黄泉からの代弁者
二木瀬瑠
第1話 『はとぽっぽ』
夏になると、やたらと増えるホラー系の番組。あれ、正直言って、苦手です。
そうとは知らずに、うっかり見てしまったら最後。途中でやめると、自分の中で勝手に想像が膨らみ、とてつもなく怖いものになってしまうので、最後まで見るハメに。
最後まで見ても、結局は怖くて、何日もの間、びくびくドキドキしながら過ごさなければならないという、何ともまあ、チキンハートな人間なのです。
私の名前は、松武こうめ。この新興住宅地に住む、専業主婦です。
私が住む、この新興住宅地が造られたのは、元は荒れ野のような場所。現在は『宅地』になっていますが、造成前の地目は『荒地』でした。
造成後、新しい地名に改名された場所もありますが、古くからの名前をそのまま受け継いだり、元の地名の一部が使われている場所も、多く残されました。
古い地名には、かつてそこがどんな場所だったかを知るヒントが隠されていて、『沢』『沼』『淵』などのさんずいが付く地名は、もともと水に由来するエリアのため、脆弱な地盤といわれ、『岳』『峰』『尾』などが付く地名は、地盤が固いといわれるなど、土地を購入する際には、重要なポイントになります。
また、『宮』や『神』のつく地名には、信仰に関わる場所も多く、現在の名称の一部に、その文字を引き継ぐこの住宅地も、遥か昔、そうした場所だったらしいと、古い文書に記載があるのだとか。
それが原因かは分かりませんが、サイキックやスピリチュアル、ホラー体験をした、という方のお話も、ご近所では結構多くお聞きします。
そうしたことが好きな方は良いですが、私のように苦手な人間としては、出来るだけ関わりたくない、という心理が働くものです。
私には、スピリチュアルな能力など、持ち合わせておりませんので、もし、悪いものに憑りつかれでもしたら、怖いじゃないですか。ならば、危うきには近づかないことが一番。
万が一、知らずに禁断に触れてしまっても、なるべく祟りが降り懸からないよう、一年に一度、さらに、何か物事を始めたりする際には、必ずお祓いを受けることにしています。
『家普請』といって、昔から家を建てることは、一世一代の大事業です。『普請祟り』という言葉があるように、自宅を新築すると、家族に不幸なことが起こると、昔から言われてまいりました。
自宅の新築を決めた時も、あまりそうしたことを気にしない夫を説き伏せ、古式しきたりに法り、執り行いました。
たいていのお宅で、自宅を新築する際に行う『地鎮祭』。それには、二つの意味合いがあるといわれています。
一つは、その土地に住んでおられる神様を祝い鎮め、そこに家を建てさせて頂く許可を得ること、もう一つは、これからの工事の安全と、家の繁栄を祈願すること。
ですから、地鎮祭は、土地を購入した後、新築工事を着工する前に執り行う儀式で、空き地にしめ縄が張られていると、もうすぐ工事が着工されるというサインになるのですが、迷信、非科学的と、最近ではやらないお宅も増えているそうです。
ただ、こうした人知の及ばない部分に関してだけは、もし、後々何かがあった際、『後悔先に立たず』という心理からなのでしょう、現代でも、地鎮祭をされるお宅が圧倒的多数のようです。
昔は、施主自身がメインとなって、手配や準備をするものだったようですが、如何せん、初めての経験に戸惑うことも多く、現在では、ハウスメーカーさんや、工務店さんのほうで、準備して頂けるケースがほとんど。
我が家も、神社の手配や、祭祀に必要な、祭壇、お供え物、初穂料を入れる熨斗袋、はてはスケジュール調整まで、すべてハウスメーカーさんのほうで準備をしてくださり、私の担当は、神社の指定と、熨斗袋の中身を入れることだけでした。
祭祀を執り行って頂くのは、これから我が家の新たな『氏神様』となる、この街の鎮守社(神社)にお願いしました。また、我が家に子供が生まれれば、その子にとっては『産土神様』となり、お宮参りや七五三など、無事成長を願って、お参りすることになる神社です。
当日、時間より早く現地へ行くと、先に到着していたメーカーの方たちによって、土地の四方には、しめ縄が張り巡らされ、すでに祭壇も設えてありました。
祭壇の右手前には、円錐形に盛られた『盛り砂(齊砂)』があり、祭壇の正面に向かって、参列者用の椅子が並べられています。
暫くすると、お迎えに行ったハウスメーカーさんの車で、本日の祭祀を執り行って頂く神社の神職(神主)さまが到着されました。ご挨拶をさせて頂くと、ニコニコした笑顔が印象的な、とても優しそうな雰囲気の方です。
やがて時間になり、厳かに地鎮祭が始まりました。
まずは、修跋の儀(祭壇、土地、参列者の身を浄めるお祓い)、次に、降神の儀(神様を祭壇にお迎えする)、献饌(御供え物を差し上げる)、祝詞奏上(祈りを捧げる)、切麻散米(土地を浄める)、そして、地鎮の儀へと進みます。
ここでようやく、夫の出番。『地鎮の義』とは、刈初の儀(忌鎌)、穿初の儀(忌鍬)、土均の義(忌鋤)、そして、鎮物埋納の儀の構成で執り行われる、テレビなどでよく見かける、あの土を掘るようなアクションの儀式です。
一般的に使用されるのは、鎌・鍬・鋤で、まず『鎌』で敷地の雑草を刈り取ってきれいにし(設計者担当)、次に『鍬』できれいなった土地を掘り起こし(施主担当)、さらに『鋤』で掘り起こされた土地をきれいに敷均し(施工者担当)、最後に、鎮め物を納める(神職さま担当)という、あのパフォーマンスには、そういった意味があるのだそうです。
道具を持った三人が、同時に砂に向かうパターンと、一人ずつのパターンがありますが、我が家は同時に行いました。夫いわく、思った以上に砂がもろく、盛り砂が大きく崩壊してしまい、『やっちゃった!?』と焦ったそうです。
神職さまは、相変わらずニコニコしながら、夫に向かって『大丈夫、大丈夫』というふうに、頷いてくださり、その笑顔に、折れそうになった心が救われたのだとか。
さらに、玉串奉奠(神前に玉ぐしを捧げる)、撤饌(御供え物を下げる)、昇神の儀(神様にお帰り頂く)となり、これで一連の儀式が終了となります。
その後、神酒拝戴といって、神職さまのご発声で、お神酒を頂戴するのですが、道路交通法の関係から、運転する人は形だけの参加になります。
ここで、初穂料を神職さまにお渡ししました。メーカーの担当者さんが、御祝い用のお盆を用意してくださり、その上にご祝儀袋を載せ、御礼と共に御手渡しすることが出来ました。
本当に、何から何まで、気配りが行き届いて、我が家は、良いメーカーさん(担当者さん)に当たったと思いました。余談ですが、そういう部分の出来不出来は、ハウスメーカーを選ぶ上で、大きなポイントにもなります。
その後、神職さまのご指導のもと、施主の私たちは、自分たちの手で、御供えのお塩、お酒、お米、お神酒を、土地の四方の方角の土に撒きました。果物や野菜などは、そのまま頂いて帰ります。
また、鎮物埋納の儀で神職さまが納めた『鎮め物』は、一旦、施工業者さんに預かっていただき、適当な時期に、神棚を設置する真下か、建物の中心になる場所の、いずれかの地中に納めて頂きます。
そして、地鎮祭で頂いた御札は、上棟の際に、天井裏の一番高い梁の部分に取り付けて頂くのですが、こちらは、自宅の神棚で、神棚がなければ、目線より高い、失礼のない場所に置いて、保管します。
最後は、ご近所へのご挨拶回り。ハウスメーカーの担当者さんたちと一緒に、ご挨拶用のタオルを持参して、顔見せを兼ねて、工事中、ご迷惑をお掛けするお詫びを申し上げに、向こう三軒両隣へ。
とはいっても、当時はまだまだ空き地だらけでしたから、両隣だったお宅は、いまでは二軒、三軒先。でも、つい癖で、『お隣の…』と言ってしまうほど、ずっと親しい関係が続いています。
地鎮祭当日は、お天気にも恵まれ、雲一つない晴天でした。遠くで小鳥の声が聞こえる長閑な環境の中、厳かに儀式が始まり、神様を祭壇にお迎えする『降神の儀』に差し掛かったときのこと。
スッと一陣の風が吹き、神職さまのお持ちになっている大幣(白いひらひら)や、お衣装を揺らし、私たち参列者の間を通り抜けました。
まるで本当に神様が降りていらっしゃったようなタイミングに、皆が感嘆の声を上げたほどで、これには、神職さまも驚いたような表情をされていました。
一生に、そう何度もないであろう、我が家の地鎮祭で、この不思議な出来事に遭遇したことが、とても嬉しく、忘れられない想い出になりました。
同じスピリチュアルな体験でも、そうしたハッピーなものなら大歓迎ですが、住み始めて、ご近所の方々から伺う、この土地に纏わる怖いお話は、本当に苦手でした。
いくら、造成したての新興住宅地とはいえ、造成工事の着工時と、完成後の竣工式、さらには自宅新築時と、その都度、お祓いをしていても、土地に刻まれた歴史まで、リセットされるわけではないのです。
古い地名が示す通り、かつては信仰に由来する地だった場所。学校の怪談よろしく、その類のお話が出るわ出るわ、よくまあ、そんなにあるものだ、と感心するほど。
いわくつきと思しき場所には、近づかないようにし、どうしてもという場合には、誰かに同伴してもらったりと、自分でも、面倒くさいやつだと思いますが、怖いものは、怖いのです。
今でこそ、そんな私ですが、幼いころは、それほど怖がりというわけではありませんでした。
時代は、『科学の発達』と『迷信』が混在する、高度経済成長期。
まだまだ、身近な生活環境には、そうした場所が多くあり、よく遊びに行っていた祖母の実家も、古いお屋敷と蔵が残る、そんな環境の一つでした。
祖母の実家は、街外れの、やや鬱蒼とした木々が両脇に続く坂道を上り、その突き当りに開けた、広い敷地にありました。
当時その家に住んでいたのは、祖母の母親(私の曾祖母)と、姪(祖母の兄の長女)の二人。
元は、代々続く旧家で、跡を継いだ祖母の兄が戦死、妻と長男も空襲で亡くなり、唯一残された長女が、跡継ぎとなりました。
私が生まれた時、曾祖母は80代後半、姪の実花子さんは30代後半で、結婚して、息子が一人いましたが、私が物心つく頃には、すでに社会人になり、家を出ていました。
また、婿養子に入った実花子さんの旦那さんは、結婚して三年後、不慮の事故で亡くなったそうです。
当時、祖母実家には、大型犬のポチと、年をとって寝てばかりの三毛猫、ミーちゃんがおり、動物好きだった私には、とても魅力的な場所。
特にポチは、祖母の兄が可愛がっていた犬たちの末裔で、犬種はシェパード。ポチのお仕事は、お家と家族の警護でしたから、来訪者に対しては、激しく吠えて威嚇しました。
部外者には敵意剥き出しでも、祖母や曾祖母、実花子さん、私の父などは、自分が赤ちゃんの頃から知っているので、子犬のように従順で、私のことは、私が赤ちゃんの時から見ていたので、お兄ちゃん的なスタンスで、いつも守ってくれていました。
体高65㎝、体重40㎏と、サイズがサイズだけに、威嚇された方は、相当怖かったでしょうが、高齢と中年の女性だけの二人暮らしでも、安心していられたのは、彼のおかげといえます。
もう一つ、祖母実家の一番の特徴は、大きな鳩小屋があったことです。祖母の父も兄も、海軍の軍人で、かつてその鳩は、軍用の伝書鳩として用いられていたものだとか。
その後、ジャーナリストだった実花子さんのご主人が、一時期、業務用に使っていましたが、通信手段の発達に伴い、その使命を終えたのだそうです。
今ではペットとして飼育し、時間帯によって、小屋から放たれる鳩たちが、一斉に上空に舞い上がり、大きな円を描いて羽ばたく様は圧巻。
私にはその印象がとても強く、祖母実家(と曾祖母)のことを、『はとぽっぽ(のおばあちゃん)』と呼んでいました。
敷地内には、広いお庭があり、かつては専属の庭師によって、見事な庭園が広がっていたそうですが、今では手入れする人もなく、ごく一部に、実花子さんがお花を植えて楽しんでいるだけです。
そして、母屋の脇には、何棟かの蔵が並んでいました。それはとても古い蔵で、老朽化して危険な個所もあり、幼かった私は、一人では近付かないように、きつく言われておりました。
ですが、好奇心旺盛な子供のこと。祖母や、まだ健在だった曾祖母の目を盗んでは、ポチと一緒に、こっそり探検に行くのが常習化していたのです。
4歳になって間もなくのころ、その日も、お仕事で出かけた母に代わって、面倒を看てくれている祖母に連れられ、おやつにと、母が置いていったスナック菓子を持参し、はとぽっぽへ遊びに行きました。
90代になり、身体の自由が利かなくなりつつある曾祖母。その面倒を、一人で看ている実花子さんの交代要員として、祖母はしばしば実家を訪れていたのです。
早くに両親を亡くした実花子さんにとって、祖母は母親代わりでもあり、二人はとても仲が良く、私も幼いころから、実花子さんには、娘のように可愛がってもらいました。
いつものように、ポチと一緒に蔵へ行くと、普段は閉まっている扉が、この日に限って開いていました。それも、子供が一人通れるほどの、狭い隙間分。
いつも注意されていましたので、いけないこととは知りつつも、罪悪感と、好奇心と、恐怖感が入り交じり、最終的に勝ったのは、好奇心。私が中へ入ろうと決心したことを察知したポチは、先導するように、私より先に中へ入ろうとしました。
ポチ的には、自分のほうがお兄さんなので、私を護衛することがお仕事と思っている節があり、こうしたシチュエーションでは、常に彼が先導し、まだ足元がおぼつかない幼児ゆえ、転びそうになった際、ポチがクッションになってくれたことは、数知れません。
ところが、私の3倍はあろうかというシェパード、その小さな隙間からは、鼻先を突っ込むのが精一杯。こじ開けようにも、重厚な蔵の扉は、私やポチの力では、びくともしません。
すると、いつの間に現れたのか、いつもは寝ている三毛猫のミーちゃんがやって来て、私たちの間を通り抜けると、するりと扉の中へ入って行ったのです。それを見たポチは、『そっちは任せたぞ』といわんばかりに、扉の前に寝そべるようにして、外のガードに徹しました。
私もミーちゃんの後を追い、中へ入りました。蔵の中は、外気よりひんやりとし、劣化した個所から、細く入り込む陽の光が照らす陽だまりで、予想以上に明るく、前を行くミーちゃんの姿が確認出来ます。
やがて、蔵の奥までたどり着くと、二階へ上がる階段があり、見ると、そこには先客がいました。
「そこにいるの、誰?」
私の問いかけに、その子は少し驚いたような表情でこちらを見ました。年齢は私と同じくらいでしょうか、肩まで伸びたおかっぱヘアで、絵本で見る、昔話の子供のような服装をしています。
「あなたこそ、誰? どうしてここにいるの?」
逆にそう問われ、私は素直に答えました。
「私? 私はこうめだよ。おばあちゃんと一緒に、はとぽっぽに来たの」
「はとぽっぽ?」
「うん、ここのお家のことだよ。あなた、お名前は?」
すると、その子は少し困った顔をして、言いました。
「名前は、ないよ。昔はね、きいちゃんや、おにいちゃんが、はるちゃんって呼んでくれてたけど、きいちゃんには、もう見えなくなって、おにいちゃんは、死んじゃったから」
「おにいちゃんがいたの? 死んじゃったの? 大好きだったの?」
「大好きだったけど、瑠璃の海で死んじゃった。だからもう、名前はないの」
「るりのうみ? うーん、良く分かんないけど、じゃあ、こうめがお名前を付けてあげようか?」
「え? 本当?」
「うん! えっと、何にしようか? お兄ちゃん大好きだったから、るり(瑠璃)ちゃんは?」
「瑠璃ちゃん? 瑠璃ちゃん! うん! ありがと!」
「良かった! じゃあ、今日からこうめと、お友達ね。これ、おやつ。一緒に食べよ?」
そう言って、ポシェットから、自宅から持参したスナック菓子を取り出し、ひとかけらを傍にいたミーちゃんにあげ、ポチと鳩の分をひとかけらずつ残し、残りを瑠璃ちゃんと半分こ。
「こんなにいいの? こうめちゃんの分が、少なくなっちゃうよ?」
「だって、お友達だもん! 半分こして食べよ? 美味しいよ。いただきます」
「ありがと。いただきます」
私と瑠璃ちゃんは、あっという間にお菓子を平らげ、瑠璃ちゃんの案内で、手を繋いで蔵の中を走り回って、遊んでいました。
いったいどれくらいそうしていたか、それまで階段で寝そべっていたミーちゃんが、ピクリと反応して起き上がり、同時に、扉の外から、ポチのキュンキュンと鳴く声が聞こえてきました。
すると、るりちゃんは走るのをやめ、手を繋いだまま言いました。
「そろそろ、帰る時間みたいだね」
「ほんとだ」
蔵の外のほうで、祖母が呼ぶ声が聞こえて来ます。
「ねえ、瑠璃ちゃん、また一緒に遊ぼうね。こうめのおうちにも、遊びにおいでね」
「うん、きっとだよ、こうめちゃん」
「じゃあね、バイバイ!」
そう言って、手を振ると、瑠璃ちゃんは、少し不思議そうな顔で、自分の手のひらを見つめ、私の真似をするように手を振り、見送ってくれました。
再び、私の前を行くミーちゃんに続き、こっそり蔵の扉の隙間から外に出ると、私たちが出てくるのを待ち構えていたポチが、ぺろぺろと顔中を舐め、祖母の呼ぶ声がする方に向かって、さんにんで走りました。
私の姿を見つけた祖母は、服が薄汚れているのを見て、すぐに蔵の中へ入ったことを察知し、きつい口調で言いました。
「こうちゃん、蔵の中へ入ったの!? あんなに、危ないから行っちゃ駄目って、言ったでしょ?」
「ごめんなさーい。でもね、こうめ一人じゃなかったの。お友達が出来たんだよ」
「え…? それは、どんな子?」
「えっとね~、髪の毛は、これくらいで、お洋服は、昔話のね~…」
うっすらと瞳に涙を浮かべながら、私の話に聞き入る祖母。まだ少ないボキャブラリーで、一生懸命説明する私の髪を、優しく撫でながら、尋ねました。
「その子のお名前は? はる…ちゃん…って言わなかった?」
「あ! 言ってた! でもね、きいちゃんは見えなくなって、おにいちゃんは死んじゃったから、お名前はなくなって、だから、こうめが『瑠璃ちゃん』って付けてあげたの」
「瑠璃ちゃん?」
「うん。おにいちゃんが、るりのうみで死んじゃったって。おばあちゃん、るりのうみって何?」
「瑠璃の…海…っていうのはね、きれいな青い色をした海のことよ。ね、こうちゃんも、はる…瑠璃ちゃんと、お友達になったの?」
「うん。おやつも一緒に食べたの。かわいい子なんだよ。今度、おばあちゃんにもおしえてあげるね」
祖母はそれ以上何も言わず、時々、蔵のほうへ視線を送りながら、ただただ、私を抱きしめました。
これが、私と瑠璃ちゃんとの出会いでした。そして、祖母の言う『はるちゃん』というのも、同一人(?)物。祖母の下の名前は『菊子』、瑠璃ちゃんが言った『きいちゃん』というのは、祖母の子供の頃の呼び名です。
ずっと後になってから知るのですが、どうやら瑠璃ちゃんは、人間ではなく、物の怪に分類される存在だったようでした。
私は女の子だと思い込んでいましたが、詳細は不明。外見の年齢は、私の年齢と同じくらいで、私の成長と共に、瑠璃ちゃんも成長し、それに伴い、どんどん中性的に見えて行きました。
最大の特徴は、私にだけ見えて、他の人には見えないということ。ただ、それも恒久的ではなく、一定の年齢になると見えなくなるようで、瑠璃ちゃんの姿を見なくなったのは、12歳頃。丁度、初潮を迎えた時期と重なります。
瑠璃ちゃんは、ある意味神出鬼没で、私の自宅や、外出先に現れることもありました。人様から見れば、私が瑠璃ちゃんと遊ぶ姿は、時々小さな子供に見られる『ひとり遊び』そのもの。
誰と遊んでいるのか尋ねられ、『瑠璃ちゃん』と答えると、大抵の人たちは、一人遊びと思ったようですが、中には気味悪がる人もいて、特に私の母は、その様子を酷く嫌い、瑠璃ちゃんの名前を出すことも嫌がりました。
今の私同様、サイキック、スピリチュアルな現象が大の苦手だった母にとって、そうした私の言動は、ホラーそのものだったことでしょう。普通は考えにくいですが、そうしたことも、子供時代に、母から酷く理不尽な扱いを受けた理由の一因だったかも知れません。
反対に、かつて瑠璃ちゃんの存在を認識していた祖母と、そのことを祖母から聞いていて、自身も絶体絶命のピンチを、瑠璃ちゃんに救われた経験がある祖父の二人だけは、姿こそ見えないものの、そこに『居る』のだということを、理解してくれていました。
ついでに言っておくと、父と弟妹に関しては、まったくの鈍感。見えもしなければ、気にもしないという感じでした。
かつては、祖母と、祖母の兄には見えていたということですが、そこまで徹底して、自分にしか見えない瑠璃ちゃんが、本当に存在していたのか、疑問に思うかも知れません。
ですが、私が見えていた時期、私以外に、たった一人だけ、瑠璃ちゃんの姿が見えた人がいました。
もし、最後まで私一人だけだったら、それは私の想像の産物だったことも否定出来ませんが、今でもそれは、関わった人たちのその後の運命として、現在に繋がっているのです。
それは、私が5歳の時のこと。このところ、そう頻繁には自宅へ来なくなっていた瑠璃ちゃんが、その日は珍しく、夜になってから現れました。
当時、私たち家族が住んでいた家は、祖父母宅と両親宅が、渡り廊下で繋がった形状になっていて、祖父母っ子だった私は、いつも祖父母の住む棟に入り浸っていました。
常時置いてあるおもちゃで、瑠璃ちゃんと遊び始めると、その姿を見た祖父が、穏やかな口調で話しかけて来ました。
「お、瑠璃ちゃんが来てるのかな?」
「うん! ふたりで、おままごとしてるとこ」
「そうか。ふたりとも、仲良く遊ぶんだよ」
実際には、見えていない祖父。でも、そうしたシチュエーションでは、必ず瑠璃ちゃんがいるというスタンスで、私たちに声を掛けてくれていて、そうした祖父に対し、瑠璃ちゃんも好感を持っていたようでした。
遊び始めて間もなく、急に、祖父母宅に、来客がありました。時刻は午後8時過ぎ。来客は、祖父母と親しい国枝さんというお宅の長男さんで、彼と私の父とは幼なじみです。
意外だったのは、この時間の急な訪問にも関わらず、奥さんと共に、私と同い年の長女、柚希ちゃんも一緒だったこと。お兄ちゃんと一緒に自宅でお留守番するように言われたのですが、嫌だと駄々をこね、仕方なく連れて来たようです。
私と柚希ちゃんも、小さい時からのお友達でしたので、イレギュラーな訪問も、私にとっては、嬉しいものでした。
ただ、柚希ちゃんのご両親と、祖父の表情は固く、子供心に、何だか様子がおかしいことを感じ取っていたのも事実です。
「こうちゃん、おじいちゃんたちは、今から大切なお話をするから、柚希ちゃんも一緒に、みんなで、あっちのお部屋で遊んでくれるかな?」
「うん、柚希ちゃん、むこうで一緒にあそぼ!」
そう言って、私は柚希ちゃんの手を繋ぎ、祖母に連れられ、別の部屋へ行き、祖母は『ここで良い子にしていてね』と言い残し、祖父たちがいる部屋へと戻って行きました。
「何してあそぼっか~?」
「う~ん、そうだね~」
室内には、瑠璃ちゃんもいるのですが、当然、柚希ちゃんに、その姿は見えません。
いつもなら、こうした状況でも、まったく気にせずマイペースで遊んでる瑠璃ちゃんが、今日に限って、じっと柚希ちゃんの顔を、覗き込むように見ています。
私は、小さな声で、瑠璃ちゃんの存在を、柚希ちゃんに話しても良いかと尋ねると、瑠璃ちゃんはこっくりと頷きました。
「ねえ、柚希ちゃん。びっくりしないで聞いてね」
「なあに? こうめちゃん」
「じつはね、ここにはもう一人、お友達がいるの」
「え? どこに?」
「ここなんだけど…見える?」
「ううん、何も見えないよ。どこ?」
「やっぱりそうだよね~。瑠璃ちゃん、どうすればいいの?」
そう言うと、じっと柚希ちゃんを見つめていた瑠璃ちゃんが、私の手を繋ぎ、もう片方の手で、柚希ちゃんの手を繋ぎました。
次の瞬間。
「え? うわっ! こうめちゃん!? この子、誰!?」
「柚希ちゃん、見えた!?」
「な、何で!? いつの間にここに???」
「柚希ちゃん、落ち着いて。この子が、さっき言った、もう一人のお友達の、瑠璃ちゃんだよ。いつもは、私だけにしか見えないんだけど、今は、柚希ちゃんも見えてるよね?」
「見えるよ! 見えてるよ! すごいよ、こうめちゃん! 瑠璃ちゃん、こんにちは! 私、柚希!」
興奮気味に、自己紹介する柚希ちゃん。すると、瑠璃ちゃんもはにかんだような笑顔で、『こんにちは』と言いました。
どうやら、輪になって手を繋いでいる時にだけ、柚希ちゃんにも、瑠璃ちゃんの姿が見えるようでした。
ただ、こうすれば、何時でも、誰でも、瑠璃ちゃんが見えるというわけではないらしく、こうして、瑠璃ちゃんが柚希ちゃんの前に姿を現したのには、理由があったのです。
「柚希ちゃんのお父さん、こうめちゃんのおじいちゃんに、お話があって来たんでしょ?」
「うん、そうだよ。パパが、『大切なお話がある』って、言ってたの」
「うちのおじいちゃんも、さっき、そう言ってたね」
「今が、世界経済の枠組みが大幅に変化する転換期だから」
「せかいけーざい?」
「てんかんき?」
「ふたりには、まだ難しくて分からないと思うけど、みんなの未来を決める、大切なお話なんだよ。選択を間違えれば、何もかも失ってしまう」
5歳の私たちには、瑠璃ちゃんが話す言葉の意味は分かりませんが、それがとても重要で、重大なことだということは、漠然と伝わってきます。
思わず、不安に苛まれる私たちに、瑠璃ちゃんは、こうアドバイスしてきました。
「今から、みんながいるお部屋へ行くの。そこで、私が言う通りに、ふたりが、大人たちに伝えればいいから」
「でも、子供の言うことなんて、聞いてくれるかな?」
「未来はね、聞ける人間にだけ、開かれるんだよ」
「うん!」「分かった、行こう!」
そう言うと、私たちは三人で手を繋いだまま、祖父たちがいる部屋へ乗り込みました。
「不景気って言ったって、一時的なものです。またすぐに回復しますよ!」
「今度ばかりは、事情が違う。アメリカが、金とドルの交換停止を発表して、他の国でも、為替が、変動や、上限変動、二重相場と、ばらばらの状況だ」
「分かってますよ。だからこそ、チャンスだと、僕は考えるんです!」
「冷静になれ、勝利くん。ここまで不安定な為替で、どうやって利益を出す? このまま円が急騰を続ければ、輸出はますます不利になって、大打撃を受ける可能性も高いんだぞ」
「それは…!」
「君ひとりじゃない。他の取引先まで巻き込めば、その代償は計り知れない。それを恐れて、みんな手を引こうとしているんだ」
部屋の中では、私の祖父と、柚希ちゃんの父親が、激論を繰り広げていました。傍らには、祖母と、柚希ちゃんの母親が、心配そうに二人の顔を交互に見ては、黙って座っています。
いきなり室内に入って来た私たちに、大人たちは、一時論戦をストップし、慌てて祖母が歩み寄りました。
「駄目でしょう、こっちへ来ちゃ。今、大事なお話の最中だから、もう少しだけ、むこうで遊んでいて頂戴。さ、行きましょ?」
すかさず、瑠璃ちゃんが言った言葉を、私が祖父に伝えました。
「ケーキは、12月に、そこを、うつ…よ!」
「は? どうしたんだい、こうちゃん?」
「だからね、ケーキは12月に、そこをうつって」
如何せん、子供ですから、自分が知っている言葉でしか、伝言出来ません。よって、まるでクリスマスケーキのお話でもしているかのような羅列です。
おまけに、瑠璃ちゃんは次から次へと、意味不明な言葉を発し続けるので、私一人では一杯一杯。そこで、助け舟を出してくれたのは、柚希ちゃんでした。
「タコクカンでのつうかちょーせーで、えっと…」
「アメリカはどるのきりさげにふみきる…のと…」
「ゆにゅーかちょーきんじゅっぱーせんとをはいし…して…」
「どるかわせれーとがへんこーされて…」
「いったんこてーそーばにもどる…12月」
「そのごせかいはへんどーせーそーばにいこう…して?」
「さいけんかぶしきげんゆのさきものしじょー…」
「だいよじちゅーとーせんそーぼっぱつ…」
あまりに意味不明な私たちの発言に、柚希ちゃんの母親が慌てて止めに入りました。
「柚希!? あなた、何言ってるの!?」
「いったい、どうしたんだ!? こうめちゃんまで…!」
父親も、驚いた顔で娘に駆け寄ったのですが、それを、私の祖父が制止しました。そして、私たち二人の前にしゃがむと、小さな声で尋ねたのです。
「こうちゃん、それは瑠璃ちゃんが言ってるのかい?」
「うん、そうだよ。…え? あ、せんたくをまちがえば、みらいもうしなう…って」
「柚希ちゃんにも、瑠璃ちゃんが?」
「見えてるよ。あ…いまがせかいけーざい…のわくぐみのてんかんき…だって」
「うむ、なるほど」
腕組みし、私たちの話しに耳を傾ける祖父に、柚希ちゃんの両親が、怪訝そうな顔で尋ねました。
「おじさん、いったいこれ、どういうことですか?」
「瑠璃ちゃんって、誰なんですか?」
「うん、そうだな。まともには信じられないだろうけれど、こうめには、家内の実家から受け継ぐ、守り神のようなものがついているらしくてね。家や身内に危機が訪れたり、大きな出来事に関わるときに、助けてくれるようだ」
「それが、今ここに…?」
「いつもは、こうめだけにしか見えないが、今は柚希ちゃんにも見えているらしい」
「柚希、本当なの!?」
「うん、瑠璃ちゃん、ここにいるよ。本当に、ママには見えないんだね」
「あえて柚希ちゃんに姿を見せているということは、それなりの意味があってのことだろう。菊子さん、何かメモするものを!」
「あなた、これ!」
祖母が持ち出したのは、最近祖父が購入した、テープレコーダーでした。新しもの好きな祖父母、明治生まれですが、そうした最先端グッズには、誰よりも早く飛びついておりました。
「よし、録音開始。さあ、ふたりとも、もう一度、瑠璃ちゃんの言葉を聞かせておくれ」
そう言うと、祖父は、私たちをレコーダーの前に立たせ、瑠璃ちゃんから口移しで伝える、たどたどしい言葉を、一語一句漏らすまいと録音し、祖母や、柚希ちゃんの両親は、声も、息さえも押し殺すように、じっと聞き入っていました。
時は、昭和40年代中盤。
日本は、戦後の復興期、混乱期を経て、その後、『神武景気』『岩戸景気』『オリンピック景気』『いざなぎ景気』と呼ばれる、高度経済成長期が続いていました。
ところが、1971年にアメリカが宣言した『ブレトンウッズ協定』の停止(ニクソンショック)により、世界経済は大混乱に陥ります。
そのため、為替レートの変更や、変動相場制への変更による為替差損で、輸出産業は大打撃を受け、高度経済成長に陰りが見え始めたのです。
当時、柚木ちゃんの父親、勝利さんは、海外との取引を手掛けていました。まだ若いにも関わらず、ビジネスのセンスがあったのでしょう。一ドル360円という背景で、業績は好調でした。
それが、ニクソンショックにより、状況は急転。国内では、輸出産業の回復は期待薄と予想する向きが強く、取引先の多くが、手を引くといい出したのです。
数年前にも、オリンピック特需後の反動から、不景気に陥り、大手を含めた多くの企業が倒産に陥り、国は初めて国債を発行して、急場を乗り切るという事態が発生しました。
その後、再び景気は盛り返したものの、今度は世界規模の混乱、万が一失敗すれば、その代償は計り知れません。
天性のビジョンで、将来性を確信している勝利さんでしたが、そこは資本経済が支配する世界。安全策として、多くの取引先が、手を引くといい始めたのです。
どんなに勝利さんに手腕があったところで、取引を停止されれば、元も子もなく、どうにかして繋ぎ止められないか、私の祖父に相談に来たのですが。
何とか力になってやろうにも、いくら幅広い人脈があり、多くから信頼されている祖父であろうと、景気回復への糸口さえ見えない状況では、取引先を説得する材料がありません。
ならば、せめて傷が浅いうちに、本人にも手を引かせることが、幼いころから勝利さんを知っている祖父に出来る、唯一のアドバイスでした。
ところが、ここへ来て、事情が変わって来ました。
普通の常識の持ち主であれば、目に見えない存在が言わせているという、5歳児の発言など、信用するどころか、聞く耳さえ持ち合わせなくて当然。
ですが、私から遡ること半世紀以上前、かつて身をもって体験していた祖母。やがてその姿を見ることがなくなった後にあっても、かつてその庇護を受けたことのある祖父母には、疑う余地などありません。
それは、過去、現在、未来に至る、すべてを見通す『この世のものではない力』のなせる業であり、その姿形や言葉を見聞きし、伝達する『代弁者』が存在するときのみ、知ることが出来る、まさに値千金の情報なのです。
先ずは、瑠璃ちゃんが、いったい何を伝えようとしているのか、ということ。
録音した、私と柚希ちゃんの言葉を、何度も再生して、要所要所をメモに起こし、それらを総合した祖父たちは、驚嘆の声を上げました。
「何ということだ! 世界の経済は、こんな風に変貌すると!?」
「これが事実なら、とてつもない商機じゃないですか!!」
瑠璃ちゃんが伝えるところによると、こうです。
ニクソンショックによる景気低迷は、多国間の通貨調整で、アメリカはドルの切り下げに踏み切り、輸入課徴金10%も廃止になり、ドル為替レートが変更され、12月には一旦固定相場に戻る、とのこと。
12月時点で、不景気は底を打ち、上昇に転じるのですが、その後、世界は変動相場制に移行し、債権、株式、原油などの先物市場がつくられ、市場経済化が始まるというのです。
そして、第四次中東戦争の勃発により、原油価格が高騰し、かねてからの地価急騰によるインフレーションが加速し、高度経済成長期は終焉をむかえる、といった意味合いのものでした。
「相場を睨みながらの取引か。一つ読み間違えば、莫大な損失だ。凡人なら、先ず以って手出し無用な状況だが…」
「おじさん…!」
「君なら…いや、君にしか出来ん所業だろう。底を打つのは、12月と言ったな。それまで持ち堪えられるか?」
「やります! 絶対に、持ち堪えて見せます!」
「分かった。取引先には、私から説得をしよう。君は、すぐにアメリカへ飛んで、直接むこうで動いたほうが賢明だろう。その間、友佳梨さん、日本での業務と、子供さんたちを、支えられますか?」
すでに、柚希ちゃんの母親、友佳梨さんには、その覚悟が出来ていたのでしょう。こっくりと頷き、力強い声で答えました。
「はいっ! 勿論です!」
「子供たちのことで困ったら、いつでも家へ連れていらっしゃいな。孫が増えるのは、大歓迎だから」
「おばさま…! ありがとうございます! 宜しくお願いいたします!」
祖母の言葉に、友佳梨さんは涙声になりながら、何度も何度も、祖父母に頭を下げていました。
その時、それまで真剣な表情で、お仕事の話をしていた祖父が、急に穏やかな笑顔になり、私たちのほうに向かって、語り掛けました。
「瑠璃ちゃん…いや、はるちゃん。私の声が、聞こえますか?」
祖父の問いに、瑠璃ちゃんはこっくり頷き、じっと祖父に見入りました。私は、瑠璃ちゃんの通訳をするべく、大人たちには見聞き出来ない、彼女の言動を伝える役に徹しました。
「ちゃんと聞こえてるよ、おじいちゃん」
「この街が大空襲を受けた、あの日、私の手を取って、真っ暗闇の地下道を先導してくれたのは、はるちゃんだったんでしょ?」
「うん、って言ってる」
「ずっと、その御礼が言いたかったんだ。本当に、ありがとう」
「首を横に振りながら、にこにこ笑ってるよ」
すると、今度は祖母が語り掛けました。
「はるちゃん、きいちゃんよ。覚えてる?」
「勿論おぼえてるよ、きいちゃん、って言ってる」
「私もね、はるちゃんのことは、忘れたことはなかったわ」
すると、それまで柚希ちゃんと繋いでいた手を離し、ゆっくりと祖母の前に歩み寄りました。
その瞬間、柚希ちゃんには瑠璃ちゃんの姿が見えなくなり、声だけが聞こえているようで、私と手を繋ぎながら、じっと聞き入っていました。
「私も、御礼を言いたいわ。ずっと守ってくれて、ありがとう。そして、孫のこうめともお友達になってくれて、本当にありがとう。こうして、もう一度はるちゃんとお話が出来て、本当に…はるちゃん!?」
「今、おばあちゃんの手を繋いでるよ」
「ええ、ええ、そうね! ああ、はるちゃん!」
どうやら、祖母には、見ることは出来なくても、感触だけははっきりと伝わっているようでした。
すると、今度は瑠璃ちゃんのほうから、祖母に語り掛けました。
「ごめんね、きいちゃん。おにいちゃんを助けられなくて」
「おにいちゃんをたすけられなくて、ごめんねって」
「いいのよ、はるちゃんのせいじゃないわ。兄様は、戦争で、遠い海で死んだのだもの」
「おにいちゃんから、きいちゃんへの伝言を渡すね」
「おにいちゃんから、きいちゃんへ、でんごんだって」
「え? 伝言…? あ…っ!!」
硬直したまま、虚空を見つめている祖母の瞳には、瑠璃ちゃんに託された、亡き兄からのメッセージが、映像として映し出されていました。
唯一、私だけが垣間見られたその映像は、至るところが破壊され、今まさに、沈みゆく船内の風景。
瑠璃ちゃん目線の映像なのでしょう、目の前にいる、軍服を着た男性の顔は、祖母の古いアルバムの中で見た、大伯父でした。
ぽろぽろと涙を流す祖母の姿に、心配した祖父が、何を話しているのかと尋ねましたが、込み入った大人の会話に、とても理解が追いつきません。
「難しくて、よく分からないよ」
「ずーっとね、花火大会みたいな音がしてるね」
音しか聞こえない柚希ちゃんには、なおのこと、映像が見えていた私でも、その状況を説明するのは、戦争を知らない私たちには無理です。
感覚として感じるのは、行き場を失った多くの人たちの、とてつもない痛みと、苦しみと、哀しみと、そして絶望。
助けを求めているのが分かっているのに、何も出来ないもどかしさに、酷く心が痛むのですが、それはまた、別のお話。
やがて、すべての映像が消えた時、祖母はぺたりと床に座り込み、それでも気丈に涙を拭い、瑠璃ちゃんの掌の感覚を握り締めながら、言いました。
「ありがとう、はるちゃん。これで、兄も思い残すことはないでしょう。もし、あちらで兄に会うことがあるなら、伝えて頂戴。『しかと、聞き届けました』って」
「…分かった、伝えるって」
「また、こうして会えるかしらね?」
「…もう会えないって。でも、いつでも見てるって。じゃあねって」
「はる…ちゃん…」
不意に、祖母の手から、瑠璃ちゃんの感覚が消え、そして、瑠璃ちゃんは、私と柚希ちゃんに、手を振っていいました。
「じゃあ、行くね。バイバイ」
「瑠璃ちゃん、柚希とお友達になってくれて、ありがとね」
柚希ちゃんが、声のする方向に手を振る様子に、今度は、勝利さんと友佳梨さんが、慌てて語り掛けました。
「待って! 瑠璃ちゃん、ありがとうございました! この苦境を、きっと乗り越えて見せますから!」
「御恩は、一生忘れません! 本当に、ありがとうございました!」
「…たいへんだけど、きっと大丈夫、だって」
「…こんどは、まもれたって、おじさんとおばさんに、ニコニコしながら、手を振ってるよ」
二人も、手を振りながら、深々とお辞儀をし、瑠璃ちゃんはその場から、姿を消しました。
暫くの間、そこにいた大人たちは茫然としていましたが、ハッと我に返ったように、お仕事モードにスイッチが入った、祖父と、勝利さん。要点を打ち合わせ、柚希ちゃん一家は大急ぎで自宅へ戻り、祖父は、あちこちへ電話をかけ始めました。
その翌々日には、勝利さんはアメリカへ発ち、日本に残って、勝利さんの業務を引き継いだ友佳梨さんは、寝る間も惜しんで働き続け、瑠璃ちゃんが『底を打つ』と予言した12月を、見事に乗り切りました。
祖父は、渋る取引先を、必死で説得し続け、それでも、賛同を得られたのは三分の一ほど。自身の会社の資本や、個人の資産も切り崩しつつ、『貸付金』という形で、勝利さんの会社を援助しました。
そこまでしても、まだ、不十分だった資金繰りでしたが、祖母が兄から受けた伝言の中に、祖母に宛てた遺産が見つかり、それによって、勝利さんの会社も、祖父の会社も、何とか苦境を乗り切ることが出来ました。
大半の企業が、貿易から手を引いていた中、年が明けると、勝利さんは一気に攻勢に転じ、みるみるうちに業績は回復、それからというのも、まるで、すべてを見通しているかのような経営で、会社は押しも押されぬ、大企業へと成長して行くのです。
あの不安定な為替相場や、後のオイルショック、バブルとその崩壊さえも、味方に付けた勝利さんは、世間から『稀代の天才』と呼ばれました。
両親の多忙中、何度か、我が家の祖父母宅へお泊りに来ていた、柚希ちゃん兄妹。おっとりしていたお兄ちゃんも、頑張り屋さんの柚希ちゃんも、ちゃんと両親のことを理解していましたので、さほど寂しさを感じることなく、私も、彼らと一緒に過ごせることが楽しくて、良い想い出になっています。
当時、相当な金額を補填していた祖父母に、経済のことも良く知らず、経営に関しても素人同然で、嫁の立場である母が、口出しをしたことがありました。
母の人間性に関しては、とにかく『守銭奴』の一言に尽き、自分のお金は勿論、それが祖父母のものであろうと、出費に対して、異常なまでに出させまいとするところがあり、他人の勝利さんに、資金援助する必要などない、と祖父に勧告したのです。
まして、降って湧いたような祖母の相続資産に関しても、『家族の財産なのに、勝手なことをするのは許せない』などと、まるで自分にも権利があるかのような言い分。
それに対し、いつもは温厚な祖父が、この時ばかりは、きっぱりと母を叱咤しました。
「使って無くなる金もあれば、使って増える金もあるんだよ。どちらになるかは、金を使う人間次第。無くなる使い方しか知らんのなら、今度ばかりは、一切、口出し無用だ」と。
母は、父と結婚して、祖父の出資で開店したお店の経営をしていましたが、常に赤字の補填をしてもらっている状態で、他人様のことを言えるような身の程ではありません。
経営のセンスがなかった母には、祖父が言った意味が理解出来ず、夫である父にも、祖父に支援をやめさせるように迫りましたが、父からも相手にされず。
結局、一年後には、貸付金はすべて清算され、さらには勝利さんからの仕事の受注で、祖父や、祖父に賛同した会社は、大きな利益を上げました。
その業績は、祖父が他界し、父が経営を引き継ぐまで続きます。母が口を出すようになってから、一気に業績が下降することになるのですが、それはまた、別のお話。
この時のことは、誰一人として、他人に口外することはなく、当事者同士でさえも、ほとんどその話を口にすることはありませんでした。
それまでは、頻繁に私の前に現れていた瑠璃ちゃんでしたが、あの日を境に、何かあるときにだけ、現れるようになったのです。
しばらくぶりに、不意に私の前に現れた瑠璃ちゃんが伝えたのは、ショックな内容でした。
「明日ね、はとぽっぽのおばあちゃんが、死んじゃうよ」
すぐに、そのことを祖母に知らせると、祖母は取るものもとりあえず、急いで実家へと戻ったものの、そこにいたのは、意外にも、元気な曾祖母でした。
何かの間違いであれば良い、祖母も、自宅で待つ祖父も、心からそう願っていたのですが、翌日、祖母からの電話で、曾祖母が亡くなったという知らせが入りました。
朝起きて、朝食を食べた後、急に倒れ込み、すぐにかかりつけのお医者様を呼んだのですが、そのまま息を引き取ったのだそうです。
最期を看取ったのは、娘の祖母と、孫娘の実花子さん。享年93歳、当時としては、大往生でした。
それは、私が物心ついてから、初めて経験する、『人の死』でした。
その顔から、あの優しかった笑顔は消え、ただ眠っているようにしか見えない曾祖母が、遠くへ旅立つことを説明されても、今一つ理解出来ません。
大人たちは葬儀の準備で忙しく、母はまだ幼い弟妹のお世話のために、自宅に戻ってしまい、勝手知ったるはとぽっぽではありましたが、一人ぽつんと、孤独感にさいなまれていたのです。
すると、いつの間にか現れた瑠璃ちゃんが、そっと私の手を握ってくれていました。
「ねえ、瑠璃ちゃん、人は死ぬと、どこへ行くの? はとぽっぽのおばあちゃん、遠くへ行くんだって言ってたけど、それはどこなの?」
「それはね、『天国』とか、『黄泉の国』って言われてる場所だよ」
「国? 外国なの? 柚希ちゃんのお父さんが行ってたところ?」
「そういう『国』とは違うんだよ」
「じゃあ、どんな国?」
「詳しくは言えないんだけど、一つだけ言えるのは、人間でも動物でも、死んでしまうと、生きてる人は、もう二度と会えなくなるの。だからそこは、死んだ後に行く世界なんだよ」
「人間も、動物も? こうめも、死ぬの?」
「うん。いつかは、必ずね」
「瑠璃ちゃんも?」
すると、瑠璃ちゃんは小さく微笑んで、私にも分かる言葉で、話し始めました。
「私はね、人間と違って、死ぬことはないんだよ。でも、それと同じようなことが、起こったことがあるの。呪詛結界に閉じ込められて、自分ではどうすることも出来なくなっていたのを、助けてくれたのが、きいちゃんと、おにいちゃんだったんだよ」
結界に封印され、長い間、身動きが取れなくなっていた瑠璃ちゃんを、幼い祖母と兄が見つけ、助け出すために、祠に貼られていた御札を剥がしました。
その結界は、遠い昔、嫉妬に狂った女が、とある女性を呪い殺したことに始まり、呪詛の力があまりに強大だったため、他の怨霊、物の怪までを呼び寄せ、増殖した怨念が暴走を始めてしまい、禍根を封印するために張られたものでした。
ですが、祖母たちが結界を破ったことで、そこに封印されていた他の魍魎たちも、世に放たれてしまったのです。
女の呪いによって命を落とした女性は、かつて、私や祖母のように、瑠璃ちゃんと交わっていた人で、彼女を守り切れなかった失意のうちに、瑠璃ちゃんは、結界の中に閉じ込められてしまったのです。
彼女には、残された子供がおり、その子孫は、時を経て、再び瑠璃ちゃんと出会うことに。そう、それが勝利さんであり、柚希ちゃんでした。
通常、瑠璃ちゃんのような物の怪が守るのは、自分と交わった人間、一世代のみ。でも、殺された女性への想いが、世代を超えて、運命に力を及ぼし、さらには私を媒介として、コミュニケーションを取るという、あり得ない現象まで引き起こしたのです。
それというのも、幼い兄妹が破った結界から放たれた、女の強力な怨念が、祖母や柚希ちゃん家族に、再び災いをもたらさないよう、呪詛返しの必要がありました。
かつて、大空襲の中、祖父と従業員さんたちを助けたのは、後に勝利さんを祖父が助けるため、勝利さんを助けたのは、やがて私を勝利さんが助けるため、と、すべては連鎖して繋がっていました。
一人一人をガードするより、全体を一括りにして護ることで、より強固な態勢を取ることが出来るからです。
瑠璃ちゃんにとって、もう一つ悔やまれるのが、『おにいちゃん』を守れなかったことでした。
交わった人間とコミュニケーションが取れるのは、ごく幼い期間だけ。知恵がつき、身体が成長するに従い、徐々に瑠璃ちゃんの存在は、見えなくなるのです。
瑠璃ちゃんにとって、未来を知るなど、容易いこと。にも関わらず、彼を守れなかったのには、呪詛と同様に、戦争という狂気の中で、膨れ上がった怨念によって、妨害されてしまったのです。
そして、それを伝えようにも、言葉を聞きとれる時期を過ぎ、伝達手段を失っていたことも、理由の一つでした。
「いつか、こうめちゃんにも、私の姿が見えなくなる日が来るの」
「え? 嫌だよ、そんなの。瑠璃ちゃん、ずっとお友達って、約束したじゃない?」
「目に見えなくても、見守ってる。そして、本当にこうめちゃんがピンチの時には、必ず助けるから」
「ホント?」
「だから、その時は、感じ取って」
そう言うと、瑠璃ちゃんは立ち上がって、握っていた手を離しました。
「もうすぐ、お葬式が始まるよ。じきに、きいちゃんが呼びに来るから」
「瑠璃ちゃんは?」
「私は、はとぽっぽのおばあちゃんを、黄泉の国まで送り届けるの」
「分かった。いってらっしゃい」
お互いに手を振りあい、瑠璃ちゃんが消えたのと同時に、祖母の呼ぶ声がしました。そうして、曾祖母の葬儀が始まりました。
いつもは、部外者を激しく威嚇するポチ、眼光鋭く、行き交う人々を見ているものの、この日ばかりは、鎖で蔵の手前に繋がれ、大人しくしています。
その傍らにはミーちゃんが寝そべり、いつもよく知っているはずの、このはとぽっぽが、どこか違う場所のような気がして、何だか落ち着きません。
読経とお焼香の間、祖父母の側に座っていたのですが、気味悪い違和感は続き、やがて、火葬のために棺を運び出した時に、それは起こりました。
一瞬、ザッという音を立てて、参列者の中を吹き抜けた風。かすかに、こめかみの辺りに痛みを感じ、何かがしたたり落ちる感覚がありました。
「きゃーーーーっ!! こうめちゃん、血!! 血が出てるーーっ!!」
実花子さんの声に、周囲の視線が、一斉に私に集まります。それと同時に、もの凄い稲光が走り、ほぼ同時に、耳を劈く雷鳴が響き渡りました。
一瞬にして、パニック状態になる現場、でも、私だけは、他の人とは違う光景を見ていたのです。
目の前には、見たこともないような、恐ろしい表情の女がいました。
女は、昔のお姫様のような着物姿で、ほどけた長い髪が、身体中に纏わりつき、女の握りめる懐刀の先端が、わずかに私のこめかみをかすめていました。
そして、その腕と懐刀を絡めとるように、稲妻のような、青白い光が取り巻き、女の動きを封じています。
女と光の力関係は拮抗し、徐々に光のほうが優勢になり、直後、再び大きな雷鳴とともに、はじけるようにして、空中に舞い上がりました。
「瑠璃ちゃん…」
その青白い光が、瑠璃ちゃんであることに気づくまで、ほとんど時間は掛かりませんでした。そして、恐ろしい表情の女が、瑠璃ちゃんが言っていた怨霊の残像であることも。
「くっ…余計な邪魔を…」
「消えろ、悪霊」
もし、瑠璃ちゃんが制御しなければ、女の懐刀は、間違いなく、私の心臓を貫いていたと思います。
周囲が、スローモーションのように、ゆっくりと動く中、瑠璃ちゃんと女のやり取りだけが、通常のスピードで流れ、二つの空間には、時間の流れに違いがありました。
しばし、睨み合っていた二人でしたが、三度目の雷鳴と共に、空中で激しく衝突し、眩い光を放った瞬間、その姿は消え、周囲の時間が元に戻りました。
「うわーーーん!! 瑠璃ちゃーーーん!!」
瑠璃ちゃんが、女もろとも消えてしまったと思った私は、大泣き。
周囲の大人たちは、出血の痛みで泣いていると思い込み、急いで家の中へ連れて行き、応急手当てをしてくれました。
「これは、きっと、鎌鼬(かまいたち)だな」
「この科学の時代に、そんなことがあるもんか。迷信だよ」
「いやいや、科学的に、証明されているんだよ。気圧や温度の差で、真空状態になったときに…」
「妖怪でも、科学でも、どっちでもいいわよ! とにかく、傷が深くなくて、本当に良かったわ。さ、もう痛くないでしょ? 泣かないで」
そう言って、手当てをしてくれた実花子さんは、まだ泣いている私の頭を優しく撫で、にっこり微笑んで見せました。
「そうだよ。いつまでも泣いてたら、笑われるよ」
それは、瑠璃ちゃんの声でした。あの女にやられてしまったと思っていたのですが、無事だったようです。
傍らには、曾祖母も立っていて、いつもの穏やかな笑顔で、私を見つめていました。
「言ったでしょ? ピンチのときは、必ず助けるって」
「うん…!」
にっこり笑って頷いた私を見て、実花子さんが言いました。
「もう、大丈夫ね。じゃ、おばあちゃんに、最後のさよならを言って、お別れしましょ」
「うん、分かった。はとぽっぽのおばあちゃん、さよなら」
そう言って、目の前の、瑠璃ちゃんと曾祖母に向かって手を振る私。曾祖母も、私に手を振り返し、瑠璃ちゃんに寄り添われながら、二人はゆっくりと空へと舞い上がって行きました。
その姿を、手を振りながら見送り続ける私を見た、実花子さんとその他の人たち。
「こうめちゃんって、ときどき不思議な行動をするのよね~?」
「案外、そこにばーさんがいるのかも知れないよ?」
「やめようよ、そういう怖い話は! 夜、トイレに行けなくなるから!」
「まったく、お前は、男のくせに、軟弱だな~!」
私たちをパニックに陥れた、突風と雷鳴は止み、その後は、何事もなく、曾祖母の葬儀は無事終了しました。
今も、こめかみには、その時の小さな傷が残っています。
大した深さではありませんが、何年もの間、薄赤く浮かび上がるような痕が残っていたのは、怨念が残した遺恨によるものなのですが、それはまた、別のお話。
女の子の顔に、傷を残してしまったと、祖父母は酷く落ち込んでいましたが、当の本人は、まったくもって気にも留めず。
その後も、何度か危険な目に遭遇し、その度に目に見えない力に助けられることになるのですが、それもまた、別のお話。
夕食後、『2階でテレビを観ている』と言ったまま、全然降りてこない夫。10時を回っているので、そろそろお風呂に入ってもらおうと、呼びに行ったときでした。
夫がテレビを観ている部屋は、明かりが消え、ドアの隙間から、蠢く光が漏れ出しています。そして、地の底から湧きだすような、人間のものとは思えない呻き声…
「嫌ぁぁぁぁぁ~~~っ!!!」
私の叫び声に、いつの間にか眠りこけていた夫が、驚いて飛び起きました。
「な、何!!??」
「どうして、こんなの観てるのよっ!!」
「あれ? いつの間に?」
どうやら、眠り込んでいた間に、観ていた野球中継が終わり、そのままホラーの特番になっていたようでした。
ちらっとでも、見てしまった私。もう、最後まで観るしかなくなり、この不幸な事故を引き起こした夫に、散々八つ当たりしたのは、言うまでもありません。
思った以上に怖かった番組の内容に、その夜は、なかなか寝付けず、錯覚か、残像か、光や影が視界を横切り、高ぶった神経が、小さな物音にも、いちいち反応してしまいます。
いつもは、一緒に寝ている猫たちも、なぜか今日に限って、1階のソファーで寝ていて、名前を呼んでも、来ようとしません。
私にとって、猫たちは安定剤、こんな時こそ、側にいて欲しいのに、階段を降りて、連れて来るなど、今の私には到底無理、余計に恐怖心が増すばかりです。
『どうか、何も出ませんように!!』
心の中で、必死でそう願いました。なぜならここは、古の昔、信仰に由来する地だった場所。波長やタイミングがあってしまえば、『何か』を目撃することも、珍しくはないのです。
ふと気が付くと、目の前の空間が、ぼんやりと青白く光っています。思わず、全身に鳥肌が立ち、すぐ横でいびきをかいて寝ている夫を起こそうとしましたが、身体が動きません。
こんな時に限って(むしろ、こんな時だからこその?)金縛りとは。ゆっくりと私のほうへ移動して来る光から、目を逸らそうとしても、目を閉じることも出来ません。
そのとき、ふと、どこかで感じたことがある、懐かしい感情が広がり、途端に薄れる恐怖感と引き換えに、それが、瑠璃ちゃんと気付いた私。
幼かった頃の姿ではなく、青白い光のシルエットでしたが、やがて、包み込むように覆いかぶさり、そのまま深い眠りへと落ちて行きました。
祖母実家、はとぽっぽがあった場所も、ずいぶん前に地域開発エリアになり、今では巨大なショッピング施設になっています。
工事の途中、由来の分からない祠が発見され、撤去することになったのですが、ご多聞に漏れず、手を入れようとすると、何がしかの不吉なことが起こり、今でもその場所に、祀られているのだとか。
もしかすると、それが瑠璃ちゃんたちが封印されていた結界の場所だったのかも知れませんし、まったく別の何かだったのかも知れませんが、真実は不明のまま。
一つだけ言えるのは、どんなに科学が発展したところで、解明されているのは、ごくごく一部に過ぎず、この世には、まだまだ未知なものが、たくさん存在しているということ。
迷信やしきたりを、一括りに『古臭い』と思わず、たまにはその由来を紐解いてみるのも、また新しい発見につながるのかも知れません。
ただ、個人的に、ホラー系のものだけは、ご勘弁ですが…
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