第31話 ちゃんとずっと傍にいるから
「おや。どうやら、うまく乗り切りましたかねーえ?」
夕食の盆を片手に、寝台で眠るロウリィを上から覗き込みルカウトは言った。
「本当に?」
「はーい、奥様。夕飯は、冬野菜のシチューですよ」
「本当の本当に大丈夫なの?」
「今日は特別に、噛まなくてもいいくらい、ふわっふわのパンもご用意しましたよ」
「ねぇ、本当に?」
我慢できずに椅子から立ちあがって、ルカウトににじり寄る。
ぶつかるのを避けるように、夕食の盆を頭上高く避難させたルカウトは、そのまま盆を近くの棚においた。
「奥様がそうだと調子が狂うんですがねぇ……」
「……」
「いや、はい、脅しすぎましたねっ! もう奥様がそんなんだから、朝から屋敷のみんなの視線が痛くて、針のむしろなんですよ。私、いつになく働いていると言いますのに! いえね、ロウリエの大風邪については、私たち昔から毎年随分と張り切って、とーっても気を張って看病・対処してまいりましたから、奥様にもこの行事を張り切ってこなしていただこうと思ったんですよ。嘘をついたつもりも微塵もありませんが、言い方があれでしたのは、これでも反省しておりましてですね? さすがに奥様が刺客を打ち損じた時はどうしようかと思いましたしねぇー!?」
「……」
「いえいえ、身を呈して庇ってらっしゃったのは、さすがでいらっしゃいましたけども! いや本音では、ほんっとそれもできれば次回からは、ぜひやめてくださると私、喜びますよ? でないと私がロウリエに怒られる。いやこれもしかしなくても、もうすでに怒られる……?」
いやでも原因はロウリエですし、とルカウトは両手で顔を覆う。
「頼みますから私のためにも、これ以上落ち込まないでくださいませぇ。ほら、ちゃんと一日中、変わりはないか見ていらしたじゃないですか。おかげで悪化は避けられましたよ!? すごい、奥様! さすが奥様っ! ええ、たとえ、いてもほぼ何もできなかったとしてもです! ちょっとケフィ、遠くから睨まないでくれません? ええ、もう、おかげさまで、ばっちり完璧にすっかり治るのは間違いなしの、大丈夫ですから、ね? 安心してください? 元気出してくださいませ? ね?」
「まだあんなに熱が高いのに?」
ルカウトの言うことを素直に信じたいけど、枕に沈むロウリィの顔は、まだまだ赤みを帯びていた。朝から今まで冷やし枕をケフィたちにもう何度も取りかえてもらっているのにこれだ。
ついさっきまで、ほとんど水も受けつけなかった。しかも、朝からこれまでに何度か持ってきてもらった水差しのうち、「これは間違いなく正真正銘なんの変哲もないただのお水ですね」とルカウトが断言できなかったものが二回もあった。断言できなかったものは、判断がつけられないため、もしものために捨てられた。
ルカウトの言う通り、看病なんかしたことのなかった私は、まわりのみんながロウリィのために動いてくれている間、何もできずにおろおろしているばかりだった。
今日はロウリィが部屋から動けないせいか、八人まとめて詰めかけた刺客が扉の外の警備を越え、部屋の中まで突破してきた時も少しも役に立てなかった。
まとめて倒してくれたのはルカウトで、今日は慣れない毒味まで買って出てくれているのに、もしも毒がすり抜けてしまって弱った身体に悪影響が出たらと、疑ってひどいことまで考えてしまった。
どうしようにも何もできない焦燥感と不甲斐なさを持て余しているうちに、気づけば夕を過ぎていた。
奥様、といつになく真剣な声で呼ばれる。両肩に手を添えられ、顔をあげると、ルカウトが長身を曲げて覗き込んでいた。
「大丈夫です。大丈夫ですから」
「本当に?」
「はい。もう、絶対大丈夫も大丈夫です。むにゃむにゃ言い出したので」
「むにゃむにゃ?」
「そ。むにゃむにゃです」
ほらあれです、とルカウトは顎をしゃくって寝台の方を示した。ルカウトにならって横を向けば、確かにロウリィがむにゃむにゃと口を動かしている。
顔は明らかに熱で火照っていて、息もまだしづらそうなのに、その様子はどこかのんきで、ほんのわずか気が抜けた。
「……にゃ、ルカ、うさぎはひよこを食べませんよ」
はっきりと、どこか困ったように呟かれた寝言に目を丸くする。向い合わせのルカウトは、口を手で覆っていた。
「これはまた懐かしい……今年はやけにはっきりですねぇー」
くくく、と喉の奥で笑声を鳴らして、ルカウトが告げる。
まもなく「にんじんです!」と、やたらしっかりと聞こえた寝言に、部屋のカーテンを引き、暖炉の火の加減を見てくれていたケフィも静かに肩を震わせていた。
「夕近くになっても落ち着かなかったので長引くかと思いましたが、まぁ、これで大丈夫ですよ。なんだか知りませんがあれが合図で、むにゃむにゃ言いはじめたら、もう何も心配することはないくらい、よくなる一方ですからねぇ。もしかすると日付を越える頃にはすっかり下がるかもしれませんねぇー。ひと安心ですよ」
ね、とルカウトに諭された私は、ずびりと鼻をすすりながらまた何か呟いたロウリィを見つめた。
「まったく人の気も知らないでねーえ?」
「もう、大丈夫……」
「ええ、大丈夫ですとも」
「これが、毎年なんて……」
ぼやけば急に、安心が身の内に落ちてきて脚の力が抜けた。
すかさずルカウトが足先でひきずりよせてくれた椅子に、支えられるがまま腰をおろす。
私の前で両膝をついたルカウトは、正面から私を見あげ、どこか楽し気に、くるりと両眼をきらめかせた。
「うちの奥様なら大丈夫ですよ」
なにせ来年からは少なくとも刺客の心配はいりませんからねぇ、と続けられた言葉に、ルカウトを見つめ返す。
「来年はきっともっとうまくやれますとも。だから、冷めないうちに夕食を召しあがってくださいませねぇ? 朝も昼もほとんど召しあがらなかったんです。そろそろ、コックのみんなが泣きますよ? そして私はきっとコックのみんなに懲らしめられますから、ここは一つ、私を助けると思って!」
「うにゃ、カザリアさんは、靴じゃなくて、投げるならもっと……む、あし」
「はーい。もうちょっとこら、うるさいですよ、この鈍感
「紫陽花、む、毒、にゃ、すご、ずびっ」
「まったく! いつの夢なんですかねーえ?」
「や、やめなさい、ルカウト」
べしり、と寝台の端を叩いたルカウトを慌てて止める。思った以上に弾んだ寝台に、でも、ロウリィは相変わらず夢の狭間を彷徨っているようだった。
私が夕食を食べるのを見届けると、ルカウトとケフィは部屋から出て行った。
私自身が感じていたより、よほどお腹は空いていたらしく、食べてしまうと少し気力がわいてくる気がした。
夜は冷えますからとケフィが肩にかけてくれた毛布を纏って、私は椅子の上で膝を抱える。外では朝からずっと雪が降り続いているらしい。見える範囲はどこもかしこも白く、雪が積もってしまったと言っていた。
時折、うっすらと目を開けては眠り、むにゃむにゃと呟くロウリィを見つめる。
夢うつつで請われ、見様見真似で覚えたばかりの方法で、水差しから水を飲むのを助ける。
汗を拭えば、わずかばかり落ち着いてきた熱にほっとした。
「むにゃ、ルカ、剣はそう人に向けるものでは、……ません」
「そうね。危ないわね」
「……そ、危ないっ、ですよ」
眠ったままおもむろに同意され、笑いを堪える。
それでも声が溢れたのかもしれない。
うつらと目を開けたロウリィが、私の名を呼んだ。
「……み、にゃ、こと、あ、ります……」
「何?」
続けられた言葉の真意を問えば、ロウリィは何も答えず、するりと眠りに落ちた。
「うん?」
すぅ、といくらか楽な呼吸が聞こえる。
汗ばむ額に張りついた前髪を払うと、またかすかに瞼が動いた。
「……戻ってきたの」
いとおしげに愛称を呼ぶ。うすらと開いた目は、たぶん、今も夢と現をさまよっていて。
伸ばされ触れる手は、壊れ物のようにたどたどしく私の手をたぐった。
「ええ」
私は答えて、いつもよりも温度の高いロウリィの手を握り返す。
「……どこにも行かない。約束するわ。ちゃんとずっと傍にいるから」
だからまだ眠っていて、と熱をともす瞼に促すように口づける。
「大丈夫だから」
間近でロウリィの冬空に似た薄蒼の
気づかれてしまったかもしれない。もどかしそうに口を動かした彼は、私の前で、それでもとろりと夢の中へ落ちていった。
心が割れる音がした。
エイミー、とロウリィが呼んだその
ただ、その響きだけで、大切な人だったのだとわかってしまった。
なぜなら私は、ロウリィ自身が望んだ相手ではなかったのだから、忘れられない人がいても、今も想う人がいても、なんら不思議なことでもない。
やわらかな金の髪に、春の光に似た若草色の眼差しをした親友の姿を思い出す。
絶対に届かないと知りながら、くるおしいほど彼女に焦がれていた、彼の姿を思い出す。
「どうして、今さら」
私の恋はいつだって痛みを伴うものだったから。
ぶわぶわと熱が溜まっていく頬を、自覚して両手で覆い隠す。
こうなってはじめて、ロウリィのことが好きなのだと。
ようやく気づいてしまった自分の鈍さ加減を呪いたくなった。
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