第4話『立派な野良猫になるために』

 疾風のように速く!


 最近は走ることが楽しい。

 イシャータはそう思っていた。


 彼女がノラの生活を始めてからはや三週間が経とうとしている。先週は届かなかった塀の上にも今日は楽々飛び乗ることができる。イシャータはこのところ自分の中で何かが急激に目覚めてくるのをヒリヒリと感じていた。


 ブロック塀の上から辺りを見回せばちょうど狩猟猫ハンターのキャンノが狩りをしている姿が目に入った。今日の得物は大きくて黒々としたネズミのようだ。


──少しからかってやれ。


 キャンノが一片の無駄もない動きで獲物に飛び掛かろうとしたその刹那、イシャータは雷光のごとくそのネズミをタッチの差で奪い取った。空手の自分に驚いているキャンノの足下にイシャータは獲物を落とす。


「遅い遅い、そんなんじゃ他のネコに獲物を盗られちゃうわよ」

 イシャータはウインクをひとつしてみせた。

「タイミングはバッチリ合ってたのに…… シャムのスピードは別格ね」

 キャンノはフッと笑って足下のネズミをくわえたが、次に頭を上げた時には既にイシャータの姿は見えなくなっていた。



 ▼▲▼▲▼▲



 自分の頬を流れていく風が心地良い。


 イシャータはギアをトップに入れた。それでもまだまだ早く走れそうな気がする。コンビニエンスストアの前まで来ると、見覚えのある小学生たちがドカドカとランドセルを置き店内に入っていく姿が目に入った。イシャータのヒゲがピクリと反応する。


 覚えている。


──私が“ノラ”になったあの日、かけがえのない千円札を奪い取って逃げた連中だ。


 今となっては猫が小判を抱えてどうしようとしてたんだろうと苦笑してしまうが、あの屈辱だけは未だにこの脇腹に残っている。


 真昼の陽光に逆らってイシャータは瞳孔を広げようとした。そしてシャム特有の澄んだブルーの虹彩を光らせる。ちょうどいい、尿意ももよおしてきたとこだ。イシャータはブロック塀からムササビのように空中に身をゆだねるとランドセルの上に着地した。そしてまんべんなく“おしっこ”を撒き散らし終えた丁度その時、四人の小学生たちが店内から戻ってきた。


 イシャータは満足気に口の周りをぺろりと舐めて、みゃあお、と挨拶する。

「あっ! なにやってんだこいつ!」

 一人が駆け寄ってきたタイミングを彼女は見逃さなかった。彼が手にするフランクフルトが先程のネズミの姿と重なる。イシャータはその細長い標的を見事とらえ、そのまま着地するとムシャムシャとそれを貪った。


 続けて襲いかかってきたのは“肉まん”だったが、あまり好みではない。奪い取って残尿をひっかける。


──千円でこれだけじゃまだまだお釣りがくるな。


 イシャータは余裕を見せつけるため、顔を洗う仕草をしてみせた。昔、御主人様と観たカンフー映画で主人公が“かかってこいよ”と言わんばかりに鼻を摘まむしぐさを真似たつもりだった。


 三人目の“やられ役”が手にしたプレミアム・チキンを奪い取ったついでにラスボスのソフトクリームを自慢の長い尻尾で叩き落としてやった。間髪入れず、そのままふわりともと居た塀の上に飛び乗る。


 体が羽根のように軽い。


 今にも泣き出しそうな四人組の顔を見て、ようやく千円分のショーを楽しんだ気分になったイシャータはひょいと身をひるがえすと、ブロック塀の向こう側へと逃げ込んだ。



 ▼▲▼▲▼▲



──爽快爽快!


 さすがに息が切れてきたが、もっともっと面白いことはないかなと心は刺激を求めていた。そこに現れたのが“泥棒猫”のロキだった。


 ロキはまるで待ち受けていたかのようにイシャータを眺めるとフンと笑った。

「よお、シャムちゃん、丁度よかった。おまえに何か貸しがあったような気がするんだがよく思い出せないんだ、何だっけかな?」

 どうやら景気が悪いらしい。

「ああ、そうだ! 俺が食いっぱぐれたら必ず食料を提供するとかナントカ言ってたっけ? どうやら今日がその日らしいぜ」

 ロキはそう言って借金の催促をすると爛々と目を輝かせる。

「…… ついといで」

 イシャータはロキをさほど遠くない空き地へと誘導すると、辺りをキョロキョロと見回し、一部盛り上がった土の上にポンと脚を置いた。

「さあ、ここ掘れニャンニャンよ。手伝って」


 二匹が土を掻き分けるとそこからまだ新しい骨付き肉やソーセージが顔を出した。

「なんでこんなとこに…… 」

「さあ、どうぞ。全部あなたにあげる」

「全部?」

「ええ、全部。これで借りは返したわよ。そうね、またいつだって頼ってきてくれて構わないけど、ま、これからは『』って言うことね」


 そしてイシャータはまた風と一体になって走り出し、ほくそ笑む。


──遠慮なくどうぞ。あなたのボス、ギノスが隠した財宝をね。


 生まれついて“野性の猫”は用心深く、そして、がめつい。そもそも猫というものはそれほど多くのものを食べられる胃袋を持ち合わせていない。

 だからすぐに腹が減り、日に何度も食料を探し求めるわけだ。

 野良猫は食料を余計に確保してしまった場合、食べきれない分を必ずどこかへ。そのくせ彼らがそれを取りに戻ることはない。


 実はイシャータは飼い猫時代から窓の外を眺めてはこのことを不思議に思っていたのだが、この三週間の“観察”によりその疑問の答えは確信へと変わっていった。つまり──


 彼らは“忘れてしまう”のだ。


 これは野性の猫のみに見られる習性であり、生まれついての“飼い猫”ならばそもそも食料を隠そうとする習慣すらない。


 この点に着目できるのは、まさに“飼い猫”ならではの発想…… いや、もっと細かく言うのなら飼い猫から野良猫へと移行したイシャータのような猫ならではの“気づき”とも言える。


 忘れてしまうのだから誰に悪びれる必要もない。イシャータはここ数週間、自分でもその手を使って口に糊をしてきた。そのためにも『観察』は欠かせない。今だって今朝ギノスがこの場に食料を隠しているのを見ていたからこそ使える裏技なのだ。


 ギノスが隠した食料を手下のロキが掘り起こして食べている。その姿を思い浮かべただけでイシャータは笑いが止まらなかった。


──さて、また新しい情報を得ておくか。


 イシャータがそう思っていつもの屋根に向かったところ、珍しく今日は先客の姿があった。


 それは焼きたてのソーセージのような毛並みの猫、ペイザンヌだった。


 イシャータは一瞬どうしようかと迷ったが、思いきって接触をを試みることにした。



 ▼▲▼▲▼▲



「こんにちは!」

 その時わしゃはボーッとしていたせいか、イシャータが近づいてきたことなど全く気が付かなかった。

「こ、こ、こ、こりゃ、こんにちは」

「いい天気ね」

「いい天気だね」

「私もよくここで日向ぼっこするの。あなたも?」

「ふ~ん、わたしもよくここで日向ぼっこするのだ。ほほう、君も? 」


 これはもはや二の句を継ぐというよりも挙げ足を取るに近いなと我ながら思う。


「あなた、ペイザンヌよね」

「うむ」

「私のことは…… 知ってるわよね? 」

「イシャータ」

「私ね、ノラになったの」

「知ってる」


 どうにもわしゃは会話を終わらせるのが得意らしい……。

 イシャータもどう接触していいのか考えあぐねているようだ。


「ねえ、ペイザンヌ…… ペイって呼んでも怒らない? 」

「うむ」

「あなた、お腹空いてる? 」

「空いてない…… と、いえば嘘になる」


 イシャータはそれらの言葉を発しながらも、目は下界を見据えたままだった。ターゲットを絞り込むノラの目だ。


「今ならじゃなくってが食べられるかもよ」

「ふぇ?」

「ついてきて」


 イシャータはそう言うと屋根から飛び降りた。わしゃも興味があったので思わずそれに続く。おもしろいじゃないか、ここ数週間の成果のお手並み拝見といこう。


 だが次の瞬間、イシャータの標的を知ってわたしは愕然とした。そこはN区でも最もガードが固いと言われる魚屋だったからだ。


 馬場トミオ、三十三歳、独身。猫の天敵。ヘビにカエル、ネズミにマングース、そしてネコにババ。彼の営む“鮮 魚 馬 場”に手を出して無傷で戻った猫は少ない。かくいうこのわしゃもつい最近、特大の出刃で大事なヒゲをバッサリやられたばかりだ。


「あ~、イシャータ。君はまだN区のことをよくわかってない。ここは……」

「いいから」


 イシャータは笑みを浮かべるとわたしについてこいと促す。まあ、多少痛い目をみるのも人生、いや、猫生経験かもしれないな。わしゃはいつでもダッシュできる準備を整え──さりとて内心ヒヤヒヤしながら、イシャータに続いた。馬場がいない時を狙うならまだしも今は夕方のカキイレドキだ。


 ありえない!


 猫を大好物とするポッテカ族のど真ん中へ葱を背負って行くようなものだ。だが、イシャータは『くださいな』と言わんばかりにストレートに行った。それはそれは可愛らしく『うにゃ~、にゃ~ぐる』と、馬場に向かって鳴いたのだ。


 馬場と店の前に群がる客の目が一斉にこちらを向いたその時──


 見間違いではない!

 わたしは見たのだ。


 包丁を握っている馬場の右腕に太い血管が浮かんだのを。わたしは見るに見かねて前足で目を塞いだ。が、耳に飛び込んできたのは意外な言葉だった。

「あ~ら、これはこれは…… ネコちゃん二匹がごらいて~ん」

 客がどっと沸いた。

「今日は活きのいいのが入ってるよ! サバにスズキに──お財布が許せばアワビなんかもどうかしらん?」

 また、買い物かごを下げた主婦たちが揺れる。イシャータはアワビと聞いてブルブルと首を振った。

「アワビはお嫌い?! こりゃ失礼しました。シャムちゃん、人生の半分損してるよっ。よし、持ってけ泥棒! 脂の乗ったハマチだ、ほれっ」

 馬場は柵になったハマチをひとつ、景気よくこちらに投げた。

「二匹で仲良く分けるんだぞ。火事と喧嘩はよそでやってくれ。ここは天下のN区だ! 」


 ありえない…… あの馬場が売り物の魚を放るなんて、絶対にありえない。


「まいどありっ。さぁさ、奥様方もこのネコちゃんたちに負けず劣らず活きのいいのジャンジャン持って帰ってよね~!」


…… よね~、よね~、よね~ ………………


 わたしの耳にはまだ馬場の声が木霊こだましていた。

「さあ、食べて」と、イシャータはとろりと脂の乗ったハマチを差し出す。

「私はさっきいろいろ食べたからいいの。フランクフルトやらなんやら。ま、引っ越し蕎麦みたいなものだと思って」


 わたしはなんとも納得いかず、魚を爪で突っついた。毒や爆弾が入っていないとも限らない。いや、むしろ入っていてくれた方がまだ納得がいくような気がする。

「これからもよろしくね、ペイ!」

 そう言うとイシャータは満足気に走り去った。


 もちろんこのマジックにはタネ明かしがある。


 これは後々、偶然入手したある人物の日記の一篇なのだが、今回は特別にその答えを知りたい方のために“後記”としてそれを載せておくことにした。


 但し、謎は謎のままにしておくことが醍醐味であるという方はそのまま次の話にジャンプして頂いてもこれから先の物語には何ら影響はない…… と、思う。…… たぶん?  



 ▼▲▼▲▼▲




── 後記:『馬場の受難』──


 私の名は馬場トミオ。三十三歳、独身だ。

 私は今、猛烈に恋をしている。

 相手は、はす向かいのパン屋に新しく入ってきた美しい女性店員だ。


 彼女は仕事が休みの日に時々私の店に買い物に来てくれる。そんな時、私は…… ああ、母さん。すまない。売り上げとは関係なく破格のサービスをしてしまうこともあっちゃったりなかっちゃったりすることもあるのだ。


 そして彼女がいつもペットとして連れているのは……ああ、神よ、ありゃ私の天敵である“猫”ではないか!


 んで、私といえば、


「可愛いネコちゃんですね~。え、私? 私もねぇネコ大好きなんですよ、これが!」


 なんて、言っちゃったりしちゃったりするわけなのです。この葛藤──


 わかっていただけますか? 母さん。これも神が私に与えた試練、いや、運命なのですよ。


 今日も彼女が私の店に来てくれました。テヘ。


 そんな時。


 こともあろうに、二匹の薄汚い野良猫が私の魚を物欲しげに見てるではありませんか?!


 私は包丁を持つ腕に力が入りました(殺)


 しかし、彼女のあの微笑ましく猫を見る目。そして私を見つめるその瞳……。ええ、バカな男だと思ってください。私はハマチもプライドもいっさいかなぐり捨て、愛をえらんだのです。


 ええい、持ってけ泥棒(猫)!

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