第25話 兆しが呼ぶもの

「……つまり」

 ルタン南門の脇に建てられたプレハブ造りの詰所。

 折りたたみ机とパイプ椅子で設けられた場で、明里はため息混じりに口を開いた。

「貴方の祖母の予知夢によれば、『今晩、この辺りに盗賊よりももっと凄そうな何かが襲ってくる』と 」

「だからさっきからそう言ってんじゃん!」

 机を叩いて興奮気味に言う男の子。その要約にたどり着くまで明里たちが十五分近く要したことはどこ吹く風だ。

「一大事です。明里さん、どうにかできないでしょうか」

「あー、それは、えっと……」

 身を乗り出すティルを見て、愛想笑いを浮かべながら明里はどうするべきかを考える。どうにかしてあげたいのはやまやまだが、明里にはまったくもってそんな権限はない。

 こういう時こそお兄がいてくれればいいのに、と心中でボヤくがいないものは仕方がない。

「……一等法官さん。このようなことは、今までに例があったのですか?」

「は。実際、たまに当たります。……ですが、予言の結果が出るのはだいぶんと広い範囲で特定できませんので」

 仮にルタンの法官たちが今からここを出ても、襲撃を防ぐのは難しいだろう。そういう彼の意見はもっともだと明里も思った。

 予言の元の村を守ろうとしても、法官たちでは今晩の襲撃には間に合わない。なにせ少年はほぼ丸一日かけて早馬を飛ばしてきたというのだから、残り半日もなければどうしようもない。

「そう言ってまた見捨てるんだぜこいつら! ……だから、今回はあんたら神様に頼みに来たんだ!」

《…………》

 小牧少尉はどう反応していいのかわからないのか無言。会釈コマンドか何かで、目の前の機械兵士が小さく頭を下げるのみだ。

 ……確かに、かげつなら対処可能な案件かもしれないけど……。

 総督府の老人たちの承認を得て以来、かげつは二十四時間体勢で巡回、警備任務にあたっている。

 仮に予言の何事かが起こったとしても、法官たちよりも速やかに、かつ確実に対処できることだろう。

 なら、ここで「大丈夫だ」と言い含めて追い返してもいいのではないだろうか。

「頼むよ! ばあちゃんが今回はほんっとうに危ないって言ってんだよ!」

 だが、この鬼気迫った少年の言葉には、どうしても明里は引っかかりを感じてしまうのだ。

 けれども同時に、その予言の信頼度、急迫度がどれほどのものかというのは、明里には判断ができない。

「……という話ですけれど、小牧少尉はどう判断されますか?」

《一応、臨時の警備態勢を敷くよう“かげつ”に依頼はできると思いますが……》

 小牧少尉も言葉を濁しながら言う。こちらもやはり判断を迷っているらしい。

 ううむ、と一同が頭を抱えてしまった。そこで明里はふとあることを思い出す。

「かげつ……に、確かやっちー先輩が乗ってたような」

 かげつが離陸する直前、八智が言っていたはずだ。「これでも実戦経験のある最精鋭だからね。いやはや人気者は辛いね」などとよくわからん自慢を含めて。

 そしてその際、「お月様になっても、私のこと忘れないでね」とこれまたよくわからない文面とともに勤務予定表を添付したメールが送られてきていた。

 ……もしかして、先輩に聞いたらなにか解るかも。

 休みであれば直接ワンドにかければいいし、勤務中なら小牧少尉からかげつに繋いでもらえればいい。

 そう考えて、明里は懐からワンドを取り出した。キーを操作して目的のファイルを呼び出す。

「今日は……えっと、現地歴で十一月二十二日、だから……」

 明里たちあけぼし乗員の間で使用されているのはI.D.E.A.が独自に採用した暦だ。

 無論、帝国が制定した暦は別にある。しかし鬼のように不便で誤差上等の太陰暦もどきのため、あけぼしでは不採用となった。

 対する軌道上の船団や月のファクトリーでは世界標準時UTCが使われている。暦も日常ではグレゴリオ暦のままだ。地球を出た折から継続して変わっていない。といってそれをそのまま地上で使うと、『晩秋深まった肌寒い早朝』が『八月三日の午後二時』などとなってしまうのでそれもそれで不便だ。

 そういった理由で、あけぼしでは宇宙時間と平行して別の暦と時間も用いている。

 すなわち、この惑星と恒星を地球と太陽に見立ててグレゴリオ暦に当てはめた“現地歴”と、帝都に設けられた観測所を基準に設定された時間、通称“帝都標準時”である。

 この帝都標準時もザッフェルバルではやや感覚とずれるのだが、目安として不便という程でもないので今のところはそのまま使われている。

「やっちー先輩のシフトは……あ、ビンゴ、今晩の夜勤だ」

 八智の今日の勤務を確認すれば、ちょうど夕方からの出勤予定のようだ。

 すでに帝都標準時では午後五時を過ぎている。ならばきっと管制室にいるはず。

「ではすみません小牧少尉。かげつの第一大隊、歩兵第二中隊の神田八智少尉を呼び出してもらえますか?」

《了解しました。こちらの経由でかげつと通信を繋げますね》



《はい、こちら第一大隊戦術管制室。神田八智です。あかりん、仕事中に何用?》

 目の前の機械兵士の声が、小牧少尉のものから聞き慣れた女性の声へと変わった。かげつと通信が繋がったようだ。

「すみません。やっちー先輩。ちょっと折り入ってご相談があるんですが」

《なになに。お兄ちゃんを取っちゃいそうな女の子を闇討ちでもすればいいの?》

 どういう冗談ですか、と毎度の八智の言動に明里は頭が痛くなる。だが八智に相談する以上、これも織り込み済みだ。

 こういう場合は無視に限る。明里は経験則から下手なリアクションを返さずに用件を告げた。

「ルタン南部にある村の方から『今晩何か強大な存在が襲ってくるって予言が出た』って陳情を受けたんですけれど。周辺なにか怪しい感じは出てますか?」

《んー、盗賊だったら実際に動き出さないとわかんないんだけど。……ルタン南部? って、あー、あー、あー!》

「ええ!? 本当になんかあったんですか?」

 予想外の八智の反応に明里も目を丸くする。柚歩や、翻訳魔法で明里の言葉が解るティルも思わず身を乗り出した。

《昼過ぎにトカゲ人間――魔族の部隊がなんでか山脈の国境線越えちゃったらしくてね。今こっちはちょっとした大騒ぎに》

「ちょ……」

 流石に驚きで明里は声を失った。

 ちょっとなのか大騒ぎなのかどっちなのか、と突っ込む余裕もなかった。

《征伐軍が一戦やらかして見事に負けたって。ちょっと前に敗残兵が帰ってきて情報が来たばっかりなんだよ。そんで対策本部が立って、殺るか殺らぬかで大揉めしてて》

「それ、大事なのでは……」

《もー超おおごと。今日これから夜勤で出てきたばっかりってのに頭痛いのなんのって》

 八智は軽く言うが、おそらく現場はかなり殺気立っているに違いない。

 ……ええと、とりあえず。

 機械音声が訳せないティルに話の概要を伝えるため、明里は改めてここまでの内容を復唱しながら次の問いを向ける。

「魔族の軍隊が昼ごろに境界線を越えたと。――で、皆さんの対応はどうなってるんですか?」

《うちはいつでも潰せるように偉い人が戦術会議中。実際に動くかどうかは満葉ちゃんたち外交部の話次第になるね。総督府は独自に迎撃するって話で、向こうからの依頼で輸送部隊が法官さん運んでわちゃわちゃしてる》

 その話を聞いて、明里は思わずティルの方を向く。そしてティルに伝わるよう、もう一度内容を復唱しながら問いかける。

「総督府が独自の判断で迎撃というのはどういうことですか? 総督代行閣下はここにいらっしゃって何も指示とか出されてないんですが」

《あれ、お出かけ中なの? おっかしいな。確かに総督府が動いてるって聞いたんだけど》

「じゃあ、どうして――」

「あの領主ならやるでしょう」

 怪訝な明里の声を遮ってティルが言葉を挟んだ。

「先代総督が亡くなられてから総督府はずっと彼が仕切ってきました。私が留守にしたところで、むしろ厄介者がいなくてやりやすいというぐらいのものでしょう」

 明里もそんな噂は聞いたことがある。よそ者のティルは、ザッフェルバル側にとってもお飾りでしかない総督だと。

 総督が領国における皇帝なら、領主は宰相に相当する。実務をほぼ取り仕切る領主が決裁を出せばとりあえず現場は回るのだ。

 総督は法規上では皇帝から全権を委任されている。だが事後報告にサインをするだけで、経営は領主に任せきりという領国も一定数存在する。そして、システム上はそうであっても問題ないように設計されているのだ。

 これは、総督が魔法使いであり、祭祀者であるため、儀礼儀式に没頭できるようにという帝国建国時の配慮に基づく構造だそうだが。

「そっか。じゃあティルちゃん。八智さんに聞いておきたいことはある?」

 明里が問えばティルは頷いて言う。

「……迎撃に出た総督府の法官たちは、誰がどこで指揮をとっているかお分かりですか?」

「――ということですが。どうでしょう?」

 明里はそのまま日本語に訳して八智に伝える。

《んー、もしかしたらルタン空港にいるかもね。とりあえずそこに法官たちを集めてるって話だし、領都からそっちの偉いさんが来てるかもしれない》

「――だって」

 振り向き、明里はティルに向かって帝国語で伝える。

「……なら、向かうべきは空港でしょうか……」

 ぶつぶつと悩みだすティル。どうやら彼女はこの戦いに参加する気らしい。彼女の性格ならそうだろうな、と明里は苦笑。

《ね、あかりん。ルヴィっち閣下ちゃんは今回の件に参加するつもりなの?》

「本人はそうしたいみたいです。やっちー先輩、どうしましょう」

《なら、こっちに来たほうが戦況も見渡せるはず。こっちから総督府の討伐隊に通信機を貸与するって話だし、いざとなれればここから指示も出せるかも》

「それは確かにそうかもですけど……」

 恐る恐るティルに確認を取れば、「ぜひお願いします!」と即決だった。

「だそうです。大丈夫そうですか?」

《確認とってみる。ちょっち待っててね? ……すみませんがー……》

 それからしばらく無音が続く。もう一度呼びかけてみようかと明里が悩み始めたころ、ようやく八智の返答が届いた。

《大隊長から許可もらえそう。だれが何人来る?》

「ティルちゃんと私と柚歩と――」

 予言の男の子は連れて行くべきか迷ったが、それを察したのかティルが男の子の背に手を当てて言う。

「彼も連れて行ってあげてください。見届ける権利はあるはずです」

「え、何? どういうこと? 今なんの話してんの?」

 ……大丈夫なのかなぁ。

 完全に置いてきぼりの様子の男の子。連れて行って意味があるのだろうか、とも思ったがとりあえず聞くだけ聞いてみることにした。

「……あと、予言を伝えに来てくれた現地の男の子、以上四人です」

《現地の民間人さんね。どうしますー? ……オッケー。こっちに来ていいって。じゃ、ルタン空港にトビウオを回してもらうから。それで上がってきて》

 そうして話はついた。

 厄介なことに巻き込まれたなぁ、と思いながら、明里は努めて平静を装って返答する。

「解りました。すぐに向かいます」



 ざんげつのコマキ少尉にアカリが礼を言うと、ティルたち四人はすぐに移動にかかった。

 一等法官には最後までティルの身分を明かすことはなかったが、彼もなんとなく察していたかもしれない。速やかにティルたちが乗ってきた“無人馬車”へ案内してくれた。

 乗り込むやいなや「なんだこれ、すげぇ!」と目を輝かせる男の子をよそに、ティルは持参したワンドでカズキへ電話をかける。

 ほとんど待つことなくカズキの声が聞こえた。

《ティル様。どうされましたか?》

 いつもの落ち着いた声。ティルは自分が小さく震えるのを感じながら、問うべきことを問うていく。

「魔の者たちが境界線を越えたと聞きました」

《なるほど。そのことで何かご意見が?》

「ヤチさんから、I.D.E.A.側の対応は検討中と聞きました。総督府が、独自に動いているという話も」

《ええ、はい。こちらも今のところ迎撃準備を整えつつ、まずは総督府に任せようという意見でまとまっています》

「総督府には指示は出していません。ですが、追認するつもりです。それと、私もかげつに同乗することになりました。許可はヤチさんからもらいました」

《わかりました。現地で指揮は取られますか?》

「戦いのことはよくわかりません。なので、見守るつもりです」

《ではそのことで、少しだけ注意してほしい点があります》

「何でしょうか?」

 そこで少しの間、無言が置かれる。何かを迷っているのだろうか、とティルが疑問に思うと。

《今回の件、総督府側とI.D.E.A.側の戦闘協力は双方の合意のもと、情報提供と人員の輸送のみの限定的なものとなります》

 やや小難しい言い回しで、ティルの頭にはその意図がうまく入ってこなかった。

 総督府と、I.D.E.A.が合意したことが、何だというのだろうか。

「……すみません。それは、どういう意味でしょうか?」

《あー、えっと。平たく言えば、総督府は今回の戦闘においてI.D.E.A.軍の援護を拒否した、ということです》

「まさか……魔の者どもを前に、そんな悠長な……!」

《総督府の首脳部は僕らにできるだけ借りを作りたくないようです。反面こちらも、被害を出さずに済むならと、その方針を承認する運びとなりました》

 それが政治というものなのだろうということは、ティルもこれまでの経験でおぼろげに理解できてはいた。だが、それでも危機を目前にして借りがどうのという神経はやはりティルには納得できなかった。

《ですので、今回は総督府の法官たちが先行して攻撃を仕掛けます。法官たちが敵を倒しきれぬ場合、彼らが退却した後にかげつが動く手はずになっています》

「それでは、カズキさんたちの力を借りるためには、……総督府側が、負けなければならないということなんですね」

《大きな被害なく法官たちが勝てることをこちらも願っています。ですが……敗北するとなれば、可能な限り被害の少ない早期に撤退するよう、ティル様から働きかけていただけないでしょうか》

「……戦いのことを知らない私が、できるでしょうか?」

《かげつの管制室にいれば、ヤチさんをはじめとした第一大隊のメンバーからアドバイスが得られるはずです。よく聞いて、よく見て、ご判断ください。……酷なことを申し上げるようですが、ティル様はどうか彼らの引き際を見誤らぬよう願います》



 あけぼし艦内。外交部事務区画。

 ティルからの音声通話を切り、和貴は自分のデスクの椅子に大きくもたれかかった。

「はぁ……」

 仕事として譲れない点はある。その中でどうにか伝えたアドバイスだったのだが。

「まったくひどい話だな、かずきっちゃん?」

 横で和貴の声を聞いていたらしい満葉が、書類を作成しながら言う。

「ええまあ、僕も外交部の人間ですから」

「そう言うわりにはかなり不満そうに見えるぞ?」

「……さすがに、今はちょっと自己嫌悪ですよ」

 ティルの力になりたい気持ちは、和貴の中に常にある。

 しかし、I.D.E.A.の職員としての立場もある。最大限に総督府を活用しこの地での安定した統治体制を築きたい。そういう思いも、もちろんある。

「心配するな。かずきっちゃんは『命を無駄にさせるな』と、正しいアドバイスをしたさ」

 その言葉の裏にある諸々の意図を思うと、和貴には悪い冗談にしか聞こえなかった。満葉も半ば自虐を込めて言ったのだろう。

「できもしない無理難題を押し付けただけです。罪滅ぼしにもなりません」

 なぜなら和貴が伝えたアドバイスは、形式を整えるだけのもの。事変後に彼女の地位を保護するための布石でしかないのだから。

「彼女を守る言葉ならば、どんな付加価値をつけていても彼女のためのものさ。いくらマッチポンプのような状況でもな」

 やろうと思えば、どこまでもティルを泣かせぬように動くことはできた。

 総督府に敵侵攻の事実を告げなければよかったのだ。かげつを早々に動かして処理し、事後報告とすることもできた。

 けれども和貴たち外交部はそうしなかった。

 察知した時点で総督府へ通告。戦闘協力を行う旨も告げて、領主の判断を仰いだ。――当然、彼らが独自に迎撃を行おうと動き出すことを見越して。

 総督府の老人どもからすれば、ここでI.D.E.A.に協力を仰げば自力で領国を守れないと宣言するに等しい。そうなればザッフェルバルの警備態勢にI.D.E.A.のさらなる口出しを許すことになる。I.D.E.A.の介入をよく思わない老人たちはこれを拒絶する他ないのだ。

 だが、力なきプライドは破滅しか生まない。

「ここで派手に自爆してくれれば、老人どもの発言力はだいぶ削ぐことができる。そうなれば閣下ちゃんはだいぶやりやすくなるだろう。これも一つ彼女ののためだ」

 ティルの発言権が高まれば、当然I.D.E.A.の“指導”は行き届きやすくなる。要するに、それが今回の小細工のポイントだ。

 ……彼女のため、か。

 和貴は自嘲の笑みを浮かべる。

「派手に負けてくれればシナリオ通り……でも、総督府側が勝ったとしても、僕らに損はない」

 例え法官たちが勝ったとしても、出費なく魔族との戦闘データが取れるのだからI.D.E.A.としても万々歳。

 さらに言えば現地人だけでの防衛線の構築を行うのは当初からの目標の一つだ。その戦闘データは、弱体化した征伐軍の再建に大いに役立つだろう。

 一方で、総督府内部での政治情勢にも大きな影響はない。なぜなら、

「今までの状況がもともと最悪だったからな。総督府は最初から彼らのものだ。これまでは帝国の法規を盾にほとんど総督の強権で押し切ってきただけだ」

 それでも彼らがこうして領主たちが独力での勝利にこだわるのは焦りがあるからだろう。

 和貴たちI.D.E.A.と、それに従う総督代行に力を見せつけて、どうにか自分たちを認めさせよう、という。悪あがきのようなものだ。

「でも、法官たちは勝てないでしょうね」

 和貴だけではない。それは外交部や降下軍を始めとした各部の一致した結論だった。

「だろうな。征伐軍の対魔族戦闘における経験則ノウハウは外へ提供されていない。対してザッフェルバル総督府主導の対魔族戦闘の経験は百年以上も前のものだ。それも増援を待つための遅滞防御をしただけ。実質的にザッフェルバルの法官たちが取れる戦術は対盗賊のものと大きく変わらないだろう」

 近年のたびたびの魔族侵入にあっても、ザッフェルバル総督府警衛隊の対応はまったくお粗末なものだった。主力はことごとく間に合わず、襲撃に遭った村に駐在していた法官はただ一人の例外もなく殺されている。

 今回はトビウオという“足”によって、ようやく実現した百数十年ぶりの正面衝突だ。どうにか頭数は揃ったものの、征伐軍があっさり取り逃がすような敵に、警察に毛が生えた軍隊もどきが勝てるはずもない。それが今回の件におけるI.D.E.A.側の共通認識。

 だから、と満葉は続ける。

「閣下ちゃんを始めとした彼らができるのは、いかに傷を浅く済ませて降下軍に泣きつくかだが……こちらの申し出を蹴って単独での迎撃を主張した手前、そう簡単に撤退はしないだろうな」

「だからこそ、ティル様が撤退命令を出す価値があります」

 和貴は小さく拳を握る。

「そうだ。明らかな敗北を前にも現場責任者の警衛長は最後まで粘るだろう。そこで先んじて命令を出し、あわよくば蹴ってくれればこちらのものだな」

 総督はいなくても現場は回る。だが腐っても皇帝の代理人。本来の全権は皇帝にあり、今はその代理人の代行たるティルにある。

 彼女の勅命を蹴ってむざむざ敗北でもしようなら、それこそ後はまな板の上の鯉だ。

「撤退のタイミングについては大隊長からアドバイスが行くはずです。――ティル様は賢いし、それ以上に優しい。敗北を悟れば撤退を躊躇しないでしょう」

 外交部にはかげつの第一大隊から先に連絡が来ていた。ティルの電話より先に「総督代行を管制室で受け入れる」と。その際に和貴はティルへの助言を依頼してあった。

 陸戦部隊をまとめる大隊長が判断したタイミングであれば、大きな誤りはないはずだ。ティルはそれを躊躇うような子ではない。

「問題は、大きな被害なく撤退できた際、警衛長が敗北の責任をティル様になすりつけようとした場合ですが――」

「その時は情況証拠を集めて閣下ちゃんの弁護にかからねばならないだろうな。一番面倒なシナリオだ。だが、プライドの高い警衛長サマでは無視していい確率だろうさ」

 ザッフェルバル総督府における治安維持の最高責任者、警衛長。そのプロファイルには和貴も目を通していた。

 ベルンガ教導官。

 魔法技術に優れており、代々ザッフェルバルで警衛長を務めてきた由緒正しいベルンガ家の現当主。

 優秀な法官として順調に出世し、警衛長という位に就いてからもザッフェルバルという地に愛着と誇りを持って任務に遂行している。代々総督を務めているザッフェルバル公家に対する忠誠も人一倍篤い。

 その自領国に対する誇りの高さゆえだろう。総督府貴族の中でも、よそ者であるティルに対する進言――ほとんどは苦言――の多い人物の一人だ。

 また、彼の所掌である治安維持業務に割って入ってきた降下軍の街道警備援助などには、不快感を隠そうともしていない。

「悪い人じゃないんですけどね」

「私達にとっては十分邪魔者さ。でもってこのまま盛大に敗北してくれれば、めでたく打ち首にできる、とこういう算段になるわけだ」

「ティル様はさすがに打ち首にはしないでしょうが……処刑を匂わせてから救えば十分に恩を売れますからね」

 ……ああ、本当に小狡い計算だ。

 ティルの地位が守られ、発言権が増すなんてのは副次的な効果にすぎない。これは、まごうことなく自分たちの利益のための政治的駆け引きだ。

 そして口には出さず、あえて思考を放棄していた点に、和貴は少しだけ思いを巡らす。

 自分たちのこの馬鹿げたパワーゲームで、一体何人の罪なき法官が犠牲になるのだろう、と。

 時計は素知らぬ顔をして時を刻む。

 開戦まで、推定およそ五時間を切っていた。

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