2 変

 最初の印象は魚だ。

 人に向かって魚と思うのは失礼かもしれないが、夢と同期してしまったのだろう。

 それは鹿山という苗字の看護婦で、アルトの声が素晴らしくきれいで、すぐにわたしのお気に入りとなる。よく見れば結構可愛い顔立ちをしているので魚とは思えないはずだが、ふと気づく。目と目の間が離れているのだ。それで見る角度によって魚になる。魚の顔を持つ看護婦だ。彼女のいない夜中に昔読んだホラー漫画を思い出し、後ろ髪を捲った後頭部に口があったらさぞ怖いだろうなと妄想する。目覚めていたから良かったが、夢で見たなら、かなりぎょっとしたことだろう。

 入院して頭が可笑しくなってしまったようだ。次々と投与される薬のせいかもしれないし、後頭部を打った後遺症なのかもしれない。一旦意識が戻り、その後手術され、麻酔か鎮静剤で朦朧としている状態で医者に訴えると、

「CTの結果では異常ありませんから」

 との返答。

「しかしまあ、様子を見ないとわからないところもありますから、何か感じたらその都度仰ってください」

 口調が丁寧で爽やかな笑顔のイケメン医者だ。わたしの手術を担当した筆頭ではないが、その後のわたし係となっている。

「鴻上先生はまだ独身なんですよ。お気に召されたのなら、思い切って告白してみたらいかがでしょう」

 鹿山看護婦は言うが、わたしには『彼を気に入った』と彼女に話した記憶がない。

「ああそれは、きっと朦朧とされていたんですよ」

 問うと事も無げにそう返す。

「大丈夫ですよ。他の人には言いませんから」

 以来、滅多に話題にもしなくなる。

 目が合えばいつでもにっこりと笑いかけてくれるので、その笑顔の方にわたしは余程釣り込まれる。

「あら、嬉しいわ。女同士の方が暮らしやすいとも言いますからね」

 話したつもりがないのに鹿山看護婦からそんなふうに言葉を返されると、わたしは自分の思考が外部にだだ漏れになっているのではないかと不安になる。若い頃に興味があって調べた統合失調症(当時は精神分裂病)の『みんなが頭の中を覗き込む』と言う症状が頭に浮かぶ。

「わたし、こちらの病院にご厄介になる前は精神科専門のクリニックに勤めていたこともあるんですよ。でも、そういう印象はまったくありませんから」

 自信を持って口にして直後目を細めて笑う。

 日本では知らないが、アメリカなどでは否定されているはずのプレコックス感を引き合いに出した説明だろうか。

 プレコックス感とは、統合失調症の患者と面と向かったときに医者が感じる何となく嫌な感じのことだ。一九四一年頃にオランダのリュムケという精神科医が提唱している。患者の病の種類を初期判断するのに有効な概念だったと記憶しているが、関連雑誌を読み漁ったのは高校生の頃だ。だから今では記憶も曖昧模糊。

「松原さんは精神科のお医者様になりたかったのですか」

「いえ、ただの興味ですよ。高校生の頃って、いよいよ自分が凡人だって気づく時代じゃありませんか、その慰めです」

「松原さんは凡人なんですか」

「ああ、それは凡人でしょう。普通に会社員ですし」

「だって理系じゃないですか」

「それを言ったら看護婦さんだって理系じゃないですか」

「どうなんでしょう。看護学校の授業には数学、生物、化学なんかがありましたが、今では体育会系と記録係の印象ですね。高校までは文系でしたし」

「そうなんですか」

「松原さんは発明とかもされているんでしょう」

「あれは仕事の一環ですよ。大手の社員と比べれば大した数もない」

「ご謙遜を」

「いや、本当。それに運にも恵まれましたからね」

「運に恵まれたならば、それだけで凡人ではないでしょう」

「いえ、凡人ですよ。もしかしたらそういう環境にいない人たちから見れば凄く見えるのかもしれませんが、違います」

「松原さんはやっぱり遠慮深い方なんですね」

「あの、いえ、決してそういうわけでは」

 会話自体は頓珍漢だが、鹿山看護婦と一緒の空間にいるとわたしは愉しい。まだ良く回らない首を回して彼女を盗み見、至福を感じる。時々心臓がドキドキするので殆ど恋だ。でも彼女とのセックスは想像できない。夢に出てきたときにはどうなるかと思ったが、夢と気づかずに目を覚ましてみれば、ただ食事をしてお酒を飲んだのみ。男性経験は豊富ではないが、事情があって見当がつく。だが女性とどうすれば良いのか、見当も付かない。それで頭を抱えて悩んでいて、ふと気づく。やはりわたしは頭が可笑しくなってしまったのではないだろうか、と。

 そう思って慌てて暗算をしてみるが、元よりそんなものは不得手なのだ。理系と聞けば計算が速いだろうと思われることが多いが、そんなことはない。接客商売をしている人間の方が、余程計算能力が高いだろう。

「わたしは暗算が得意ですね。子供の頃から。でも男の人といるときは、その能力を封印することもありますけど」

「えっ、どうして」

「人にもよるのでしょうが、自分が馬鹿にされた、見下されたと思う方もいらっしゃるので」

「男のくせに情けないな」

「いえ、計算が得意ではなくて、仕事ではいつもそれでペコペコと謝っているような人の場合、プライベートまでそんな思いをさせては申し訳ないですから」

 そんな男とは付き合うなよ、とわたしは言わない。だが彼女をそんな男から奪いたいとは真剣に願う。

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