第82話 天文23年春 5
甲斐に入った良之は、早速武田家の家臣を使って腹っぱりの調査を開始させた。
過去に腹っぱりで死亡した農民がいる地域を全て報告させ、その地域の全農民に人糞の肥料使用禁止、水田農法の禁止、そしてブラジカンテル投与をはじめた。
また、甲斐全土での健康診断を開始し、感染病患者の湯村への隔離、腹っぱりの症状のある患者の治療なども行った。
腹っぱり、つまり腹水が溜まる原因は、肝硬変である。
日本住血吸虫症の場合、肝硬変の原因は肝組織内への虫卵の蓄積による組織破壊だ。
良之は武田の全幹部を一堂に集め、住血吸虫の感染メカニズムを根気強く解説した。
住血吸虫は、幼虫が水田作業などを行う農民の手や足の皮膚を食い破って体内に侵入することからはじまっている。
このことは「土かぶれ」などという自覚症状によって農民たちは理解していた。
「良いですか? 今回腹っぱりの患者が見つかった地域での水田は一切これを禁止します。代わりに、二条が彼らの食糧を補償します。今年は年貢も免除しましょう」
「しかし……それではいずれ国が立ちゆかなくなるのでは?」
代表して武田晴信が良之に問い返した。
「まずはこの病気を駆逐しなければ、いつまでたっても人々は安心して暮らせません」
良之は、農業を禁じられた地域の農民は全て、これからこの病気を根絶させるための労働力として雇い入れるつもりだった。
感染は富士川支流の釜無川、荒川、相川、笛吹川の流域に集中していた。
特に感染者の多い御影、野牛島、臼井沼、登美などでは、村ごと離農させ移住をさせてから、湿地帯の埋め立てを行わせた。
また、木下藤吉郎に有望な石灰鉱山を開削させ、コンクリートの生産を始めさせた。
農業用水路を全てコンクリート側溝にさせた上で、小川などを全て埋め立てるためである。
また、藤吉郎には武田の嫡男太郎義信と筆頭家老飯富虎昌を付け、徹底的に石灰やセメントの生産術をたたき込んでいる。
日本住血吸虫の最終宿主は人間を筆頭にしたほ乳類である。
牛馬、犬や猫、野ネズミにさえ感染して地域を汚染するのである。到底全ての最終宿主の手当などは出来ない。
すなわち、最終宿主の感染を防ぐことも重要だが、この病を駆逐するためには、中間宿主を根絶する事がもっとも近道なのである。
コンクリートの側溝は、自然の小川に比べ流速も早く、中間宿主の宮入貝の生息を困難にさせる効果がある。
また、水田や湖沼を干拓させることによって、宮入貝や住血吸虫そのものを根絶させることが出来る。
さらに、感染源である人糞の利用をシャットアウトさせることで、寄生虫のライフサイクルをも破壊する。
そして、ブラジカンテルの投与によって体内の親を殺虫し、体組織の回復を図っていく。
また、飲用水は河川の水の使用を厳禁し、代わりに井戸を掘らせて、手押しポンプによって日用水を汲み上げさせることにした。
罹患率は最初のひとつきで劇的に減少した。
良之は自身が行う全ての寄生虫対策について、一時の猶予も休憩も与えず武田刑部信廉を帯同させ、彼に徹底的にノウハウをたたき込みながらそのひとつきを過ごした。
良之は感染地域をこまめに回り、肥だめを錬金術で浄化しつつ、錬金術で化学肥料を作り、それを提供して畑の寄生虫害の根絶も推し進めていった。
「腹っぱりの多かった地域には、米の代わりにお金になる作物を作らせましょう」
良之の言葉に、武田晴信はうなずいたが
「どのような作物がよいのでしょうか?」
と良之に教えを請うた。
「原七郷にはたばこや桑を植えましょう。登美にはブドウ、御影には梅や桃がいいでしょう。石和には薬草園を作りましょう」
「たばこ? ブドウ?」
「ああ、種は南蛮商人から入手出来ています。実験的にいま越中で種の増産を行っていますから、甲斐から代表者を送り、修行させればよいでしょう。桑――養蚕についてはすでに飛騨で製造が始まってますから、こっちも村から修行させる人材を送るのが良いでしょうね」
肥料、農薬、そしてブラジカンテルの管理は各村の庄屋たちに全てを任せた。
良之はそう長々と甲斐にだけ関わっているわけにはいかない。旧暦6月が来たら、良之は越後に行かねばならないのである。
ついに、長尾不識庵も、越後を良之に委ねる決意をしたのである。
「御所様、ほんに、なんとお礼を申してよいやら」
武田家の晴信兄弟の生母、大井の方は深々と良之に頭を下げた。
大井家は、地盤がまさに腹っぱりの被害が集中している富士川沿いの巨摩郡に存在している。
一族や郎党に罹患者が多く、今回の良之たちによる治療や投薬によって救済された氏族の筆頭にあげられるかも知れない。
ちなみに他には、原氏、金丸氏、秋山氏、飯野氏、三枝氏といった一族が、多数の郎党を救われている。
「まだはじめたばかりですけどね。本当に大事なのは宮入貝の根絶です。ただ、感染者は薬と治療でなんとか死なせず治療が出来るようになるでしょう」
ブラジカンテルによる投薬治療は劇的だが、体内に残る寄生虫の卵による肝硬変や脳炎などには効果が無い。
それを魔法による回復術で治療が出来る事が、良之の強みになっている。
「大井殿。村人たちは必ず飢えさせず救います。だから、土地のお坊さんたちにも協力してもらって、病気の発生地からの避難と、臼井沼の埋め立てについて、お力をお貸し下さい」
大井殿――晴信たちの生母は、武田信虎の追放後にも甲斐に大きな影響力を持つ女性である。
小笠原や信濃の豪族衆との上田平の戦いに敗れた晴信が意地を張って現地に帯陣を続けた際に、彼女が文を認めて晴信に負けを認めさせ、甲斐へと帰らせた逸話が残っている。
非常に聡明な女性で、彼女があってこその後の武田信玄があるとはっきり良之にも理解が出来る。
「それはもう、お約束いたします」
大井殿はその尼の頭巾頭をゆっくりと下げた。
良之が武田家の蔵に、越中や越後から持ち込んだ食料品でたっぷり満たしてくれたことを大井殿ももちろん知っている。
中でも、甲斐においては恐ろしく高値になっている塩が、蔵一杯に積み上げられたことは大井殿を驚かせた。
この一事でも、武田は二条には到底敵わない、と大井殿は考えている。
「大膳大夫殿。後事はお任せいたします」
「もはや、行きなさりますか?」
甲斐を離れねばならない良之主従を、名残惜しそうに武田晴信は見送る。
「ええ、越後の事も重要です。長尾不識庵殿も頑張ってくれてますが、戦になりかねない状況のようです」
長尾家の二条家への臣従は、甲斐のように上手くいっていない。
織田加賀守信長に命じて柏崎にM-16の訓練が終わった5000の兵と、50名の81ミリ迫撃砲兵、150名の忍びを派遣させている。良之に従って甲斐に来ていた滝川、望月は一足早く現地へと先行させている。
独立の動きを見せているのは、揚北衆の本庄、黒田、中条、新発田らのようだった。
良之にとっては、別に従わないならそれでも構わないが、柏崎・尼瀬の油田や港を攻撃されては堪らない。
彼らは、良之の行う施策のうち、領地を二条家に召し上げて銭傭いの代官化にさせられることに大きな不満を抱いているようだった。
甲斐の場合、晴信や典厩信繁に従って、有力国人たちは飛騨や越中の実際を体験しに行っている。
庶民までもが、自分たちより豊かな食生活を持っている事に衝撃を受け、しかも、二条領には豊かに銭が流通し、そしてその銭で買いたいものが大量にあるのである。
石鹸、ローソク、灯油ランプ、炭。
信じられないことに、庶民の一軒一軒までもが潤沢に夜の明かりをともしている。
二条家の領地では、夜が明るいのである。
だが、揚北衆でその事実を知っているのはほんのわずかだった。
心の奥深くでは未だに長尾に従わない彼らは、急速に長尾家に接近しつつ、越中西部を支配した二条家を快く思っていない者達も多数存在している。
「御所様、甲斐や信濃の兵を動かさずともよろしいのでしょうか?」
晴信は、良之の身を案じてそう訊ねた。
「大丈夫だと思います。揚北衆も本気でウチと戦う気はないでしょう。独立したいなら、俺は全然構わないんですよ」
新発田の鉄鉱山が使えないのは痛い。
だが、江馬の神岡鉱山や平金鉱山の領有を渇望した時期と違い、今の二条家には飛騨、越中、信濃、甲斐、そして能登と加賀に未開発の鉱山が大量に存在する。
特に加賀と信濃には有望な鉄鉱山が眠っている。
輸送手段さえ確立できれば、南越後と加賀で銑鉄生産をしてもよいと良之は考えていた。
フリーデとアイリは甲斐に残りたがった。
腹っぱりの治療を完全に成し遂げたかったからだが、良之は阿子と3人で富山に戻すことにした。
ひとつには、阿子と千配下の教授陣から、甲斐に向けて50人規模の医療チームが派遣されたことがある。
また、小林新三郎の母のやすも、甲斐の療養所の院長として非凡に働いている。
「療養所に入所していた人たちは、優れた医療従事者になるんです」
アイリが言った。
「いずれは、お吉もやす同様、指導的な立場に育ってくれるでしょう」
お吉は新三郎の妹だ。現在は、母を手伝い甲斐の療養所でかいがいしく患者の面倒を見ている。
そうした状況を確認して、フリーデたちは富山への帰郷を納得したのだった。
信濃経由で越後に下った良之は、旧暦五月下旬に柏崎に入った。
柏崎には、長尾不識庵が帯陣している。
「御所様、このたびは申し訳なく」
「不識庵殿。揚北衆が独立したいなら全く構わないと先方に伝えてもらえますか?」
良之は不識庵の詫びを遮って言った。
「尼瀬の油田と柏崎が安定していれば、これ以上事を荒立てる気はありません。それより、絵図を見せて下さい」
良之は、不識庵が持つ、反乱者と長尾家臣領の線引きを記す絵図を見せてもらう。
「折居川を挟んで西岸が長尾側、北が新発田側ということになるんですね? ならそれで新発田と手が打てるか話してみて下さい」
良之は絵図を見て即断する。
「尼瀬の織田加賀守に山浦城に進軍するよう命じて下さい。俺もすぐに追います」
良之は草の者に指示して伝令を走らせる。
山浦城は阿賀野川の北域、そして折居川の西域に存在する城で、大見氏族山浦氏の居城である。
その北東には、上杉氏族山浦氏の居城笹岡城が存在する。
長尾不識庵は良之の指示通り、新発田・本庄を双頭とした揚北衆に、折居川を境にして手打ちを申し入れる使者を送った。
「二条御所様は、揚北衆の独立を認め、攻められない限りはこちらから手出しをするつもりは一切無い」
との確約を添えてのものだ。
良之はまっすぐ山浦に向かう長尾不識庵とその軍勢と別れ、供回りと一緒に
平成の学生時代、伝統工芸工場を見て歩いたルートをたどったのだ。
だが、良之が期待したような鉄工芸は、まだこの時代には存在していなかった。
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