番外編 平安陰陽彷徨記
平安陰陽彷徨記 1
夕方の涼しい風が、邸の中を通り抜ける。瓢谷隆善邸に居候する三人の子ども達――葵、紫苑、弓弦は、好きな場所で思い思いの時間を過ごしていた。
葵は、几帳で仕切られた己の部屋で、隆善の蔵書を読んでいる。紫苑は簀子縁で虎目相手に碁盤を睨み、弓弦は葵の横で琵琶の調弦を行っていた。
余談だが、この琵琶は隆善がどこぞの偉い人物から下賜された物との事である。琵琶にあまり興味を持たず扱い方を心得ていない隆善が、長らく塗籠に仕舞いこんでいたらしい。
平穏な時を過ごしていた三人と一匹の耳に、タンタン、と軽やかに簀子縁を歩く音が聞こえてきた。葵と弓弦は部屋から顔を出し、皆で音のする方へと視線を向ける。
見れば、寝殿の方から二人の男が歩いてくる。一人は、この邸の主にして、葵と紫苑の師匠である、近頃巷で評判の陰陽師、瓢谷隆善。そして、もう一人は。
「盛朝おじさん!」
紫苑の声が、嬉しそうに跳ね上がった。盛朝と呼ばれるこの四十前後の男は、紫苑の実父である惟幸の従者だ。葵も紫苑も、幼い頃から盛朝には世話を焼いてもらっている。
その盛朝がこの邸に姿を現したという事は、用件は十中八九、惟幸絡みである。離れて暮らす両親の話を聞く事ができるため、盛朝が来ると紫苑はいつもこうして嬉しそうな顔をするのだ。
「よぉ、紫苑。葵に弓弦も、元気そうだな」
満足そうに笑う盛朝に、紫苑は「うん!」と元気良く返す。とても貴族の血を引く年頃の女性とは思えない行動だが、この元気の良さが紫苑の取り柄でもあるので、誰も何も言おうとはしない。……諦めているとも言うが。
「それで、盛朝おじさん。今日はどうしたの?」
「惟幸が作った薬を届けに来てくれたんだよ。お前らのお陰で、うちは腹下しの薬の消費が異様に激しいからな」
隆善が言うと、途端に子ども三人の表情が険しくなる。
「隆善師匠。そのお前らって、ひょっとしなくても俺も含まれてます?」
「そんなには使ってないです! ボクが年がら年中お腹を壊してるみたいな言い方はやめてくださいよ、師匠!」
「私は、このお邸に厄介になってから、まだ一度も薬の世話になった覚えはございません!」
「よし。んじゃあとりあえず、この十日間のうちに、寝冷え、食い過ぎ、拾い食いで腹を下した覚えのある奴は、この場でとっとと正座しろ」
その場で、紫苑と葵が素直に正座をした。その様子に、盛朝は苦笑いをしてから口を開く。
「まぁ、そんなわけで。惟幸からの薬を持ってきて、ついでに色々と市で買い出しをしようと思ってな」
「けど、今からだともう市は間に合わないですよね? ……じゃあ、今日は泊まっていくんですか?」
葵の問いに、盛朝は頷いた。すると、紫苑が「やった!」と叫んで万歳をする。
「なら、今日の夕餉は腕によりをかけなきゃね! 弓弦ちゃん、手伝って!」
「はい」
張り切って立ち上がった紫苑に、弓弦が続く。厨に向かって歩いていく二人の後姿を眺めながら、隆善が不機嫌そうに呟いた。
「……って事は、惟幸や盛朝のいない普段の飯は手ェ抜いてるって事か。あの馬鹿弟子……」
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