第一話、その五。

 明塚剣太郎は、トンネル出口の前に立ち目をらしてその奥を見た。

 半月の夜、弱い月の光ではせいぜい数メートル先しか見えない。

 右手に持った照明手りゅう弾のピンを左手で抜き、中に投げ込む。トンネルの奥に転がった手りゅう弾から白い炎が勢いよく吹き出し、構内を照らした。

 出口から2百メートルの地点には居た。

「人喰いヤンマの幼虫か」

 いわゆる「ヤゴ」と呼ばれる昆虫が、タクシーの車体ボディーおおかぶさっていた。

 体長ざっと七、八メートル。頭部のほとんどを占める巨大な複眼が、照明手りゅう弾の光に照らされてぬらぬらと光っている。

 折り畳み式の巨大なハサミのようなあごが、若い男の腹をガッチリと捕え、そこから大量の血がタクシーの上に流れ落ちていた。

 昆虫の頭が左右に動くたびに、男の頭がビクッ、ビクッ、と痙攣けいれんする。

(まだ生きているのか?)

 生きながら腹の肉を喰われているのか……出血から見てじきに死ぬ。手遅れだった。

 タクシーから五十メートル手前に女が倒れていた。顔を上げ、こちらを見ていた。

 剣太郎は、女の救助に集中することにした。

 父の編み出した細胞制御術さいぼうせいぎょじゅつを使い、全身の細胞一つ一つに「前への意志」を送り込む。

 瞬時に全身四十兆個の細胞が完全に無駄なく連携し、剣太郎の体をトンネルの奥へと走らせた。

 物凄い加速力だった。

 一瞬で静止状態から、サバンナの肉食獣さえ追いつけない程のスピードに移行する。予備動作というものが全く無かった。

 踏み込みの強烈な衝撃で、トンネル内のコンクリート舗装路と金属製の下駄の歯のあいだに火花が飛び散った。

 倒れている女のわきまで来た所で、再び全身の細胞に命令を下し一瞬で静止する。

 うつ伏せに倒れている女を優しくひっくり返し、仰向けにした。すねや手のひらにり傷はあるが、致命傷は見られなかった。おそらく暗闇の中を走って何かに爪突つまづいたのだろう。

 ただ、足の先の怪我けがは少しひどかった。爪ががれてストッキングに血がにじみ出ている。数メートル先に脱げたハイヒールが落ちていた。

 自力で歩くのは無理だろう……

 剣太郎は、素早くマントを脱いで女の体をぐるぐる巻きにしたあと、両手で抱えて持ち上げた。

 出口を振り返り一瞬で最高速まで加速、トンネル内を走り抜ける。

 雪の積もった広場へ出て、西脇と名乗ったタクシー運転手を探した。雪の上に足跡を目で辿たどっていくと、自分のダッフルバッグが広場と森の境目に落ちていた。

 木の向こうに隠れている男と目が合った。男の所まで行って、マントにくるんだ女を雪の上に置く。

「このマントには発熱機能があります。こうして体を包んでいれば寒くないはずだ」

 剣太郎は、西脇に言った。

「とにかく、ここでじっとして居てください」

「じっとして居ろって……おぇは、どうするんだ?」

 そう言う西脇に、剣太郎が答える。

「ここで決着を付けます。

 ただのオジサンと怪我けがをした女が一緒じゃあ、とてもやつからは逃げられない」

「け、決着? やつって誰だよ、やつってのは、よ」

 これ以上、西脇と話す気は無かった。剣太郎は立ち上がって下駄をいだ。

 雪原のほぼ中央へ行き、トンネルの出口に向かって構える。

 父……異端の物理学者、明塚博士が開発し、息子の剣太郎だけに授けた格闘術。十二歳までに全ての理論を叩きこまれ、それ以降は、たった一人でむくろノ森にこもって奥義を体得した。

 あらゆる方向からの攻撃を防御し、また、あらゆる方向への攻撃を瞬時に行う「動無どうむの構え」で人喰いヤゴを待つ。

 暗闇から月光の下に、巨大な昆虫が現れた。体長八メートル弱。六本の脚で動き回り、折り畳み式伸縮自在のあごで獲物を捕らえる。

 捕えた男の体はトンネルの中で喰らいつくしたのだろうか。恐怖と苦痛を顔に貼り付かせた人間の頭部だけが、巨大なあごはさまっていた。

 男の頭部が、あごの奥に消えた。

 バキバキという骨の砕ける音が夜の森に響いた。

 一人目の犠牲者を喰い終わり、巨大ヤゴが次の獲物を狙う。

 怪物の前で構える少年、明塚剣太郎に狙いを定めた複眼が月光を反射してギラリと光る。

 次の瞬間、折り畳み式の巨大なあごが剣太郎めがけてシュッと伸びた。

 少年は体を沈めながらむしろ巨大ヤゴに向かうようにして踏み込み、ぎりぎりでハサミ状の先端をかわし、横から折り畳み式の「腕」の部分に手刀を叩きこんだ。

「せいっ」

 強烈な呼気と共に鍛えられた手刀がヤゴの硬い外骨格にぶつかった。

 瞬間……

 少年の手刀から「何か」が、巨大昆虫のあごに……そのに送り込まれた。

 狙いを外したヤゴのあご一旦いったん縮んで体の下に格納される。

 剣太郎少年も大きくバック・ステップを踏んで昆虫との距離を置いた。

 雪の積もる森の空き地でにらみあう巨大昆虫と少年。

 グシャッ!

 何かが潰れる音と同時に、昆虫のあごが地面に落ちた。

 あごは少年が手刀を叩きこんだ場所から切断されていた。

 外側からの力というよりは、むしろ外骨格それ自身が内側へめくれて行った結果、ひしゃげて落ちたような切断面だった。

 これこそが、父、明塚博士が編み出し、息子、剣太郎少年が厳しい修行の末に会得した奥義!

 ……全身四十兆個の細胞を完全にコントロールし連携させることによって体内に生み出された重力場特異点……いわば極小マイクロブラックホールを、手刀、突き、蹴りなどに乗せて相手との接触点からその体内に打ち込む!

 極小マイクロブラックホールは敵の体内で活性化し、その強烈な重力場によって敵の体を崩壊させる!

 

 この史上最強の格闘術に弱点は二つ!


一、重力弾を打ち込むためには一点でも肉体ボディ肉体ボディの接触が必要!

二、重力とはすなわち「引き寄せる」力! 遠距離において安易に使えば、敵の攻撃を「引き寄せ」てしまう!


 明塚剣太郎の〈重力特異弾〉を受け、唯一の武器である伸縮自在の折り畳みあごを失い、人喰い巨大昆虫は動くことが出来なかった。

 人間の感情に例えて言えば、「恐怖」を感じておびえていた。

 少年はゆっくりと巨大ヤゴに向かって歩いて行った。もはや勝負は決着した。あとはやつの頭部、複眼と複眼のあいだに正拳突きに乗せて〈重力特異弾〉を打ち込めば、頭部は内側へ向かって、潰れるだろう。

 きゅぃぃぃいっ!

 巨大ヤゴが甲高い鳴き声を上げた。悲鳴か、あるいは、許しを乞うているのか……

 その時……別の場所……トンネルの奥から、ヤゴとは別の生き物の鳴き声が聞こえて来た。

 げこっ……げこっ……げこっ……

 とどめを刺す直前、剣太郎は拳を引き、後ろに下がって距離を取った。

(まずい……)

 この声には聞き覚えがある。

 少年にとって……明塚式格闘術にとって最も厄介な敵の、鳴き声。

 げこっ……げこっ……げこっ……

 剣太郎は急いで西脇と麗子の居る木の陰に向かった。

「どうした? なぜとどめを刺さない?」

 西脇が聞いた。

「トンネルの奥に、もう一匹ひそんでいる」

 少年が答えた。

「そいつが出て来ます。厄介やっかいな相手だ。

 やつは動いている物なら何にでも襲いかかって喰ってしまいます。

 逆に、死んで動かないものには全く興味を引かれない」

「つまり、巨大ヤゴにとどめを刺さなかったのは、ヤゴをおとりに使って、もう一匹のやつの注意をそちらに向けるため……時間稼ぎか?」

「そうです。その間に、あの獣道を通って」

 少年が、先ほど自分が現れたのとは反対側の獣道を指さす。

「この女の人を担いで出来るだけ遠くに逃げてください」

「おぇの荷物は?」

「置いて行って下さい。女の人と荷物の両方はオジサンには……西脇さんには無理だ」

 剣太郎は麗子を抱き上げ、西脇の肩の上に乗せた。麗子の顔を見ると意識は有るようだったが、ぐったりと体の力を抜いて男たちにされるままになっていた。

 言われるままなのは西脇も同じだ。あの化け物を見てしまった後では、もはや何を信じて良いか分からない。とりあえず自分に害なす人間でないことを祈りつつ、言う通りに行動するしかないと腹をくくって剣太郎の命令に従った。

 剣太郎少年は、女を背負ったタクシー運転手が獣道に消えたのを確認したあと、広場の真ん中にうずくまる巨大ヤゴを振り返った。ヤゴはほとんど体を動かしていない。

 ヤゴは尻の穴から呼吸をする。呼吸の周期に合わせて、腹がわずかにゆっくりとふくれたりしぼんだりしていた。

 絶対に勝てない相手が近くに居た場合、死んだふりをして危険が去るのを待つという習性が、この生物にはあった。

 その「絶対に勝てない相手」とは誰の事か……明塚式格闘術の世界でたった一人の使い手、明塚剣太郎か……あるいは、トンネルの奥に居る天敵の存在を感じ取っているのか。

 剣太郎はヤゴを見つめたまま、ダッフルバッグのそば片膝かたひざを立ててバッグを開け、中から金属製の棒を二本、取り出した。

 長さ約五十センチ。片方を鋭くとがらせた形状は、巨大な金属製の「鉛筆」のようだった。

 両手に金属棒を一本ずつ持ち、先ほど脱いだ金属製の下駄を履き直す。

 トンネル出口、広場のようになったこの場所で、一体これから何が起きるのか……

 剣太郎は、何が起きても対応できるように全身の筋肉を柔らかくリラックスさせ、森の木を背にして立った。

 突然、トンネル奥の暗闇から、ぬらぬらした粘液をまとったピンク色の「触手」が物凄い速さで飛び出した。

 巨大な触手だった。太さは人間の胴回りの三倍はあった。

 触手の先端が巨大ヤゴの背中にビタッと貼り付いた。今まで死んだように動かなかったヤゴが触手から逃れようと必死で体をくねらす。

 しかし、どんなに藻掻もがこうとも、強力な接着剤にも似た触手表面の粘液が巨大ヤゴを捉えて離さない。

 げこっ……げこっ……げこっ……

 トンネルの奥から不気味な鳴き声が聞こえて来た。

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