<ルナティック・イリュージョン>~魔術師と超人幻想~



 それから一時間も経ず、オレは水晶でつくられた小屋の近くまで来ていた。


 走る速度を緩め、徐々にゆっくりと静かな歩みへと変えていく。


 移動中、また時間を緩やかに感じる現象を感じていたため、もっと長い時間がたったような気がしていたが、日はまだ中天を過ぎたあたりだった。


 フルマラソンを超える距離を、世界記録の倍以上の速度で走ってきたというのに、この体は息切れ一つしていないどころか熱すら持っていない。


 あきらかに人間の限界を超えていた。

 それどころか動物の限界ですら危ういくらいだ。


 平均時速、数十kmでの移動。


 ATC回路と呼ばれる動物のエネルギー生産システムが、筋繊維の収縮という駆動システムを通じて得られる運動エネルギーの限界値は、そう高いものではない。


 それでも。これが平地で何の障害物もない場所でなら、人間にはともかく可能な数値だ。


 しかし、森の中となると話は違う。

 それなりに高低さがある地形と、障害物となる樹木や倒木、そして時に沈み込む不安定な地面等の負荷を考えれば、その平均速度を得るにはかなりの瞬間速度が必要になる。

 それは、限りなく不可能な数値になってくるのだ。


 チーターなどの高速移動をする生物がいるのだからそんなわけはない?


 確かにそれらの肉食獣が出せる速度は時速百kmほどはある。

 だが、彼らがその速度を出せるのは平地でのことだ。

 しかもその速度を維持できるのは、どうがんばっても数分以下になる。


 同条件でならこの肉体は時速二百数十kmに達する速度をだせるだろう。

 それを考えても、また森の中での方向転換による急な加減速のGに耐える筋組織や、骨組織の強度という面から考えても、生物の範疇を逸脱しかけているのは間違いない。


 まるで、マンガの中で描かれる‘縮地’と呼ばれる武術の技法を思わせるようなことが可能な肉体性能など、現実ではありえない事だった。


 本来、縮地とは仙人が使う瞬間移動のようなものだが、仙道の流れを組むと称する武術がそれに近い技術として編み出した技法の呼び名でもある。


 現代において、魔術が手品と同意のように、この技法もある種のトリックにすぎない。


 現実に存在する縮地それは、予備動作を無くし膝から力を抜くことによっての重力加速による移動技術でしかないのだ。


 しかしそれはフィクションの中では、気の力を使った人間の限界を超えた瞬足での連続移動となっていた。


 もちろん実際の武術に伝わる‘気’と呼ばれる肉体操作技術では、それは不可能だ。

 あれもまた、呼吸法によって、意図的に瞬間的な筋収縮と開放を行う肉体操作技術にすぎない。


 勁という打撃技術と併用することで、威力の増加を行うものでしかないのだ。


 ‘気’を応用した間合いの離れた相手を一足飛びに攻撃する歩法技術もあるにはあるが、それも陸上競技でのクラウチングスタートのような単一動作に特化した技術で、連続動作としては行えない。


 そう考えると因果な事にオレはどうやら完全にフィクションの世界──それもかなり性質の悪い類のそれ──に足を突っ込んでしまったらしい。


 考えられる可能性は三つ。


 SFレベルの秘匿技術で改造人間にされた。

 全感覚型バーチャルシステムの中で実験中。

 オレは狂気の中にいて妄想にひたっている。


 ──というところだろうか?


 いずれにしてもへどがでそうな仮説だが、だからといって無視するわけにはいかない。


 しかし、これらの仮説には、その非常識さとは別に問題点があった。

 

 最初の一つは場所と状況の不一致。

 つまりは、そんなたいそうな実験の舞台として、このリアルティメィトオンラインの擬似世界がそぐわないということだ。


 リアルティメィトオンラインを舞台にしてのデスゲームに人体改造は不要だし、強化人間の人体実験にリアルティメィトオンラインの舞台は不要ということだ。


 次の問題点は少し複雑になる。

 これがASVRの実験だとして、なぜオレがそれを受けているかという点についてだ。


 オレが知る限りリアルティメィトオンラインは安全性と合法性をアピールしている最中だ。


 だというのに拉致による実験などは行わないはずだ。


 では、誰かがASVRシステムを盗み出してオレに使用した?


 それも何故そんなことをするのかという疑問は残る。


 ではそうでなく、ただオレが実験に合意してその記憶を失っているという可能性は?


 普段のオレならまず受けない。

 無駄に自分の生殺与奪権を人に委ねるなんてのは、飛行機すら操縦を覚えるまで乗らなかったオレがするはずがないのだ。


 そして最後の可能性だが、これは今までの思考が論理的に行われている点で否定できるはずだ。


 もちろん妄想の中で論理的に見える行動をとる狂人もいるが、彼らは自分を疑わない。


 だが、オレは自分が完全に正常とは断言しない。

 故に、逆説的に自分が妄想の中にいて溺れきってはいないという判断をくだしたのだ。


 要約すれば、ここが現実世界なら自分の存在が、仮想世界ならそこにいる理由が問題になる。


 とそれだけのことだが、全ての仮説において例外はないとはいえないし、事が自分の正気にまで及んでいるから対応が難しい。


(方針としては、以後は殺しは避けるくらいか)


 自分が妄想の中にいるという判断を捨てない以上、動物や怪物と思っているのが実は人間という可能性もある。


 永遠に妄想の住人として過すなら無視していい問題だが、それは遠慮したいものだ。


(少し試すとするか)


 オレは歩みを止めて辺りを見回す。

 小石を探したが見つからず、代わりにセピア色に乾いた紡錘形の枯葉に埋もれていた、小さな骨の欠片らしいものを拾った。


 直径1センチ強の歪な楕円のその骨片は、微かに土に汚れていたものの風雨に晒されて白く磨かれていた。


 たぶん小鳥の頭蓋か何かの欠片だろうが、これを見るとここがASVRの中だという仮説のひとつはますます怪しくなってくる。


 まあ、演出としての骨は16ビットのゲーム機時代からありふれてはいるのだが…………。


 欠片を右手の親指の上に乗せて握りこむと、オレは姿勢を正して、3mほど離れた木立に向き直った。


 そのまま、だらりと腕をたらし、‘気’を込めた親指の瞬発力だけで指弾を打ち出す。

 骨片は、ぼすっと鈍い音をたてて、樹の幹に孔を穿った。


 近づいて樹の幹に擂鉢状に開いた穴を覗き込むと直径3cmほどの進入口の奥で粉々に砕けた白いものが見える。


 指弾というよりも、銃弾に近い威力だった。


 指弾とは、弾き出そうとする親指と握り込んだ人差し指との間に挟んだ鉄の弾を。急激に開放することで前方に射出して使う飛び道具のことだ。


 達人になれば、樹に孔を穿つことも可能だが、それは鉄の弾での話しで、それもめり込む程度だ。


 まして、今オレがしたのは、武術でいう‘気’による親指の伸展筋操作だけで行ったものだ。


 オレの本来の技術では、せいぜい子供のデコピン以下の威力しかでないはずだった。


 この常識離れした能力は、オレが改造したキャラの能力値をASVRで再現したものならば判るが、そうでなければかなり非常識なものだ。


 できるとすれば、ナチスの残虐な人体実験の研究を引き継いで、第二次大戦後に医療技術を飛躍的に伸ばしたアメリカの暗部くらいだろうが、それでも可能かどうか。


 次にオレはそのまま樹についた手から気を流し込んだ。

 ゆっくりと‘気’を流し続けると、ざわざわと風もないのに、この樹だけが葉を揺らした。


 同じ‘気’と呼ばれていてもこれは体内で作用する‘気’とは別物で。そのほとんどが、トリックか電子機器を使ったいわゆる‘気功’と呼ばれる技術だが、この体なら本当にできるらしい。


 ‘気功’の原理は自分の体内で起こった生体電流を、意図的に操り電磁波として体外に放出し、他の生物に影響を及ぼすというものだ。


 体内での‘気’による筋収縮を促すのは足が攣るときのような化学物質の誘発であるのに対して‘気功’は電磁波の放出なのだから、オレも今までそんなものが可能とは思わなかった。


 技術として習ってはみたが習得できず、自分で受けてみても医療用の電磁治療器程度の効果しか感じられなかったのだから、まさに試してみただけだったのだが、つくづくオレは日常から乖離していっているらしい。


 オレは今度は樹から1mほど離れて殺気を込めて‘気’を放ってみたが、今度は流石に何も起こらない。


 ただ高速で突き出した掌が風圧を撒き散らしただけだ。


 ビームのように‘気’がでるなんてことはないのだから、順当な結果だった。


 実際にある気合で敵を倒すというような技術は、猛獣使いが威圧で猛獣を従えるような技術や催眠術に近いものなので、当然といえば当然だろう。


(そろそろ行くか)


 とりあえず咳払いをして姿勢を正す。


 辺りに何の気配もないのは判っていたが、何となく周りを見直して、オレは、そそくさとその場を離れた。




 





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