第37話 そんな、私がなんでも投げると思って
「はい、じゃあ、領主様。お釣りはこちらですからね」
「ありがとうございます」
ロウリィと女将さんのやりとりを待つ間ずっとそわそわとしてしまった。そんな私の様子は丸見えだったようで、ロウリィを送り出した女将さんが、屋台から顔を乗り出し、満足そうに、うんうんと頷いてくる。
こんなにも応援されてしまったことに、気恥ずかしさが募って、誤魔化すように苦笑してしまう。
「はい、カザリアさん。これ」
「は、はい」
いつの間にか目の前に来ていたロウリィに髪飾りをかざされて、私は慌てて両手を差し出した。
掌にのせられた髪飾りのガラスを伝って、うつった微かな温度に、なんだかじんとしてしまう。
「ありがとう」
「うん」
手渡された髪飾りを、ぎゅっと握り込む。
「照れますね」と零したロウリィの感想はそのまま私の気持ちで「照れるわね」と言われたまま返すことしかできなかった。
掌をほどいて贈ってもらったばかりの髪飾りを確かめる。
途端、前髪をかきわけるようになぞられて、私は顔をあげた。
「何?」
「嬉しそうだなって」
「だって、嬉しいもの」
通りすぎる凍風に逆らうように、ロウリィの指が私の前髪を通って、こめかみの辺りの髪をすいた。
このままそうしていてほしいような、早く解放してほしいような、相反する気持ちが去来する。行き来する温かな指先が心地よくて、どうしようもなくむずがゆい。
「ロウリィ、くすぐったい」
笑声が堪えきれなくなって訴えれば、ロウリィは、ぱっと私の髪から手を離した。
私が見つめる先で、さまよったロウリィの指が行き場をなくしたように握りこまれる。
「すみません」
「何が?」
「人前でした」
「そう、ね」
そうだった、またやってしまった、と目を逸らしてしまう。
気まずさに硬直してしまった私に、ロウリィが笑った。
「でも今さらなんで、やっぱりちょっとだけいいです? あと少しだけ我慢して?」
「何?」
「それ。つけてみたい」
つい、とロウリィが、人差し指で私の手の内にある髪飾りを押す。
「つけるの? 今? ロウリィが?」
「うん。これ、どうするんです?」
本当にしたいのかしら、とロウリィを窺い見れば、彼はすでに興味深そうに髪飾りに視点を移していた。
えっと、と私は手元に視線を戻して、ロウリィの前で髪飾りの部位を指し示す。
「ここ。この裏側ね。内側に曲がっているでしょ」
「うん」
「そこの部分を髪に挿すの。飾りの部分はちゃんと全部見えるようにしてね」
「挿すんです? 痛そうですね」
「どれだけ強く挿すつもりなのよ。突き刺すんじゃないんだから」
呆れて言えば、ロウリィは追及から逃げるように私の手の内から髪飾りをさらった。
目で追った先から、髪飾りの行方が見えなくなる。ロウリィは、私のまわりを横へ後ろへとまわって、その間、ひたひたと髪飾りをいろんな箇所にあてがっているらしかった。
「どこがいいんだろう」
「好きなところにつけていいわよ。変だったらケフィに直してもらうから」
「ああ。なら、安心ですね」
「しっかり編んでくれているから、どこでも安定すると思う」
「緩く見えるけど」
「見た目ほど緩くないわ」
「横と後ろならどっち?」
「横。帰って私も見たいから」
「わかりました」
じゃあここで、と位置を決めたらしいロウリィが、私の右側で止まる。
「カザリアさん、動かないで。前向いて」
「気になるのよ」
「難しいんですよ、意外と。邪魔しないで。前」
とうとう額を掌でやわく固定されて、私は「わかったわよ」と息をつく。
「そんなに恐る恐るしなくったっていいのに。挿すだけでしょう?」
「だって、髪、崩しちゃいそうで」
「崩さないでよ」
「うううううん? これでうまくいった、かな?」
「そんな……私に聞かれても見えないのに」
盛大に考え込んでいるロウリィに文句を言って、つけてもらった辺りに手を伸ばす。
硬質なガラスに指があたって、ほっとした。ガラスを辿れば、飾りの向きもあっているようで、気持ちが浮き立ってしまう。
「大丈夫そうだわ」
「よかった」
「ありがとう。大切にします」
「うん」
頷いてロウリィは私に向かって手を伸ばした。どうやら少し解けてはしまったようで、落ちていた髪を耳にかけてくれる。
「もしもの時は、投げてもいいですからね?」
「そんな、私がなんでも投げると思って。ちゃんと別のものを投げるわよ」
「もしもの時です」
そのまま、まるでそうすることが自然なことのようにロウリィは私の手をとった。手を繋いだまま、私たちは花呼びの日を祝う人々と屋台がひしめく色鮮やかな会場を歩き出す。
ロウリィの掌は、まだまだ寒いこんな日和には、やっぱり温かくて。日溜まりそのものの心地に浸りたくなってしまうけれど。
「……ロウリィ、これちょっと走らない?」
「走ると距離が稼げない自信があります!」
小声ながらも、はっきり断言されて、うう、と呻いてしまう。
とにかく下を向いて、足早に歩くことだけを考える。
でないと、黙って見守ってくれていたらしい人たちの視線の優しさが、尋常でない数になっていて、これ以上は耐えられそうになかった。
「ロウリィがいけないのよ。あんまりそういうふうに見つめられると、私まで釣られてしまうじゃない。だからみんなの前ではやめてって言ったのに」
「……いえ、カザリアさんこそですからね?」
「私、そんな顔してな…………してる、の?」
「大分確信して自信ついちゃうくらいには毎日そういう顔してもらっています」
「まいにち」
「待って、カザリアさん。今、固まられると抜けだせませんからね、この一帯」
がんばって、と励まされて、私は辛うじて頷く。背を支えられながら、うまく力が入らない足を必死に動かすことになった。
「あ! 領主様、やっと来た!」
ようやく角を曲がったところで、待ち構えていた背格好の違う子どもが二人、私たちの姿を見つけた瞬間飛び跳ねた。
顔立ちが似通っているから兄弟なんだろう。「伝えてきて」と兄に急かされて、まだ十にも満たなそうな弟が頼りなく奥へ駆けていく。
「ロウリィ」
「あ、……ですねぇ」
「いってらっしゃい」
用件を伝えられるよりも早く、用件が大方わかってしまって、ロウリィの手を離して送り出す。親から案内するよう使いを頼まれているらしい少年は、少しばかり緊張した面持ちで、私たちのことを急かすことなく、
「待たせてしまったし、早く行ってあげて」
「カザリアさんは?」
「ついていったら口出ししちゃうもの。でもみんな、ロウリィが来るのを楽しみにしてくれているみたいだから、なるべく水を差したくはないのよね。気にしなくても、私は私で近くを見ておくから。でも、ほんっとーうに、量はほどほどにね! この調子だとまだまだ増えそうだし」
「わかりました。頑張ります!」
元気よく言ったロウリィは、待ってくれていたその子にぽやぽやと声をかけ連れだって歩いていく。続くルカウトとバノに、任せたわ、と無言で目を配せば、それぞれに頷いてくれた。
ロウリィたちの姿が見えなくなって、さて私はどうしようかしら、と辺りを見渡した。今日は本当にどこかしこも屋台が建っていて、ちょっとした街のようになっている。
行き交う人々も賑やかで、屋台を覗き込んでは思い思いに買い物をしている。互いに顔を見知っている人たちが多いせいもあってか、至る所で立ち話にも花が咲いているようだった。
「何か封筒に入りそうな小さなものがあるといいんだけど」
この花呼びの日の賑やかさのすべてをうまく手紙に書き綴る自信はないけど、離れた場所に住むリシェルにも楽しんでもらえるよう、お裾分けできるものが見つかれば嬉しい。
何か手頃のものはないかと近くの屋台を順繰りに見てまわっていると「カザリア様」と聞きなれない声で名前を呼ばれた。
「カザリア様、こっち! こっちです」
声の主を探して、辺りを見渡す。
「奥様。あちらに」
ケフィがいつになく顔を強張らせ言った。ケフィが示した方向に顔を向けながら、なだめるよう、私は彼女の腕に触れる。
ちょうど今しがた曲がってきた角の場所に建つ屋台から、女性が顔を出し、こちらに向かって手を振っていた。手が振られるたび、胸元まで届く栗色の髪が元気よく揺れる。
離れた位置からもはっきりとわかるほどの、にこやかな笑みと仕草が、どこかあどけなくて少女にも見えた。
「どなたです?」
私の横に控えたスタンが警戒もあらわに声を低くして聞いてくる。
ケフィとスタンの心配はもっともで、親しみを込めて“奥様”と呼んでもらうことの多いこの土地では、“カザリア”の名で呼ぶ人は、ほとんどいない。ケフィもスタンも知らない顔なら、普段から付き合いのある人でもなさそうだった。
「わからない」
思い当たる節がなくて、そう答える。
ただ、否定を口にした瞬間、違和感がよぎった。確かにどこかで会ったことがあるような。彼女のくったくのない仕草を見れば見るほど、そんな気がしてくる。
「カザリア様。お久しぶりです。商家の娘のイレイナです」
名乗られて「あ」と思い出す。
チュエイル家の新年会で、私の実家が懇意にしている商会について聞いてきた女性と、目の前の彼女の顔が徐々に一致していく。
「お知り合いですか?」と、ケフィに聞かれ、私は頷いた。
「一度だけだけど、お会いしたことがあるわ」
「カザリア様、その節はありがとうございました! お礼に伺いたいなとは思っていたんですけど、どのようにご連絡をお取りしたらよいかわからなくって」
イレイナは一際、声を高くした。距離が離れているから、声が届くようにと気を使ったのかもしれない。喧騒に溢れ返るこの場所では、確かにそうしてもらったほうが声はいくぶんも聞こえやすくなった。ただ、はたとこちらを見た人たちの顔を見れば、近くにいた彼らの話まで中断してしまったことに気づく。
彼女に声を張らせ続けるのも、いたずらに会話を中断させてしまうのも申し訳なくて、私はイレイナへ一度手を振り返してそちらへ向かう意を告げた。
「雰囲気が違っていたから、全然わからなかったわ」
「あはは。そうですよね。あの場じゃ、かしこまった格好をするしかなくって。私にしてみればこっちの方が、気楽でいいんですけど」
傍に寄って言えば、特段気にした風もなくイレイナは肩をすくめた。離れた場所からは見えなかったそばかすを明るく頬に散らして、彼女はくすくすと笑う。
花呼びの日の茶色の服を着ているせいもあるかもしれない。今日の彼女はあの日よりも随分と素朴ではあったけれど、代わりにあの日よりずっと溌剌として見えた。
「あなたも屋台を出していたのね」
「本業ですしね。うちの毛織りは軽くてあったかいですよ。ここは春先もまだ寒いですからね」
屋台には春らしい色味に染められた毛織物が並んでいた。おすすめされた肩掛けの一つを手渡されるがまま受け取ると、ふっくらとした布地は空気を孕んでいるように軽くやわらかく、それでいて彼女の言う通り温かかった。
「あの時、カザリア様に商会のこと教えてもらったじゃないですか。あのあと、訪ねてみたんです。あ、ちゃんとカザリア様が仰っていた通り、手順に則って正規に申し入れました。と言いますか、テティイルナ家やカザリア様のお名前を出していたら門前払いされそうなところでしたね。カザリア様はああ仰っていらしたけど、テティイルナ家の皆様を敬愛されているからこそ、そんな感じで」
欲を出して口にしなくてよかったです、とイレイナは苦笑した。
「うまく交渉できた?」
「正直に言うとだめでした。あちらが取り扱っている外国の植物を栽培できないかと考えていたんですけど。うちって、すごく儲かっているわけではないけど持っている土地だけは広いんです。そこで育てて、うまく軌道にのせられれば珍しい分、それなりの値段で売れそうですし、ちょうど新しい商売を考えていたところだったので、新規で取り扱う商品として栽培に挑戦してみるのは最適かなって思っていたんですけど。そう簡単に売り渡せるものではないって。でも、代わりに、持参していたこの毛織りを取り扱ってくれそうなところを紹介していただけたんです。そちらを訪ねたら、これからも取引してくれるって。王都に新しくツテができたことは幸いでした」
「そう。よかったわ」
「はい。ずっとお礼を伝えたかったんです。今日お会いできてよかった。それで……お礼ついでに申し訳ないのですけど。もしここで会えたら、意見をお聞きしたいなと、持ってきていたものがあって」
ちょっと待っていてくださいね、と言い置いたイレイナは、屋台の内にしゃがみ込んだ。
「紹介してもらった先で、新しく注文もいただけたんです。もっと大きな敷物もつくれないかって。絵柄はあちらで後からいれるそうなんですけど」
声はするものの、ちょうど彼女のいる位置がこちらから影になっているようで姿がよく見えない。ただ、話の内容とガサゴソという物音から、商品をよりわけ、その敷物を取り出そうとしているらしかった。
「でも、私はずっとこちらにいたから、あちらのかたの好みや流行に疎くって。とりあえず肌触りや分厚さはこんな感じで大丈夫か、うちの職人と相談して試作品をつくってみたんですけど。カザリア様、よかったら見てもらえませんか?」
「待って、イレイナさん。危ない」
背よりも長い毛織りの巻物を抱えて立ちあがろうとしたイレイナに、慌てて呼びかける。重たそうな巻物の先が、布でつくられた屋台の張り出し屋根にあたりそうになって、焦った私は同じく手を出していたスタンと一緒になって、飛び出した巻物の先端を押し留める格好になった。
二人がかりだったから、余計に力を加えすぎたのかもしれない。
きゃ、という悲鳴とともに、体勢を崩したらしいイレイナが倒れる音がする。彼女が手放した毛織りの巻物が奥の棚にあたって、棚に陳列されていた木箱や毛織物まで落下してしまう。その後も音が続いていたから、彼女が立ち上がろうともがくごとに、他にも何かが崩れているようだった。
こちらから見える範囲だけでも、奥の棚が外れて壊れて、箱や毛織物が散らばってしまっているのがわかる。
「イレイナさん!」
「うっ……いたっ。だ、大丈夫です」
「大丈夫じゃないわ!」
声が聞こえたことに安心したものの、到底彼女の言葉をそのまま信じられるわけがなかった。
もし怪我をしていたら大変だ。狭い屋台の内では、落ちてきたものを避ける場所もなかっただろう。頭をぶつけてしまっているかもしれなかった。
「今、そちらに行くから。無理に動かないで」
念を押して、ケフィとスタンと共に、急いで屋台の裏手にまわる。
扉を開けると、外から見えた以上に空の木箱と商品が散乱していた。折り重なるその下に、先ほど押し返してしまった敷物らしき布地が見える。
ざっと見た限りイレイナの姿が見当たらなくて、頭の芯が冷えた。
おそらく近くで物音を聞きつけた人たちだろう。「大丈夫か」と声をかけ続いて入ってきた二人の男性が、中の様子を見て「うわ」と声をあげた。
「奥様、とにかく箱をどかしましょう」
青冷めているケフィに頷いて、みんなで手分けして足元の箱をどかしにかかる。
見えてきた敷物の布地が指に触れたところで、入り口の扉が閉まる音がした。そちらに気を取られたのがいけなかった。
「え」
物音に振り返ると、ケフィとスタンが揃って木箱の上に昏倒していた。
ざっと血の気がひく。
「ごめんなさい、カザリア様」
指が触れていた布地の下から、容器を持った腕が伸びている。
それが何か理解するよりも早く、液体が顔に吹きかけられて、視界が霞んだ。
眩暈がする。
二人と同じように倒れ込んでしまったんだろう。腕に打ち当たった痛みに反して、ちっとも浮上してくれない意識に、恐怖が込みあげてくる。
身体が重くて、悲鳴がでない。暗闇に引きずり込まれる感覚の淵で、そ、と私の髪に何かが触れた。
「大丈夫。眠るだけ」
死にはしない、と平坦な声でささやかれ、いざなうように優しげに、髪を撫でられる。
待って、やめて、と心の中で叫んだ先で、飾ってもらったばかりの髪飾りが引き抜かれる気配がした。
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