第31話

 白い、白い。霧と光が混ざり合ったような白い空間で、葵は目を開けた。

 この場所には、この数刻で何度も来た。荒刀海彦が表に出て葵の身体を使用している間は、いつもここで待機している。

「この場で会すのは、初めてだな」

 横から聞こえてくる声に、葵は首を巡らせた。男が、一人立っている。歳は、隆善や惟幸と同じぐらいだろうか。絵巻物でしか見た事のないような古い意匠の衣服をまとい、黒い髪を角髪みずらに結っている。

「荒刀海彦!」

 名を呼び、駆け寄って。葵はまじまじと荒刀海彦の顔を見た。

「? 何だ。私の顔に、何か付いているか?」

「いや、そうじゃなくて……いつも、交代する時は慌ただしかったり、俺に余裕が無かったりしたから。荒刀海彦の顔をちゃんと見るの、初めてだなって思って」

 荒刀海彦は面白そうに「ほう」と呟いた。

「それで? 初めてじっくりと私の顔を見た感想はどうだ?」

「うん……思ったよりも若くて、びっくりしたかな」

「それは、私の声や気配が老けているという事か。……確かに、生まれてこの方数百年。人間から見れば長寿なのだろうが……」

 少しだけ傷付いた顔をして、荒刀海彦は不機嫌そうにする。

「雑談をしている余裕は無いぞ。こうしている間にも、お前の身体には負担がかかっているのだからな。今だって、このように私達が会しているという事は、傍から見ればお前は意識を失っているような状態だ。急がなければ、目覚める事ができなくなるぞ」

 急な話題転換に、葵は少しだけ表情を引き締めた。辺りを見渡し、探す。

「おろちの仔は……」

「あそこだな。……あまりの小ささに、私も驚いた」

 荒刀海彦が顎をしゃくったその先に、二つか三つほどの年頃の子どもが座り込んでいる。

 この空間に呼ばれた魂魄は、宿主である葵に伝わり易い姿を取るらしい。だから荒刀海彦も、人間に変化した場合の歳や身体能力などを認識し易い姿をしている。

 目の前の子どもも、言われなければおろちとはわからぬ姿だった。そもそも、八岐大蛇の仔であるはずなのに、首が一つしか無い。膝を抱え、ぼろぼろと涙を流しているその姿は、人間の子どもそのものだ。

 おろちの仔は、長い黒髪や裳が濡れるのも構わずに、ぼろぼろぼろぼろと涙を流し続けている。

「……女の子だったんだ……」

 そう。目の前に座るおろちの仔は、女の子の姿をしていた。人間ならば、元気な子に育つよう願って男の子に女物の服を着せる事もあろうが、おろちの仔だ。見た目通りの性別だと考えても良いだろう。

 葵は、何も言わずにおろちの仔の傍へと歩み寄った。近付くにつれ、押し殺したような嗚咽が聞こえてくる。そして、消え入りそうな声も。

「う……えぐ……ひっく……。お、とうしゃん……。おかあしゃん……」

 葵は、ハッと息を呑む。おろちの仔が何を望み、何故泣いているのかがわかってしまったから。そして、それは葵の力ではどうしてやる事もできない事だったから。

「顔も知らぬ亡き親を求めて、泣き続けているわけか。……私達には、どうしようもないな……」

 諦めろと言うように。荒刀海彦が葵の背後へと身を移した。その気配におろちの仔はぴたりと泣くのをやめ、首を巡らせる。そして葵と荒刀海彦の顔を見ると、「ヒッ……」と悲鳴を上げ、顔を引き攣らせた。

 その様子に、葵と荒刀海彦は「あ」と呟いた。思えば、二人は先ほどまでこのおろちの仔の首を痙攣させたり、腹を内側から引き裂いたりしていた。あの暗く慌ただしい中で顔は認識していなかったとしても、気配はわかるだろう。餌として食われた葵はともかく、荒刀海彦は散々おろちを痛めつけたわけで。そんな荒刀海彦の気配を感じて、おろちの仔が恐怖を感じるのも無理は無い事で。

 二人がそれに気付いた時には、時既に遅く。おろちの仔は火が点いたように大きな声で泣き出した。

「や……やーっ! おとうしゃん! たしゅけて! おかあしゃーん!」

「ふむ……歳の割に、言葉は堪能なようだな」

 場違いな事を、荒刀海彦が言い出した。どうやら、大泣きする子ども――しかも原因は自分である――にどう接すれば良いかわからずに現実逃避をしている模様である。

「そう言えば……弓弦が生まれてすぐに、地上へ来る事になっちゃったんだっけ?」

「うむ……」

 困ったように、荒刀海彦はおろちの仔を見詰めた。そもそも、彼はこのおろちの仔を倒す為に地上へ遣わされたのだ。それなのに倒すべき相手がこの様子では拍子抜けを通り越して扱いに困るというものだろう。

 二人が困った顔を見合わせている間にも、おろちの仔は派手に泣き続けている。泣き声がまるで雷鳴のようだ。

「……葵! 何かするなら、早くしろ! このままでは、気が狂いそうだ!」

「そう言われても……」

 やはり困った顔をしながら、葵はおろちの仔をまじまじと見た。おろちの仔は、ただひたすら泣き叫び、助けを呼んでいる。いくら呼んでも、この子の親はもうこの世にはいないというのに。

「……この子……弓弦や、俺に似てる……」

 困った顔がどこかへと消え。ぽつりと、葵は呟いた。その様子に、荒刀海彦も困った顔を収める。何故、弓弦や葵がこのおろちの仔に似てるなどと思うのか。

「似てるんだよ。記憶が無くて、不安になってた時の弓弦の気配に。……隆善師匠に引き取られて、毎日毎日不安で仕方が無くて、夜になる度に顔もわからない父親を呼んで泣き叫んで、師匠や紫苑姉さんを困らせてた頃の俺に」

 言いながら、葵はおろちの頭を優しく撫でた。おろちはびくりとして一瞬だけ泣き止んだが、すぐにまた泣き出してしまう。

 葵は、ゆっくりと、何度も何度も頭を撫でた。頭を撫で、屈んで顔を覗き込み、おろちの頬に黒い汚れがあるのを見つけると、指で優しく撫でこする。

「オン、カカカ、ビサンマエイ、ソワカ……オン、バイタレーヤ、ソワカ……オン、アロリキャ、ソワカ……」

 いくつもの、慈悲深い菩薩の真言を優しく唱えながら、頬の汚れをこすり落としていく。

 この汚れは、このおろちの魂魄にまとわりついていた邪気だ。恐らく、蛇達が京で暴れ回り、人々の悲鳴や血から絞り出された力の残り滓。こんな物がこびりついていて、心落ち着くわけがない。

 こするにつれて、汚れは次第に消えていく。汚れが消えるにつれて、おろちの泣き声は次第に収まっていった。

 ついには泣き止み、ただヒックヒックとしゃくり上げているおろちを、葵はぎゅっと抱き締めた。突然の事に涙をためたまま目を丸くするおろちに、葵は「大丈夫だよ」と囁いた。

「大丈夫……大丈夫だよ。寂しければ俺達が傍にいるし、泣きたい時に泣いても誰も怒らない。ここには、君をいじめる奴はいないから……」

 葵の言葉に、おろちは不安そうに葵の顔を見、次いでその後に立つ荒刀海彦の顔を恐る恐る見た。目が合い、「ヒッ」と再び悲鳴をあげる。

 その様子に、葵は「あー……」と困ったように唸ると、少しだけ考えた。考えて、立ち上がる。そして、荒刀海彦の正面に立った。少しだけ、背伸びをして目線を合わせようとしている。

「……どうした、葵?」

 おろちの反応に困った顔をしていた荒刀海彦に、葵は申し訳なさそうに囁いた。

「荒刀海彦……ごめん!」

 謝るや否や、葵は荒刀海彦の頭を思い切り引っ叩いた。

「!?」

 何が起きたのか咄嗟にわからず、荒刀海彦は目を白黒させる。そんな荒刀海彦が怒鳴り出す前に、葵は再びおろちに視線を向け、「ほら!」と荒刀海彦を指差した。

「君に怖い思いをさせたおじさんは、俺がやっつけたよ! このおじさんも、もう君をいじめたりはしない。もう、怖くないよ!」

「……理由はわかったが、せめておじさんはやめろ……」

 渋面を作る荒刀海彦に、葵は「ごめんごめん」と苦笑する。そのやりとりの様子を、おろちは目をぱちくりとさせながら見詰めている。瞬く目と、葵の目がぱちりと合った。

「……あ……」

 おろちは困ったように声を発し、葵の着物の裾をきゅ、と握った。

「あ……おとう、しゃん……?」

「え……?」

 予想だにしなかった言葉に、葵は目を丸くする。今度は、荒刀海彦が苦笑した。

「そもそも、このおろちの末は生まれたばかりで真の親の顔も、自らの種族もよくわかっていないだろうからな。自分を守ろうとする行動を取った葵を、親と認識したらしい」

 葵の目が、更に丸くなった。そして、今度は優しげに細められる。

「……良いよ。君の心がそれで安らぐなら、俺は君の父親になる。君は俺の、娘だよ」

 言われて、おろちは少しだけはにかんだ。そして、何かを期待するように葵の顔を見上げる。

「おとうしゃん……」

「なぁに?」

 その返事に、おろちの顔が曇った。不安そうな表情で、葵の顔を見詰めてくる。

「え……俺、何か間違った? 君を傷付けるような事、言っちゃったかな!?」

 どうすれば良いかわからず、葵は狼狽えた。その様を傍らで見ながら、荒刀海彦が考える仕草をする。そして、葵の肩をポンと叩いた。

「名を呼んでやれ」

「え?」

 思わず振り向く葵に、荒刀海彦は「名だ」と言う。

「名前を呼ばれぬ事で、このおろちは本当にお前が自分の父親なのか不安になっているのだろう。名を呼んで、このおろちが真にお前の娘だと、しゅをかけてやれ」

「けど、俺……この子の名前を知らないよ?」

「生まれたばかりで、名があるわけがなかろう。お前が名付けてやるんだ。名付けて、その存在を世に縛り付ける呪をかけてやる。それが子を授かった親の、最初の務めというものだ」

 荒刀海彦の言葉に、葵は「そっか……」と呟いた。表情を引き締め、真剣に考える。やがてフッと表情を和らげると、葵は優しい顔でおろちの顔を見た。

「……末広比売スエヒロヒメ

 葵は、おろち――末広比売の頭を優しく撫でながら言った。

「前に、虎目に聞いたんだ。八という字は末が広がっていて、将来が開けていくようで縁起が良い数なんだって。八岐大蛇は、首が八つに、尾が八つ。縁起の良い数を、二つも持っているんだよ。……生まれたばかりで命を落とす事になってしまった君が、せめて俺の娘として……この先、幸せになる事ができたら……」

「それで、末広比売か」

 葵は、頷いた。すると、末広比売は待ちきれないという様子で、葵にしがみ付く。

「おとうしゃん!」

「なぁに? ……末広比売」

 末広比売の顔が、パッと明るくなった。今までで一番の、可愛らしい笑顔だ。

 笑顔を作った末広比売は、やがてとろんとまぶたを落とし、葵にしがみ付いたまますやすやと眠り出す。

「……ホッとしたのかな?」

 自身も安心したように言うと、葵もまた、大きく欠伸をした。

「……あれ? そう言えば、今の俺って魂魄なんだよね? 何でこんなに眠く……?」

「いかんな……」

 荒刀海彦もまた、意識を保つのが限界と言わんばかりに片膝をつく。

「体内に宿る魂魄全てが動けなくなるという事は、憑代であるお前の身体が限界に近いという事だ。これ以上無理をすれば、お前の身体が壊れるぞ」

 一瞬だけ、葵の眠気が吹っ飛んだ。

「そんな……どうすれば……」

「眠れ」

 短く、しかし非常にわかり易く荒刀海彦は言った。

「今すぐに私達三人全てが眠れば、身体にかかる負担は消える。これ以上衰弱するのを防げるはずだ。身体を我が娘と、あの猫に運ばせる事となってしまうが……致し方あるまい」

 思いの外わかり易い方法に、葵はホッと息を吐いた。安堵と共に、強烈な眠気が襲ってくる。

 葵はその場でごろりと横になり、既に眠っている末広比売の頭をもう一度だけ撫でた。

「おやすみ、末広比売……」

 呟き、目を閉じる。そのまま葵は、深い眠りへと誘われた。

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