、この船のためにディーゼルエンジンを錬金術で錬成し、スクリューによるディーゼル動力船として進水させた。
操船技術習得は九鬼衆にまず任せ、空いたドライドッグでは、さらに大型の船を建造させることにした。
この際、竜骨には大胆に鉄製の部品を増やさせ、さらに次回は船の全周を鉄板で張らせることとした。
今回竣工したカティサークもどきの船は、船名を越中号とした。
越中号には木造ながらしっかりしたセンターマストのクレーンがあり、荷の積み卸しの効率は、従来の和船の比ではない。
良之は、とにかく九鬼衆にこの船を用いて彼らの地元までの訓練航海を行わせ、技術的課題などを全て洗い出してもらうように依頼した。
試作2号船は、センターマスト部の竜骨を全て鉄張りに補強、マストも一本木では無く組木に鉄輪を用いた強靱な材質で作らせ、クレーンは鋼鉄製にさせた。
やっと竣工したばかりのドライドッグも、大幅に改造を加える。
大地には巨大なローラーを配し、船を引き上げるためのウインチはディーゼルエンジンで作成した。
船大工たちは、十日ほどの休息の後、またフル稼働の日々がはじまった。
「発電が安定すれば、いずれ総鉄製の船が作れるようになると思います。木造の巨大船は大変でしょうが、必ずこうした技術は将来につながります。頑張って下さい」
良之は船大工たちを励ました。
各所の発電プラントの設計や施工に飛び回る丹治善次郎の配下で、富山でアーク溶接を研修させていた鈴木徳之進が良之に成果を見せにやってきた。
「徳之進、よくやった」
良之と善次郎によるDC200V電源を使っての直流アーク溶接機だ。
「早速、実演を致します」
徳之進は造船所で、越後で建造され回送されたタンカーの油槽の溶接によって検証を続けていた。
アーク溶接は、これまで実用化してきたアーク放電による溶鉱炉などと全く同じ原理で発明された。
電気の放電による高熱で金属同士を溶解させ、接合する。
アーク溶接の溶接棒自体も高熱で解けるが、アーク溶接の利点は、溶接させる母材の方も高熱で解けることによって溶接点の分子構造が強固に結びつく点に尽きる。
はんだなどを使用したロウ付けとは、本質的に違うのである。
単なる溶接棒による溶接だと、溶接点で熔解した母材や溶接棒が水素や酸素によって脆くなってしまう。
また、溶解自体も酸素によって不安定になり、母材にピンホールという穴が空いてしまう。
徳之進に命じた技術的課題は、ここにあった。
アーク棒は、微粉末による被膜を形成して高熱で一緒に熔解するフラックスによって、溶接点の母材と溶接棒の素材の溶着を、大気中の酸素や水素から保護せねばならない。
被覆材と呼ぶこのフラックスには、いくつかの素材的要件がある。
アーク放電を安定化させる性質を持つ安定剤。溶接棒が熔解して出来るビードを保護するスラグ材。溶接点を大気から保護するガス発生剤、そして母材を酸化から守るために代わりに参加する素材を使った脱酸素剤。
そのほか、溶接点で母材に混ざることで強靱な合金を形成する合金剤などが必要になる。
アーク安定剤には長石やケイ酸カリや酸化チタン。
スラグ剤には石灰石や酸化鉄。
ガス発生剤には石灰石やセルロース。
酸化剤にはフェロマンガンやフェロシリコン。
そして、合金剤にはフェロクロム、フェロマンガンなど。
これらは良之が工学辞典からピックアップして研究を続ける彼らに提供して実地に訓練させていた。
フラックスを被覆させた溶接棒は、使用直前まで80度から100度のストッカーに納めて酸素や水素から保護しておく。
「……いかがでしょうか御所様。ご指摘通り、被覆棒と保温庫を作りました」
「うん、じゃあ早速やってみて?」
徳之進は早速、溶接の職人たちに指示をしてアーク溶接を開始させた。
「うん、お見事。溶接工はつらいし危険な仕事だけど、頑張って職人を育てて下さい」
良之は、想像以上の徳之進の成果に目を見張った。
アーク溶接が実現したこと。それは、二条領のさらなる技術的進化を底上げすることになる。
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