第3話

「今日実験する」と言っておきながら、隆善は昼近くになっても実験とやらを始めようとしない。どうしたのかと全員で首を傾げていると、表から訪いの気配がした。

 訪いの声ではない。気配だ。しかも、勝手に邸に入りこんだのか、今葵達がいる西対屋にどんどん近付いてくる。

 瓢谷邸は結界が張ってあり、生半可な術師や鬼では入り込む事などできるものではない。そして、態度がでかく実力を備えている陰陽師である隆善の邸に無断で入り込もうと考える肝の据わった徒人もそうそういない。結果、勝手に邸に入れる者となると、限られてくる。

「この気配は……」

 覚えのある気配だ。葵と紫苑が、嬉しそうに顔を見合わせる。

 やがて、たん、たん、たん、と軽いがしっかりとした足音が渡殿の方角から聞こえてきた。

 葵、紫苑、弓弦、虎目が南庇から簀子縁へと出てみれば、予想に違わぬ姿。葵の調伏の師匠であり、紫苑の実父、惟幸がやってきたところだった。己の姿をした式神を飛ばしてきて横着をする事もある彼だが、今日は影がある。実体のようだ。

 以前は頑なに京に近寄ろうとしなかったが、末広比売が生まれ出た一件以来、稀に隆善の邸を訪れるようになっている。

「あ、惟幸師匠。お久しぶりで……」

 言い掛けて、葵はぎょっと口を噤んだ。紫苑と弓弦、虎目も目を瞠っている。

 いつもは穏やかでにこやかな惟幸が、非常に不機嫌そうな顔をしている。目が据わっているとでも言おうか。

 惟幸は葵達に気付くと少しだけ表情を緩め、言葉を発さずに頷いた。そして、無言で手に持っていた包みを葵に手渡してくる。

 どうやら手土産らしいそれを開いてみれば、手製であろう薬の数々。野山で薬草を採取して薬を作っている惟幸は、時折こうして薬を寄越してくれるのだ。

 それはありがたいのだが、何故今日はこんなにも機嫌が悪いのだろうか。葵達がそう考える間にも、手土産を渡し終えた惟幸はずんずんと奥へ向かって進んでいく。その先で、隆善がひょいと顔を出した。

「おう、来たか」

 隆善がそう言うや否や、惟幸は隆善との間合いを一気に詰めた。そして、彼らしくも無い荒い動作で、隆善の胸倉を掴み上げる。

「たかよし……僕、今までに何度も言ったよね? 危急の事態が起きた時以外は、余裕を持って連絡をして欲しい、思い付いたその場で人を動かそうとしないで、って」

 地獄の底から湧き上がってきたかのような低い声に、葵達はヒッと身を縮こまらせる。それに構わず、惟幸は言葉を続けた。

「寅の刻になるかならないか、だったよ? 式神が文を届けに来たの。こっちは相変わらず夜中に襲撃してくる鬼を片付けて、やっと寝れるかと思ってたのにさ。すぐに出ないと間に合わないから、結局一睡もできずだよ? 前もって連絡してくれてれば、前日から京に来れるようにする事だってできたのにさ」

「おい、そんな風に怒っていると、鬼がほいほい寄ってくるぞ」

 からかうように隆善が言うと、惟幸は無言で符を一枚取り出し、外へ向かって投げつけた。符は勢いよく宙を飛び、邸の築地塀を越えて外に出る。すぐさま、凄まじい叫び声が聞こえた。どうやら、昼間だというのに、邸の外に早速鬼が湧いて出ていたらしい。

 叫び声が聞こえなくなってから、惟幸は片手を広げて見せた。どうやら、来る途中に五体の鬼を倒した、という事のようだ。怒って心が揺れる事で鬼を呼び寄せてしまっているようだが、今は隆善への怒りと睡眠への欲求から普段より更に強くなっているらしい。

 若い頃の事件が原因で、惟幸は鬼に付け狙われるようになっている。鬼の活動が活発化する夜になると、それはもう毎晩のように鬼が襲撃してくるらしい。

 その対処に追われて、毎晩眠るのは夜も大分更けてから。それを取り戻すために朝寝坊をしたり昼寝をしたりしているとの話だが、今日は早くに庵を出てきたためにそれも無し。どうやら、睡眠不足で機嫌が悪くなっているらしかった。

「そんなに寝たいなら、前みたいに式神の姿で来れば良かったんじゃねぇのか? お前なら、寝ながら式神を動かす事だって可能だろ?」

「未知の事をやるんだよ? 何が起こるかわからないんだから、万全の状態で備えておかないと。たかよしもそう思ったから、何か起こった時の後詰の為に僕を呼んだんじゃないの?」

 淡々と紡がれる言葉には抑揚があまり無く、まるで念仏のようだ。聞いていて、怖い。だと言うのに、それを隆善は更に茶化す。

「しっかし、たった一晩徹夜しただけでその調子か。お前ももう年なんじゃねぇのか?」

「二日目」

 やはり地獄の底から湧き上がってきたような声で、惟幸が呟いた。隆善は「あ?」と言って顔を引き攣らせる。

「昨日はちょっと忙しかったんだよね……。麓の村の人達に祈祷を頼まれたり、薬草が採取し頃だったり……。それで、朝寝坊も昼寝もしそびれた。だから今夜こそはゆっくり寝ようと思ったら鬼が来て、それを調伏してやっと寝れると思ったら、たかよしからの文だよ?」

 実質、丸二日寝ていないという事である。

「……悪い」

 流石に罪悪感か恐怖か、それともその両方かを抱いたのか。隆善が目を逸らしつつ謝罪した。それで気が済んだのか惟幸は隆善の胸倉から手を離す。

「うん。それじゃあ、葵達も待ってるみたいだし、さっさと始めようか。たかよし、準備はできてるんだよね?」

 和らいだ空気に安堵したのか、隆善は「おう」と軽く答えて南庇の下へと入る。惟幸もその後に続いた。

 二人の後姿を、葵と紫苑は青褪めた顔で眺めている。

「……忘れてた……」

「えぇ……久しぶりに見ましたよね……」

 首を傾げる弓弦の前で、二人は小刻みに震えている。

「父様……睡眠が少ないと、不機嫌になる事が多いんだった……」

「一日おきぐらいで寝起きが悪いですもんね……」

 そう言って、再び二人で顔を見合わせ。事がとりあえず収まった事に、改めて安堵の息を吐いたのだった。

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